ミオが合流してから三人の旅路はぐっと楽になった。
船の設備もさることながら、一人旅のために白ひげの航海士から厳しい薫陶を受けたミオがいれば海の変化を敏感に察して相談することができるからだ。
夕方、島での買い出しも済ませたから先に進もうと言うコラソンに、ミオは見張り台から南の空を見て、渡り鳥の飛ぶ高さを確認してから甲板に降りて、苦い顔をしてから首を振った。
「出発するなら明日の朝にしよう。たぶん、小さいけど嵐が来る」
越えられないことはないだろうけど、リスクを背負うよりも一晩やり過ごして安全に行く方がいいと思うと言って、全員で船室に戻った。
コラソンが料理を作るとキッチンが殺人現場みたいになるので、ミオとローで夕飯を作って食べているとにわかに風の音が騒がしくなる。扉に叩き付けてくる音を聞きながら明日にして正解だったなと頷きあった。
それから、リビングとして使用している部屋に据えられたソファで、ローは軍曹を背もたれにしながら例の資料を食い入るように読み込んでいた。
ミオが持ち込んでからこっち、ローは空いた時間をひたすらに資料を頭に叩き込む作業に注ぎ込んでいた。
紙束にはいくつもの付箋が貼られ、気になる部分には線を引いて、種別分けされた束がそここに積まれている。さながら受験生か、それこそ医学研究生のようだ。
「やっぱり難しい?」
「走り書きの解読はちょっと面倒だ。けど、読めないわけじゃない」
ローの両親は本当に優秀な医学者だったので、幼い頃からそれらの技術と知識に触れてきたローにとって、医学論文の解読は馴染み深いものでもあった。
ミオはそんなローの向かいで床に敷いたクッションに座り込んで、裁縫道具を持ち出してコラソンの服になにやら縫い付けている。
「その服、ほつれてるところなんてあったか?」
「ほつれてないけど、ちょっと予防策というか最近物騒なので色々と。ほら、コラソンって肝心な時にドジ踏むから」
「ふーん?」
喋りながら、淀みなく動く針と糸。刺繍のようにも見えたのだが、少し違うらしい。
冬島が近いので火を入れたストーブの上には、薬缶が据えられて羽毛のような湯気をしゅんしゅんと吐き出している。
ちなみにコラソンはソファの下で、こちらはクッションを枕にして爆睡している。彼も子供を守りながらの旅で相当に疲労していたのだろう。ローのことを任せられる人間が傍にいるというのは、大きい。
ぐっすり休むというのと睡眠を取るというのは意味が違う。何かを警戒せずに眠れるという贅沢を思うさま享受しているようだった。
「一段落したら教えて。お茶にしよう」
「ほうじ茶な」
「うん、了解。そのときはコラソンも起こさないと。さびしがるから」
「……ん」
しばらくは、時折聞こえる物凄いいびき以外は静かなものだった。ほっこりと暖かい船室。ぱちりぱちりと薪が爆ぜる音。
興が乗ったのか口が暇なのか、小さな鼻歌。
本当にささやかな声でうるさくはなかったから、ローは指摘しなかった。きっと指摘したらやめてしまう。それはなんとなく、もったいなかった。
人の気配はあるけれど、それが互いの邪魔をすることはない。誰も自分を傷つけない。穏やかに流れる時間は心地がよかった。
ミオが追加で参加するまでの間の二人旅で、ローの心には変化が起きつつあった。
コラソンは誰より真剣に治療法を求め、ローへ向けられる悪意に誰より強く憤慨した。諦観と破壊衝動の塊だった心に、そんな行動のひとつひとつが波紋を起こしている。
すでに何もかもに倦み疲れ、諦めきっている子供を叱咤して無理やりにでも引っ張り回して行動し続けるのは何故だろうか。普通の大人ならばとっくに諦めているのに、コラソンにはそんな気配がちっともない。
