おっさんを想う妙子さんの圧力もあって、『男子料理教室』は翌日に開かれることになった。
この世界の男性は家に居るのが当たり前。彼らは代わり映えのない日常に飽き、新鮮さを求めていた。
そこで降ってわいた『男子料理教室』である。飛びつかないワケがない。
恐怖の代名詞である南無瀬邸に行くことに躊躇う男性もいたが、そこは南無瀬組員の奥さんが巧く説得したそうだ。
問題のおっさんの方は――
「なに、料理教室かね?」
「陽之介さんは料理を始めてまだ半年も経っていないですよね。今日来る男性の中には十年以上、一家の台所を仕切っている人もいます。五人の妻と多数の子どもの分を大量に作って……これって技術を学ぶ絶好の機会と思いませんか?」
「ううむ……だが、今の僕はヒナたんロスで何も手に付かないのだよ」
「甘いのは今日作る料理だけで十分です! 陽之介さんの料理は今まで俺を支えてくれました、食べるだけでとても力が湧いてきました。自信を持ってください。そして、あなたの真心がこもった料理を、愛する娘さんに届けましょう! きっとそれは娘さんが新しい道を歩く活力になるはずです!」
「み、三池君……そうだな、ここで泣いているだけでは何にもならない。ヒナたんのために僕は台所に立とうではないか」
「それでこそですよ、陽之介さん!」
「ああ、頑張ろう三池君!」
――という熱血風味で、おっさんを連れ出すことに成功した。
「はじめまして、今日はよろしくお願いします」
「料理は毎日やっていますが、なにやら緊張しますな」
「ですな。これほどの数で同性と一緒に何かをするなど、学生時代以降なかった」
「はは、年甲斐もなくワクワクしますよ」
台所に集まった年の頃二十代から五十代の男性たちが、着慣れたエプロンをして談笑し合う。
おっさんは始めこそ引っ込み思案だったが、同性同士の朗らかな空気に浸され、だんだん表情を明るくしていった。
本日のレシピはクッキーだ。
男性たちには多くの家族がいる。お土産として大量かつ持ち運びに優れたクッキーが、この集まりに最適だと俺と真矢さんで判断した。
それにクッキーなら、とろとろした見た目でもなく、精が付くものでもないので女性陣の劣情を誘うことはないだろう。
バター、砂糖、ココアパウダー、チョコレート。
様々な味の生地を、これまた様々な型で抜いて、オーブンに入れていく。
さすが、長年家事を受け持っているだけあって、どの男性も余裕を持って行っている。
百戦錬磨の猛者たちの中では、おっさんは未熟者に分類される。だが彼はそれに尻込みすることなく貪欲に知識を吸収しようとイキイキ状態だ。良きかな良きかな。
「タクマさん、卵はもっとしっかりほぐした方がよろしいですよ」
「こ、こんな感じですか?」
「はい、その調子で」
「勉強になります、ありがとうございます」
「私はあなたのファンですから、お力になれて光栄ですよ」
日本にいた頃は共働きの両親に代わって台所を任されていた俺だが、菓子作りの経験は少ない。勝手が違うため苦戦する俺をみんな快く助けてくれる。
タクマの存在は想像以上に男性たちの糧になっているのか。俺にとって料理教室は、
料理が終われば、男子会に突入だ。
大広間にて、出来上がったクッキーを摘まみながら、誰もが夫婦生(性)活や子育てについて悩みや愚痴を吐き出す。
料理教室よりこちらがメインではないか、と思えるほど男性たちはよく喋り、よく聞き、よく意見を重ねる。
それだけみんな、何でも話せる相手に飢えていたのだろう。
五人の妻を相手にする(意味深)方々の苦労話は聞く価値が十分過ぎるほどあり『ハーレムは男の夢』と言うのは所詮幻想なのだと、俺は痛感した。
おっさんも陽南子さんの事を相談し、高齢の男性から含蓄のあるアドバイスを受け、ヒナたんロスを振り払っていった。
そして、時間は瞬く間に過ぎ……
「またやりたいものですな」
「また、とは言わず明日はどうでしょう? もちろん南無瀬組さんの許可があればですけど」
「作り足りませんし、許可があるなら私は参加できますよ」
「では、僕も。こんな楽しいイベントは見逃せませんよ」
笑い合いながら男性たちが、意気揚々と自宅に帰って行く。
「三池君のおかげで、旦那も笑顔を取り戻した。本当に感謝するよ」
「心配させてすまなかったね。もう平気なのだよ。ヒナたんに僕のお菓子をたくさん送って応援する、そう決めたからね」
妙子さんとおっさんが俺を労ってくれる。二人とも昨日とは打って変わってご機嫌だ。
それを見るだけで企画と運営を頑張った甲斐がある――男子料理教室、大成功だな。
南無瀬組員さんだけに後片付けを任せるのは申し訳ない。俺も手伝っていると、
「お疲れさん。拓馬はんは楽しめたん?」
男子料理会の裏の仕切り役である真矢さんがやって来た。
「のびのびやれましたよ。そうだ、俺のクッキー、真矢さんも食べてください」
本日の成果を詰めた食用品ポリ袋を取り出す。
「他の人たちに比べれば味も形も未熟だから口に合えば良いんですけど……」
おずおずと差し出した赤点ギリギリの品を、
「拓馬はんがくれる物なら、うちは何でも受け取るで。おおきに」
真矢さんは大事そうに受け取った。だが、手にしたまでで食べようとしない。
「あの、やっぱり口に……」
「そういうわけやない。ただもったいなくて……後で細かく砕いて少しずつ食べようかってな」
くっ……あざとい! さすが真矢さん、あざとい! そんなこと言われたら、何個でもあげちゃう!
