湿気った空気が窓の外より舞い込む。
天井を見つめて、考え事をしていた。
冷房をつけることも忘れて。
シーツが、じわりじわりと汗を吸い取っていくのが分かる。
布団を干さなきゃいけないなと思うと、少しだけ現実的な生活に戻れそうな気がした。
波彦がしているのは、問いのない答えを見つける作業。
正直、キャスターに語られた、あの破滅の予言に関しては、冗談だと思っている。
けれど、完全に笑い飛ばすことはできない。
だからと言って、それを波彦が解決できるかというと、そんな気は全くしない。
あの話を受けるべきなのか、どうか。
どんなに考えても答えは出ない。
そんなことは、三時間前に、ベッドに倒れ込む前に分かっていた。
けれど、考えないわけにはいかなかった。
もしかしたら、世界を救う英雄にでもなりたいのかもしれなかった。
そんな子供みたいな感慨を抱いているのかもしれない。
踏ん切りはつかない。
けれど、ワクワクしているのも真実。
なにって、それは当然、非日常に足を踏み入れる冒険に。
だからこそ、あの認識外の館を出て、暑い中無意味に行く当てもなく歩き続けて、こうして家に帰ってきて、安寧の場所にダイブして、頭をひっきりなしに回転させ続けて、未だに迷い続けている。
セイバーは、こちらから話しかけなかったこともあるが、あれから一切言葉をかけてはこない。現実から姿を隠して、波彦のそばに控えていてくれる。
静寂。
そう、静寂だった。
高くなる鼓動の音が、しっかり感じられるほどの静寂。
世界に自分ただ一人しかいないという静寂が、実に無警戒な安寧をもたらしていた。
――しゅっ…………、キンッ、ザッ……。
気が付いたときには、波彦のすぐ隣に矢が突き立っていた。
布団の綿は何のとっかかりにもならず裂かれている。
薄いマットレスを貫通し、木製のベッドフレームにザクリと威力が刻まれていた。
いつの間にか、窓を向いてセイバーが立っていた。
手には、抜き放たれた刀。
その身は透き通るような鉄色、刃は白銀に煌めく。
この光景を見て理解した。
すなわち、波彦は殺されかけて、それをセイバーに救われたのだ。
セイバーが弾かなければ、矢は確実に波彦の眉間を射貫いていた。
そして、何も気づかない静寂のまま、波彦は命を散らしていたのだ。
ありがとう、と言葉をかける暇もなく、
「マスター殿、逃げましょう。まだ狙われています」
その言葉が終わらないうちに、第二射が弾かれ、蛍光灯が砕かれた。
一瞬、眩く輝いたと思うと、闇が訪れた。
波彦はパニックのまま、部屋の出口を目指した。
それまでの間に、何度か背中の方で、矢が弾かれる音がした。
どうにか手をかけたノブの温い金属の感触に、心が落ち着かされる。
勢いよく、後ろ手に閉めた扉に、次々に突き立てられる殺意の矢。
その一つ一つが、いとも簡単に波彦の命を奪い取れることを考えさせられ、こめかみからつるりと冷汗が滑り降りた。
人っ子一人いなかった。
いつもなら、そこそこの通行量がある自宅前の道路から、一切の活気が失われている。
野良ネコさえいない。鳥さえ飛んでいない。
恣意的に、波彦たち以外を追いやったように。
「これは、人避けの結界というやつでしょうか?」
「よく分からないけど、敵の仕業ってことだよな」
もはや、どこへ行くのが正解か分からなくて闇雲に走る。
セイバーは、時々飛んでくる吹き矢を神業で弾きながら、波彦の逃走に供する。
ということは、この行動は間違っていないんだな。
と確かめながら、息をするのも忘れて、落ち着ける場所を探す。
「人避けのってのは、サーヴァントの? それとも、マスターの?」
「分かりません。ですが、これが襲撃者によるものだと考えるなら、相手は人目を避けたいと思っているかと」
だから、この結界を抜けて、賑わう繁華街にでも出れたのならば、逃げ切れたということになる。
「ただ、人がいるところに出ても、襲撃者の手が止まないのなら……。それは、相手も覚悟を決めているということ。拙者もマスター殿を守るのが精いっぱいでござる……」
「俺に決めろってことか?」
「…………」