その理由を知りたいと、少し思う。
×××××
合流してからもコラソンはローを連れていくつか病院行脚をした。
その病院はいずれも有名であったし、まだ希望を捨て切れていないせいでもあった。
それでも対応はこれまでとほぼ変わらなくて、やれホワイトモンスターだあっちにいけと罵る声に素早くローの耳を塞いだミオは「そりゃ、火つけるわ」と顔をしかめていた。
「何をやってんだおれは……、」
藍色に染まる空にひとつの月。
明るく滲む月光の下でコラソンは物憂げにつぶやいた。
服が汚れるのも構わずワインをラッパ飲みして、これまで後生大事に持っていた病院までの海図や資料をまとめて海にばらまいた。
背後で聞こえるローの細い寝息。船までは距離があるからと今日は野宿だ。
「悲劇の町に生まれたガキに、散々悲劇を思い出させて……結果、少しもよくなりゃしねェ……!!」
自分の無力を痛感させられる。どうにもならないことは世界にいくらでも転がっていることは知っていても、どうにかしてやりたかった。
だから足掻いて、もがいて、けれど結果はついてきてくれない。
「"D"のためか?いや、それはもうどうでもいい……」
自問して首を振る。そんなことはどうでもいいのだ、本当に。
「おれはずっと、同情してた……。傷つけるだけのこんなバカに、言われたくねぇだろうが」
寝こけるローに近付いて、寝相ではだけてしまった毛布をかけ直してやる。白い痣はずいぶん増えてしまった。それが痛々しくて、ひどく悲しい。
なにひとつしてやれないことが、情けなくてたまらなかった。身体は大きくなったのに、心はいつまでもガキのまま成長できていない気がした。
「まだ幼いクソガキがよ、「おれはもう死ぬ」なんて、かわいそうで……」
あどけない寝顔に浮き上がる白。
ぬぐっても消えない絵の具のようなそれが、コラソンにも突き刺さってぎりぎりと締め付けてくる。
「あん時おまえ、おれを刺したけど──」
それは世界でいちばん優しい懺悔で、慟哭だった。
「痛くもなかった」
あの熱さと痛みはそのままローの叫びだと思った。
助けて、と言われた気がしたのだ。
「痛ェのは、おまえの方だったよな……ッ」
けれどコラソンにはそれすらできない。悔しくて、苦しくて、たまらない。
声がふるえて、涙が止まらなかった。
「かわいそうによお……っ、ロー……!」
同情なんてされたくないだろう。わかっている。だけど無理だ。
これ以上泣くとローが起きてしまう。
視界がぐにゃぐにゃ歪む中で距離を取ろうとしたら、小石を踏んで思い切り転んだ。脳天を打って悶絶していたら、ふと影が差す。
「あ、また転んでる」
薪をもったミオが自分の顔を覗き込んだ。涙について言及しなかったが、その顔は笑みのかたちだったけれど痛々しく、きっとコラソンと同じ気持ちなのだと分かった。
転んで仰向けになっているコラソンを起こさずに、ミオは薪を置いて上を見上げた。滲むような月と、星屑の腕。
「……僕はね、ローに僕の寿命をあげられたらいいのにって、ずっと思ってた」
小さな背でせいいっぱい、踵を持ち上げてうんと背伸びをして両手を伸ばす。
「だってほんとはあの時死んでた。でも死に損なった。生きて欲しいって願ってくれたひとはとっくにいなくなってて、でも、大きくなったコラソンたちにもこうして会えた」
伸ばした指先はなにも掠めずむなしく揺れて、訥々と零れる言葉が、雨のようにコラソンの心を打つ。
「一緒にはいられなかったけど、二人は立派に自分の道を見つけてて、すごく安心したんだ。それでローに会って、申し訳なくてしょうがなかった」
その気持ちは、コラソンにも少しわかる。
