山井は寝返りをうって時計を確かめた。午前9時。ホテルをチェックアウトしてから事前に用意してあったバンに乗り込み、夜が明けるまで走った。しかしすぐにホテルが取れず、車中泊が決定して今に至る。
ディオが棺にはいってから自分もシートで寝ようとしたものの、ジョルノの乗っていたリムジンのような座り心地とはいえずいつまでたっても深い眠りに落ちれなかった。
微睡みをなんども行き来すると、彼岸にあがるのも此岸にあがるのも億劫に思えた。起きたくない、でもどうせ覚める眠りに落ちたくもない。だったらいっそ散歩にでも行こうかと思ったが、昨晩のフラッシュバックが怖くて、ドアを開けるのは躊躇われた。
日が暮れるまでブイのように眠気の波に翻弄されるのもそれはそれで悪くはない。密室は少なくとも山井一人きりで、肉塊の入る余地はなかった。調整の冷房が唸りを上げる車内に寝っ転がっていると、都会の下に建てられている地下墓地の死者はこんな気持ちなんじゃないかと思う。
ローマには多くの地下墓地があり、未だ発掘されていなかったり、発掘されていても放置されていたりするものがあるらしい。ならばこの車のすぐ下に死体があって向かい合わせになっていてもおかしくはない。地下を巡る妄想は地上の山井にとっては幾らか慰みになった。
自分のすぐそばには死が横たわっている。
同じ車には死んでるのか生きてるのかわからない吸血鬼もいるが、山井にとっては完全な静寂に埋葬された死者のほうがいい。不死という死に打ち勝つことになんの魅力も感じない。それが山井がディオとは生涯けっして分かり合えないと確信する理由であり、同時に尊敬している理由でもあった。
人は自分が持たないものに憧れる。至極当然のことだった。
安ホテルから連絡が来て部屋が空いたと知らされた。棺は山井一人では動かせないほど重いので結局チェックインは夜になってからだった。
ディオは疲労困憊している山井を見て部屋にとどまるように言った。しかし山井はそれを今まで見たことないほどの勢いで拒絶した。先日の緊張がまだ尾を引いているらしい。ディオは今までずっと沼の澱みのように感情を高ぶらせることもなにかに必死になることもなかった山井の豹変に驚いた。
マフィアとの面会はよほど堪えたらしい。話を聞くに(山井の要領を得ない砂糖菓子のような説明だったが)ずっと目隠しされていたようだが緊張感のある時間だったらしく、日々をクラゲのようにやり過ごしていた山井にとってはいきなり汚水の中にほうりこまれたようなものであり、防衛本能から攻撃的になるのは仕方のないことに思えた。
防衛本能の発露があのスタンドだ。
あの日、町中でうずくまる彼女の足元に広がる影は不自然に赤黒くみえた。例の真っ白な死者たちの肉は出なかったが、まるでこぼれだす寸前だった。近づくと妙な生暖かさが皮膚を舐めた。彼女の周りだけ湿度が高いように思えた。
山井のスタンドの能力はあの死体を召喚し、山井が傷をつけた生き物を殺し、連れ去る。だが付随して起きるスタンド使用不要という状況がどうも引っかかった。
ディオは倒れ込んで動かない山井の細い身体を見つめる。ベッドは狭い。その縁に横になっている山井夜。電灯に照らされた硬い肩と、それに続く柔らかい二の腕が淡い影を作っている。きめ細かな肌はとても白く、病的だった。指先で触れてみる。柔らかく、あたたかかった。
このちょっとでも力を入れれば真っ二つに折れてしまいそうな華奢な体にはどのような精神が詰まっているのだろう?
ディオは山井のはらわたの色について考える。彼女のどす黒く、どこまでも深みに落ちてくような赤い腸。つやつやと光る胃や肝臓は、まるで宝石みたいに輝いているかもしれない。骨の籠からこぼれ落ちる宝石。ささえの無くなった彼女の中身は、それにそっくりな彼女のスタンドにより迎えられる。
腸を抜き出すとき、女ではわかり得ない射精のような奇妙な性感を感じるかもしれない。脊椎を走る電気のようなものが。
死。
最近、彼女はそれを望んでいるのではないか、とよく考えている。
大型トラックが通るたびに部屋は照らされた。大きく揺れる。ひときわ大きい揺れがあった。土砂も積んでいたんだろうか?
