「うわぁあああ!!」
犬吠埼睦月は、叫び声とともに夢から醒める。
悪夢を見た。
母親が階段から転げ落ちて死ぬ夢だった。
「睦月、どうしたの? 大丈夫?」
一階のリビングにいる先程死んでしまった母親から、睦月を心配する声が投げかけられる。
「……………………」
返答はしない。
いつもだったら、「うるさい黙れ」くらい言っていただろう。
実際今も、心配の声を投げかけられてイライラしている。
けれど、あまりにもリアルな母親の死の悪夢を見せられた後に、それをするのは躊躇われた。
目覚めて……、いつもだと何もしないために、また目を閉じて眠りにつく。
しかし、今日はそういう気分にはなれなかった。
かといって、万年床になっている布団をたたむ気にはなれないし、そこかしこに置きっぱなしにされているペットボトルやスナック菓子の袋を片付ける気にもなれない。
そういったことへの面倒さが、奇跡に等しい偶然にも、その日は勝ってしまったらしい。
何を思ったのか、半年近くまともに出ていない家の外に出てみることにした。
三日近く連続で着ている部屋着を放り捨て、衣装箪笥にいつの間にか入れられている洗いたての服に着替える。
サイズが合わないので、かなりピチピチになってしまったが問題ない。
「……行ってきます」
なるべく目を合わせないように、リビングをそそくさと出て玄関を目指す。
ちらと見えた母親は驚きの顔をしていたと思う。
睦月が目指すのは、睦月の通う中学である。
…………そこまでは行けないかもしれないので、その近くにあるコンビニでスナック菓子でも買って帰ることになるかもしれないけれど。
小学生の頃から使っているマジックテープ式の財布の中には、千円札が一枚入っているので、よほど欲張らない限りは金銭的にな問題はないだろう。
問題なのは体力面である。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
と、まだ百メートルちょっとしか歩いていないのに、息が切れていた。
夏なので日が照りつけていて、それに体力を奪われている部分があるにしろ、たった半年外に出なかっただけで、ここまで自分の体力はひどく落ち込んでしまっていたのかと驚いた。
少し休憩したいが、あいにく信号の細い影くらいしかなくて、そこに睦月の身体は収まりそうにない。
仕方ないので、日陰のある場所に向かって歩いて行こうとした、その瞬間。
ブレーキ音。
長く響くクラクション音。
気がつけば睦月は、高校生から大学生くらいの歳の男の人に抱きかかえられていた。
「「危ねえだろうがっ!!」」
耳元と十メートルくらい先に止まっている車の窓から同時に注意を受ける。
車の方は、それだけ言うとそのまま走り去ってしまった。
「あり、がとう……」
どうも助けられたようなので、とりあえず礼を言う。
「少年。もう少し、周りを見て歩いた方がいいと思うぞ」
それに対して、もっともなことを返すお兄さん。
「というかお前臭いな。ちゃんと風呂に入ってるか?」
「ごめん」
「理想を言うなら毎日だが、せめて三日に一回くらいは身体を洗っておいた方がいいぞ」
「うん」
「それじゃあ、気をつけろよ」
お兄さんは、睦月を立たせると歩きさっていく。
その歩みの先にいるのは、女の人。年の頃は睦月とお兄さんの中間くらいだろうか。
「悪い待たせたな」
「……大丈夫」
「つい放ってしまったけど…………ああ、やっぱり卵とか割れてんな。おばさんに怒られちゃうな」
「……すぐに使うから問題ない」
二人は仲睦まじそうに話しながら並んで歩いていく。
「……臭い?」
「やっぱりそうか」
「……名誉の腐臭?」
「いや、そんな上手いこと言った? みたいな目で見られても困るからな」
睦月は恥ずかしくなって、自分の服に鼻を当てて嗅いでみる。
しかし、鼻がすっかりおかしくなってしまっているようで、何も分からなかった。
ゆっくりとゆっくりと休憩を入れながら歩いていく。
その間にも、何人かの人とすれ違った。
「お母さん、それは私が持つってば。大変な時期なんだから無理しないで」
「あら、この子ったら、もうお姉さんの自覚が出てきたのかしら?」
「そうだな」
「笑ってないで、お父さんも、ちゃんと手伝って」
夫婦と思われる男女と、その子供だと思われる女の人。
三人とも、顔もスタイルも整っていて美形な家族だった。
母親のお腹は、かなり膨らんでいて、新しい命が宿っているのだと思われる。
