桃鳥姉の生存戦略   作:柚木ニコ

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じゅーなな.トゥーランドットはねむりたい

 

 

 

「申し開きはあるか?」

「むしゃくしゃしてやった。反省も後悔もしてません」

 

 バレルズ海賊団の船長どころか船員まで区別なく死屍累々の中、きっぱりと言い放って胸を張ったらドフラミンゴの額に青筋が浮いた。

 

 けれどこちらだって怒っているのだ。おこではないのである。もう、激おこスティックファイナリアリティプンプンドリーム飛び越えて憤怒バーニングファッキンストリームぐらいにはむかむかしている。

 

「こちとら賞金稼ぎです。ジョブの一環として海賊を一件潰しました。問題ないでしょ」

「おれたちの『仕事』を知っていてしゃあしゃあとよく言うぜ……なら、海賊の流儀としててめぇを潰そうか」

 

 ぎしりとドフラミンゴの指先が奇妙な音を立てて軋んだ。

 

 彼の言い分もわかるっちゃ、まぁわかる。

 

 しかし、第三者から見れば海軍と海賊の取引を、更にべつの海賊が横槍入れようとしていたというだけの話。

 こっちはそれを更に利用して先んじて海賊団を襲って、奪った。ドングリの背比べではなかろうか。

 

「奪われる方が悪いってのは、海賊の専売特許だと思ってたよ。ああ、それともこう言おうか?」

 

 ここにドフラミンゴがいるなら都合がいい。

 今頃、コラソンはオペオペの実を持ち去ってローに食べさせているだろう。それさえ達成できれば、あとは尻に帆掛けて逃げるだけ。

 ミオはくちびるを歪めてあっかんべえ、と舌を出して下品に中指をおっ立てた。

 

「ざまみろばーか。すっげぇいい気味!」

 

 ドフラミンゴの笑みがなにか一線を越えて、固まったように見えた。苛立ちが殺気へと変換され、爆発する。

 

 ひたすらに濃密で信じがたいほどの威圧感は、それ自体がすでに攻撃のようだ。

 室内がびりびりと鳴動して、倒れ伏した海賊たちが一斉に呻き声をあげる。それは力の掟において、自らの上位存在を本能的に認めてしまった小動物の命乞いだ。

 

「ットレーボル! ここを任せる! 手足の一本くらいなら許してやる、こいつを捕まえておれの前に連れて来い!」

 

 悪魔の実がないなら用はないとばかりに踵を返し、ドフラミンゴの命令に従いトレーボルが進み出る。

 

「んねー、ドフィの姉ちゃんなのになーんでドフィの邪魔ばっかすんのー? んねー、んねー」

「大人のドフィより、子供の命の方が大事でしょ。どー考えても」

 

 見上げるほどの巨体に小柄なミオ。

 文字通りの大人と子供くらいの体格差があった。垂らす粘液じみた鼻ちょうちんがぷくうと膨らむ。

 身体中をいつも粘性の強い物体で覆っている──超人系・ベタベタの実の能力者。捕獲するには確かに最適の人選だろう。

 

「賞金稼ぎとして腕は立つみたいだけど、おれに勝てると思ってんのー? んねー、んねー?」

 

 己の能力そっくりのねばついて挑発的な態度はいつものことだが、どこか演技が混じっているように見えた。

 幼いドフラミンゴの、傑出した才能を見出したのは彼だという。有り体に言えば、トレーボルはドフラミンゴの『保護者』だったのだ。

 

 それは逆を言えば、あんなクソガキのまま育て上げたのもまた、トレーボルということで。

 

「さぁ、やってみれば分かるのでは?」

 

 ミオの八つ当たりの相手として、これ以上なかった。

 身体中に戦意が循環し、静かな高揚感が爪の先まで行き渡る。感覚がみるみる明瞭になり、それでも心は湖面の如き静謐さを。戦闘時における心得が水のように浸透していく。

 ごちゃごちゃ言わずにかかってこい、とばかりに手招きするとトレーボルのべったりとした態度にも、じゃっかん怒気が混じったようだった。

 

「"ベタベタチェーン"ッ!」

 

 衣服のように纏っていたゲル状の液体が毒蛇のようにうねり、捕らえようと迫ってくる。

 

 ミオはその軌道を見極め、足に力を込めて跳躍。

 壁を蹴って更に上へと駆け上がり、間髪入れずに引き抜いた庚申丸の刀身を壁面に突き込んだ。柄を握りしめたまま、ぶらりと身体を揺らしてトレーボルを観察する。

 