己の命の終わりを知っている子供の前に立ったとき、未来がそこにあると変わらず思える自分にひどくもどかしい思いを抱くときがあった。
ミオはコラソンには視線を向けずに、ただ空を見上げ、誓いのように宣誓する。
「だから、この拾った命をまるっとローのために使いたい。僕はじゅうぶん生きたよ。寿命も、未来も、ぜんぶあげて、幸せになってほしい」
心臓のあたりに手を乗せて語る言の葉はひたむきで、まっすぐだった。
こわいくらいに。
「けど、姉様」
その時、ロシナンテは本当に自分が幼い頃に戻ったような気持ちで素直につぶやいた。
「そんなことしたら、ローもおれも泣くよ」
「うん、でもローがいなくなったらコラソンも僕も泣いちゃうよ。さびしくて」
ままならないなぁ、とこぼす声は弱々しくかすれていて、ああ哭いているのだと思う。
泣くことがひどく下手くそな姉の代わりに、月のこぼした涙のような星屑がこえなき声で嗚咽していた。
×××××
大人たちの悔悟の言葉を、ローはすべて聞いていた。
コラソンの理由は同情で、行動は親愛で、結論は慈愛だった。
砕けて散ったはずの心がかたちを作っていく。
コラソンの涙で芽吹いた感情が猛烈な勢いで育っていくのがわかった。ツギハギだらけの心が暖かいものでくるまれて、大切なもので満ちていく。
ぽろぽろと、堰を切ったように、双眸から涙が零れてくる。頬を伝って毛布を濡らし、それでも止まる気配がない。
たったひとりの、なにも持っていない少年のために恥も外聞もなく走り回るひとたちがいる。ローのために怒って悲しんで無力さに悔しいと、泣いてくれている。
そんなひたむきな思いをすべて無視して、どうしようもないことだからと諦め続けるのは、なにか、とてもひどいことをしているように思えた。
「──、ぐす……!」
こっそり洟を啜ると、頬があたたかいものに包まれた。おなかの辺りに細い腕が回ってミオだとわかる。
触れる温度はいつもより高い。どうしてかはもう知っている。ローは寝惚けたふりをして胸の辺りに顔を埋めた。服に涙が染みていくのがちょっぴり申し訳なかったけど石鹸と埃とひなたの匂いがして、いっぱいに吸い込んだら冷え冷えとした淋しさがどこかに消えて行くようだった。
そんな二人を守るようにコラソンが寄り添って、大きく腕を伸ばして抱きすくめた。
息苦しささえ感じるくらいの窮屈さだけど、いやな感じはこれっぽっちもしない。煙草の匂いが混じってお互いの体温が毛布の中で曖昧になっていく。まるでひとつの生き物になったみたいで、安らぎに全身が包まれていく。
「おやすみ、ロー」
夢寐にとろけるほどささやかな声で、聞き逃さなかったのが不思議なほどだった。
ローはもう、とっくにひとりぼっちじゃなかった。
目眩のような息苦しさを感じて毛布の上からこっそりと胸のあたりを掴む。もうあまり時間は残っていない。知っている。だけど、その残された時間すべてを二人のために使いたいと思った。
それは、目に付くもの全てを壊すよりも──ずっとずっと大事なことだった。
翌朝、しょぼつく目をこすりながら身体を起こすとミオが先に起きていて、屈伸運動をしながら朝食の準備をするからコラソンを頼むねと言い置いて、どこかへ行ってしまった。
たぶん魚でも捕りに行ったのだと思う。
アジト以外で会ったことがなかったから知らなかったが、彼女は大した野生児なのだ。
爆睡しているコラソンの頬をひっぱったりしてみたが、ちっとも起きる気配がない。その間に思いついて、口の中でずっと言おうと思っていた言葉を転がして練習する。
「こらさん、コラさん……うん、よし」
ぷるるる……
ローは、コラソンの荷物の中から音がしていることに気が付いた。