桃鳥姉の生存戦略   作:柚木ニコ

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三ノ幕.生ぬるい牙

 

 

 ドフラミンゴに足を寸断され、ゲッコー・モリアの影の刃を腹に喰らったリトルオーズJr.の巨体が徐々に傾いでいく。

 白目を剥いたオーズにほぼ意識はないのだろう、処刑台へと伸ばされた指先もあといくらも保つまい。想定外の快進撃もここまでだと、センゴクは戦局を立て直そうと全景を把握するために首を巡らせ──違和感を覚えた。

 

「む?」

 

 半ば直感に従い弾かれたように首を戻せば真正面、オーズの顔の傍から何かが飛び出した。

 限界まで引き絞られ、放たれた征矢の如き速度で疾駆する白い影。よく見れば人間だった。

 

「な」

 

 思わずセンゴクは声を上げていた。否、状況が見えていれば誰もが同じように声を上げていただろう。

 

 目の前であまりにも荒唐無稽な事が起きている。たとえ想像したところで、誰も実行などするわけがない愚策の極み。

 

 オーズの巨体を隠れ蓑に、伸ばした腕を橋代わりに走り抜けて処刑台に肉薄するような馬鹿がいるなどと、想定しろという方が無茶である。

 しかも、その姿はオーズと比してしまうと本当にちんまりとして映り、到底このような場所にいるとは思えない。

 

「うそだろ……なんで、お前まで、」

 

 思わずといった風情で漏らすエースの声には驚愕と哀切が混じっているのがセンゴクでも分かった。目の前に迫ってくるのは絶対にいるはずのない──どころか、この場に()()()()()()()存在なのだということがありありと伝わってくる。

 声に反応したのか、小柄な存在が顔を上げてエースへと首を向けてまっすぐに彼を見つめた。センゴクにもようやく顔が見えた。色の脱けた髪をした小作りな面立ちの、まだいとけない少年にも少女のようにも見えた。

 確認してもまだこの場にいるのが嘘みたいな、場違いにすぎる少年だか少女だかは、仔猫を守る母猫の峻厳さで完爾と笑った。

 

「エース、かえろう」

 

 この状況で、戦火と闘争の坩堝の中──鉄火場を捩じ伏せるようなそれは、不思議なほど柔らかな笑顔だった。

 

「  」

 

 エースは口の中だけで、おそらくは相手の名前を呼んだ。

 

 センゴクは迎撃すべきかほんの一瞬、迷った。

 

 エースが反応を示し「かえろう」と口にした時点で『白ひげ』の一味と判断するのが妥当だ。迎撃すべきである。だが、海賊と断じるには浮かべた笑顔があまりにも淳良で、エースが生きていることに心から安堵しているのが伝わってきて──迷ってしまったのだ、らしくもなく。

 

 それが、致命的な隙だった。

 

 笑顔はすぐさま打ち消され、相手はオーズの指先を折らんばかりの勢いで踏みしめ、跳躍。

 

「オーズの手から何か飛び出したぞ!?」

 

 ようやくそれで周囲にも存在が確認できたのだろう、海兵たちに動揺が広がっていく。

 そんなこと毛程も気にせず処刑場へと見事に着地を果たすや否や、ぐん、と猫のように身体を沈み込ませて速度を殺すことなく肉薄した小柄な影は、未だ攻撃対象に加えるか否かで判断つきかねるセンゴクに問答無用で向こう臑へ拳を叩き込む!

 

「ッぐぅ!?」

 

 歴史上の豪傑すらその痛みに落涙すると呼ばれる箇所である。

 電撃の如く奔り抜ける激痛で反射的に屈みかけたセンゴクに、相手が更に繰り出した掌打は狙い違わず肝臓に突き刺さり、もはや声を出す余裕すらなかった。

 しかも相手は放った掌打でセンゴクの服を掴んで無理矢理に引き倒し、センゴクの首の辺りを駄目押しのように踏みつける。否、首のみならず頸骨、鎖骨、肺の辺りをめちゃくちゃに踏んで踏んで踏みまくった。呼吸もままならず、衝撃と痛みに呻く。がじゃりと何かが壊れる音がする。

 踏み下ろす、という行為の破壊力は見た目よりずっと凄まじい。重力と己の体重、そして筋肉の動きも加える打撃は人体の繰り出す攻撃としては最高峰である。

 

「が、ぁ、きさ──ッごぉ!?」

 

 それでも混乱から抜け出しかけたセンゴクが、慌てて己の能力を行使しようとした瞬間を狙い澄ましたかのように、口腔に猛烈な勢いで何かが突っ込まれた。

 人の口に納めることなど到底考慮に入っていないだろう質量が邪魔な歯を割り砕きながら、がつんと喉奥まで一気に押し込まれる。限界以上に開かされた頬骨が嫌な軋みを上げ、仰向けになっているため嘔吐くこともできず、何よりセンゴクが反射的に危機感を覚えたのは能力の発動が不可能なことだ。そして全身の骨が抜けるような途方もない倦怠と脱力感。

 

 これは、まさか。

 

 ざっと全身から血の気が引き──生理的に浮いた涙の膜の向こう、ようやく見えた相手はやはり小さく華奢な少女に見えた。否、見えるだけだ。

 纏う空気は心臓を握り潰すが如き圧力すら伴う氷結の殺気。色の脱けた髪の隙間から覗く桜色の瞳は、いっそ無残なほどに澄んでいた。

 