 ぐずぐずにとろけた蝋燭のような液体が床にわだかまっていく。

 おそらく、あれに捕まれば身動きが取れなくなる。とりもちをくっつけているようなものだ。

 

「べっへへへ、ちょこまかしてると逃げ場がなくなるけど、いーの? いーのかなー?」

「……」

 

 ミオはぶら下がったまま無言で片手で胸元から最後の手榴弾を取り出すと、安全ピンを歯でぴーん、と引っこ抜いた。

 

「べへぇッ!?」

「えいや」

 

 ていっと無造作に放り投げると、物凄い勢いで慌てたトレーボルが鼻水でそれをキャッチ。ドフラミンゴたちとは逆方向に思い切り投擲した。

 数秒ののち、地面を揺るがすような爆発音が響き渡り「何があったんだイーン!?」とか悲鳴みたいなのが聞こえた。

 

「いっ、いきなり爆弾投げるとかありえなくねー!?」

「あ、やっぱり燃えるんだ」

「冷静すぎて鼻出るわー! やっぱドフィの姉ちゃんだわー!」

 

 言葉の通り鼻水をべろべろに流しながら驚いている。あれだけ慌てるということは、あの粘液は可燃性らしい。

 

 ついでにあのベタベタ、とても防御力が高い。

 

 相当の膂力でなければ、攻撃はすべて絡め取られて封殺される可能性がある。そうなると、能力を使って対抗しない限り負ける。

 

「物理攻撃はおれには通じねーよ? どーする? んねー、どうする?」

「どーするって」

「あんた能力者じゃないんだろー? 勝ち目なくね? もうドフィにすなおに謝れよー」

 

 ここまで煽りに煽られて、反応できないほどミオは聖人君子でもなんでもない。むしろ沸点がひとより高い分、一度キレると厄介だ。

 

 ミオにとってトレーボルは『身内』ではない。

 ドフラミンゴの仲間であっても、そこには明確な区別があり、つまりは手加減無用。

 

「うるさい」

 

 どん、と壁が揺れた。

 

 壁を蹴たぐり、刀を無理やり引き抜きながらくるりと身体をひねって、まだ無事だったテーブルに着地する。

 

「"ベトランチャー"ッ!」

 

 そこを狙ってすかさずトレーボルが己の粘液を弾状にして一斉に発射した。

 

 粘液の弾丸は人間を死に至らしめるほどの威力はないが、それなりに衝撃はある。当たれば打撲を引き起こす程度には痛いし、おまけに粘液で動けなくなるはずだ。

 そんな驟雨の如き粘液の弾丸を前にミオは腰に刀を納め、ただふらりと両手を上げた。

 

 降参のように、見えた。

 

 けれどトレーボルは気付いた。

 

 降り注ぐ粘液の弾丸が、ミオに触れる寸前にぴたりと停止していることに。動きを阻害されることもなく悠然と立ち、そこには余裕すら垣間見えた。

 

「……『能力者だってことは、そうほいほい吹聴して歩くもんじゃないよい』」

 

 どころか中空で不自然に硬直して──否、固着、されている?

 

「『いざって時のとっておき、くらいに扱っとけ。その方が、相手さんも油断するってもんだよい』……以上、僕の大好きな『兄さん』の助言です」

 

 ぽつり、ぽつり、と温度のない声をもらしながらミオはてくてくてくと歩いた。

 

 ベタベタしたゲル状の粘液の──上を。

 

「能力には、相性がありますよね」

 

 よくよく見れば、粘液には冷え切ったもの特有の奇妙なツヤがあり、かっちりと凍り付いているようだった。その上を踏みしだくように進んでくる。迷いなく、力強い足取りで。

 トレーボルの背中に、ベタベタ以外の汗が伝う。

 

「んねー!? あんた、まさか──!」

 

 鼻水がまき散らされる寸前、踏み出した初速のままつるり、と氷上を滑るような不自然な動きでミオはトレーボルに肉薄すると、

 

「僕とトレーボルさんの能力は──とっても、相性がいいみたい♪」

 

 粘液から出ている生身の指先につん、と触れた。

 瞬間、びきりとトレーボルの表情から足先、のみならず全ての粘液が『固定』された。身じろぎひとつできず、まるでトレーボルだけが静止画にでもなってしまったようだ。

 

 騒音もない。危険も、もはやない。ひたすらの静寂。

 

