あれから、表面上の体裁だけはなんとか整え、ぎこちなさの抜けきらない苦笑を浮かべながら『ポーラー・タング』号をあとにするミオの背中を見送った。
ローは自室でソファに寝そべりながら片手で小さなアルバムを開き、写真を肴にグラスを傾けていた。船員からの情報収集と統合を済ませ、誰も入室することのない深更である。
予想通り写真の全てには裏書きがあって、物珍しい風景と相まって放浪趣味のローの目を大いに楽しませてくれた。──無論、『楽しい』のはその点のみではないけれど。
「……」
ひととおりの写真を眺めて満足してアルバムを閉じ、グラスに酒精を注ぎ足しながら今日の出来事を反芻する。
思いもかけぬ、どころか想像の遙か埒外にあった恩人との再会。捕獲と同衾……と称すには色気のない仮眠、起きてからの食事やあたたかくも騒がしく過ごした時間、上がっていた料理の腕、そして──。
『だめ』
指先すら震わせながらコーヒーのカップを縋るように両手で包んで、ようやく吐き出された拒絶の二文字。
それまでの会話におかしいものはなかったと断言できる。遠い昔に与えられた言葉に、ローの思いを重ねて返した。それだけだ。
けれどあの一言で弛緩しきっていたはずの空気はまとめて吹き飛び、磁器めいて白い頬が更に青ざめ、くちびるすら血の気を失っていった。
それほどに切迫した、息詰まるほどの緊張と焦燥に炙られた雰囲気。もしあそこでなおもローが言い募れば、ミオがどのような行動を起こしてもおかしくはなかっただろう。
好意や愛という甘い感情とはまるで無縁の、恐懼にも近い表情だった。
だが、同時にローは確信を得た。あの瞬間、ローはミオの心の裏側……己が最も忌避している柔く、脆い箇所に触れていた。
いつかのドフラミンゴが傷痕を餌にオペオペの実をミオに食べさせようと目論んだ時の空気に似ていたが、当時を知っているぶん僅かに異なっていることは理解できた。
それを目にしたローは劇的なまでの変化にギョッとして──背筋がぞわりと粟立った。
心臓が早鐘を打ち、汗腺が開くほど
あんな顔を、ローは一度だって見たことがなかった。もしかしたら誰も見たことがないのかもしれない。そう考えるだけで仄暗い満足感がじわじわと湧いてきて、ああ自分はどうしようもなく海賊なのだと改めて感じ入る。
万人へと向ける、花が綻ぶ様な笑顔という被膜を剥ぎ取られ、剥き出しになった感情そのままの表情。ローだけに向けられている、怯え歪んだ、その顔。最高だ。
そうだ、おれはあんたのそんな顔を拝みたかった。
ローにとってコラソンとミオは間違いなく己の命を救った恩人であり敬慕の対象だが、内情は少しばかり異なっている。
今となっても褪せず残るコラソンへ向ける感情とて紛れのない愛情ではあるが、それは清廉に捧げる信仰にも似た感謝の色をしている。
一方、ミオへ向ける思慕の念はコラソンへ向けるそれとは違う色味を宿していた。
本来ならば汚されることなくあたたかな木陰色の、ひたむきに純粋で無垢なまま、墓の底に仕舞い込まれるはずだった代物である。
けれど、再会を果たしてとっ捕まえて生身のミオと触れて話して確かめて、冬に春を偲ぶ気持ちにも似ていたはずのものはより強く、より激しく、より抗い難い感情に塗り潰されてしまった。
「……」
舌先で味わうアルコールの刺激と琥珀の妙味を喉へと伝い流し、ほのかな酩酊を感じ取りながらローはミオから没収した煙草の一本を取り出して咥えた。
仮にも医師を名乗る者として肺を蝕む嗜好品に手を出すつもりはなかったが、今夜は特別だ。ケースがなくても銘柄はわかっていた。火を点ければするすると滑り出す灰色の煙と馴染みのある香り。僅かに口に煙に含めば、独特の苦みがちりと肺を灼いた。
瞼を落とせば、押し寄せるいくつもの情景が脳裏にひらめいては消えていく。ミオがたまに吸っていた理由など察するに余りあった。
──ほんの数時間前、徹夜と疲労で限界に達していたミオが眠りに落ちてから、ローは頭痛がするほどの眠気でまどろみながら意識の保つ限り長く、その華奢な身体を抱き締めていた。
今は両足が欠損している(させた)ものの、かい抱く肢体はこれまで抱いてきた娼婦のような熟れて実った女としての柔らかな丸みこそ欠いていたけれど、けして男のように無骨に平坦なのでもなく、かといって未来を予感させるようなふくらみかけというのでもなく、現在で既に完成した──否、この場合は『固定』されたと表現した方が正鵠を射ているのだろう。
女性と少女というよりは雌雄の間に佇むような……そんな危うい均衡の上に成り立った絶妙の起伏と曲線を描いているように思えた。
