葉月は、最初イタズラで瞼を糊付けされたのかと思った。
それほどまでに、気を取り戻してから、ただどうなっているかを確認するために目を開くだけなのに、全力の力を使わなければいけなかった。
そうして、ゆっくりとゆっくりと目を開く。
世界は白く霞んでいた。
そして、片側にしか存在していなかった。
「………………ぁ」
これは、と言おうとして掠れた音しか喉からは漏れ出なかった。
何かを考えようとすると、頭にノイズがかかるようにして考えようとしていたことが阻害されて、何をしようとしてたのかすら分からなくなりつつある。
それでも、ぼーっと見えるものを眺めて理解していく。
世界が片側にしか存在していないのは、葉月が横向きに寝ている状態にあるから……。
いや、この感覚は、それだけではないのだろう。
そこで初めて、上側になっている左の瞼しか開けていないことに気付いた。
状況の確認に努める。
「…………を、覚ましま……か?」
ノイズ混じりの声が、左側から聞こえてくる。
身体全体に伸し掛かる途方もない気だるさに逆らって、平らじゃない地面に手こずりながらも首を少しずつ捻って、眼球もいっぱいに声のする方に向けて、十秒はかけてようやく声の主の姿を視界におさめる。
キャスターのマスター。
相変わらず無表情の顔が、覗き込むように葉月の顔を見下ろしていた。
それで、葉月はようやく現状が掴めてきた。
葉月とライダーは敗北したのだ。
そして今、葉月は不死の霊薬の副作用を受けている。
あの霊薬は、飲んだ人間の身体の造りを月人のものに近づけることで、魔力量を増大させるものであった。
しかし、人間はそう簡単に月人の身体の形になれるわけもない。人魚の肉を食べるときのように、適合しなかった人間は命を落とすこととなる。
葉月は当然ながら適合できなかったということらしい。
地上人の身体に月人の血を流した際の拒絶反応が起きている。
身体の崩壊が始まっているのだ。
「……なたの、話を聞いたとき…………父親に捨てられた…………気持ちなんて分からないと聞かれたとき、……たしは、分からないと答えました」
ゆっくりと耳元で囁くように語りかけてくる少女。
ぶつぶつ途切れが少なくなってくる。
偶然チューニングが合ってきているのだろう。
断線したケーブルが偶然接触不良を改善して、生きているように見せるかのように。
なんて腹の立つ偶然だろうか。
この女の話なんて聞きたくもないのに。
「わたしは、小さい時に両親をなくしています」
なるほど、捨てられた気持ちなんて分からないわけだ。
いなくなったのだから。
だからなんだというのだ。
不幸自慢なんて聞きたくない。
自分が不幸さで優位になって、お説教話を始めるつもりなのだろう。
葉月は、少女の口を塞ぐか、自分の耳を塞ぐかして、話をシャットアウトしたかった。
けれど、そうするための手は動かせないので、聞き続けるしかできなかった。
「交通事故でした。わたしが家で留守番をしているときに。わたしは、その時は幼すぎて、両親を失くしてしまったことにすら気づくことはできませんでした。後で気付いて、その時にようやく泣くことができました。ただ、両親の死についてはそれだけでした。
……それよりも辛かったのは、その後に起きたことです。
両親の莫大な遺産を相続したわたしに近づいてくる大人たちは、どうにかしてそれを引き出させようとしたり、騙し取ったりしようとする人たちばかりでした。最終的には、一番信頼していた人にすら裏切られることになりました。
そして、わたしは最近まで誰とも関わらないようにして生きてきました」
少女の話を聞いて、葉月はやはりかという気持ちになった。
自分の方がより不幸だ。
だから、お前が父親に捨てられて一人親で生きてきたことなんて、ただの世界にありふれた不幸の一つに過ぎないというマウント取りなのだ。
そういう意図があるような話口調だと、葉月には取れてしまう。
少女の話の次に続く言葉はきっと、『だから自分だけが不幸だと思うな』という言葉に違いない。
「だから、母親と一緒に暮らしているあなたのことは、尊敬に値すると思いました」
しかし、キャスターのマスターの口から出てきたのは、思いもよらない言葉だった。
葉月は困惑する。
このままでは、文脈が繋がっていないように感じる。
「ひとしきりの不幸が終わったとき、わたしが思ったのは、わたしが悪かったということでした。
おかしいですよね。普通に考えれば、騙そうとしてくる人たちが悪いはずなのに。
でもわたしは、わたしに不幸が降りかかるとき、わたしが悪かったからと思ってしまうんです。
両親が死んだのは、わたしが悪かったから。
親戚全員が両親の遺産を騙し取ろうとしてくるのは、わたしが悪かったから。
家族同然だと思ってた家政婦さんに裏切られたのも、わたしが悪かったから。
何かが起きる度に、わたしやその周囲の人が不幸に陥る度に、わたしはわたしの悪かったところ探しを始めてしまう。
そうして、最後にわたしは誰とも関わらないように、一人の世界に閉じこもることでその連鎖から逃げました。
だから、不幸を背負っても立ち向かい続けてきた、そんなあなたの生き方は尊敬できると思いました」
少女の尊敬の言葉は、葉月の胸には響かない。
響いてなんてやるものかと思った。
ただそれでも、少女の言葉によって、葉月は自分の中の想いに一つ合点がいった。