 水を打ったように静かな室内で、白い息をふぅっと吐いた。

 

「"カウント・5"。五分経ったら、自由になれますよ」

 

 巷で名を上げている賞金稼ぎ、通称『音無し』の本領発揮であった。

 

「トレーボルさん、ドフィを甘やかしすぎです。途中退場した僕が言っても仕方がないけど、……まぁ、言っても聞こえないか」

 

 なんだかとても虚しい気持ちになって、ついぼやいてしまう。けれどここでぐずぐずしているヒマはないのだ。

 

 ローが待っている。

 

 この骨さえしびれてしまいそうな極寒の中で、苦しい身体で懸命にミオとコラソンを待っている。

 その気持ちで胸の奥が明るくなって、ドフラミンゴのいない方角の窓でも開けて出ようかと見回した、その時。

 

 銃声が轟いた。

 

 腹の底に響くそれは、一発ではなお飽き足らぬとばかりに二発、三発と続く。

 

「ッ!」

 

 うなじがぞわりと粟立ち、猛烈に嫌な予感がした。何も考えず銃声のした方へ身体が勝手に動いていた。

 外の世界はミオとトレーボルが争っている間、もしかしたらそれよりも前から、様相を様変わりさせていた。

 

 アジトを中心とした同心円状にあれは、なんだろう。

 鳥かごのような細い、糸のような格子が無数に走っている。

 

 目の前には硝煙をくすぶらせる銃把を握ったドフラミンゴ。その周りを守るように、トレーボルを除く幹部たちが勢揃いしていた。

 

 そして、うずたかく積まれたバレルズ海賊団の財宝と思しき宝箱のひとつに、もたれるようにして力なく横たわる──コラソンの姿。

 

 

 

 そこでは──すべてが終わっていた。

 

 

 

「これはさすが、というべきか? フッフ、トレーボルのやつは何をしてる」

 

 バレルズ海賊団のアジトから飛び出してきたミオを見咎めて、ドフラミンゴは少しばかりの驚きをみせた。彼の能力は捕獲に関して超一級だ。

 けれどその服にはベタベタの残滓ひとつ見当たらない。賞金稼ぎの名は伊達ではないということか。

 

 多少の感心と苛立ちをこめて見据えても、ミオはこちらに一瞥もくれない。

 状況から何が起こったのかを理解したのか、顔色を蒼白にして、幽鬼の如く頼りない足取りでコラソンの元に歩み寄る。

 

「コラソン……ロシー」

 

 雪の上に膝から崩れ落ち、震える指先を伸ばして抱き寄せて、頬に触れる。まだぬくもりは残っているだろう。流れ続ける血が白い肌と服を汚した。

 

「なぁ、ミオ。お前はロシナンテが海兵だと、知ってたな?」

「だったら、なに?」

 

 心底からどうでもよさそうな返事に、苛立ちが募る。

 

「不倶戴天の敵を腹の内に飼ってる海賊団は、さぞ面白かっただろうなァ」

 

 低く嘲弄を込めてなじるような物言いになったが、心の片隅ではわかっていた。

 

 ミオは本当にドフラミンゴとロシナンテの『職業』に関心がなかったのだ。

 

 海賊だろうと海軍だろうと、あるいは他の職業だろうと自分が充実して仕事ができる場所ならばなんでも構わない。

 そう、取るに足らぬ些事と割り切っていたから、ミオは気にすることなくドンキホーテ海賊団へ『遊びに』きていた。

 

 そもそもそんな確執を気にするようならば、危険を侵してドフラミンゴたちの前に現れることもなかっただろう。

 ただ、兄弟間の確執が姉の想像を遙かに超えて根深く、海軍と海賊には断絶があった。見敵必殺。発見したら殺し殺されるのが海軍と海賊だ。それが例え──身内であろうとも。

 

 そういう意味では、ミオは甘く見ていたといっていい。

 兄弟に手を上げることはあっても、殺すことはないと無意識に思い込んでいた。

 

「ドフィ」

 

 声には抑揚がなく、なんの感情も読み取れない。ただ、淡々とした確認作業のようだった。

 

「父様を殺したね」

 

 脈絡のない、けれど確信を持った言い方だった。

 のろのろと横顔がこちらを向き、ドフラミンゴの手にある拳銃に向けられる。

 そうだ、実の父親を殺したのはこの拳銃だ。鉛玉で撃ち抜き、殺した瞬間にドフラミンゴの『許し』は完了する。

 