「う」
と山井が唸ると急に部屋の中にどろりとした気配が湧き出した。生臭い匂いと湿気がディオの足元から這い上がり、部屋を覆った。山井の体の下からさざめきの様に血の沼が広がってゆく。久々の無意識のスタンド発動だった。
ぬらぬらした粘液が体の内側の色を艷やかに濡らしている。それはそこだけ切り取ればある種エロティクスな欲望を煽るものだが、それがまるで無秩序に床に広がり絡まり合い互いを抱くように折り重なっているとなると話は別だった。
スタンドというのは多かれ少なかれグロテスクな造形をしているが、山井のそれはまるで剥き出しの神経繊維のように痛々しく、生々しい。
さらにいえば底がしれなかった。一番はじめに彼女のスタンドを見たときよりも、範囲が広まっているばかりか異形の数が増えている。ディオの勘が間違いでなければ、彼女は死体を片付けるたびに抱える悪夢を肥大化させていた。だとすれば、彼女の狂気の増大は間違いなく自分のせいであり、この災厄のような光景は自ら招いたものだ。文句を言う筋合いはないのかもしれない。
そして、それを止める気はなかった。いや、術がなかった。
山井はもう、やることなしに生きていけない。生きていく気がない。ただ、死ぬのを怖がっている。だから死ぬこともできない。どっちにしろ片羽根は折れている。破綻するのならばこのままでいて欲しかった。
誰かに"いてほしい"などと思うのは久しぶりだった。ディオは長い時間を振り返ってみても、そういう感情を抱いたことはなかった。欲すれば手に入れ、その後はその者に任せた。その自分が憧憬のような朧気な感情を抱く事になるなんて。奇妙なすわりの悪さをおぼえる。
グロテスクな肉がゆっくりと動き、床を這いずる。無造作に生えた腕が互いの手をとったり、指を絡めたりしていた。二日酔いの日の夢よりたちの悪い世界の中心で、ディオは子どもの頃、高熱を出したにもかかわらず家に立った一人放置されていた日のことを不意に思い出した。
このまま死ぬのかな?
ぼんやりとした思考の中で死という一言だけがとても冷たく、重く、確かな形を持っていた。
このまま死んでも、誰も悲しんだりしない。
死ぬのは嫌だ。死にたくない。
母親がそばにいたら変わっただろうか?熱を出した自分の傍らで此岸に繋ぎ止めるように手を握ってくれていたら、何かが変わったのだろうか。
山井の手を見た。柔らかい、女の手だった。
自分の手の中にすっぽりと収まる。雛のような大きさで熱を持っていた。山井は母親にこうして手を握られたことはあるんだろうか。彼女の死への恐怖は、母親の温もりから湧いたのか、欠如から湧いたのか知りたかった。
気づけばもう午前四時だった。日が昇ってしまう。ディオは手を離し、日の差さない真っ暗な浴室に立てかけられた棺へ行った。スタンドはもう消えていた。
山井の寝息だけが薄暗い部屋に響いた。
……
よもやまたこのローマにくるとは思っていなかった。
ディオとの面会は以前のパッショーネのボスであるディアボロを倒した場所に近いホテルが待ち合わせ場所になっている。
『コロッセオの肩』というふざけた名前のホテルのスイートは、たしかに名前通りコロッセオの肩の部分が見えた。
ジョルノは視線を手元に戻した。先ほど部下が持ってきたバインダーに挟まっているのはあの女…ヨル・ヤマイについての書類だ。
彼女は手紙を渡す際にご丁寧にパスポートを見せており、それを写真に残していた組織の一員がいた。そこから身元を割るのは非常に簡単だった。
結論から言えば、書類に書かれているのは家族を殺されたという以外とりたてて不審なところもない普通の日本人だった。つまり、バインダーに挟まっているのは役に立たない紙屑だったということだ。
唯一役立ったのは彼女の置かれた特殊な立場をセンセーショナルに書いたゴシップ記事のみだった。
【猟奇殺人?!平凡な一軒家で起きた惨劇】
翻訳は必要なかった。日本語だけの雑誌はなかなか懐かしい、というか新鮮だった。カストリ雑誌特有の独特のレイアウトで山井の家族がどう殺されたかを執拗に書いてある。丁寧にイラストまで用意して遺体の損傷具合を解説してある。悪趣味だが、大いに参考になった。
彼女の薄気味悪さはこの事件を背景にしているのだろう。ただ直感として、彼女の気味悪さを形作るのはこの事件だけではないという思いもある。
例えるならば傷だ。できたての傷というよりは、大昔に負った傷が治らないまま皮膚の下に埋もれてしまったような傷。骨が折れてしまったまま固まったような、欠けた指のような、そういう欠損を抱えたまま表面だけを取り繕った、そんな傷。
「……」
ジョルノはまぶたを押さえ、慣れない文字を追うのをやめた。
