今回の話は、時系列としてはトロイアに来て一年経つ頃。
アーディンさんの交流関係や女子力という技能や歴史的うんちくなど、わりとネタが満載です。
パンの歴史は古く、世界最古のパン焼き窯は古代バビロニアの首都バビロンで発見されたという。
但し、この頃のパンは小麦粉を水でこねて焼いただけの無発酵のものだったが、古代エジプトにおいて偶発的に発酵パンが誕生した。
その技術が伝えられた古代ギリシャではパン職人が誕生し、ヨーロッパ各地に広まった。
なお、ギリシャでは主食用のパンの他に、バターや牛乳、果実を混ぜた趣向的なパンも作られていたという。
日本では戦国時代にキリスト教と共に伝えられたが、本格的にパンの生産が始まったのは明治以降のこと。
米を主食にしていた日本人からすれば固いパンよりも柔らかいパンが好まれ、菓子パンや惣菜パンなどといった独自のパン文化が発展していった。
俺自身も日本式のパンが好きだ。
普段食べている食事も王宮勤めの職人が作ったものだから勿論美味い。パンも原材料からして良いものを使っているから素材の味が出ている。
だが、個人的に言えば物足りないのだ。西洋系のパンとは違う、全体的に柔らかく、ふわふわとした手触り。飲み物すら要らないだろうと思わせるもちもちしっとりとした口触り。工夫の仕様で無限に拡がるバリエーション。
端的に言ってしまえば柔らかパンに渇望しているのだ。
無いのなら作ってしまえ。
旅をしていた頃はともかく、従者として王宮に務めている現在なら材料もある程度揃えられる。レシピも前世で見て覚えていた。
問題は厨房を使わせてもらえるかどうかだが、そこはひとつ心当たりがあった。
窯の出入口から甘い匂いが辺り一面に拡がり、鼻腔を刺激する。それは厨房の外も同じだったようで、目を輝かせた子ども達が厨房の入口から覗き込んでいる。
ここはトロイアのメインから少し離れた場所にある孤児院だ。
以前気分転換がてらに散策していた時に見つけた場所で、時間がある時は時々手伝いを買って出ている。
かつての自分が孤児のようなものであったため、どうも世話をやかずにはいられないのだ。
子ども達も進んで手伝いをしてくれるので、頼もしい限りだ。
頃合いを見計らって鉤の付いた棒を窯に突っ込み、小麦色の焼き目が付いたパンが乗った天板を引き出す。
今回作っていたのはカスタードクリームパンだ。子ども達に栄養のあるものを食べさせてあげたいと、前々から考えていたものだ。
クリームパンの特徴であるグローブのような形も歪ではあるが再現している。
パンは基本の材料に工夫を加えれば良い。
問題はカスタードクリーム。卵や牛乳、蜂蜜は少し高めだが、入手はできた。味の要でもあるバニラはギリシャには存在しないので、似た成分を持つ桃や杏から抽出した。
カスタードクリームを納得いく味にするには苦労したものだ。試作品の味見を買って出てくれた
火傷しないようにそっとクリームパンを天板から持ち上げて木でできた平皿に盛り付けると、今かいまかと待ち構える子ども達の方に向き直る。
「パン焼けたから持って行っても良いよ」
『わーーーーい!!』
「ただし食べて良いのはヘスティアさまにお祈りを捧げてからだ」
『はーーーーい!!』
集団の最前列にいた子に落とさないように気を付けてねと、言付けてパン皿を持たせる。
ハーメルンの笛吹き男宜しく厨房から出ていく子ども達を見送り、俺は一息ついた。
「ふふ、貴方が来るようになってからあの子達、笑顔を見せるようになったわね」
クスクスと、小さく笑う声が聞こえる。その声は小さいがすべてを包み込むような、花のような声だ。
「子ども達が健やかに過ごせているのもすべて貴女様の加護によるものです。私はその手伝いをしているようなものです―――ヘスティアさま」
炉の女神、ヘスティア。
オリュンポス十二神の一柱で、アテナ・アルテミスと並ぶ処女神である。
家庭の中心に座する炉を司ることから家庭の守護、延いては国家安泰を司るともされる神であり、処女神となった経緯から全ての孤児達の保護者でもある。
アーディンが名前を得る前から信仰している神でもあり、厨房に入る時や火を扱う時には必ず炉に手を合わせることにしているのだ。
炉の前に顕れたヘスティア神は小柄な身体に鮮やかな色合いのヒマティオンと飾り紐を纏った姿だ。
