そこは地獄だった。
凄惨で、血
あちこちに打ち捨てられ、がらくたのように散らばっているのは、かつて人であったもの。
生きて、動いていて、そうして無残に散らされた。薄汚い欲望や誰かの都合で、理不尽に鏖殺された果ての姿。
これまで自分が食い散らかしてきた、ちっぽけな命ひとつで贖えない罪の証拠だ。
土色の腕があった。蝋のように白い腿があった。生温い臓物を垂らす胴体が、首が、物言わぬ骸が足の踏み場もないほどに転がっている。
死臭に引き寄せられた蠅がわんわんと集い、行き交う中、澪は裸足で歩いている。水よりも重く、おぞましいものが土を濡らしてぬかるんでいた。
ぐちゃ、ぬち、と足を踏み出すたびに粘ついた音が聞こえ、指の間を醜悪な色の糸が引く。卵の中身のような脳漿が、鋭く尖った骨片が、緩んだ肉から引いた筋繊維が指に絡まり、足裏を傷つけ、形容し難い感触が心の膿んだ箇所を更に抉っていく。
けれど、もうなんの痛痒も感じない。そんな感覚は、とっくに擦り切れてしまった。
どうせ目を覚ました自分は何も覚えちゃいない。
決まって次の日は眠れなくなる。それだけだ。単なる確認作業の一環に過ぎない。
ぼたぼたと落ちてきた眼球が肩に落ちて、粘液を垂らしながら転がって、服を汚し、濁った視線が澪を責め立てる。忘れたことなどないのに、念を押すように。
決して軽くないものを、複雑怪奇で重いものをやすやすと奪ってきた。流せる血の絶対量すら足りないくせに。
ならば──背負えと。
大事な何かが、やすりのように刮ぎ落とされていく。釣り合わない天秤を落としてしまった自分が、請け負わなければいけないことだと、納得して、歩くしかない。前を向いて、ひたすらに。
ちゃんと、理解している。
たとえ心が干涸らびても、砕けることすら許されない。そんな卑怯で下らぬ、最も愚かな道を選ぶことはできない。
身の
生きて、生きて、生き延びて──そして、その時がきたら。
消化も叶わず、忘れたいけど、絶対に捨てちゃいけないものの集積所で、狂うこともできない少女が、曖昧に微笑んだ。
「また今度、ね」
×××××
暗闇の中で目覚めた。
荒く呼吸をつきながら、ミオは跳ね踊る心臓の動きを実感する。
額に浮いている脂汗をぬぐい、寝汗で服が張りついていた。
「うわ……」
じっとりとした不快感に眉をしかめ、ひらひらレースを引っ張ってため息をひとつ。
背骨に冷水でも伝っているような悪寒と、頭のはしにこびりついているような恐怖の残滓。たまにあるのだ、こういう日が。
夢の内容はさっぱり思い出せないが、寝起きはいつも同じだ。だから分かる。
「今日は寝れないなぁ」
月に一度程度の割合で決まって、眠れない日がやってくる。こうなると睡眠そのものを身体が拒否しているように、眠気の欠片もやってこない。そうしてまんじりともせずに夜を明かし、明日を迎えなくてはいけない。合図はこの寝起きの悪さだ。
昔は、どうしても眠りたくてホットミルクを飲んだり身体を酷使したり、と努力をしてみたものだが結局眠れなかったから途中で諦めた。それに、ほぼ習慣のようなものなので慣れている。ただ面倒なので朝っぱらだというのに夜のことを考えて憂鬱になってしまう。
広いうえに天蓋までついたクイーンサイズのベッドからもそもそと降りて、ぺたぺたと裸足で窓に寄ってカーテンを引っぱった。目が眩みそうな光が差し込んでくる。
そのまま窓を開けるとざぁ、と瑞々しく清澄な空気が室内に吹き込んで、肺の奥まで洗われるようだ。
鳴き交わす小鳥の囀りも聞こえてきて、段々気分が浮上してくる。
「よし、ラジオ体操でもしよう」
拠点なのだから部屋は必要だろう、と用意されていたミオの部屋はやたらと豪華で身の置き所にじゃっかん困る。
あるものは利用しよう、の精神で箪笥に入っていたひらっひらのドロワーズは着心地そのものはいいけれど落ち着かない。夢見が悪かった気がするのは、この寝間着のせいではなかろうか。
ドフラミンゴの心尽くしにひでぇ冤罪を着せつつ、ベッドの傍らに立てかけてあった自分の主力武器を指先で撫でる。
「おはよう、『庚申丸』」
この世界ではたまに見る日本刀そのものの作りで、銘は『庚申丸』。
ひょんなことから手に入れたのだが、歌舞伎の『三人吉三郭初買』に登場する因縁の刀の名前と同じなのが面白くて斬れ味も抜群、とても気に入っている。あちらは短刀だが、こちらは刀身が生前の愛刀と同じ長さなのも好んでいる要因である。
自前のジャージに手早く着替えて、柔軟や腹筋、腕立て伏せ等の日課を済ませてからタオルを引っかけつつ廊下に出て、途中のランドリールームでさっきのドロワーズを籠に放り込んだ。
そのまま外に出て、アジト周りを軽くジョギング。どこか適当に広いところで体操をしようかなと考えていたら、向こうからスーツ姿の男の姿が見えた。
「おはようございます、ミスタ・セニョール」
「ああ、おはよう」
挨拶ついでに紫煙を吐き出すダンディな彼はセニョール・ピンク。ドンキホーテ海賊団の幹部のひとりだ。
