飯塚神無は、生まれつき足が悪い。生まれてこの方、自らの足のみで立てたことはなく、常に車椅子とともに生きてきた。
けれど、それだけだ。
多少の不自由を感じないこともないが、自分にとってはそれが当たり前のことなので、とりわけそれを呪ったようなことはない。ましてや、自分が不幸だと思ったことなんて一度だってない。
なぜなら、良い家族を持ったからだ。と胸を張れるくらいに、神無は家庭環境に恵まれていると実感している。
第一に、神無の意思を尊重してくれる。神無のやりたいと思ったことに対して、協力的で、自由を尊重してくれる。すぐに無理だと分かるようなことでも(例えば、棒高跳びをしてみたいなんて、無茶を言ってみたこともあった)、親身になって方策を考えてくれて、その結末までを見守ってくれた。
第二に、仲が良い。両親が大きな喧嘩している場面は見たことがない。喧嘩といっても、父親が酔っ払って帰ってきたときに窘める程度のもの。
そして、金銭面的な余裕もあった。幸運にも、不景気なご時世の中、父親は給料の良い職についていて、神無の足が悪いことによって生じる負担を、負担と感じさせないほどの余裕があった。俗的な話だが、それでもこのことによって、心理的に楽だったことに違いはない。
これだけ、幸福な理由を並び立てても、足が悪い。その一点だけをさして、世間は神無のことを不幸だと扱う。
世間っていうのは、例えば小学校の担任や同級生のこと。
あの頃、神無は腫物だった。担任は同級生たちに、神無のことを特別に扱うような空気を漂わせる。
ああ、この子は特別。特別だから、無菌室に閉じ込めておこうね。怪我をさせたら大変だからね。他の子たちは泥んこになっても平気だけど、この子だけは砂煙を一息すら吸わせてはいけないよ。
なんて、そこまでは言っていなかったかもしれないが、それほどに大事に扱おうという空気があったように感じた。
そして、純粋な小学生たちはそれに従って、神無のことを大事に扱ってくれた。
そこに、悪意はない。善意だけだ。それは分かっている。
でも、神無は同級生たちと一緒に泥んこになりたかった。
それは叶えられないことも分かっていたから、従順ないい子を演じたのだけれど。
とにかく、世間は神無のことを大事に扱ってくれすぎる。
自分を尊重してくれることが嬉しくないはずはなかった。けれど、窮屈でもあった。
まるで、自分が世間のペットになったような気分。つまり、同じ人間としては扱われず、一段階下の被保護対象として侮られているような劣等感。
そう、それはきっと劣等感だったのだろう。
自分の足が使い物にならない分だけ、周りに大切に扱われ、侮られ、疎まれ、苦労をかけているような劣等感をいだいていた。
とりわけ、一番長い時間を共にして、一番の苦労をかけた家族には特に強く申し訳ない気持ちを抱く。
神無は幸せであった。
両親も、ずっと幸せそうに見えた。
けれど、家族にとっての神無は少なからず枷であったのではないのかと。
きっと、自分でも気づかないような意識下で、そんな思いを燻ぶらせて生きてきた。
「すごい。綺麗。幻想的」
空には赤い月が浮かぶ。皆既月食の夜。
神無は縁側にて、家族と月を眺めていた。
あまり外で遊べない神無にとって、付き合いの長い友人であるファンタジー小説に出てきた光景を思い出していた。
それは、この世の光景ではないようで、これから何か特別なことが起こりそうだ。そんな勘違いを起こさせる。
そのまま何十秒だったか、何分だったか。じっくりと、色の移り行く様を眺めていたところに突然。
――神無の目に、魔法陣が描かれた廃墟の風景が焼き付く。人の行きかう夜の街が焼き付く。森の風景が。川のせせらぎが。家族の団欒風景が。賑わうモールの光景が。ひとりぼっちの公園が。忙しく働く厨房が。赤い月が。赤い月を見上げる少年が。神無を心配する両親が。そして、神無自身の姿が……。