そうして自分から転げ落ちぬようにと手の中の薄く、まろい肩をゆるゆると抱き寄せて──落とした瞼の白い睫毛が時折小羽のように震える様子とか、触れている布越しでもわかる肌のしっとりと吸い付く練り絹の如き滑らかさ、薄いくちびるから微かに届く息遣いの音、薄荷めいて涼しく甘い、それら全てを全身に刻み込むように堪能して──かつてなく、今更、初めての、暴風のような凄まじい衝動に襲われた。
それは恋情愛情などと称するにはあまりにもおこがましい、もはや獣と呼ぶに相応しい欲情の発露だった。自分に食人の癖などないのだが、叶うならば髪の一筋から肘の内側、白くやわい肉から小さな爪先までも。それを思うだけで舌の根が引き攣り、ただでさえ空腹の下っ腹がきりきりと痛むようだ。
けれど彼は野で獲物を喰らうだけの獣ではなく人間で、海賊で、『死の外科医』だ。貪り尽くしたいのは当然としても、それは肉体のみに留まらない。
望むのは、丸ごとすべて。
身体のみならずミオのすべてを余すことなく暴き詳らかにしたその上で──根こそぎ奪って喰らい尽くす。
肌を重ね、情を交わすだけならばその先だ。それを思えばこそ、無防備を晒す身体に悪戯ひとつせずに耐えきることができた。
だから短い仮眠ののちに、手始めに能力を用いてミオの中身を見せてもらった。作りは細いが健康そのもので安心した。
カルテを作り、やや肺が弱いことが気になったのでようよう起き出したミオに禁煙を申し渡したところ仏頂面をされた。
形見扱いしていた宝石を返却して代わりにと『プレゼント』を手渡されたときは、本当にやばかった。けれど同時にミオの中での『ロー』はまだ少年の頃のままだということも同時に察した。
それでは困るので、食後の頃合いを見計らってまずは最初の一手を。
種別は違えどまだ間違いなく好意を持っていることを確認して、仲間に引き入れることに関して否やがないこともわかった。言質もとった。
そうして少年時代と今の自分は違うのだと、思い出を打ち砕き生身のローを刻みつけるための第一歩。
──果たして、試薬代わりの『大好き』が示した反応はローの予想を超えて劇的だった。
改めてミオと話していて気付いたことがあった。彼女は決して正直なのではない。いや正直ではあるのだが、むしろこう表す方がしっくりくる。
ミオは偽らないだけだ。――否、偽れないと言った方が良いだろうか。
おそらく、彼女はまだ心の肝心な部分が成熟しきっていない。そうなるに至った経緯が過去の外的要因なのか本人の資質によるところなのかまでの判別はつかないが、だからこそ、未熟な雛が卵の内に閉じ篭もるように、ミオは自らの心を柔らかい殻で包んでいる。心の内に他人が触れようとすれば容易く指先はめり込むが、それは膜を隔ててのことで、真意に触れることは叶わない。
その柔いが堅固な壁に、ローは踏み込もうとしたのだ。心の洞のような部分に容赦なく踏み込んで来ようとする存在は確かに恐怖だ。咄嗟に退けようとしたとて無理もない。
だが、そんな反応ひとつでこちらが遠慮してやると思ったら大間違いだ。
そんな分別をつけられるようなら海賊になんかなってやしないのである。分水嶺などとうに越えている。むしろ大いに滾った。
ただあれ以上つつくと遁走を図りそうなことは想像がつくので、しばらくの間は様子見に徹するつもりである。根こそぎ暴くのはまだ先だ。布石を打ち、手順を組み上げ、しかるのちに障害を潰すのは彼の得意とするところである。しかも先に待ち受けるご褒美が、遠いあの日に恩人とともに失ったはずの思いの片割れだ。猛らぬわけがない。
──やはり自分は、世界でいちばん憎たらしいあの男と本質が近いのだろう。
愛されないならせめて憎悪されたいと言ったのはドフラミンゴだっただろうか。全く同感だ。
だがローはドフラミンゴではないから諦める必要はないし嫌われてもいない。あれがドフラミンゴの限界だとすれば、ローはその先に行く権利がある。ざまぁみろだ。なんせ彼はもうすっかり『大人』でミオの『血縁』ではないのだから、誰憚ることなく異性に『愛』を請い与えて許される立場である。
固く閉じこもっているのならば、舌鋒をメスに、言葉を鉗子に、凝った心を切開し晒け出された患部にくちづけて、選り分けた血管ひとつひとつに愛を注ぎ刺して賦活させてやる。
ローもミオも生きている。生きているなら諦めない。変えられるものがある。叶うことがある。それはローの人生が何よりの証明だ。
ミオが欲しい。あの生き物が欲しくてたまらない。口にしたのは全て本当だ。もう一度失うなど耐えられない。誰かに盗られるなんて想像だけで腸が煮える。そう、それは新世界で胡座をかいているであろうドフラミンゴが相手ならば尚更だ。
おそらく、ミオの生存を知れば何を置いても奪取しようと目論むだろう。それだけは我慢ならない。一度全てを奪った怨敵にもう一度盗られるなんて冗談ではなかった。だったら、ドフラミンゴの入る余地をなくせばいい。
