桃鳥姉の生存戦略   作:小日向ひより

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7.しろくまソナタ

 

 

 枕元に、ちいさな小箱がある。

 

 利便性一辺倒の無骨な船内には不似合いに過ぎる、繊細な細工の施されたその中には──みっつの宝石が仲良く眠っていた。

 

 月の光を浴びて輝きを増すのは、海の色をそのまま写し取ったようなアクアマリン。

 海の精の宝物が浜辺に打ち上げられ姿を変えたともいわれるその石は、海との関わりが深く、船乗りが安全な航海のお守りにする例も少なくない。

 

 中央にあるのは雪の中に虹の彩がかかるオパール。

 古くから希望と幸福の象徴であるその石は、持つ人の憂鬱を取り払い、その人本来の強い芯を作ることを助けてくれる力を持つという。

 

 そして最後のひとつが、熱さえ感じられそうな深緋(こきひ)を閉じ込めたルビー。

 『勝利の石』とも称され、自信と勇気を高め、あらゆる危険や災難から持ち主の身を守り、困難に打ち克ち、勝利へと導く力を与えてくれるのだそうだ。

 

 人の歴史に寄り添ってきた貴石にはそれぞれ意味があって、願いがある。……もっとも、渡した本人はそんなことをちっとも意識しちゃいなかっただろうけれど。

 それでも、ごほうびだとねじ込まれたそれには言葉が込められていた。

 

 しあわせに満ちていますように。

 苦しみを克服して、幸福を得られますように。

 もし、困難に直面するのなら、乗り越えられるだけの情熱と勇気を。

 

 それが、かたちのあるものをほとんど残してくれなかったあのひとたちの、よすがを伝えるしるべの石だった。

 

 この思いは宝石のように残ってくれるだろうか。ひとつも欠けることなく、どれだけの時を越えても──褪せず、倦まず、いつまでも。

 

 苦しいなら忘れていいと、あのひとたちは笑うのだろう。拘泥しないで好きにしなよと叱るのだろう。

 

 だったら──はやくそうしてくれ。

 

 もう告げる術を持たない言葉を閉じ込めて、叶わない願いを封じるように、ひとつもこぼさないようにふたを閉じた。

 

 まだ、夜は明けない。

 

 

 

×××××

 

 

 

 『ハートの海賊団』が新世界の入口であるシャボンディ諸島に到着したその日の夜。

 

 運悪くその日の留守番役になってしまったベポは、変なものに遭った。

 

 ベポはこの海賊団で航海士を務めているシロクマのミンク族だ。

 見た目はそのまま白熊のそれだが他のメンバー同様ツナギを着ており、二足歩行で動きも機敏。船長とも十年来の付き合いになる立派な船員のひとりである。

 

 無数のシャボン玉が浮遊する未知の諸島にベポの興味は大いにそそられたものの、くじに外れてしまったのだから仕方がない。彼らの母船である『ポーラー・タング』号の舳先によっかかって、夜でも煌々と光りを放つ方をぼんやり眺めていた。

 とりどりの光を漂うシャボン玉が反射してて、こんな時間なのにちょっと眩しい。しぱしぱと瞬きして、その視界にふと違和感を覚える。

 

「?」

 

 それがなんなのかいまいち掴めず、探るためにきょろりと一度周囲を見渡して、視界の端でひらひらするものを捉えた。

 

 そちらに顔を向ける。

 

 この諸島を作っているというヤルキマン・マングローブが呼吸のたびに排出するシャボン玉。そういえば、船員のシャチがふざけて乗ってもびくともしなかった。人でもすっぽりおさまってしまいそうなそれは、途切れることなく一定の間隔で宙に浮かんでいる。

 

 その間を、仄白いなにかが音も無く飛翔していた。鳥ではない。もっと大きいものだ。それはベポの見ている先で、シャボン玉の上から上へと、たんと跳ねてはふわりと舞って、楽しげな遊びのようにシャボン玉の上を渡っていく。

 

 蝶みたい。

 

 ひらひらと裾が長く、わずかな夜風を受けてもふわふわと膨らむ衣の様子から思ったのだが、よく見るとそれは人の形をしているようだった。

 

