「ねえ、聞いた? 来週の『みんなのナッセー』に男性が出るらしいわよ」
同僚の一言がすべての始まりだった。
「えっ、男性が? まさか、嘘でしょ。それか男役の女優が出るってわけじゃないの?」
男なんぞここ半年で両手で足りるほどしか目にしていない。それも町中で遠目に発見したくらいだ。
それほど希少な男が、テレビに出て万人の前に姿を現すなど想像も出来なかった。
「確かに信じられない話だけど、今週の放送で大々的に予告していたらしいのよ。それに番組ホームページにも次の放送から男性登場って大きく出ているんだって」
本当なの……?
職場の休憩時間に『みんなのナッセー』のホームページにアクセスしてみた。トップ画面に黒いシルエットがデカデカと表示され、横に『男性演じる新キャラ登場』と書かれている。
中の人を想わせる言葉は幼児番組に不適切だ、それを破ってなお宣伝したい……番組スタッフの本気が窺えた。
その日のうちに『みんなのナッセー』の噂は職場中に広がった。会社のパソコンや自分の携帯を何度も見ながら、みんな真偽のほどを推測している。
「ともかく、録画しておこう」
誰かが言った。それは全員の気持ちを代弁する言葉だった。
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「ただいま」
「お帰り、お姉ちゃん」
帰宅すると、妹が玄関まで迎えに来てくれた。
「夕食出来てるよ、手を洗って待ってて」
「いつもありがとね」
ここは私のマンション。
妹は高校入学を機に実家を離れ、南無瀬市に住む私と同居している。
「居候だからこのくらいするよ」と家事全般をやってくれるから非常にありがたい。出来た妹を持って私は幸せだ。
「今日の職場、『みんなのナッセー』の話題で持ちきりだったのよ。仕事が手につかない人ばかりで大変だったわ」
人ごとみたいに言うが、私の手も『みんなのナッセー』の新キャラに関する情報収集に忙しく、仕事をしていなかった。
「お姉ちゃんの方も? 学校もだよ、クラスのみんな興奮して授業にならなかったんだ」
妹の学校の話題を聞くと、後ろめたい気持ちが湧いてくる。
元々、妹の学力なら学園島のお見合い指定校に行くのも可能だった。
私たちは母親は同じだが、違う男性の種で生まれた。妹は私と比べるまでもないほど優秀だ。
うちにもっとお金があれば、学園島に送り出せてやれたのに……その後悔を私はずっと抱いている。
「そうだ、『みんなのナッセー』の録画予約しておかなきゃ」
「それならもうしたよ。平日の昼間だからね、忘れずにやっちゃった」
さすが優秀な妹よ。ありがとう。
『みんなのナッセー』か……
最後に『みんなのナッセー』を観たのは何年前だったか。番組内容なんてほとんど記憶にない。
昨今は視聴率が悪いとか、マンネリとか良くない噂を耳にしていたが、ここに来て空前絶後の逆転の一打を放ってきたわけだ。
本当に男性が出るのかな~。
テレビに出るなんて貞操知らずの男性をよく見つけたもんだね~。
キャラを演じるって書いてあるけどどんなことをするんだろ~。
『みんなのナッセー』の放送日まで、私たち姉妹の間で同じような話題が何度も上がった。
日が経つにつれ、不安と期待はどんどん大きくなる。
録画予約が間違っていないか何度も確かめたり、『みんなのナッセー』の放送日は有給が取れないか上司に相談したら同じような届けがほぼ全社員から来たので放送時間は社内のテレビを使っていいから出社しろと言われたり……
そうして、その日は来た。
『みんなのナッセー』は午前十時から放送される。
通常なら忙しく働いている時間なのだが、今日は食堂にある大画面のテレビの前に全社員集合している。
取引先から電話があったらどうするのか、と懸念はあるがどうせ取引先もテレビを観ているから大丈夫だろう、と大きな心配にはなっていない。
ざわざわ、と十時直前まで騒がしかった食堂は――
『みんなのナッセー』のOPが流れ出し、ピタッと静かになった。
誰もがごくりと唾を呑み、視線を片時も外さず画面を凝視する。
けれど映るのは人形劇や紙芝居、期待の男性の姿はない。
「やっぱり誇大宣伝みたいなものじゃない。単純に性別が男性のキャラクターを出すだけとか」
「はぁ~、そうだよね。男性がテレビとかありえないよね」
「わたし、緊張してここ三日、まともに寝てないのに」
放送開始から十分が過ぎ、不満が食堂内に充満してきたところで……私たちは生涯最大の衝撃を受けることになった。
『うたってあそぼう』
画面中央にテロップが入り、子どもや熊や歌のお姉さんが映る。『みんなのナッセー』と言えばコレッなコーナーだ。
「みんな、こんにちは~。今日も楽しく歌って遊ぼうね~」
歌のお姉さんが、スタジオとテレビの向こうの子どもに明るく声を掛ける。
残念なことに我が社の社員の中にお姉さんの誘いに乗り気な者はいないようだ。白けた空気が蔓延している。
「そうそう、ここで大ニュース。みんなとあそびたいって新しいお友だちがきているんだ」
ガタッ!