「…………っかぁ」
そっか、私は私のせいでこうなっているんだと思っていたんだ。
という納得を葉月はする。
葉月が母の胎内に宿ってしまったから、母は父に捨てられた。
葉月を育てるために、母は他の一切を捨てて働き詰めの生活を余儀なくされている。
葉月のために、母は自分の幸福を捨てなければならなかった。
母親の周りの幸福を奪って生きているような感情を、心の奥底で無意識に抱いていた。
少女は、葉月のことを不幸に立ち向かい続けてきたと形容したけれど、それは違う。
なんてことはない、ずっと目を逸らして生きてきただけなのだから。
でも、母を想う気持ちだけは間違いなく偽物じゃない愛だと言い切れる。
なぜなら、葉月が聖杯にかける願いは、母親のことを思ってのものであるのだ。
母親と父親の復縁。
昔、父が母を捨てなかったイフの世界。
葉月も交えて三人で、いやその後妹や弟が生まれて、家族は四人や五人になっているかもしれないが、家族みんなで幸せに暮らすこと。
母親を捨てていった父親に、今度はとびきり家族想いの優しい父親になってもらう。
そんな、意趣返し。
それこそが、葉月が命を賭してでも叶えたい願いだった。
残念ながら賭けには負けてしまったようだけれど。
「…………たい」
最期に、これだけはと恥を忍んで、キャスターのマスターにお願いすることにした。
「…………けー……たい……ま……うけ……」
絞り出すように声を出す。
少女は気付いてくれたらしく、葉月の服のポケットをごそごそと漁りスマホを取り出す。
母親が葉月に買ってくれた超格安契約のスマホ。
その待受のロック画面には、葉月にとってとても大切な人の画像が使われている。
「…………これで、いいですか?」
少女が葉月の目の前に、ロック画面を見やすいように近づける。
「……………………がと」
葉月の感謝の意思は伝わったような気がした。
もう少女の反応を見るだけの余裕もない。
白く薄れゆく視界の中、食い入るように画面を見つめる。
もはや叶わない夢に思いを馳せながら、葉月は最期の時を迎えた。
ライダーのマスターの少女の最期を看取った波彦は、なんとも言えない気持ちを抱えていた。
「スマホの待受、アイドルの画像だったな」
もう二十年近く芸能界でトップを走り続けている国民的アイドル。正直おじさんと言っていいくらいの年齢になっているはずだ。
「よっぽど好きだったんだろうな」
聖杯戦争の関連で人が本当に死ぬところを見てしまった波彦は、現実を直視するのが怖くて、核心の部分に触れて言うことができない。
それに、最期は眠るように安らかに息を引き取ったのだ。
今だって、それが本当に最期だったのか確証が持てないくらいに。
「なあセイバー」
「なんでしょうか、マスター殿?」
「セイバーは、マスターを殺して勝つ策に反対してたよな?」
「はい、拙者は彼女のことを殺して勝利を得るべきではないと思いました」
「無駄になっちゃったな……」
波彦たちは最終的には、一番可能性の高い綱渡りとして今回の作戦を決行した。
一番可能性の高いのがマスター殺しではなかったのは偶然で、マスター殺しが最善の手であるケースも少なくないだろう。
不殺というのは、その選択肢の全てを排除すること。必然、行動に大きな枷がかかることになる。
自分にそれだけの枷をかけた結果が、結局ライダーのマスターが命を落とす幕切れになってしまった。
それじゃあ、不殺の意味なんてなかったではないかと、そんなことを思ってしまっても波彦はおかしくないだろう。
「マスター殿は、この光景を見て本当に無駄だったと思いますか?」
「………………」
「質問を変えましょう。彼女が戦闘の中で命を落としていたとしたら、あのように穏やかな最期だったでしょうか?」
例えば、天に浮かぶ車の中にいた彼女にこっそりと近づいて暗殺する手段があったとしたら……。
彼女の最期は、何も気づかないままか、驚いて一瞬だっただろう。
それは、確かに穏やかな眠りの時とは言い難いかもしれない。
けれど、死んでしまったら何も残らない。
穏やかに死ぬのと、驚いて一瞬で死ぬのと、一体何の違いがあるというのだろう。
「拙者は、それなりに信心深い人間なんです。魂というものがあることを信じている」
「魂……?」
「はい、人は死した後ただの土くれに返っていくのではなく、魂となってあの世に行く。そのあの世に行く時には、満たされた穏やかな状態で送り出してやりたいではないですか」
セイバーの言っていることは分かる。
ただ波彦は、どうしても納得をつけることはできない。
「今すぐに受け入れるというのは確かに難しいでしょう。拙者は受け入れるのに三年もかかりました」
「三年後…………は、聖杯戦争はとっくに終わっているだろうな」
「そうですね」
今のモヤモヤした気持ちを払拭させるために、一秒でも早く答えが欲しい波彦にとって三年は途方もなく長い時間に感じる。
「今回のことに関して拙者の見解としては、マスター殿たちの尽力のお蔭で、彼女は魂を救われてあの世に穏やかな気持ちで行くことができた、とそういったところでござる」
「喜んでいいことなのかな?」
「ええ、勿論。誇っていいことです」
「そうなのかもな」
少し無理やりなセイバーの結論づけを、波彦は心持ちを払拭できないながらも、素直に受け取っておくことにした。