 全体的に白いので、それは夜空によく映えた。

 着地のたびに初雪めいた色の髪が揺れて、薄い、紗のような上掛けの間から見える曲線や華奢な手足は女性のように思える。肌の色も負けじと白く、雪の妖精がいるのならこんな感じなのだろうか。

 

「だれ?」

 

 幻想的な光景につい、警戒も忘れて声をかけてしまった。

 

 グランドラインで沢山の信じられないような経験をしてきたが、こんなものを見るのは初めてでベポは興味津々だった。

 

 諸島そのものは賑やかだけれど、海賊船である『ポーラー・タング』号は海軍の目の届かない場所にひっそりと係留させていたので、喧噪は遠い。

 海の底のように静まりかえった中でそのつぶやきは、思ったより大きく響き、届いた。何かを探すように動いていた白い蝶の顔が、ベポで留まる。

 

 その瞳は、極東に咲く花のいろをしていた。

 

 焦点を引き結ばれた先のベポは、血の気が凍るのを感じた。それは本能に訴えてくる恐怖だった。

 

 まっすぐすぎて、なんだかこわい。

 

 生きているのに、生きていないものに遭遇したら──こんな気持ちになるのかもしれない。ひょっとして、自分はとんでもないものに声をかけてしまったのではないだろうか。

 

 ぶわっと全身が毛羽立って、咄嗟に身構えようと手を上げかけたら、そのひとがいきなりふわりと微笑んだ。

 まるで大好きな花か、お菓子を見るような瞳でベポを見て、なんでか手まで振ってきた。しかもすごく嬉しそうに、めいっぱい。

 

 あれ?

 

 ほんの一瞬前に感じた妙な恐ろしさは、それでいっぺんにかき消えてしまった。自分の感情の変化を不思議がっている間に、そのひとは主人を見つけた犬みたいな勢いでぶっとんでくる。

 

「初めましてこんばんは!」

「うわ!?」

 

 シャボンを伝って甲板に降りるなり元気いっぱいに挨拶されて、ベポはとても戸惑った。こうして見ると随分と小柄で、色味が面白いだけで普通に見える。見慣れない服装で、ひらひらしていたのはただの薄っぺらい上着だった。

 白くて、ちっこくて、ふわふわで、今にもでへへとか言い出しそうな感じでにまにましている。

 

「こ、こんばんは?」

 

 言葉を探しあぐねて、とりあえず挨拶を返した。白くてちっこい人間はうんと頷いて、一度周りを窺ってからベポを見上げる。

 

「ここ、『ハートの海賊団』の船であってます?」

「あってるよ」

「で、あなたは船員のベポ?」

「う、うん、そう」

 

 ベポは手配書にも載っている。ただそれはほんとに一応という感じで、その額は500ベリーという破格の安さ。どうも海軍からは『ハートの海賊団』が飼っているペットという認識らしい。不服である。

 でも、不思議だ。ベポのことを手配書で知っているにしても、この白くてちっこい人間はベポにぜんぜん驚かない。

 おれ、喋る熊なのに。

 

「あのさ」

「ん?」

「おまえ、だれ?」

 

 だからって自分のことをわざわざ聞くのはためらいがあって、まだ聞いていなかったことを尋ねてみた。

 白くてちっこい人間は当たり前のことを問われただけなのに、なぜだか迷うように視線をあちこちに動かして挙動不審である。

 

「えーと、その、僕はあれです。『ハートの海賊団』のファンです」

「ファン? おれたちの?」

 

 思いもよらなかったことを言われて聞き返してしまう。海賊のファンなんているのか。

 白くてちっこい人間改め『ハートの海賊団』のファンは、はいそうですと頷いてから照れたようにはにかんだ。

 

「『ハートの海賊団』が諸島に着いたって聞いたらいてもたってもいられなくて、でも探し回ってたらこんな時間になっちゃったから……さすがに悪いかなと思ったんですけど」

 

 それでも一目見たくて目撃証言を元にうろうろしていたところをベポが見つけて声をかけた、という流れらしい。やたらと身軽で行動力のあるファンである。

 でも、ベポは少し納得した。ファンだからベポのことをよく知っていて驚かなかったし、やたらとはしゃいでいるのも憧れの海賊に会えたという昂奮だろう。正面切ってファンですと言われれば、邪険にしようとは思わない。

 