イスに座っていた同僚たちが腰を浮かす。私も無意識にそうして、前のめりになっていた。
「お名前は『ぎょたく君』って言うんだ。元気な魚の男の子なんだよ」
OTOKO!!
食堂内に熱気が生まれる。興奮して椅子を倒す者が続出したがそんなのは些細なことだ。
「ぎょたく君はシャイな子だから、みんなで名前を呼んであげなきゃ出てこないの。お姉さんがせ~のって言ったら『ぎょたくく~ん』って呼ぼうね、いい? じゃいくよ。せ~の」
「「「「「「「「「「ぎょたああくくくううううううんんんんんっっっ!!!」」」」」」」」」
最早怒号であった。魂の叫びであった。一縷の望みを全賭けした
入社して早数年。ここまで社員たちの意志が一つになった瞬間を私は知らない。
「は~~い」
そして、彼はご光臨なされた。
紛れもない男性だ。
身体は魚をモチーフにしたキャラクターのようでふっくらと丸みのある着ぐるみで、扇のようなヒレが背中に付いている。手足の形はカエルそっくり。
ヘンテコな見た目だが、首から上は間違いなく男性だ。
性別男の作り物ではない、中性的な女優でもない、正真正銘の男。
しかも町中で見た男性とは比べるのも愚かしいほど整った顔立ちをしている。
秘蔵の本の中の二次元男性がそのまま世に飛び出したような、女の理想をすべて搭載した眉、目、鼻、口、全体の輪郭。
パーフェクトな仕事ぶりには脱帽するしかない。
そんな彼が。
「ぎょぎょ。ぼく、ぎょたく君。よろしくぎょぎょ」
と、カメラに向かって……いえ、私に向かって笑顔をくれた。
「ぎょぎょぇえぅ!!」
思わず変な声が出る。興奮のあまり吐血するかと思った。
ぎょたく君が子どもたちと踊っている。
男性が踊る姿を見るのは初めてだ、しかも子ども全員と平等に絡もうとアグレッシブに動き回っている。
ぎょたく君の動作一つ一つで私の胸が早鐘を打つ。
このままでは心臓が機能不全に陥って止まるかもしれない。
それも本望だ。
今まで枯渇していた男性成分がどんどん補充され、身体が喜びに震えている。これがネット上でまことしやかに囁かれる男性と接した時に得る幸福感というものか。
ああ、私……生を謳歌している。今までにないほど、確かに生きているんだ。
どんな事にも終わりが来る。
「じゃあみんな~。また、来週! ばいば~い!!」
歌のお姉さん、熊、子どもたち、そしてぎょたく君が手を振って番組が終了する。
食堂のテーブルに突っ伏す者、イスに座って真っ白になる者、床に倒れる者。
社員たちの反応は様々だが、全員が最期の力でぎょたく君に手を振り返していた。
しばらく食堂には静寂が訪れた。
誰も動こうとしない。
ぎょたく君からもらった物が大き過ぎたため、彼無き後の喪失感が半端ない。
私も床から起きあがる力が湧いてこない。
だが、私たちは社会人。働くことを宿命とする者たち。
「みなさん! しっかりしなさい!」
最初に再稼働したのは社長だった。さすがは社員の見本となるトップだ。
「さあ、仕事に戻りますよ」
「「「「「……え~」」」」」
「――と、言いたいところですが、今の状態ではみなさん仕事にならないでしょう。これから録画したものを見直しましょう。あと一回ぎょたく君を観たら仕事ですよ」
「「「「「YEAHHHHH!!」」」」」
社長の粋な計らいで上映会は延長となった。
ちなみに一回の予定だった再上映は、アンコールの声が鳴りやまず五回行われ、午前中はまったく仕事にならなかった。