アーディンは神前ということで自然と膝間付く。それは心から相手を敬う姿勢だった。
ヘスティアは初めてアーディンの前に顕れた時のことを思う。
炉から捧げられる様々な信仰の中でも、彼の信仰はヘスティアに興味を抱かせた。
炉に手を合わせて火を使わせてもらうこと、孤児達を見守ってくれることを願うこと。
当たり前になりすぎて忘れられかけていた感謝の気持ちが、炉を通して伝わっていた。
時々捧げられる菓子の類いも、神々である己ですら目にしたこと、口にしたことがないものだった。
例え一口で消えてしまう食材にも、それを口にする相手への思い遣りが込められていた。
信仰を捧げる者が気になったヘスティアは、彼が祈りを捧げている時に目の前に顕れた。
祈りを捧げるため膝間付いていた彼は、突然顕れた神性に驚きを隠せておらず、琥珀色の眼を見開いていた。
その朱金を目に納めた時に感じたのは、年齢に似合わない、老成した雰囲気とその奥に潜む孤独感。
僅かに漂う力の気配から彼がただの人間ではないことに気付いたが、警戒するような危険な気配はしなかった。
その後ヘスティアは自らの名を名乗り、アーディンが子ども達のおやつを作るのを見守った。その手つきや眼差しから、彼が誠に孤児達を慈しんでいるのだと感じた。
それからというもの、アーディンが孤児院を訪れて厨房を使う際はその様子を見守っている。
「確かに私は子ども達に加護を与えているけど、それだけよ。実際に子ども達が喜ぶことをしてくれているのは貴方の方よ」
「――勿体なきお言葉」
アーディンは一礼すると、先程子ども達に持たせたものと同時進行で用意していた膳が載ったミニテーブルをヘスティアの元に運んだ。
膳にはクリームパンと、甘い匂いがする白い飲み物が入った杯が載せられている。
「アディさまー!はやくー!」
「では、私は失礼します」
居間から子ども達が呼ぶ声に、アーディンはその場を辞した。
アーディンを見送ったヘスティアはクリームパンを手に取ってみた。普通のパンよりもずっと柔らかく、それでいてずっしりと重みもある。
真ん中から割ってみると、濃い黄色のクリームが中から出てきた。期待に胸を膨らませながら、クリームの面から噛ってみた。
(!!)
その途端、口の中に濃厚な味が広がった。香る甘い匂いは、蜂蜜だけのものではないようだ。卵や牛乳がうまく調和しあい、滑らかな口触りを生み出している。
パンもしっとりした食感で、口の中で蕩けてしまいそうだ。
夢中で半分を食べ終えて、喉の渇きを感じて杯を手に取った。見た目は牛乳のようだが、少し色が薄い気もする。
(………!)
杯を傾けると、程好い甘酸っぱさが広がった。味としてはヨーグルトに近いだろうか。色が薄いのは、希釈として薄めているからだろう。適度に冷やされたそれにより口の中をさっぱりさせた。
いずれにしても、このような食物をヘスティアは見たこともなければ、聞いたこともなかった。
このまま食べ終えるのに名残惜しさを覚えたが、残してしまうのも作った側に失礼だ。
ヘスティアは再びパンに手を伸ばした。一瞬の至福を味わうために。
バニラはバニリン(C8H8O3)という結晶性アルデヒドが主要成分となっています。
バニリンは、天然物はバニラビーンズや安息香、グローブ油などに含まれるほか、泡盛や奄美黒糖焼酎の熟成過程で生成されるそうです。
以前、テレビの健康番組で梅干しにはバニリンが豊富に含まれていると言っていたので、梅と近種であるアンズなどから抽出したということで。
今回はギリシャ神話の中でダントツの善神の一角であるヘスティア様に登場していただきました。ヘスティア様のぐう聖っぷりは随一だと思う。
因みにアーディンさんがヘスティア様にお出しした飲み物はカルピスみたいなものです。ヨーグルト存在しているんだからその応用だって可能なはず。
日本人的思考のアーディンさんはギリシャの神にあまり良い印象を持っていない。特に主神とか。
アーディンさんの神様に対する印象は、自分や自分の周りの人間に迷惑をかけなければいい。もし手を出したなら許さない。
対して好印象なのはヘスティア様(家庭的、孤児の守護神)、ハデス(死は絶対。死後の安寧を願う)、アレス(戦争に秩序はあってないようなもの)など一部。