神無は突然、自分の中に入り込んできた情報の渦に耐え切れず、いつの間にか一瞬気を失っていた。そのことを、心配する両親の腕の中で気づいた。
神無を抱きかかえ支える父が「大丈夫か?」と声をかけてきてくれる。
「うん、大丈夫。ちょっと月が赤いことにビックリしちゃったみたい。もう、おやすみするね」
両親に心配をかけまいと、お道化て振る舞う。
神無の気性を知っている両親だから、念押しに「本当に大丈夫?」と聞いてくる。
「もう、そんなに心配しなくても大丈夫だよ。でも、一応寝室まで一緒に来てくれると嬉しいな」
と、元気なところと、妥協点を提示すると、それ以上の追求は不要と思ってくれたよう。
父が車椅子から、神無を抱え上げてベッドまで運んでくれる。
母が掛け布団をかぶせて、「何かあったらすぐに呼ぶのよ」と心配の声をかけてくれる。
それに対して、
「心配しすぎだよ、もう。おやすみなさい」
と、返事を返して、安心させて追い払う。
一人になって静かになったところ、ベッドの中で神無は、さっき感じた違和感のある場所に自ら手を伸ばしてみることにした。
情報負荷に驚いてしまわないように、本物の目は閉じて、新しく生まれた視界に意識を集中させた。
リビング。
両親がいる。
まだ、心配そうな顔を突き合わせている。
何を話しているかは聞き取れない。
けれど、それはきっと神無のことなのだろうなと思うと、少し心が痛む。
その光景は、彼らの優しさを知る神無なら、空想で生み出せるものであっただろう。
けど、それにしてはあまりにも鮮明過ぎた。明らかにぼやけた空想ではない。
普段起きて目にするのと変わらないコントラスト。
つまり、神無は今、ベッドに横になり、目をつむりながら、リビングの両親の姿を視界に収めているのだ。
すると今度気になるのは、身近の自分の家以外の光景が見えていたこと。
意識すると簡単だった。
視界はするすると壁さえ抜けて移動した。
いつもの散歩道を抜けて駅前まで移動し、道行く人々のファッションなんかに普段以上に気を払いながら、普段は見ることのできない上から見下ろすアングルを試してみたりもする。
ここまでくると、もう神無の考えは確信に至っていた。
すなわち自分は、千里眼と呼ばれるようなものを手にしてしまったのだと。
数日は、千里眼を使いこなすために夢中で遊んでいた。
なにしろ、今まで行きたかったけど、足のせいでそう簡単には行けなかった場所まで、視界を飛ばせるようになったのだから。
その結果、分かったこと。
視界は一つだけではなく、複数飛ばせるということ。
さながらモニター室にいるかのように、神無一人が複数の視界を管理する。
だから当然なのだが、あまりにも増やしすぎると散漫になってしまう。
視界の数は、いくらでも増やせそうなほど限りはないのだが、脳の回転速度的には、せいぜい五つが限界といったところ。
そして、視界を飛ばせる範囲は、藤之枝全域。
残念ながら、市境を越えようとすると失敗してしまう。
富士山でも見に行こうかと勇んでみたのだが、すぐにそこで失敗してしまって落胆した。
ただ、それでも普段行けないところに簡単に行ける分には間違いなく、ついベッドの中から冒険して、夜更かししてしまう日々が続いていた。
そんな日々の中、ふと気になったのは、この千里眼で初めてとらえた風景。
すなわち、廃墟の中の魔法陣。
これまで見た風景は、全て現実に存在する風景であった。
だとすれば、あの空想の中の存在のような不思議な風景も、実は現実にある。しかも、藤之枝にあるものなのかもしれないと思い至った。
本格的に捜索してみると、思いのほか簡単に見つかるものだった。
いや、千里眼があるからこそ、廃墟を空から捜索し、簡単に出入りし、しらみつぶしにできるからこそ、簡単だと思ったのだろう。