 今も、また。

 

 ロシナンテに鉛玉をぶち込んで──許したところだ。

 すべての裏切りを、彼の死を以て精算した。

 

「ああ」

「……そう。ロシーが隠したがってたから、聞かなかったけど。やっぱり、そうだったの」

 

 不思議と納得したように頷いたミオはロシナンテに視線を戻し、血と雪で貼り付いた髪を梳くように撫でた。

 ドフラミンゴより、すでに事切れた死体に気を払うことが気に入らない。

 

「コラソン……ロシナンテはおれを裏切った大罪人だ。だからおれの手で処刑した。オペオペの実を食っちまったローは海軍に保護されたそうだが、なぁに、すぐに奪い返すさ」

 

 虚ろな声には感情のきざはしすら見えず、知らずドフラミンゴは意固地になって喋った。

 ミオの己を責めることも、声高に罪を糾弾することもない様子が、ひどく落ち着かない。むしょうに苛々する。

 

「てめぇも同罪だ、ミオ! オペオペの実を横からかっ攫いやがって……!」

「ローのために必要だったんだから、それくらい我慢してよ」

 

 冷めた口調でそれだけ言って、ミオは立ち上がった。

 

「それくらい、だと!? あの実にどれだけの価値があると──」

「ローの命を救う実なんだから、それだけの価値はあるでしょ。お兄ちゃんなんだから50億くらい見逃してよ。どうせ、唸るほどお金持ってるくせに」

 

 死ぬほど自分勝手な理屈をこねながら、どういう腕力をしているのか、ロシナンテの身体の膝裏と背中に手を入れてこともなげに担ぎ上げると、ドフラミンゴに背を向けてさくりさくりと歩き出してしまう。

 

「ローは海兵さんになるのかなぁ。でも、おっきくなれるなら、それでいいか」

「おい待て! どこに行く!?」

 

 思わず銃口を向けて質すと、白い息を吐き出しながらミオが振り向いた。

 

「どこでもいいでしょ。ロシーをこんな寒いところに置いていけないから、連れて行く」

 

 その瞳はドフラミンゴを見てはいるが、以前まで確かに存在していた親愛の情は、綺麗さっぱり消えて失せていた。

 

 義務のように無感動な口調で、ぽつりと。

 

「せいぜい家族を大事に、元気でね」

 

 そこには、叱責も動揺も義憤も殺意もなかった。

 

 ただ、ただ、すべてを諦めたような──否、もはやそれすら読み取れない、凪の如き瞳だった。

 

「ばいばい、ドフラミンゴ(・・・・・・)

 

 それは訣別の言葉で、込められたものはひたすらにからっぽだった。

 

 好意の反対は無関心とはよく聞くが、感情のひとかけらさえ己に向けられないという事実は、ひどくドフラミンゴに衝撃を与えた。

 

 ミオは自分の身内だと認めたものにはひどく甘い。

 

 それこそ親鳥が雛を守るが如き甲斐甲斐しさと、めいっぱいの親愛で包んで、愛してくれる。

 反面、身内以外の人間には容赦も遠慮も存在しない。そこにはくっきりとした断崖と、あまりにも深く底の見えない海溝がある。

 

 好意には好意で、敵意には敵意を以て鏡のように相対する。

 そして、それすら値しないと見なされたら最後──関心すら喪うのだ。

 

「お前も、おれを裏切るのか」

 

 気付けば撃鉄を引き起こしていた。

 銃口はひたりとミオに向けられて、ほんの少し引き金を引けば、最後の一発が彼女の薄い身体を貫くだろう。

 

「先に裏切ったのは、そっちでしょ」

 

 ようやく見せた感情の色は、怒りを孕んで揺れていた。

 

 

 対峙する二人を見て時が止まったような気がした。

 

 

 ぷつんと脳の一部が機能不全を起こしたように、なにも考えられなかった。正直、ドフラミンゴに何を言われて自分がどう答えたのかすら判然としていない。

 哀しみと虚脱感で腰が抜けてしまいそうだった。それでも最後の意識のひとかけらで、ここにロシナンテを置いていけないと強く思った。

 

 ドフラミンゴが思うほど、ミオは強くない。

 

 心は軋み、見えぬ血を垂れ流しながら悲鳴を上げて、嗚咽していた。

 関心がないのではなく、衝撃が強すぎてかろうじて平静を保てていたに過ぎない。

 全身から力の抜けた身体は存外に重い。ロシナンテなんて体格がいいから尚更のことだ。それを根性で担いでこの場から離脱する。

 