「時間はともかく、今うちにキャプテンいないんだけど……」

 

 『ハートの海賊団』のファンというなら、当然その中にはキャプテンのローも含まれているはずだ。むしろそっちの比重の方が大きいかもしれない。

 

 キャプテンは人間の雌によくモテるから。

 この白くてちっこいのも匂いが薄くて分かりにくいけどたぶん雌。

 会いたかったんじゃないかなと教えてみたのだけど、なぜだかファンは逆にほっとしたようだった。

 

「いやいや、いきなり会ったら色々パンクしそうだから、むしろよかったかも」

「そうなんだ?」

「そうなんです。心の準備したいので」

 

 したり顔で腕を組む。ベポにはまったく理解できないけれど、ファン心というのは複雑らしい。

 最初から大した緊張もしていなかったが、ここにきてベポはこのちっこいファンに対する警戒を完全になくしていた。

 

 だって、本当に嬉しそうなのだ。

 

 周囲に花でもぽわぽわ浮いているような様子で物珍しそうに甲板を歩き回って、ベポが止めるまでもなく船内に続く扉や洗濯物には一切触ろうとしない。

 それは美術館にあるショーケースの向こうにある絵画や、窓の向こうの景色を眺める瞳に似ていた。超マナーのいいファンだ。

 

 留守番で退屈していたこともあって、ベポはこの正体不明のファンをすぐに追い出そうとは思わなかった。

 危険性に関してはまったく浮かんでこなかった。よくわからないけど、ベポの動物的直感がこのファンは自分達の敵に回ることはないと告げてくるのである。

 

「『死の外科医』ってめちゃめちゃ物騒な異名ついてるけど、船長は本当にお医者さん?」

 

 敬語がむずがゆかったのでそこだけは取っ払ってもらった。

 

「アイアイ! キャプテンは立派なお医者さんだよ!」

「そっか~! よかった、倒した相手を解剖するからそんな異名がついたのかと」

「物騒! キャプテンはそんなことしな……くもなく、ない、よ」

 

 キャプテンの能力的に敵対した相手をバラすことは稀によくある。

 

「ないんだ……」

「う、うん」

 

 そこまで言うわけにもいかないので濁すしかないベポだった。ファンの心が離れないか心配である。

 それから『ハートの海賊団』が遭遇したいくつかの事件について尋ねられたので話して聞かせ、ファンはにこにこしながら聞いていた。子供が寝物語をねだるときみたいな楽しそうな表情が、こそばゆくてくすぐったい。

 

「そういえば、ベポは最初から『ハートの海賊団』に?」

「そう、結成したときから! キャプテンとおれはずーっと一緒だったんだよ。もう十年以上になるかなぁ」

「ほほー。じゃあベポも『北の海』育ちなんだ」

「生まれは違うけど、おれとキャプテンは『北の海』で大きくなったんだ」

「そっかぁ……」

 

 そう言ったファンはなぜかしばらく黙り込み、やがてごそごそと袂を探って一枚の写真を取り出した。

 

「『北の海』ってことはさ、ひょっとして『ここ』……知ってる?」

「んん?」

 

 差し出された写真を見て、驚いた。

 一枚の写真に納められていたのは、今では懐かしい、名前通りの鳥そのもののような造形をした大岩だ。

 

「スワロー島だ!」

 

 勢いよく覗き込んだからか、ファンはスワロー島の写真をそのままベポにどうぞと渡してくれたので遠慮無く受け取ってまじまじと見つめる。

 

「うわぁ懐かしいなぁ! こんな写真、どうしたの?」

「前に行った時に撮ったんだ。すごく綺麗だったから」

 

 ファンはカメラを持っているかのように構えて、かしゃり、と指でシャッターをきる動作をした。

 それにふーんと頷いて、改めて写真に視線を落とす。

 

 日の出の光をおびた橙色の雲と、桃色の影。薄まっていく藍色を背景に佇むツバメの姿は、今にも羽ばたいてしまいそうな迫力があった。

 

 ベポがキャプテンと初めて会った場所。かつてのいじめっ子がいつの間にか仲間になって、『ハートの海賊団』を結成して旗揚げした場所。

 苦しいこともあったけど、楽しいことの方がずっと強く覚えている。記憶のドアがノックされて、ほろほろと蘇って、鼻の奥がちょっぴりつんとした。

 

