思うに、自然とは人がいなくて初めて美しくなる。
それを実感したのは、一人で夜の踏切にいたときだった。
夜九時。英会話教室が終わって帰路に着こうとした私は、特殊な状況だったせいか、いつもと違う道に寄ろうと思って、進むべきとは逆の方向へと足を伸ばした。
少し、駅周辺の都会な町並みから外れた川沿いの道だった。昔から桜の名所として地域の人に親しまれているらしい川で、私自身も何度かその桜を見に足を運んだことがある。延々と続く桃色の絨毯に心を奪われたのは、今から二、三ヶ月前だったか。
今は梅雨の時期。梅雨といえば連日の雨、というのが通説であり自然の仕組みであるはずなのに、最近は雨どころか日の目を見る日の方が多い。中休みは短いから中休みなのだ。
そろそろ日中の温度が摂氏三十度になろうかという晴れ。それなのに、ここ一週間の夜は少しばかり冷えていた。
私が偶然逆へ向かおうと思ったのは、ひとえにその先が街灯の少ない「闇」だったからに違いない。
現代の生活は明るすぎる。何もかも照っていなければ気が済まないかのごとく。それに違和感の感じない辺り、やっぱり現代人なんだなと嘆息する。
私は、普段はその踏切を渡らない。何故ならその方向には行かないからだ。時間があまりないのに寄り道をするほど、私は暇ではない。
その踏切は、ちょうど件の川を横切るように線路が引かれている、その沿道にあった。夜になると、犯罪だか自殺だかを防止するための青い蛍光が踏切を妖しく照らす。
冒頭であのようなことを言葉にしたのは、何も病んでいたからではない。
ただ単に、その踏切に立つことで感じられる自然の「闇」、それが人間の営みの証である家の明るさによってどうやっても薄れてしまったからだ。
人の手が加えられた自然を綺麗と呼ぶのは、些かおこがましくも思われる。そう感じざるをえないくらいには、その「闇」は美しかった。人命が視界に邪魔してきているのに尚そのように思われるのだから、一切それがなくなったありのままの「闇」はどんなに美しくて、どんなに怖いか。考えるだけで身が震える。
____だからこそ、踏切の先にいた少女を見て
その少女は、普通なら外着にしないであろう類の、紫のドレスを着て立っていた。
私は、その神秘的で非人間的な違和に惹かれるように、無意識にそちらへ歩く。
と、その少女はまるでそれが運命だったかのように、その小さな口から見た目に似つかわしくない妖艶な美声を私にかける。
「こんなところを歩くには、少し時刻が早すぎるんじゃないかしら?」
「仕方ないことだと。自然とこうしようと思ったんだ。そのような動機で何かをすることほど大事なことはないと
考えている」
「ふぅん。それで?貴方は何をしていたの?もしかして自殺志願者?」
「まさか。ただここで感じられる自然の闇について自分の意見をつらつらと思考言語にしていただけだ」
「明治あたりからヒトという存在は夜にも無駄に照らすようになったわ。私は違ったけど」
「無駄だというその意見には全く以って同感だ。人間は昼には生きて良いが夜には死ぬべきだと思う」
「そういう貴方も立派なヒトじゃないの?」
「自分で自分を証明する手段がないように、自分で自分を人間だと証明できる手段はないだろう」
「そんな小難しいことを考えるのはヒトだけ。私はそんな些細なことに思考を割くことはしない」
「それも証明できない。一人間にわかるものは何もない」
「貴方、一体いくつ?随分と哲学的な思考をしてるわね」
「まだピッチピチの十七歳だ。しかも精神の至って正常な」
「貴方、面白いわね。最近のヒトにしては」
「面白い人間であろうとしたことは一度もないし、面白いと言われたこともないから返答に困るな。まあこんな奴の一言二言、取るに足らないが。そういう君は?予測するに、少なくとも二百年は生きている人外だな」
「まあ、こんな幼気なのに。貴方の目は節穴なの?」
「言っただろう、『予測するに』と。見た目は確かに幼女だ。言い切れはしないが、きっと誰もが君を見て『幼い女の子』だと言うだろう。だが君の言動はどう考えても幼女のそれじゃない」
「そういう貴方も、おおよそ若造とは思えない思考回路を持って。人のこと言えないんじゃない?」
「君は人間じゃないだろう?だから人のことは言えなくても君のことは言える」
「そういう返し、案外嫌いではないわ?して、どうして私がヒトならざるものだと?」
「君はこの闇にあまりにも馴染んでいる。今も感じる妖しさは人間では到底だせまい。それに君は美しい」
「あら、お褒めにあずかり光栄ですわ。ところで、貴方は何者?」
「・・・さあ。一応、親から名前を与えられてはいるが、それは他の人間と区別するためのものでしかないし、他から与えられた相対的な証明物でしかない。さっきも言ったが、自分が自分だと証明できる絶対的なものはないからな」
「つまり、自己同一性の消失を起こしていると?」
「それも不明。自分の思考が全部明確にわかれば、この世から自殺が消えるだろう」
「__それなら、いっそ
「そんなものが何かはわからないが、この世界に生きる限りはそれは厳しいだろう。自殺もするつもりはない」
その少女は、いつの間にか手に持っていた扇子で口元を隠した。
「いいえ、死なずともこの世界から消えることはできる」
このときばかりはさしもの私も驚いた。
「そんなことができるのか」
「ええ。ただし、この世界の貴方の友人、家族、知人、ひいてはありとあらゆる存在から貴方の存在が消されるわ。そして幻想となる」
「それは具体的には?」
「幻想_____この世から忘れ去られたものたちが集う、最後の楽園よ。そこに行くの」
「そこには、君が?」
「どうしてそんなことを?」
「逆にどうしてだと思う」
「質問に質問で返すのは悪趣味ですわよ」
「ちょっとした冗談だ・・・と、そうだな、まず、君との会話が楽しい。こんなやりとりは誰ともできなかったから。そして、君はこんなこじらせたやつを否定もしなかった。最後に、君は美しい」
「ふふ、私も貴方のことは面白いヒトだと思っているわ」
「ありがとう」
「さ、そうと決まれば早速貴方の新しい名を決めなくては。次は貴方が、『貴方のためだけの名前』を」
「なるほど、そんなものとは現世の名前だったのか。確かに、折角この世界からおさらばするのだから、今の名前なぞ捨てない方がおかしい」
「それで?決まった?」
はて。私の新しい名前は_______と、そうだ。
「決まった」
「貴方の決めた名前ですもの。さぞかし面白いのでしょうね?」
「そんなに期待されてもな、と」
「これでも私、存外楽しみですのよ?ささ、早く教えて」
「名前は、この体の、新しい名前は_______だ」
「理由を教えてもらっても?」
「単純だ。自分を色に例えてみたらこれになった。ところで、君の名前は?」
と、聞いたところで、少女の後ろに目が見えた。どこを見ているかもわからない、無数の眼が。
その少女は、まるで死人を迎える死神のごとき雰囲気を出していた。
「私、八雲
「紫・・・色の名前だ」
「そう。だから、貴方の名前が__になったのも、何かの縁ですわ」
「
「ほんと」
紫は、いつの間にか傘を開いていた。その様もまた妖しく美しく、見惚れてしまった。
「ようこそ、幻想郷へ。歓迎するわ、
これが、私と紫の邂逅だった。
主人公は痛くはありません。