ロシナンテは昔、少しだけ姉が怖かった。
ドンキホーテ家の長女は変わり者で偏屈、というのが周囲の認識だったからだ。
もちろん、家族にいつも優しい姉だったからそこを疑っていたわけではない。
けれど集める奴隷は誰かの『使い古し』ばかりで、社交界にも興味が薄い姉はそこそこに評判が悪く、だからロシナンテは兄のドフラミンゴとは違った意味で怖かった。
なぜ、姉は周りの言葉を気にせずいられるのかと。
貴族社会は風聞が馬鹿にできない。それは気弱で臆病なロシナンテだからこそ痛いほどに理解している。
なのに姉は露ほどにも気に留めない。誰に何を言われたって馬耳東風で、天竜人としての『常識』なんか知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいた。
あるとき、ほんの些細な出来事がきっかけでそんな不安が爆発した。
姉様はどうして平気なの。みんなが姉様は変わり者って笑ってるのに、どうして気にしないでいられるの。こわくないの?
姉は笑って答えた。
「怖くないよ。だって心配してくれるロシーがいるもの」
変な理屈だった。
でも、『心配』という言葉はやけにストンとロシナンテの胸に落ちてきた。そうかと思った。ロシナンテは姉が怖いのではなく、不安で、心配なのだ。
「変わり者? 偏屈? 大いに結構。僕は大事なものを大事にしてるだけ。それを馬鹿にするひとなんてこっちから願い下げだから、それでいいよ」
きっぱりと告げる姉はなんだか眩しくて、なぜだかロシナンテは泣きそうになった。
それからロシナンテは姉が怖くなくなった。躊躇せずに駆け寄ってお喋りできるようになった。
そうすると不思議なもので、見えなかったものがどんどん見えてきた。
『天竜人』の連れている奴隷と、姉の連れている奴隷は瞳のいろが、まるで違っていた。
人形のように虚ろな目で、己の葬列を歩くようなみすぼらしい格好の奴隷たちと、簡素だが清潔な格好で生き生きとなにくれとなく走り回る奴隷たち。
外出の時なんてこっそり『馬』役を取り合って殴り合いが勃発したりするくらいには元気な彼らを、姉はたいそう大事にしていた。
それは奴隷と主人の関係ではない、もっと美しくて、柔らかくて、尊いなにかだった。
ロシナンテにはそれが分かった。
大事なものを大事にする。簡単だけどとても難しいことを姉は実行しているのだと、理解できた。
それからロシナンテは姉が大好きになった。
それは、自分が怖がっている間も姉に構われていた兄に、ちょっぴり嫉妬してしまうくらい。
姉は家族に優しく、わりと容赦がなかった。
家族以外には時に平気な顔で残虐なことをする兄を真正面から叱り飛ばし、遠慮なくひっぱたいていた。
とはいえ、それでドフラミンゴが姉が嫌いになるかというと意外とそんなことはなく、かといって更正するかというとそれもまた微妙で、たびたびやらかしては叱られていた。
「ロシーはドフィを見習わないで欲しいなぁ。もし同じ事をやらかすなら……おねーちゃんは心を鬼にしてロシーを叱って場合によってはひっぱたかざるをえない」
疲れた顔で言い出された時はとても困った。
頼まれても無理だと訴えると、安心したように笑う姉の顔が好きだった。
姉は優しくて賢くて、家族をとっても大事にしていて、そしてとても強かった。ロシナンテはそう信じて疑わなかったし、それは事実でもあった。
それが姉にとって悲劇だと分かったのはマリージョアから住居を移してすぐのことだ。
天竜人という『壁』をなくした特権階級はあまりにも弱く、脆い。それを姉は理解していた。
マリージョアという隔離空間の『常識』は通用しない。だってここは下界だから。下界の人間にとって『天竜人』はただの敵で、悪の代名詞だった。圧倒的多数の暴力に屈することなく生きるためには、姉が頑張るしかなかった。浴びせられる罵声を聞き流し、理不尽な暴力をいなして率先して家族を守るのはいつだって姉だった。
いつまで経っても天竜人としての癖が抜けない兄や両親たちに疑いが向かないように噂を流し、働き口を見つけて収入を確保して、見つかってしまった時のための準備を常に整えていた。──すべては、家族を守るために。
母が亡くなった時も悲しかったけど、辛かったけど、姉がいてくれたから耐えられた。姉は沢山のことを教えてくれた。兄を鍛え、父には生きるための術を教え込んでいた。
不安なんておくびにも出さず生きる姿を、ロシナンテは凄いと思った。姉と一緒ならなんでも頑張れると思った。
でも、それはもう叶わない。
これまでで一番の襲撃だった。それは迫害なんて生やさしいものではなかった。ただの蹂躙で、私刑だった。
膨れ上がった悪意と暴虐に家族数人で対抗なんてできるはずがなくて、姉は家族を守るための術を父とロシナンテに託して単身囮になった。
父に塞がれた指の隙間から見えたのは、猛烈な勢いで集ってくる民衆を薙ぎ散らす姉の姿。
「だぁいすき、だよ」
抱き締める手はほんの少しだけ、ふるえていた。ロシナンテは気付いた。気付いて──いたのに。
気付いたら信じられないくらいの声で泣いていた。ロシナンテはその時、己の罪を痛いほどに理解した。
ミオは子供でいることを許されなかった子供だった。
庇護されて当然の年齢だったのに、父母は姉より弱かった。肉体面でも精神面でも。だったら姉が守るしかないじゃないか。
辛くないはずがないのだ。いつだって姉の身体は悲鳴を上げていた。心は軋んで壊れそうだっただろう。不安で潰れそうな夜だってあったはずだ。
それなのに。
嫌だ、苦しい、逃げたい。そんな言葉は一言だって聞いたことがなかった。口にしてよかったはずなのに。そんな時間は与えてもらえなかった。
ほんの数年先に生まれてしまったばかりに、子供らしさを許されなかった姉から自分たちは命すら簒奪してしまった。
本当は、姉は家族を見捨てて逃げることだってできたはずだ。そうすれば器用で賢い姉は、間違いなく生き延びられただろう。
でも、姉の大事なものが、家族が姉を縛り付けてしまった。枷になって、優しい姉は逃げられなかった。
ロシナンテは己の弱さを呪う。幼さを嫌悪する。もっと大きく強ければ、姉はきっと生きられた。
大好きと伝えると、嬉しそうにはにかむ姉が好きだった。ドジを踏んだとき、ちょっとだけ困ったような顔で抱き締めてくれる時のあたたかさが、好きだった。
でも、それはもう見られない。誰でもないロシナンテのせいで。
兄を止めることはできなかった。
目印のひとたちはロシナンテのことを覚えてくれていて優しかったけど、とても哀しそうな目をしていた。ミオ様らしい、そうつぶやいて涙をこぼした。
ごめんなさい、姉様。
あなたのいない世界を、好きになれそうにないんだ。