豪雨のように鳴り響いていたタイピング音は二時間程度で治まった。
「で、できました。かんせいです」
大仕事を終え感無量なのだろう、寸田川先生は満足気な言葉を残してテーブルに突っ伏した。真矢さんが駆け寄って様子をみる。
「熟睡モードに入っとるみたいや。この部屋に車が突っ込んでも起きんとちゃうか」
「ふむっ! 完全燃焼した寸田川先生の力作! まず、不肖ながらこの炎情が読ませていただこう!」
寸田川先生を隣部屋に寝かしつけて、炎情社長がパソコンの前に座った。
「どれっ! どれっ!」
パソコンを覗き込む動作一つとっても暑苦しい炎情社長だったが――
「あんなに押し黙った炎情社長……俺、初めて見ますよ」
「いっつもバーニングしている人ですから、なんか不気味ですね」
「手だけが動いてカーソルボタンを押している。よほど集中している模様」
「親愛がテーマやったっけ? 寸田川センセにそない繊細な心があるのか疑問やけどな」
みんなが注目する中、炎情社長は黙々と読み続けて、三十分後。
社長はスッと立ち上がった。
「すまない、少し席を外させてもらう」
ボリュームを半減した声で、目頭を押さえる社長。マスクの上からでは表情は窺えないが、身体の震えから彼女が感極まっていると想像できた。
「社長さんったらもしかして泣いていました?」
「消えぬ炎の炎情氏が鎮火した?」
音無さんと椿さんが信じられないものを見たように目を大きく開く。
「はっ、社長はんもオーバーな人や。変態が板に付く寸田川センセの作品やで。泣くようなエエ話なわけないやん」
「でも、酔っ払った寸田川先生からは変態臭がしませんでしたよ。俺に流し目の一つも寄越しませんでしたし」
「人間、そう簡単に変わるわけない。まっ、次はうちが読んで鼻でワロうたるわ」
「私も読む。
「ならあたしも読みます! 男女の
真矢さん、椿さん、音無さんがパソコンの画面に顔を近付ける。不知火群島国語初級レベルの俺では彼女らの読書スピードについて行けない。
後で真矢さんに音読してもらって、日本語に翻訳してみるか……そう思いながら三人が読み終わるまで、俺は料理を頬張りながら待った。
――で。
「えぐえぐく。イイハナシダナー」
「やる、クオリティ高し」
「ちゃ、ちゃうねん。うち、ドライアイやさかい定期的かつ自動的に涙が出る体質やねん」
音無さんは漫画のように涙の洪水を作り出し、椿さんは涙のラインを静かに一筋描き、真矢さんは泣かんぞ泣かんぞと唇を噛みながらも堪えきれず涙腺崩壊している。
三者三様ながら感動しているのは共通らしい。
「いったいどんなストーリーなんですか?」
「掻い摘まんで説明する」
一番ダメージの少なかった椿さんが、どこらかともなく逆三角形メガネを装着してツヴァキペディアになる。
「タイトルは『親愛なるあなたへ』、寸田川氏が言ったように『親愛』が話の主軸にある。この場合の親愛は文字通り『親の愛』を指す」
「親の愛……まさか、父娘物なんじゃ?」
幼児退行した紅華が猛烈なハイハイで急接近する光景が脳裏をよぎる。ファザコンまっしぐらの話なんぞ
「否定。これは母子物、人工授精で産まれた男児とシングルマザーの物語。ありふれた、とまでは言わないがそこそこ耳にする家族構成」
ほう、母子物なのか。
この世界の男女比は1:30。男子がいる家庭は少ない。父親が同居していたり他に姉妹がいたりするシチュエーションを除いて、ようやくシングルマザーと男児の二人家族になる
「男性に縁のなかった母にとって息子は思いがけない幸運、目に入れても痛くない宝。そして、心から本当に愛した初めての男。それはもう愛情ふんだん山盛りパフェにして育てる。二人の家庭はいつも朗らかで幸せに満ちていた……息子が絶世の美男子に成長し求婚者が殺到するまでは。上流階級や大企業の社長など権力者たちが息子を狙う。息子の幸せのためには、誰と結婚させればいいのか……悩む母だが、本音は誰にも渡したくない。しかし、男性にとって結婚は義務。避けられない現実の前に壊れていく母と、その心情を読み取り支えようとする息子。果たして幸せだった二人の運命は?」
語り部たる椿さんの声は抑揚が少ないくせに、聞き手の感情を操るのに
「なんか重そうな話ですね」