ソイヤ! ソイヤ! と、恐縮する真矢さんに俺はクッキーを押し付けた。
「わっ、わっ、こんなに。ほんまにええの?」
「ええんです! いつもお世話になっている俺の感謝の気持ちだと思って、さっ一気にどうぞ」
「そ、そんなら食べんで」
真矢さんが慎重にクッキーを口にし、
「………………」
「どうです? 美味しいですか?」
「………………」
「ま、真矢さん?」
「………………生き返るで」真矢さんの目からじんわりと涙が浮かぶ。
「拓馬はん成分が身体に染み渡る。細胞と言う細胞が歓喜に震え、分裂を繰り返し、かつてない多幸感をもたらしてくれる。美味しい美味しくないで判断していい代物やないで」
おかしいな。俺、クッキーの隠し味にドラッグを入れたかな?
「これでうち、あと百年は戦えるで」
「気に入っていただき何より。じゃ、俺は部屋に戻りますね」
逃げ回りゃ死にはしない、戦線離脱だ。
狂気の食レポをする真矢さんに別れを告げて、俺は自室に帰ることにした。
しかし、夜の帳が下り始めた廊下の途中で。
「……三池さん。今のあたし、どん底な気分ですよ」
呪われそうな声に俺は捕まってしまった。声の方を向くと暗黒面に堕ちた音無さんがいた。
「あっ……今日の周辺警護、お疲れ様でした」
「どういたしましてどうしてですか!? 生クリームでのデコレーションは? あたし、ホワイトに汚される三池さんを心の底から楽しみに 「これ、俺が作ったクッキーです」 びゃあ゛ぁ゛゛ぁうまひぃ゛ぃぃ゛ぃ゛!!」
文句を言う口にクッキーを投げ込んだところ、料理漫画特有の服がはだけそうなリアクションをして、音無さんは廊下にぶっ倒れた。
受け身を取らず後頭部から床に激突しているが、だらしなく悦に浸った顔をしているので大丈夫、なんじゃないかな?
「凛子ちゃん……なんという変わり果てた姿に」
椿さんが現れ、地に伏した相方に瞑目する。
「まっ、それはそれとして三池氏。私もクッキーを所望する。三個プリーズ」
「三個……イヤしんぼですね。はい」
「サクサク……くっふ~、魅惑の経口摂取。もう昔の自分には戻れない。ほぼ逝きかけました」
「廊下で倒れられるとみなさんのご迷惑になるので、音無さんを引っ張ってお帰りください」
アヘアヘの椿さんと意識不明の音無さんを丁重にお見送りする。
そして、俺は誓うのだった。
この世界では料理を作るだけで貞操の危機を招く。自炊は極力避けよう、と。
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翌日。
おっさんは元気な姿で厨房に立って――は、いなかった。
再び部屋でダウンしている。
「すまない……欲望に負ける女で、本当にすまない……」
とは、加害者である妙子さんの言葉だ。
おっさんが回復し、嬉しそうに手作りクッキーを渡してきたことで、妙子さんの理性がプッツンしてしまったらしい。
最近、陽南子さんの件で夫婦性活がお預けだったことも事態悪化に拍車をかける。
後はお決まりの……お決まり以上の
あれだけ頑張って励ましたのに、前の状態より悪くなっているじゃないか。なんてこった!
「陽之介さんがダウンしてしまいましたけど、今日の男子料理教室はどうします? 他の参加者はそろそろ来ますよね?」
「うーん、その予定やったんだけどな」真矢さんが盛大なため息を吐いた。
「他の男性も嫁はんに襲われたらしく、みんな欠席なんやって」
「ええぇ……」
「いつもふさぎ込んでいる旦那が、嬉々として自分らにクッキーをプレゼントしたんや。そこに萌えない女はいなかったんやね」
やね、じゃねえ。どんだけこらえ性がないんだよ、この世界の女性は!
おっさんは妙子さん一人を相手にすれば良かったが、他の男性たちは複数人の奥さんと同時に戦わなければならない。
昨夜はお楽しみってレベルじゃねえぞ!
こうして、幸先悪く始まった『男子料理教室』。
その後もなんやかんやで毎週一回行われることになった。
毎度、参加する男性たちはニコやかに南無瀬邸へ赴き、料理を作り、戦場に旅立つ悲壮な顔で帰って行く。
その腕に、着欲剤となるお土産を抱えて。
お土産なんて渡さなければ妻たちに襲われないのに、と思う俺は浅はかなのだろう。
去り行く愛妻家たちを見ながら、この世界の夫婦関係は実に難しいものだと俺は唸るのであった。