山井はさも当然のようにキーを使い客用の廊下から従業員用の通路に入った。貨物運搬用エレベーターに乗り込むと地下3階のボタンを押した。
「その鍵は?」
「拾いました」
「殺したのか?」
「さあ。どっちにしろ、確かめる術はないでしょう」
山井は相変わらず、悪びれもしなければ煽りもしない、ごくごく自然な語調で会話を続けている。ミスタが音もなく拳銃を突きつけているのに気づいていないのか、本当に人の気持ちがわからないのかは知らないが、その横顔は2日前よりはるかに不気味に見えた。
「まあなんにせよ、ローマまでお疲れまさまです。まあ一番疲れてるのは私ですよ。本当に疲れた…」
「自業自得ッつーか…セッティングしたお前の責任だからな」
「んーでもやっぱりコロッセオって一度見ておきたかったんですよね」
「クソ…殴ってやりたい」
エレベーターは客用のそれと違って味気ない色で照らされていて、山井の不健康そうな肌をより死体っぽく彩っていた。がくんと揺れたあと、ちぃんという物悲し気なベルの音を響かせ扉が開いた。
ミスタがまっさきに狙いをドアの外に定めるのを見ると、山井は半笑いしながらさっきまで銃口が突きつけられていた自分の後頭部をさすった。
「まあ罠とかの警戒するのはもっともですよね。攪乱させる発言にも聞こえると思いますが、罠なんて張ってませんので安心してください」
「…よく言うよ」
通路の壁はコンクリートが打ちっぱなしな上、かなり湿気があるらしい。結露で汚い上にほのかにドブの生臭い臭いもする。
「この地下は増改築と補強工事の繰り返しで今は全く使われてないんです。なのに電気は通ってる、謎な場所なんですよね」
「わざわざスイートを予約しといて地下に移動とはな。それこそ無駄ってやつだろ」
「そうですか?地下にいきなり招いても普通来ないでしょ。ちょっとは頭を使って考えてくださいよ」
「お前、俺が年下だってわかってから態度がでかくねえか」
「勘違い、勘違いですよ…はは」
山井は再び銃口が自分の後頭部に向けられたのを見てヘラヘラ笑った。なんだか気まぐれに撃たれても気にしなさそうなくらいに、全てにおいて軽薄だった。
この前はどこか軽薄ぶってはいたものの、追い詰められた小鳥のような緊迫感が隠しきれずにいた。今はそれがない。ジョルノは心がざわつくのを感じた。
山井はそこそこ長い廊下の先にある鉄の扉の前で立ち止まり、くるりとこちらに顔を向けてきた。
「この中にいます…親子水入らずにしたいんですが…」
「んなあぶねーことできるわけねーだろ」
「申し訳ないけれど、ミスタと同じ意見だ。」
「ですよね。では、どうぞ」
山井が重そうな扉を押すと、今までの無機質で整備されてなかった地下とは思えないちゃんとした広間のような場所があった。
とってつけたようではあるが、古い洋館の食卓のような長いテーブルと豪勢な椅子が二脚、真っ赤な絨毯の上に置かれていた。片方は出口側、下座に。そしてもう片方は上座に。
「貴様がジョルノか?」
明かりはテーブルの上で頼りなく揺れる燭台の炎だけで暗くて顔はよく見えないが、威厳のある声はまさに話に聞くディオと納得せざるを得ない説得力がある。山井は黙ってディオの側によっていった。影に解けるように山井が飼い主のもとへ戻ると、闇から真っ白な大きな手がぬう、と出てきて椅子を指した。
「どうした、かけるがいい」
圧倒的な迫力に気押されそうにもなるが、ジョルノだってギャングスターだ。ここで気合負けしてどうする?