 それだけを、今は考える。

 

 海軍がローを保護してくれたのなら、安心して任せられる。なんせロシナンテを育てた場所だ。

 

「父様を殺して、ロシーに弾丸ぶち込んで、それで僕がドフィを変わらず好きでいるなんて……そんな都合のいいこと、ないでしょう?」

 

 本気でドフラミンゴの脳内構造はどうなっているのだろうと一瞬、心配になった。

 自分の意思でどうにもできない者には癇癪を起こして、『許し』と称して殺意の弾丸を撃ち込む。

 

 これでは、天竜人の頃となにも変わらないではないか。

 

「……ああ、そうだな」

 

 ミオの言葉にほんの束の間、何事か考えたらしいドフラミンゴがくるりと銃把を回して胸に仕舞いこむ。けれどミオの第六感に訴える嫌な感覚は強くなった。

 気候のせいではない悪寒が走る。頭皮の毛穴が残らず締まるような不快感があった。産毛が総毛立って、本能が警鐘を鳴らす。

 

 

「なら姉上にも──堕ちてもらおう」

 

 

 くい、とドフラミンゴの指先が踊る。

 

「おれと、同じところまで」

 

 瞬間──だった。

 

「うあ!?」

 

 まるでドフラミンゴの指先につられるように、ミオの身体がべしゃりと地に伏した。

 衝撃でロシナンテの身体まで投げ出されてしまう。口の中に雪が入って舌がびりびりした。

 

「な、なに、なんで」

「フッフ、フッフッフ、おれの能力を知っているか? あんたに使ったことはなかったが……」

 

 混乱がおさまらない間にも指先が動き、ミオの身体が本人の意思に反して動き出す。

 ぎくしゃくした動作で立ち上がり、歩き出し、視線の先にはロシナンテが持っていたであろう拳銃が──。

 

 まさか、まさか。

 

 血の気が引く。目眩がしそうだ。

 

「嫌われたくなかったからなァ。けど、愛されねぇってわかってんなら、いっそ憎悪されたいじゃねぇか」

 

 恍惚と、どこか陶酔の混じった声が遠く聞こえる。

 まるで、ではなくまさに、操られている。

 

 今、ミオはドフラミンゴの繰り出す糸に絡め取られた木偶(でく)人形だ。超人系・イトイトの実の能力者。その真骨頂。

 

 懸命に抗おうとするものの、身体の支配権が完全に乗っ取られている。勝手に動く。

 

「い、やだ」

 

 雪に埋もれるようにあった拳銃を拾い上げ、銃把に指が引っかかる。

 

「やだ、いやだ」

 

 冷や汗が背筋を伝う。

 

「ぜったい、やだぁあああ!」

 

 絶叫を上げ、惑乱したように首を振る。浮いた涙が散って、ドフラミンゴが気持ちよさそうに背筋を震わせながら哄笑した。

 

「フッフッフ! ああ、いい声だ。お前のそんな声がずっと聞きたかったよ」

 

 意思に反して動かされている腕はぶるぶるとふるえ、安定しない。それでも少しずつ焦点が定まっていく。

 未だ動かぬ、ロシナンテのおおきな身体に。

 

「さぁ、ロシーを撃て。ミオ」

 

 堕ちてこいとはそういう意味か。

 

 引き金を引けば、本当に引きずり落とされる。

 

 ドフラミンゴの糸に足をとられ、二度と身動きできなくなってしまう。それがわかる。

 

 意識には手を出していないのは、ロシナンテを殺したのはミオ自身なのだと、骨の髄まで知らしめるためだろうか。

 金属の冷たい感触が、頭蓋に刻みつけられる。ロシナンテは逃げられない。既に傷ついている身体に、更なる傷を与えるなんて冗談ではない。

 

 絶対に、駄目だ。

 

「ッ──」

 

 自分の肉体を、領土を侵されている。

 

 ならば、抗わなければならない。それはミオの魂の矜持。誰にも譲れぬ一線だ。

 できることがある。なんだってできる。どこにだって行ける。そう教えてきたのは自分なのだから、実行しなければ嘘になる。

 

 そんなのイヤだ。絶対に。

 

 歯を食いしばり、ミオの瞳に怪気炎が宿る。引き金に引っかけた指に不可視の力がかかる。

 

 

 それは、ほぼ同じタイミングだった。

 

 

「ドフィ~ッ!!」

 