知らなかったという罪だったら、まだ罪悪感は薄かった。
けれど今、自分が助かるために、周りを巻き込むだけの勇気はなかった。
セイバーは、それを許してはくれなかった。
「勝てると思うか?」
「尽力いたします」
「どこで戦うのが都合がいい?」
「……マスター殿、あの路地裏に入りますよ。準備はいいですか?」
腐って酸っぱくなった生ゴミの臭いがした。
波彦たちが飛び込んだ勢いで舞った埃のせいで、すでに鼻がむず痒い。
一段と夜の闇が深くなった気がする。
そこは、袋小路だった。
退路は完全に断たれた。
窮屈なほどに狭く、セイバーが十分に刀を振るえるかも心配だ。
あまり、有利になるとは思えない戦場。
けれど、少なくとも後方からの奇襲がなくなった。
波彦は、セイバーの背中に隠れて、襲撃者がその姿を現すのを待った。
「カァッッハハハハハハッッ、まさかここまで思い切りがいいとは思わなかった」
それは、不敵という枕詞が付きそうな笑い声だった。
大胆にも、路地裏の入り口に仁王立ち。
たなびくシルエット。
そして現れる奇怪な格好をした細身の男。
「は?」
なんとも形容しがたいクソダサファッション。
まず、スーツ姿(?)なのだが、上着が白黒の縦ストライプだ。
そして、次に目を引くのが、外が青、内が赤のマント。
その他、中に着ているシャツにネクタイ、小物に至るまで、趣味がいいとは言えない色柄をしている。
そこまで装飾過多に着飾っておきながら、顔より上はすっきりとしている。
顔の評価としては、キザったらしい爽やか好青年。
印象的な、切れ長の眼光が眩しくて、思わず視線を外したくなる。
「マスター殿、この時代では、あの格好は普通なのでしょうか?」
セイバーなりの皮肉なのだろうか。
今まで、この時代の人の格好をそれなりに見てきただろうに。
「まさか、あれを基準にされたら困る」
あれは、古今東西問わず変人狂人の格好で間違いないだろう。
「さて、こちらに注目してもらおうか」
現れ出た狂人、恐らくアーチャーのマスターが手を軽く上げる。
もう十分に注目していると言うより早く、
「お初にお目にかかる。オレは、この聖杯戦争に参加するアーチャーのマスター」
やはりそうであった。
「名前を如月拓斗という」
黙とうを捧げるかのように、如月がすっと目蓋を合わせる。
「今より、貴様らに引導を渡す者の名前だ。よく覚えておくといい」
言い切ると同時に、くわっと開かれる目が演技じみていながらも、思わず威圧される。
そして、気圧された一瞬を突くように、一筋の夕闇に染み込む死が迫る。
完全に油断してしまっていた波彦。
しかし、セイバーは油断していなかった。
余裕をもって、矢を弾く。
波彦をかばうように、一歩分前に出る。
息を飲んだ一瞬の後、波彦は放たれた矢の軌道から、発生源を追う。
たどり着いたのは、如月なる男の胸ポケット。
不思議に感じながらも目を凝らす。
すると、そこには、ちらりと夕日に反射する小さな光。
未だ、こちらに狙いを定めるスナイパーの眼光があった。
「おいこら、人が喋ってるときに撃つんじゃない」
緊迫した空気に似合わない如月の窘める声。
もちろん、波彦たちに向けた言葉ではない。
まさしく、自分の胸ポケットに話しかける声。
「だって、ひまだったからー」
間の抜けた声。
その生物が、隠れ住んでいた白黒ストライプの中から這い出てくる。
「やあ、せいぎさんじょう!」
現れ出たのは、手のひらに乗りそうなくらいの小さな人。
どこかの民族衣装だろうか。
如月とは違った印象のカラフルな出で立ちであった。
首周りの幾重にも巻かれたリング。黄や青や真珠色。筒やビーズを紐で繋げて作ったと見られる。
質素な布切れの腰巻。ワイルドな印象を与える。余った布は褌のように前に垂れ下がっている。
頭には勇ましさを表す冠。逆立つように幾本もの鳥の羽根が、頭上に輝く。
肌の出た部分は、べっとりとした色鮮やかな染料で力強く彩られていた。
そして、アーチャーの象徴ともいうべき、その小さな体躯にしては大きな、吹筒がその手には握られていた。
「小人の英霊?」