「では、失礼します」
上等な椅子だった。ホテルの一室から盗んだのだろうか。ミスタは扉付近でいつでも銃が撃てるように引き金に指をかけたまま後ろ手を組んでいる。
部屋は装飾以外何もないように思われた。それがひどく不安を煽る。
「なかなか実感がわかんものだな。息子、という言葉には」
「貴方が…DIO…」
「そうだ。ギャングのボスになったそうだな、ジョルノ・ジョバァーナ。貴様の母親の事は覚えてはいないが…随分と『まとも』に育ったものだ」
「…僕はこうして会ってみても、貴方を父親だとは思えませんね。なにせ写真でしか見たことありませんから」
「ただ『血が繋がっている』というだけの他人か。それはわたしも思っている。なんというか、拍子抜けだ」
「………ある程度は貴方という人間がどういう存在かは知っています、DIO。だからこそ、確かめたかった。貴方が本当に聞いた通りの人間なのか」
ジョルノは慎重に言葉を選びながら、会話を進める。重たい空気の中ヤマイが淡々とどこからだしたのか、ワイングラスを出して、ディオの前に置いた。ディオはそれを気にせず話を続ける。
「どうやらポルナレフが身内にいるとか?まだ生きているとは驚きだ。だがそんなことはどうでもいいのだ、ジョルノ。値踏みするのはこちらの方だ。今日は貴様をわたしの元で生かしておくか否かを決める場だ」
ジョルノはその高慢な態度に怒りが煽られるのを感じたが、ぐっと抑えた。
「ジョルノ・ジョバァーナ…。貴様はジョースターの血統か、それともこの『DIOの息子』かを確かめさせてもらう」
ディオは徐に左手をワイングラスの上に挙げ、右手でその手のひらを一閃した。手のひらから血が流れ出し、下のワイングラスにぽたぽたと落ちた。ミスタが警戒を強めるのがわかった。
「さて。知っているだろうがわたしは特殊な体で、このような傷ならすぐに塞がる」
ディオは手のひらをこちらに向けた。傷一つなかった。吸血鬼の治癒能力の証明というわけか。確かに通常の火器ごときで殺せる相手ではないようだ。
ただそれでも最悪の場合ゴールド・エクスペリエンス・レクイエムさえ食らわせれば無力化することはできる。問題は食らわせられるかどうかだ。
「わたしがこうしてまで生きているのは夢があるからだ。そしてそれを叶えるためには、ジョルノ・ジョバァーナ。お前のことを知っておきたい」
「あなたの夢と僕になんの関係が?」
「わたしの血をひいている。すなわち、スタンド能力にわたしの天国への鍵があるかもしれない」
「天国だと」
「そう、天国」
ジョルノは影になってよく見えないディオの姿をじっくりと見た。天国などという言葉を真顔で言う人間に会うのは久々だった。そしてそんな言葉が"吸血鬼"から出てくるのは予想外だった。
「天国の正体について話す時間がないのが残念だ」
山井はごく自然にディオの血が流れ落ちたグラスを持ち、またディオの側へ戻った。グラスを持ったまま。
「人間はあまりにもひ弱で愚かだ。スタンド能力を持つものさえも、それを克服できていない。天国とは、言うなればそれらを踏み越えた人間のみが到達できる場所だ」
「あなたはそこに行きたいわけか。生にしがみついてでも」
「蘇ったからこそだジョルノ。お前はわたしが残しておいた保険だ。役目を果たせ」
「一方的に現れて言うセリフがそれか。やれやれ。やはり聞いたとおりの傲慢な男のようだ」
ミスタは引き金にかけた指に力を入れ、ディオの脳天に狙いを定めた。
「だから言ったじゃないですか。多分無理って」
山井はグラスを弄びながらつぶやいた。
「ならば次に行くのは…アメリカだな」
「アメリカ…遠いなぁ」
「何のほほんとしてんだお前ら」