以前、若の血縁なのだから敬語はと苦言を呈されたのだが、どう見ても年上にそれは無理ですすいませんと謝り倒してしぶしぶ了承させた。
「トレーニング中に悪いが、若を起こしてきてくれないか?」
「まだ寝てるの珍しいですね。わかりました」
あんなんでもマフィ……海賊団のボスなのでドフラミンゴの朝は早い。
なんでも昨日の夜にどこぞの客人を接待して、疲れているだろうから今まで起こしていないとのこと。快く了承して、戻る道すがらにばったりコラソンに会った。
「あ、おはよう」
『おはよう』
「これからドフィ起こしに行くんだけど一緒に行く?」
コラソンは少し考える素振りを見せて、ややあってから頷いた。ついでに厨房に寄ってからドフラミンゴの部屋に急ぐ。
ノックしても反応がないのでドアを開けた。
「ドフィー、朝だよーうわ酒くさっ!」
どうやら昨日の客とやらは結構な酒飲みだったらしく、室内には酒精の匂いが残っていた。
「うーん……二日酔いだったら、これ使うのまずいかな」
厨房で借り受けた、すりこぎと中華鍋を見せつつひそひそ言うとコラソンがポケットからメモを取り出した。
『やれ』
「えっ」
『GO!』
「まさかの二枚目!?」
ここまで推奨されたならばやるしかなかろう。
最後のチャンスとして窓を思い切り開けたのだが、こんもり膨らんだ布団は身じろぎひとつしない。
「ドフィ……残念だ」
しんみりつぶやくと、ロシナンテがミオの耳をそっとふさいでくれる。ワクワクしている空気が伝わってくるのは気のせいだろうか。
いや正直ミオもわくわくしている。ドフィの反応、とっても楽しみです。
「では、」
すりこぎを思い切り振りかぶり、中華鍋の裏側目掛けて叩き付ける!
力一杯やったのでカーン、どころかゴォンッ!と鼓膜が爆撃されるような凄まじい音がした。手が振動でびりびりする。
「うぉ!?」
間髪入れずにドフラミンゴが布団を跳ね上げた。
敵襲かと思ったのか即座に周囲を警戒……しようとして、すりこぎと中華鍋を持ったミオと、その耳をふさいでいるコラソンを発見して動きが止まる。
「……」
さっさとサングラスをかけて、なんだか地鳴りでもしそうな笑顔を浮かべるドフラミンゴは控えめに言っても超怖かった。
「ミオ、とコラソン。朝っぱらからやってくれるじゃねェか……フッ、フッフッフ」
「ひえっ、ごめん! ごめんー! でもおはよう!」
『大成功』
「コラソン出すメモ間違ってない!? 謝った方がいいって! すっげぇ機嫌悪いもん!」
「機嫌悪くした張本人がよく言うぜ……とりあえず、ふたりとも」
くい、とドフラミンゴが親指をひっくり返す。
「正座しろ」
それから昨日の接待の重要性と二日酔いの辛さを延々と説教され、ついでにミオは梅干しをくらった。こめかみをぐりぐりされるアレである。とても痛い。
コラソンがやられないのはずるいので、焚きつけたことをチクッて同じ目にあってもらった。
「うう、まだ頭いたい~、ドフィひどい」
「フッフ、寝てる人間の耳元で中華鍋鳴らすのはひどくねェのか」
キンキンする頭を押さえながらぶーたれると、没収した中華鍋をぶらぶらさせながらちくちく言われる。案外根に持たれていた。
「それはそれとして、ミオ。随分とダセェ格好してるな」
「その辺走ってる時にミスタ・セニョールにドフィ起こしてくれって言われたから、そのままこっちに。コラソンには途中で会った」
ミオの格好はカエルというか青汁みたいな色をしたジャージである。ついでに首にタオルをかけているので、ダサいと言われれば反論の余地はない。
「おれの用意したコートは着ねェのか?」
「え゛」
ぎくんとミオの肩がこわばる。
用意したコートとは、ついこの間贈られたコートのことだろう。最高級品だと胸を張って差し出された……真っ白のもっふもふしたやつ。
「あれ、汚れ目立つし動きにくいんだよねー……」
思わず遠い目をしてしまう。
コラソンのコートが黒だったのは焦げが目立たないからだと知った時の切なさったらない。自分の年齢的にはともかく三姉弟でお揃いって、どうなの?
なにより、一回試着して鏡を見て真っ先に、売れないロックシンガーじゃねぇかと自分にツッコミを入れてしまった。着られりゃいい、の精神でも限度がある。
あれを着て三人で町を歩くとか、考えただけでつらい。そうだ今すぐモビー・ディック号に帰ろうと現実逃避してしまう。
「ごめんね、メンタルひょろひょろな姉で……」
「ザイルみたいなメンタルしてるくせに、何を言い出してやがる」
その件に関しましては前向きに考えて検討させて頂きますのでいずれ、おいおい、日を改めて云々と全力で誤魔化していたところグラディウスが朝食のご用意が、と部屋に訪れたことで終了した。
「グラディウスさんありがとう」
「は?」
意味が分からないという顔をされた。そりゃそうだ。
しかしドフラミンゴの顔がまったく諦めていないので、いろいろ気を付けようとミオは決意する。
後日、三人お揃いを見たくねェかフッフッフとコラソンまでそそのかしたドフラミンゴに猛攻を喰らうのだが、知らぬが仏というものだ。
テンポ悪いので前半のあちこちカットしました