今日は約束の日だった。父親DIOとの対面を数時間後に控えている。今回は目立たないようにミスタと二人で行動しているため、気が楽な半面、薄着で外に閉め出されたような薄ら寒さを感じた。それが吸血鬼に対してなのかあの女に対してなのかはわからないが、比較的恐怖に近い感覚だ。
「なあジョジョ」
「なんだ。ミスタ」
「なんか懐かしいな。ついこないだだけどよー、あそこで戦ったとは思えないぜ」
「またここに来るとは思ってもいなかったな」
人はこうしたことに運命を感じる。いや、スタンド使い同士には明確な引力が存在するのだ。だとすれば、これから何事もないということは無いだろう。
パッショーネの人間を動員すればよかった。しかし何度も考えたが、ディオが事実吸血鬼であり、その勢力を広げようとするのならば自らの部下の接触はなるべく避けたかった。
経験則から言うと、スタンド使いの多くは野心家だ。ポルナレフから聞く限り、ディオは蛇のような男だ。紛い物の不死をちらつかせ彼らを誘惑するかもしれない。
それになにより今まで曖昧だった父親という存在に対して「自分で確かめたい」という気持ちが強かった。
その機会はもう目前に迫っている。
ローマグランドホテルロビー、夕方。
そこに漂う上品さは値段と比べてやや過剰に思えた。まるで全員がこの場所が上品であるかのように振る舞おうと示し合わせたようだった。
ジョルノとミスタはフロントへ向かう。すると名乗るまでもなく、ホテルマンがすうっと二人の前にやってきて言った。
「ジョバァーナ様、お待ちしておりました。ご案内します」
どうやら、ヤマイはしっかり予約をとっていたらしい。しかもジョルノの名前で。
計画的だったのか、毎週毎週予約を入れてたのかわからないが、どうやら彼女は大量の選択肢をばらまき行き当たりばったりでさらに選択肢を捲き…と一見緻密に見えて適当な仕事をする人間のようだ。くじ引きみたいな女だ。それもあみだくじ。
警戒を怠らないまま、エレベーターに乗った。広い籠の中、ミスタはジョルノの隣に寄り添うように立つ。ボーイにゲイだと思われてるかもしれない。
スイートについた。通されるがままにして、ボーイが扉を締めた途端すぐに部屋の中を探った。罠はないようだった。ごくごく普通のスイートルーム。『コロッセオの肩』と違ってコロッセオすべてが見えた。構えてきたというのに全く手つかずでクリーニングされたばかりの清潔な部屋としわ一つないベッドだけ。
ジョルノとミスタは顔を見合わせてから肩の力を抜いた。
「どうやらまだ戦う気はないみてーだ」
「逆に不気味なくらい手つかずだ」
「あっちから呼んでる癖になんもねえっていうのはなかなか大したタマだよ」
「時間がまだなのかもしれない。奴は…ディオは夜しか動けないらしいからな」
「でもヨルは動けるだろ?」
「あんな一般人が24時間動けるわけないさ。まあいい部屋を用意してくれてるだけマシかもしれない。少なくともここには冷房がある。」
もう一度部屋をくまなくチェックし、罠も何もないと再確認した頃には日は沈み切り、ミスタは飽きてソファに座っていた。ジョルノもジョルノでぼんやりと点々と明かりの灯ったコロッセオを眺めていた。
時計が八時を指したちょうどそのとき、こんこんと部屋の扉が控えめにノックされた。
ミスタがすぐに銃を構え、扉に狙いをつける。
ヤマイだろうか?ジョルノはミスタにアイコンタクトする。ミスタの答えは「さあな」だった。どちらにせよもうすでに『夜』なのだ。決して油断してはいけない。
「ルームサービスです」
平坦な声だった。上品さも不遜さも敵意もない。ただの声。ミスタがじりじり警戒しながら扉に近づき、ばん、と扉を開けて銃を声の主につきつけた。
「うわっ!?」
と驚いた声を上げ、ホテルマンが派手に転ぶ。
「………4日ぶりか?ヨル」
「わ。怖」
そのホテルマンは、やけにぶかついた制服を着た山井だった。彼女は突きつけられた銃に動揺し、反射的に両手を上げた。日本人にしては泣き叫ばないだけ肝が座っている。
「本当に来てくれてよかったですよ。ここ一泊借りるだけですごい値段ですからね。ところで銃をおろしてもらっても?」
「ディオはどこだ?」
「案内しますよ。そのためにこんなコスプレまでしてきたんですからね」
山井はミスタの拳銃を気にしながら立ち上がるとホテルマンの制服を脱ぎ始める。ミスタが絶句して口を大きく開けているが、制服の下には黒いタートルネックとジーンズをはいていた。初めからその格好で来ればいいのに…と思いつつ二人は無言で早着替えを見守った。
「ツッコミもなしですか。やれやれですね」
山井はその制服をぐしゃぐしゃとまるめ、横に置いてあったワゴンに突っ込んだ。そしてそのワゴンを勝手に部屋に蹴りいれ、バーにでも誘う気軽さで
「じゃあ行きましょうか。ついて来て下さい」
と、言った。