その割には、娘は睦月よりも年上のように見える。
「それでね、この子ったら、弥生ちゃんが拓人くんに取られそうになっちゃって、焦ってちょっかいかけてるのよ」
「違うって言ったじゃないお母さん。あれは拓人が――――」
「あー、ごめんなさい。逆だったかしら、拓人くんのことを弥生ちゃんに――――」
「おーかーあーさーん!」
……………………。
「ほーらー波彦くん、早く行くよ!」
「別にそんな急ぐことないだろ」
「だって、楽しみじゃん!」
高校生くらいの男女二人。
元気そうなお姉さんが、小さな買い物袋を手に少し駆け足で先を行く。
それに連れ回されているお兄さんの方は、少し大きめの買い物袋を持っている。
買い物袋の中身のことに気を使いながら、お姉さんの様子を見て仕方ないなといった表情で小走りをしている。
「でも、確かにみんなで集まるのは久しぶりだもんな」
「そうそう。弥生ちゃんに葉月ちゃんに拓人くん、それから――――って、拓人くんの名前出しただけで露骨に不機嫌な顔してるね。そんなに苦手か?」
「いや、まあなんというか……。元気にやってるといいなとは思ってるよ」
そんなこんなで、たかだが一キロもない道を歩くのに、一時間弱かかってしまった。
ようやっとのことで、中学まで辿り着いたのだが。
「そっか、今日は日曜日だったか」
その門戸は閉ざされていた。
徒労に終わったという事実が、一気に疲労となって睦月の身体に押し寄せる。
「……帰ろうか」
半年に及ぶ引きこもり生活のせいで、すっかり曜日感覚は失われていたらしい。
いや、正確には日曜日が一般的に休みだという感覚がなくなっていた。
今日が日曜日だということ事態は認識していたが、普段から週七で休日している睦月にとってはあまりにも特別感がなかった。
このまま、門の前で待っていても何も起きはしないので、多分今度は二時間くらいかけて再び家まで戻ることにする。
家に帰ったら、シャワーくらいは浴びてみるかと思っていた矢先だった。
「もし。そこの方。少し道をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
睦月は声をかけられる。
他人と会話するというのが、あまりにも久しぶり過ぎる睦月。
一瞬、そのまま聞こえていないふりをして逃げてしまおうかとも思ったけど。
振り返る。
今時珍しい和装の女の人が立っていた。
いや、男の人かも知れない。
中性的な顔で袴なんか履いているものだから、実際の性別は見当がつかない。
けど、とりあえず睦月の中では、女性だろうということで話を進めることにした。
「……えっと」
「良かった。この近くに住んでおられる方でしょうか? 実は友人の家を訪ねようと遥々参ったのですが、道を見失ってしまいまして」
といって、不思議な言葉遣いをするお姉さんが、目的地に印のついた地図を見せてくる。
その地図は睦月の家の周辺が描かれていて、地図に記された赤い丸の場所を詳しく見ていくと。
「これって、あのお屋敷じゃん……」
お金持ちが住んでいるという風変わりな洋館であることに気付いて、思わずポツリと呟く。
「知っていらっしゃるのですか? もしよろしければ、この場所への行き方を教えていただけませんか?」
お姉さんは、睦月の呟きを聞き逃さなかったようで、追求してくる。
どうしようと思う。
とりあえず道順だけ教えて、迷ったら迷った側の責任だから、なんて言い訳を考えて。
「あ……えと……あ……」
と上手く声が出なくなって。
そこから、今日外に出ようと思ったのと同じくらいの気まぐれが睦月に降りてきた。
「もし、よかったら案内するよ……」
「本当に、そこまでお手を煩わせて、よろしいのでしょうか?」
「うちの近くだからさ……ついでに」
「本当ですか? では、お言葉に甘えて」
睦月は、自分のした行動に驚いた。
そして、それに対してとてもうれしそうな顔をするお姉さんの顔に照れた。
その照れから逃げるように顔を背けて、屋敷の方向に向かって歩き出す。
睦月の案内に従って、お姉さんもその少し後ろを歩き始める。
悪夢から始まって、思い立って向かった学校は閉まっていて、今日は始まってそうそうに悪いことが連続して続いていた。
でも今、睦月の心の中からは、いつもずっと狭い部屋の中で感じているような、嫌な気分の一切合切が消え去っていた。
なんだか、今日は少しだけいい日になりそうな気がしていた。