ミスタが冷たい声で言うと、山井はきょとんとしてこちらを見つめる。
「あ、お土産とか欲しかったり?」
「んなわけあるかよ!お前いい加減ぶっ放すぞ」
山井の言葉にミスタは思わず銃口を彼女に向けようとしたがなんとか踏みとどまった。ディオとの決裂はある意味予定調和だったが、これから起こることは全く予想ができない。
「そうか。残念だ。お前はジョナサンの方に似たのだな」
ディオは落胆した声でいうと、顎に添えていた手をテーブルへおろした。山井は闇に向かって頷き、深呼吸を始めた。
「ここが分水嶺だ。穏便に済ませる気は?」
「無論、ないね。お忘れかもしれないがお前たちはすでに組織の構成員に手を掛けた。交渉が決裂した今無傷で逃がす理由がない」
ジョルノの毅然とした態度にディオは影の中で笑みをこぼした。ミスタは銃口をどちらに向けるべきか悩んだ。理性はディオに狙いを絞りジョルノと二人で仕留めるべきだと囁く。だが本能が、山井を今すぐ殺すべきだと訴えている。
あのグラスに注がれた血がひどく不吉なものに思えてならなかった。
「残念だ。ヨル、飲み干せ」
ヤマイはワイングラスの中身を嚥下する。そしてその瞬間、彼女の足元からさあああ、と赤黒い影のような何かが部屋全体を覆い尽くした。
「な…」
ミスタがドアを開けようと手を伸ばすも、そのドアの境目は薄い皮膚におおわれていた。
「な、なんだこれッ…気持ち悪ィ!」
ミスタはドアを開ける事よりもジョルノの身を守る事を優先し、銃をかまえジョルノの椅子にかけよる。ジョルノも椅子を立ち上がりとっさにスタンドで攻撃をしようとするが、すぐに違和感に気づく。
「ゴールド・エクスペリエンスが出ないだと」
「ピストルズもだ」
そうこうしているあいだに部屋一面に広がった皮膚の下からみちみちと音を立てて肉が生えてきた。伸縮など無視してやたらめったらに生えてくる肉腫は皮膚を突き破り、剥き出しのピンク色の断面を新しい肉で埋め尽くしながら揺れる。
「う、」
ジョルノのすぐ足元から生えてきた肉は膝の下くらいまで伸びたあと、薄くひろがり、五本の細い枝をはやした。
腕だ。
その肉が真っ白な皮膚に覆われたとき、ジョルノは自身のスタンドが咲かせた花を思い出した。そして次の瞬間、反射的にそれを踏み潰した。骨の折れる乾いた音と、肉が剥がれる湿った音と感触が靴底から背骨に直接伝わった。
「スタンドを無効化するスタンドだと…?ありえない」
「それは付随する現象にすぎない」
がた、と椅子が倒しながらDIOが立ち上がり、両手を大きく広げる。
「ジョルノ。今ならまだ間に合うぞ。取り返しがつかなくなる前に、首を縦に振れ」
ばしゃ、と赤黒い液体を横切りディオが歩み寄ってくる。そしてびちびちと発生しつづける内臓を気にせず踏み抜き、銃に臆することなくこちらに手を差し伸べるようにむけた。
「己のために平気で人を殺す奴の元に、このジョルノ・ジョバァーナがつくはずはないッ!かまわん、ミスタ『撃ち殺せ!』」
ミスタの銃口はDIOの額からヤマイに向けられる。
「無駄無駄無駄ッ!!」
瞬間、大きく重たいテーブルが音を立てて盾のようにヤマイの目の前に飛ばされ、視界が遮られた。テーブルクロスが舞台の幕が下がるように翻った。
ミスタは構わずさっきまで山井の頭があった位置へ二発撃った。テーブルクロスが血溜まりへ落ちる。二人共消えていた。
山井の背後にあった壁に穴が開いていた。どうやら古い通路を化粧漆喰で塞いでいただけらしい。脆い断面へ続々と肉たちが侵食していく。
追おうと立ち上がるミスタの足をぶちぶちと肉と皮膚が引き裂かれる音をたてながら何本の白い腕が掴んだ。
「クソ…!」
「やめろ、撃つな!」