そして、ローはそれを躊躇う理由もなければ必要もないのだ。
あの反応を見る限り、道のりは随分と険しそうだが不可能とは思わない。珀鉛病を克服するより高いハードルなんてそうはないだろう。
すっかり先が灰になってしまった煙草を消し潰し、冷えたグラスを額に押しつけて、死の外科医は密やかに微笑んだ。
「……くく」
それは、笑顔と呼ぶにはあまりに悪辣に過ぎたものではあったのだけれど。
……そもそも、墓まで持っていくはずだった純粋な思慕の念を素知らぬ顔で引っ張り出したのはあちらの方だ。
堰き止められたまま、いつかは乾き朽ち果てるはずだった思いの蓋をこじ開けて暴き立て、決壊させたのはミオなのだから、その責任は身を以て取ってもらわねばならない。
×××××
いつかの昔、求めても得られないから諦めた。
諦めて、子供じみた自己防衛で削り落として、ミオの『だいじなもの』はぽっかり欠けたままだった。
それはそれでいーや別に死なないし、と自分に関してとかくぐうたらなミオはそのままほったらかしにし続けてしまった。
彼女の周りにいた人たちはわりと常識的な部分が足りなくて、おまけに変なところで厳しいものだからミオはそれを長年かけて変な風に拗らせていた。
自覚がないものを指摘もせずに勝手に気付け、というのは難しいものだ。懇切丁寧に教える必要はなくとも、きっかけくらいはあってしかるべきだっただろう。
けれど、ミオの周囲環境はそれを許すほど甘くはなかったし拘っているヒマがそもそもなかった。
そんな風に日々を乗り越えることのみに腐心している内に、生き抜く術や技術ばかりに特化してしまったミオは――地頭は悪くないのにあほになってしまった。
研鑽を怠らないのに努力を放棄してしまった。欠けて拗れた挙句にでこぼこな心を、危うい均衡を保ったまま成長せざるを得なかったとも言える。
付け加えるとすれば、たまさか機会に恵まれたことがあっても、それに気付いて自覚したり友情やら親愛からクラスチェンジする前に人生が物理終了していた。
かくして『頑固なあほ』というなんとも扱い難い性格で固まってしまったミオはとても『だいじなもの』をなおざりにし続けて、結局――今もってしてもその辺りは改善されていない。記憶をリセットできない弊害は案外あるのだ。
だからローの言葉は嬉しいといえば嬉しいものではあったのだけれど、同時にミオの鬼門でもあった。
人が自分を好んでくれて、長い間仲良くしてくれる。それはとても尊くて、貴重で、稀なことだ。
理解しているから、ミオも自分の精一杯で相手を大事にする。それはいつでもどこでも変わらないミオの約束事。
けれど、そこに親愛や友愛以外のものが混ざると話は途端に変わってくる。
欲望なら話は早い。欲望はミオにとってとても身近だ。叶えれば一時的にでも霧散する、刹那的だが断続する感情。
けれどいわゆる異性に向ける情というのはそうではない。それはひとかけであってすべてではないからだ。そういう恋愛沙汰というものがミオにはよく分からない。さっぱりだ。
とはいえ、ミオにとって未知は恐怖そのものである。
培われてきた経験上『知らない』ということは即ち死に直結しているからだ。それは根幹にまで擦り込まれた不文律で、そうそう楽に変更できない。
だからミオは僅かでも『そういう』気配を纏った言葉にはとかく敏感で、ひとたび遭遇してしまうと過剰なまでにびびり散らし、最悪の場合は拒絶してしまう。
今回はまさにそれだった。
しかも相手はローである。
最悪だ。
「やっべぇ……」
『ハートの海賊団』に入ることはほぼ決定事項である。ローは絶対にミオを逃がさないだろう。確信しかなかった。控えめにいって詰んでいる。
ついでに、好きなひとなんてそうはいないだろうが自分の内面を暴かれるのがミオは大嫌いだ。探偵とかみんな尿管にごつい結石ができればいいと思っている。けれどローに見せてしまったあれこれは彼に疑問の種を植えるに十分すぎる。
「不審がられた、ぜったい」
知ってる、あれアカンやつだった。
誰が悪いって明らかに過剰反応してしまった自分が悪いのだが、あれはもう脊髄反射のようなものでミオ本人でもどうこうできる部分ではない。どうしようもなかった。
ただ、あそこで頼み込んで追求を一応止めてはくれたので、この先押し込み強盗よろしく内面をかっぱいでくることはない、と思う。思いたい。頼む。もし無遠慮に暴き立てようとしてきた場合、物理的に距離を取るか記憶がなくなるまで固い物で殴打するしかなくなる。
「海馬って頭のどのへん狙えばいいんだ……」
ローが物騒極まりない算段を立てているなんて露知らず、葛藤と後悔の坩堝で追い詰められているミオだった。
本編ファルガーさんのイメソンは西○カナのト/リセツ(強制)という感じ