「そうでもない。気難しいシーンはサラッと流したり、小気味の良い会話で重苦しい雰囲気を軽減している。何よりエンディングの爽やかさが全ての鬱を相殺する」
「今までもシングルマザーと息子のドラマはあったんや。ママ大好きな息子がひたすら甘えてきて、母子の禁忌をホップステップジャンプするドラマがな。せやけど、『親愛なるあなたへ』に出てくる息子は強制結婚せやならん自分の境遇を嘆いたり、母に反抗的な態度を取ったり、なんやリアリティがある。それでいて、時折見せる母への愛がたまらん。うちも、こない男の子が欲しいと思ってまうわ」
寸田川先生の脚本に
「何よりこの息子を三池さんが演じると思うと、それだけで三ヶ月はご飯だけで生きていけます!」
音無さんの言葉を意訳すると「三ヶ月はオカズに困らない」になる。肉食女性特攻の作品になるのは確かなようだ。
何はともあれ傑作が生まれた。
聞く限り『親愛なるあなたへ』は、母と息子のダブル主演となる。
これまでドラマや演劇でこなしてきたイロモノ役とはまるで違う至極真面目な役だ。勢いだけではどうにもならない演技力が問われるだろう。
いいぜ、燃えてくる。『親愛なるあなたへ』は俺にとって初主演作であり、世界文化大祭屈指の人気コンテスト・フロンティア祭に出展されるという。世界各地から新進気鋭の映像作品が一同に集まり、優劣を決めるイベントだ。世界中の目に触れる作品になるわけで、俄然気合が入る。
天道家のメンツがこの作品に介入しにくいことも実に良し。重要キャラである母親は四十代という設定で、紅華や咲奈さんはもちろん最年長の祈里さんにだって演じるのは難しい。
これでパンツァーやファザコンやブラコンに悩まされることなく、純粋に役柄に集中出来るわけだ。よかったよかった。
ちなみに制作は炎タメテレビ全面協力で行われることになっていた。
「タクマ君の熱量で世界中が熱くなる。その燃料になれるのなら、この炎情、協力を惜しまないッ!」
という社長の言葉に偽りなく、大作映画並の予算を用意されているらしい。
フロンティア祭の出展作は各国一作品との取り決めがあり、通常なら不知火群島国内で出展作を選ぶ予選を開かなければならない……が。
「予選も何も、拓馬はんが出演する作品が選ばれるに決まっとるやん」
「うむ、新しい価値観や映像技法を開拓するのがフロンティア祭の意義。世界初の男性アイドルの三池氏が出らずして出る者なし」
「じゃんじゃん開拓しちゃいましょ! たくさんの人を掘りましょうね、三池さん!」
という事で、『俺の出演作=出展作』は常識として関係者の中では浸透しているらしい。
やってやる、『親愛なるあなたへ』を見事演じて、国の代表として恥ずかしくない作品にしてみせる!
――そう思っていたのだが。
食事会から数日経って、俺は真矢さんから衝撃的な話を聞いた。
「えっ!? 『親愛なるあなたへ』がボツ!?」
「せや。今、炎情社長から電話があったわ。寸田川先生が脚本の使用を拒否しとるそうや。誰の説得も聞かんほど猛烈にな」
食事会の夜、最後まで寸田川先生が起きることはなかった。「この炎情が責任をもって介抱しようっ!」と言う社長に任せて俺たちは帰宅の途に就いたのだが、こんな事になるなんて。
「なぜですか? 読んだ人みんなが絶賛したっていうのに」
「社長はんはそこまで教えてくれへんかった。はぁ、惜しいなぁ、『親愛なるあなたへ』を世に出さんって人類の損失やん」
寸田川先生アンチだった真矢さんが鮮やかな手のひら返しを見せてくれる。それだけ素晴らしい作品なのだろう。
だから
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
炎情社長を始め、あの脚本を読んだ炎タメテレビの重役たちからの説得を振り切り、ボクはテレビ局を出た。
「あああぁ、イライラする」
荒げる声が夜の雑踏に混じる。
「フロンティア祭のグランプリも夢じゃありませんね」
「『親愛なるあなたへ』は歴史に残る名作になりますって!」
「男子持ちのシングルマザーに対する世間の厳しい目も変わります。社会的意義のある作品ですよ」
勝手に脳内再生される会議で上がった声。
うるさい、うるさい!