腕はただ掴みかかっているだけで、スタンドが無効化されている以上無駄撃ちをしてはいけない。
考えろ──あいつが敵対した自分たちを差し置いて遁走するわけがない。ここは奴らが用意した箱なのだ。まだ何か攻撃を企んでいるはずだ。
ジョルノは必死に目の前の血と肉とデタラメに生えた臓器から遠い場所を想像した。しかし鮮烈な赤と生臭さのせいで嫌でも現実に引き戻される。
穴の先は危険だ。扉から出るしかない。
「酷すぎる…これがスタンド?」
「ああ、本当に最悪だ」
ジョルノは折りたたみナイフを出し、扉に張り付いた肉にナイフを入れた。刃を入れたその感触は人そのもので、その向こうの鉄に刃先があたってようやくホッとした。ジョルノが切れ込みを入れ、再び侵食されないようにミスタがそれを掻きむしる。
「気持ち悪ぃ。ぼろぼろ溢れてくる」
ミスタは昔よく見かけた街角に座りつくす薬中のホームレスを思い出していた。彼は注射のしすぎで肘の裏が壊疽を起こし、痒みを我慢できずに掻き壊すのだ。そのせいで掻くたびに爪の先に腐った肉がひっかかり、ポロポロとこぼれ落ちてゆく。
あの薬中は確か同じ学校の悪ガキにリンチされて死んだ。
嫌な記憶と嫌な感触が不意に繋がり、胸の奥底から吐き気がこみ上げてきた。
地下室の扉をこじ開けると、廊下にまでびっしりとまるで生き物の内臓の中にいるかのような肉壁が張りめぐっていた。
悪夢のような光景と臭気、感触が嫌でも思考をかく乱してくる。
「俺吐きそう」
「これはスタンド攻撃だ、本物じゃない…」
「とはいっても気持ち悪いことには変わんねーだろッ」
「とにかく上へ急ごう」
長い階段を抜けた先にロビーへたどり着く。従業員用の扉はまだ肉の侵食が少ないにも関わらず、向こう側から塞がれてるのかというほど重かった。二人は呼吸を合わせ、体当りする。すると肉が裂ける音がして扉が開いた。同時にさらに濃い死臭が香ってくる。
「うッ…」
ロビーであるはずの空間は生きている人間の気配すらない、赤黒く、ときには黄色い不気味で吐き気を催す空間に変わっていた。廊下よりも濃密な肉の坩堝が広がっている。
「まさか…殺したのか…?」
「フロントだけ確認してすぐに出よう」
沈痛な静けさ。丸屋根の高い天井はライトの部分も次第に肉に覆われていっているようで光がほのかに赤みをおびており、形状もあいまってかいやでも子宮を連想させる。
出てきたところと反対側に肉の切れ目があった。そこからは光が漏れている。そういえば来る時にホールで披露宴が行われていた。
ジョルノはミスタに合図し、そのホールを隙間からそっとのぞく。隙間に顔を近づけた瞬間なにかが煌めいた。
「危ねえ!」
同時にミスタに襟首を掴まれ、後ろに倒れた。見上げると内側からこちらへ向けて白い手がぬう、と伸びていた。
真っ赤な壁、白い腕。そしてその白い腕は長いケーキナイフが握られていた。白い百合と凝った刺繍のリボンで飾られたナイフが艶めいた仕草で振り上げられ、振り下ろされる。
ミスタは刃がこちらに届く前に一発うち込んだ。誰かの幸せが砕けて肉の海へ落ちた。
「一体何故…」
「射程距離がSランクなんだろ。ただ幸い腕だけだとバカみたいだ」
「ああ。ただこう数が多いと厄介だ」
ホールの出口に一番近いソファに誰かが座っていた。肩がかすかに上下している。生存者の発見に二人はおもわず駆け寄った。
しかしすぐに、それが生存者でないことに気付いた。
「ぐ、ううぅぅう…!」
無数の切れ目が顔面を覆い、それが開いたり閉じたりを繰り返し、何かを咀嚼している。それは傷ではなく、人間の『口』だった。
ジョルノのうめき声に答えるように口は一斉に何かを口にする。