 五分間の魔法から解き放たれたトレーボルが、大慌てでドアから飛び出してきた。

 

 瞬間──ミオの身体ががくんと不自然に傾き、転んだ。まるで『氷面で滑ったように』。

 

「お前の姉ちゃん! 能力者だッ!!」

「なに!?」

 

 驚愕にほんの一瞬制御が緩んだのか、ミオの手に馴染みはじめていた凶器の銃口がロシナンテから逸らされる。

 逃さず、身体を曲げて、銃把を握り込んだ手をかき抱き──引き金を引いた。

 

「な、やめろォ!!」

 

 ドフラミンゴの能力ではない怒声での制止など無意味だった。

 

 至近距離からの直撃に身体が震撼する。激痛と流血。銃声がくぐもって、一発毎に全身がいびつに跳ねた。

 構わず何度もぶち込んだ。手の平、腹、太股、そのうちの一発が自分の腰のベルト辺りに命中した。がちんっ、と弾切れの異音が響く。

 

 それはロシナンテのドジを未然に防ぐために常備していて、この寒さで中身が凍り付くと困るからと入れ替えた、ベルトに差し込んでいた水鉄砲。

 

 所詮は子供のオモチャだ。

 弾丸でいとも簡単にボトルが割れて、中身がこぼれ落ちる。手の平にぱしゃりと『それ』がかかる。

 

 

 能力者が最も忌み嫌う液体──海水が。

 

 

「う、ぁああ!」

 

 獅子吼を上げて、僅かに己の支配権を取り戻した。銃を放り捨てて能力を発動。

 痛みが支配を凌駕しているのか、変な脳内麻薬でも出ているのか、さほどの抵抗なく身体が動いた。

 

 バネ仕掛けの人形みたいな動きで跳ね起きて、獣の如き低い姿勢から地面を蹴り飛ばした。そのままロシナンテの腕を浚うように掴んで、信じがたい速度で滑走を開始する。

 

 流れ落ちた血液が瞬時に『固定』され、急制動など考えない摩擦係数ほぼゼロの滑走路を作り出しながら、最大速力でひた走った。

 

「くそ、待て! お前ら追えッ、逃がすなァ!」

 

 王者の一喝で部下たちが動く。

 だが追えと言われて追えるような速度ではなかった。天然の急斜面を更に凍結して滑り落ちていく。

 

 もっと。もっと。もっともっともっと速く!

 

 風が頬に当たって痛い。でもスピードは殺せない。息が苦しい。構わない。鼻が痺れて、風に打撃されて眼球が痛い。

 流星のように。燕のように。渡る風のように斜面を滑り、断崖からジャンプ台の要領でそのまま空中へと投げ出された。

 

 一切ブレーキを踏んでいないのだから、間近に迫るドフラミンゴの罠。人間の肉など簡単に裁断してしまう糸の檻。

 

 けれど怯まない。最後に残った一呼吸で叫ぶ。

 

「ッやっちゃえ! 軍曹!」

 

 いつの間にか、すぐ背後まで追いついていたミオの頼れる相棒が、全力で海水を噴射する。

 フクラシグモは海水を吸い込んで己の体積を自在に変える蜘蛛だ。体内に残っていた海水全てを一点集中。能力者の能力は総じて海水に弱い。

 

 何も考えず、勢いのまま海水をぶっかけた糸に渾身の蹴りをぶち込んだ。

 

 濡れた障子紙のように抵抗なく糸は千切れ、同時にミオも能力を発動。再び糸が再生しきる前に周囲を『固定』させて阻害し、くぐり抜ける。

 余剰海水すべてを吐き出してぬいぐるみサイズになった軍曹を片手に抱え、ロシナンテをもう片方の腕で抱き締めて、ぎゅっと目を閉じた。

 

「なむさん!」

 

 物理法則に従って落ちる先は夜の海。

 

 重油を流し込んだような、能力者にとっての魔女の釜の底。

 

 ドフラミンゴの支配から逃れて、部下たちが立ち入れない場所といったらここしかなかった。吸血鬼みたいだと思って少しだけ笑う。

 

 直後、全身がひきちぎられるような衝撃。

 

 上も下もわからない。ただ苦しい。真っ暗だ。力が抜けていく。能力者ってたいへん。でもロシナンテだけは離さない。絶対に。

 

 ミオは残った力を振り絞ってロシナンテにしがみつき、暗闇のような海の中へとただ沈んでいった。

 

 

 


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