言われなくても分かっている。ボクがどれだけ多くの脚本を読み解き研究してきたと思っているんだ。あの脚本は秀逸だ。母子物の金字塔になるのは目に見えている。他人が書いた物ならば、まあまあやるじゃないかと賞賛しただろう。
だが、ボク自身の作品と言うのなら認めるわけにはいかない。
酔っ払っていたとは言え、あんなストーリーを書くとは失態だ。ボクの理念に反し過ぎて自己嫌悪に陥ってしまう。
炎情社長、恨みますよ。
以前も社長と飲みに行き、酔っ払ったままその場で脚本を仕上げたことがある。
人の心を震わせるお涙頂戴の駄作を書いてしまったのだ。酒が抜けて、自分の過ちに気付いたボクはすぐに破棄しようとした。でも、社長はいたく脚本を気に入り、社内会議に掛けてあれよあれよと予算を決めてしまった。あの頃のボクは業界内で力が弱く、脚本を取り止めに出来ず仕舞い……思い出すだけで頭が痛い黒歴史だ。
そして数日前。学習能力のないボクは再び同じ過ちで駄作を執筆してしまった。けど、今回ばかりは脚本を通すわけにはいかない。だってタクマ君の童貞が
『親愛なるあなたへ』にタクマ君が起用され、初主演作になったらどうする!
タクマ君は世界初の男性アイドルなんだぞ! 人類始まって以来の奇跡なんだぞ!
手垢の付いた感動作で彼の初めてを奪うなんて、そんな残酷なことがあるか!
タクマ君には革新がよく似合う。彼の初めては過去に類を見ないストーリーで、かつボク好みでなければならない。そう、毒のごとく刺激的で観客の心を
はぁはぁはぁ……毒毒しくてスパイシーなタクマ君。
あっやば、帰ったらオムツを替えなくちゃ。
中御門領の自宅前に辿り着いた。
「先生は一流の脚本家なんですから、世間の目を気にした生活をしてくださいね」と周りから言われて買った高級タワーマンションの一室。月の半分も帰らず、帰ったとしても寝室以外はほとんど使わない人間には過ぎた物だ。
マンション入口に備え付けられたパスワードキーを、いつもより指圧強めに押していると。
「久しいわね、寸田川さん……それとも寸田川先生と呼んだ方がよろしい?」
鋭利かつ冷え冷えとした声がボクの心臓を突き刺した。
「なぁっ!?」
振り返ると、ボクにとって『恐怖の恩人』が腰に片手を当てて立っている。長い手足と細い腰回り、鮮麗なブラウンヘアー、煌びやかな貴金属で飾られた首や指。お顔のパーツに経年劣化はまったくなく、在りし日のままだ。一般人離れした逸般人の美貌が、夜なのに眩しく映った。
これで四十代後半なのだから年齢詐称も
「お、お久しぶりです。先生呼びはいりません、昔のように呼び捨てで構わないです」
「今をときめく寸田川さんに無礼は出来ませんわ。あなたの名声、遠く海外にも届いているわよ」
その人がツカツカとハイヒールを鳴らし、歩み寄ってくる。後退したくてもボクの背中はマンションのドアに当たり、それ以上退くことが出来ない。
「そんなに怯えないで。あたくしとあなたの仲じゃない」
「……帰国するとは聞いていませんでした。ボクに何か御用ですか?」
「家庭の事情による帰国だから用はなかったわ、今日の昼間まではね。ただ、ちょっと面白いことを小耳に挟んだから顔を見に来たの」
魔性というのは男性特有の言葉だが、この人にも当てはまる。タチの悪い笑みから悪魔めいた色気が放たれ、ボクの口元は引きつった。