これまで出会ってきたサーヴァント達が全て、常識的な人間の大きさだったので、まずその小ささに驚く。
しかし、魔術なんて非常識なものがあるのだから。という理由で、結構すぐに納得をつけられた。
言動や姿かたち、どうにも油断させられそうになる。
しかし、波彦たちに幾度も降りかかった強烈な吹き矢の使い手だということを忘れてはいけない。
「あの小ささ、厄介かもしれません」
セイバーは、波彦のような葛藤もなく、冷静に状況を分析している。
しかし、そんな彼にも予想外だった展開。
「よし、おれだってさんじょうだ!」
胸ポケットの小人に対抗するように、マントに隠れた肩口から似たような格好の小人が這い出てきた。
「二人一組のサーヴァント!?」
サーヴァントは、マスター一人に一騎ずつだと思っていた波彦。
セイバーにとっても同じ思いだったらしく、二人いるということは例外らしい。
「敵にわざわざ情報渡すなよ……」
と、自分の従者たちに苦言を呈する如月。
しかし、まあいいと改まって、不敵に笑いなおす。
「ただ、本当に二人だけとは決まったわけじゃないぜ」
確かに、今二人出てきているからといって、三人目以降がいないとは限らない。
サーヴァントが一人だけという前提は崩れてしまっているのだから。
そう例えば、三人目が波彦たちの後ろにこっそり回り込んでいるなんてことも……。
「まさか、おれたちふたりだけのはずじゃ!?」
「さんにんめのふたご!? みつご? どこ?」
どうやら、双子のアーチャーらしい。
余裕しゃくしゃくだった如月が、苦虫を噛み潰したように固まる。
はぁ、とため息まで吐く。
苦労してるんだな、と多少の同情心が沸く。
「まあいい。ここでお前たちの命運は尽きるということだ」
ヤケクソ感を感じる勝利宣言。
「そうはさせません!」
力強いセイバーの否定が頼もしい。
「そう強がってられるのもいつまでか。さあ、アーチャー宝具解放だ」
ゆっくりと顔の高さまで手を上げていって、指パッチン。
待っていたとばかりに、二人のアーチャーが飛び出てきて、地面に降り立つ。
「ついにこのときがきた」
「しょうぶだー」
セイバーは定石通り、言葉を発するよりも前に、宝具の発動を止めるべく斬りかかろうとする。
しかし、それよりも双子の宝具解放の方が早かった。
気付いた時には、そこにいた。
まるで、今まで路地裏だと思っていた場所が、本当は違っていたのかという一瞬。
世界が書き換えられてしまっていた。
「これは、固有結界?」
「こゆうけっかい?」
耳慣れぬ言葉に思わず聞き返す。
「自らの定めた法則で世界を塗りつぶす禁呪。己が力を最も引き出せる空間に染め上げる結界。すなわち、今ここは相手の胃袋の中にも等しいということです」
つまりは、一瞬にして窮地立たされたということ。
「それにしても、この景色は……」
遺跡……だろうか?
いつの間にか開けた空間になっていて、路地裏の狭さはない。
背中にほんのりとあった壁の頼もしさはもうない。
広大な遺跡のただ中に立たされていた。
それは、例えるなら、石造りのハーフパイプ。
ただ、それほど厳密な半円筒形というわけでもない。
石のブロックを積み上げ、削りだして作られた幅広のスロープ。
それが向かい合って配置されている。ちょうど中心から左右に作られた上り坂。
坂を上った先は、そびえたつ壁になっていた。
そして、その壁面の高い位置にそれぞれ、これまた石で作られた小さな輪っかが一つずつ。
地面と輪が垂直になるように取り付けられていた。
奇妙な遺跡。
神々の居城といった雰囲気ではない。
祈りを捧げる場所といった雰囲気でもない。
何か、不思議な行事を執り行うことを目的として作られた建造物。
そして、向かい立つアーチャー達との中心地にぽつんと現れた黒い球状の物体。
「いったい、これから何が……」
強大な力である固有結界。
アーチャー達の心の原風景。
果たして、彼らの心の在り方を映し出して作られた、この空間におけるルールとはいったい……。
警戒を強めた波彦とセイバー。
空気が張り詰めていく中、如月は臆面ともせずに告げる。
「さあ、キックオフの時間だ。これこそが、