『――――――――――――――――ッ!』
それはイタリア語や日本語、英語、フランス語、中国語…全てが混じり合った言葉の羅列だった。何を言っているか分別ができないくらいの音量で各々が何かを叫ぶ。唯一聞きとれたイタリア語のものでさえきちんとした文脈をなしていない。
「ジョルノ!もう行こう」
ミスタはテーブルに突っ伏したまま後頭部から足が生えた紳士を転がしていった。
「テーブルについてる奴ら、みんな口から何か生えてしっちゃかめっちゃか蠢いてやがる。この肉片は実在している」
「あり得ない…」
みると、テーブルに突っ伏している人間はグラスを持ったままの人間が多かった。割れたグラスに滴る真っ赤なワインが山井の持っていたディオの血のグラスを想起させる。
「…ディオってやつの血か?」
「吸血鬼の血にこんな効果はない。…ヤマイのスタンド能力、なのか?」
「突然こんなバケモンにしちまう力なのかよ?!そんなの反則だろーがッ!」
「落ち着け!そうだったらぼくらはとっくに仲間入りだ。なにかトリガーがあるはずだ」
二人は逃げるようにホールからで、ロビーを駆け抜ける。生きている人間もいるようだ。出口から何人か駆けだしている。
その中にあの二人の姿はない。
ホテルから出ると、先ほどの光景が嘘だったかのように普通の夜の街が広がっていた。しかし駈け出してきた人間が騒ぎ発狂し、周囲は騒然としている。警察のサイレンの音まで聞こえてきた。
「ここ、入られたらヤべーんじゃ…」
「仕方ない、組織に連絡を…!」
やはりあの肉壁、スタンド使いにしか見えないというわけではない…物質同化型のスタンドらしい。
このまま警察や消防を入れたところでまともな神経を保ったまま生存者を探せるわけもない。これは人に対する冒涜にほかならない。
「いずれにせよ、面倒ごとは勝手に舞い込んでくるものだな…」
……
それは面会前の最後の夜に起こった。
「あ」
山井がそう発語した途端にシャワー室一面が例の肉塊まみれになった。あっという間に山井の足元から濃い血の海が広がり、肉が生えてくる。カビだらけの浴室が殺人現場よりもっと酷いものに変貌したとき、気付いてしまった。
「お父さん」
その、デタラメに生えた指のうちの一本に骨が曲がってそのままのものがあることに。
あれはもう5年も前のことだ。
16歳。大量の薬の服用でなんとか自我を保つ代わりに意識が朦朧としてたころ、山井は学校で発症した。通信制高校だったので、月末にたった一度授業を受けるだけで良かった。しかし山井のか細い神経は月末に押し寄せる負荷に耐えられなかった。通常の量の薬ではすぐに人間が人間でなく見えてしまい、トイレに閉じこもって出ていけなかった。
扉の外から呼びかける声に怯え、必死に頓服薬を口の中に押し込んだ。12錠飲んでも足りず、必死に床のタイルの数を数えていた。しかしそのタイルすらも次第に有りもしない血で汚れてゆく。耐えきれずドアを開けた先に父がいた。
私には、心配で青ざめる父が、父親の皮をかぶった肉にしか見えなかった。
膝の上から空の薬シートが落ち、尋常でない量の薬を飲んだ私を心配した父は肩を掴もうと手を伸ばした。
私は悲鳴を上げ、ドアを閉めた。父の指がささくれだったドアの隙間に挟まった。
火事場の馬鹿力というのだろうか、ものすごい力で締めたせいで血が滲んでいるというのに、父は悲鳴一つあげなかった。
あのとき父は、とても穏やかな声でただ一言「大丈夫、お父さんだよ」とだけ言った。
その時曲がってしまった指が、ここにある。
「あ…」
その瞬間、世界のすべてがわかった気がした。
コップから水が溢れるように、涙が血のように生ぬるいシャワーと混ざって床に落ちた。