とにかく、一日もかからずに、そこは見つかった。
神無の家からも、そうは離れていない場所であった。
人の出入りしている気配はなく、悠然とただそこにあった。
かつては住居だったのだろう木造。
そこはかとなく、生活の跡が見受けられる。
ただし、骨董品のような家電や、朽ち果てた大昔の雑誌、流行りが遥か昔に過ぎた調度品、埃と虫食いで前衛的になっている洋服。
すなわち、軽く見積もっても、三十年以上前からその場所の時間は止まっているのだろうと思われる。
魔法陣だけは、最近描かれたもののようで鮮明なのだが、何者かが立ち入った形跡すらないのだから恐ろしい。
じっくりと魔法陣を観察してみたのだが、何も起きそうにはなく、視界の端で一日観察してみたのだが、何者かがやってくる気配も見せなかった。
神無の好奇心は、もうここまで来ると抑えきれなかった。
確かに、視界を飛ばせばいくらでも観測はできる。
でも、実際にその場所に行ってみなければ済まないほどに、その思いは膨れに膨れあがっていた。
両親に、そんな場所に行くといえば、危ないと反対されるだろう。
他の人にも、できれば知られたくなかった。神無だけの秘密でありたかった。
だから、なんとかして、自分の力のみで行く必要があった。
どうしたかといえば、ゴリ押しである。
元々、神無だけでの外出も認められていたので、いつものように変わらず平静を装って家を出る。けれど、いつもと逆方向に車椅子を走らせて、人気のない通りを抜けて、手つかずの自然が道路周囲を闊歩する舗装の甘いアスファルトに揺られて、そして二時間ほどかけてその場所にやってきた。
結構疲れた。けれど、ここで止まるわけにもいかない。
入る瞬間はかなり緊張した。
千里眼をフルに使って、周りに誰もいないことを確かめてから、すっかり立て付けの悪くなった玄関戸をガチャガチャと乱暴に開ける。
「おじゃまします」
なんて、ひそひそ声で、中に誰もいないことを知りながらも、礼節をわきまえる。嘘だ、ただ緊張しているだけ。
中は当たり前なのだが埃ぽかった。
ずんずんと突き進むと、車椅子の轍がついていく。
キシキシと抜けないか心配な床板を軋ませながら、件の部屋まで移動していく。
そして、扉を開けて飛び込んできた自分本来の視界が、千里眼の視界と一致する。
隙間明かりに照らされる埃っぽい部屋の中心に、浮かび上がるように鮮やかな線で描かれた神秘的な魔法陣がそこにあった。
「本当にあった」
最初から分かっていたことだったけど、少し感動した。
それは例えば、テレビで見た絶景を、現地に行って目の当たりにしたときのような感動。
興奮とともに側まで赴き、無警戒に車椅子の上から、そこに手を伸ばしてみた。
光った。
魔法陣が、急に視界を完全に奪うほどに眩く光りだした。
神無は突然のことに、心臓をばくばくといわせて慌てる。
けれども、何もできることはなく、事が収まるのを待つしかなかった。
光が止むのを感じて、次に目を開けたとき、目の前に人が立っていた。
萌黄色のローブが差し込む光にあたって、芽を出した若葉のように艶やかに輝く。
「初めましてマスター。私はランサー。あなたのサーヴァントだ」
それが、神無とランサーの出会いだった。
聖杯戦争のことを聞き、神無はそれに参加することに決める。
正直言って、すでに満たされていた神無に、聖杯にかける願いというものはなかった。
では、なぜか?
運命だと思ったからだ。
突如、千里眼の力を得た自分のもとに、盲目のランサーが召喚された。
きっと、これほどに噛み合った従者を得ることなんてあるまい。
だから神無は、この聖杯戦争で、与えられた力を最大限に活用して、ランサーを勝たせたいと思ったのだ。
今こそ、自分が誰かのために役に立って、今まで多くの人たちから与えられてきた分だけ返すときだ。
そのためのチャンスを得ることができたのだと、運命を感じた。