 確かに綺麗だった。けど、なんだかさみしい気持ちになる。写真は案外に撮ったひとの気持ちが伝わってくるらしい。

 

 ファンはどんな気持ちでファインダーを覗き込んで、シャッターを切ったのだろう。

 

「写真撮るの、好き?」

 

 ベポは自然とそう問うていた。

 ファンは一瞬きょとんとして、それから苦く笑った。

 

「ほんとはね、きらい」

 

 内緒話をするように人差し指をくちびるに当てて、ひっそりと。

 

「残るものってあんまり好きじゃないんだ。でも、他に思いつかなかったから」

「なにが?」

「プレゼント」

 

 そのとき、ファンはベポの方を見ていなかった。夜空を見上げる横顔は、ひどくやさしく歪んでいた。

 好きじゃないと即答して、なのに、おそらくは自前のカメラで撮った写真。適当に撮っただけじゃこんな写真にはならない。

 

 ひどい矛盾と裏腹の研鑽に、なんだかベポはぞっとする。

 

 返す言葉が思いつかなくて、喉がきゅうっと締まる。胸の奥がしくしくと疼く気がした。

 

 プレゼント。

 

 誰かへの贈り物のことを、こんなに苦しそうに口にする人をベポは始めて見た。

 

「とびきり喜んでもらえるようなプレゼントをね、あげたかったんだ。いろいろ考えてみたんだけどしっくりこなくて……そしたら、もう、これしか思いつかなかった」

 

 さみしそうに瞼を伏せて無意識にか、ファンは襟元に挟んでいたシガーケースからごく自然な動作で煙草を一本取り出して咥えると、マッチで火を点けた。

 

 するすると立ち上っていく細くて白い帯と、燐と煙の匂い。

 

「……あ、ごめん」

 

 ひとくち吸ってから思い出したように謝罪されて、ベポはややあってから煙の匂いで鼻に皺を寄せる。

 見た目から到底煙草を嗜んでいるように見えなかったから、少なからず驚いた。

 

「肺が真っ黒になっちゃうよ?」

「たまーにしか吸わないから、そんなに黒くなってないと……それ以前に吸わないひとの前で吸っちゃだめだ。ごめんね」

 

 もう一度謝罪してから自分で火を点けたくせに、ひどくまずそうにもうひとくち吸って、ファンは携帯灰皿を取り出していくらも吸っていない煙草を押し潰した。海に捨てないあたり、やっぱりマナーがいい。

 ぱちりとハートをあしらった携帯灰皿を閉じて、ファンは立ち上がりながらぺこりとベポに頭を下げた。

 

「あの、今日はそろそろお暇するね、お邪魔しました」

「え、おれにしか会ってないのに。他のメンバーとかいいの?」

「ベポに会えただけでじゅうぶん収穫だったよ。それに、あんまり遅くなっても悪いから。……また来てもいい?」

 

 さっきまでとは打って変わって、なんでだか自信なさげに質問されてベポが慌ててそれはもちろんと言うと、ファンはよかったと胸を撫で下ろしながら笑った。

 

「ありがと! じゃあまた近い内に。その写真はよかったらあげるよ」

「いいの?」

「どうぞどうぞ」

 

 ぴらぴらと手を振ってファンは船の舳先に足をかけて軽く跳躍すると、そこらに浮かんでいたシャボン玉に乗り移った。

 

 そうしてはた、と何かに気付いたように一度ベポに顔を向けた。

 

「そうだ、ベポ!」

「なぁに?」

 

 ファンは瞳を細めて口元に手を当てて、ベポにだけ声が届くように。

 

「船長のこと、お願いね」

 

 不思議なことを。

 

「器用なくせに不器用で、優しいのがわかりにくいひねくれ屋さんだけど、悪いやつじゃないから」

「そんなの知ってるよ!」

 

 なんでそんな、わかりきった当たり前のことを言われたのかが分からなかったけど、ベポはすぐにそう返した。

 

「それがおれの大好きなキャプテンだよ!」

「そか。なら安心だ!」

 

 その返事に、ファンは満足そうにいひひと笑って大きく手を振った。

 

「またねー」

「うん、またね!」

 

 

 

 

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