 こんな場所で凶行を引き起こしている張本人とは到底思えないそれが、今は何よりおぞましい。

 

「あなた、()()()()ですね」

 

 是も否も唱えられないセンゴクへ向けられた声は、ひたすらに平坦だった。

 視界の端で捉えたのは抜き身の白刃。センゴクは己の咥内を蹂躙しているのがおそらくは海楼石の仕込まれた刀の鞘であることをようやく察した。

 

「さよなら」

 

 だが、もう遅い。

 

 この処刑台にいるのはエースとセンゴク。そしてこの侵入者だけだ。

 虜囚であるエースはともかく戦力にもなるはずだった処刑人を下げてしまった今、センゴクは孤立無援である。状況を察した壁役の三大将の誰かが駆けつけるまで何秒かかるか。

 その数秒あれば、目の前の侵入者はセンゴクの命を容易く奪うだろう。

 

 抜かった。よもや白ひげにこんな隠し球が存在しているなど想定の埒外だった。──否、これは本当に海賊なのだろうか?

 人の皮を被っただけの化け物という方が余程信憑性が高いようにセンゴクには思えた。

 

 周囲の喧噪があまりにも遠い。近付く白刃が死神の鎌のようだ。

 

 危機的状況で限界まで引き延ばされた意識の中、ゆっくりと振り下ろされる薄刃がセンゴクの首へと迫るその──ほんの、手前で。

 

 

「センゴクさん!」

 

 

 いやにはっきりと聞こえたそれは、確かに誰かの悲鳴だった。

 

 センゴクが妙な懐かしさを覚えたそれは、魔法の声に等しかった。

 

「ッ」

 

 今しもセンゴクの命を刈り取ろうとしていた死神の動きがその一声でぴたり、と止まったのだ。

 同時にあれほど濃密だった殺気がふっつりと途切れ、桜色の瞳が何度か瞬きする。随分と幼い仕草だった。信じられないものを聞いたような、センゴクが真実『センゴク』であることを疑うような。

 

「……それじゃ、駄目だ」

 

 そして、人の皮を被った鮫は心底面倒そうに舌打ちすると、刃を引いてぐるりと回転させて、握った柄をセンゴクへ向けた。

 

「傷病での退役条件ってどの辺だろ。いいや、とりあえず顎もらいます。あとは失神しててください」

 

 殺気は霧散していても脅威は去っていない。

 つぶやきとともに片方の手で動脈を押さえ込まれ、無造作に振り下ろされた柄は破砕槌も同然の速度でセンゴクの顎を砕こうと──

 

「センゴクから離れんかバカモンがァッ!!」

「ッぐぅ、」

 

 したところで、唐突に現れたガープの鉄拳をまともに喰らって処刑台の外へ高々と吹っ飛ばされた。

 同時に、根性で手放さなかったらしいセンゴクの口に詰まっていた鞘が猛烈な勢いで引き抜かれる。新たな衝撃で真横に転がったセンゴクはせり上がる嘔吐感を堪えきれず、その場で吐いた。

 

「おいしっかりせい! 生きとるか!?」

「ッおぇ、ぐ、ぅ、は……」

 

 返事をしたいがまともに動けない。しこたま胃液を吐いてようやく落ち着きを取り戻したセンゴクは、口の端を汚す唾液を乱暴に拭った。

 泡を食ったようなガープが慌てて起こそうとしてくれたが、かろうじて上がる腕で拒否を示しながら身体を起こす。

 

「お、お前っ、アゴ外れとるぞ!? 一旦下がるか!?」

 

 この状況を分かってて言ってるのか。

 

「れひうはァ(できるかァ)! ……ぐッ」

 

 海兵たるもの最低限の応急手当は心得ている。

 自力で顎をはめ直したセンゴクは欠けた歯の交じった血痰を吐き出して、よろめきながら立ち上がる。身体のあちこちが激痛で軋みを上げた。頸骨が無事だったことは僥倖だったが、おそらく鎖骨が折れているし、あばらにはひびが入っている。能力を封じられてしまったのは不覚だった。

 

「ら、らんだったんだ、あの、小僧……」

 

 顎を動かすだけで砕けた歯から剥き出しになった神経に怪我とは別の激痛が響き、不明瞭な発音になってしまう。

 戦争の序盤も序盤でとんだ番狂わせがあったものだ。

 もし、あの一声とガープの横槍がなければセンゴクは文字通り早々に脱落していただろう。命令ありきで動く海軍の弱体化は必至である。なまじ各地から集められ人数の多い海兵にひとたび混乱が広がれば──万が一の場合には三大将が命令を担うだろうが──連携にも問題が生じてしまう。総崩れの危険すらないとはいえなかった。

 油断があったことは認めよう。オーズの登場で少なからず場が混乱していたことも。

 

 だが、それにしたって今の急襲は異常に過ぎた。

 

「ありゃ確か賞金稼ぎだったんじゃがな。ほれ、『音無し』の」

「賞金稼ぎ? 『音無し』……だと?」

 

 その名前はセンゴクにも聞き覚えがあった。

 確か、もう十年以上現役で活動し続けている古参のひとり。賞金稼ぎは出るのも減るのも早いが、その中でもたまに頭一つ飛び抜けた才と運で生き延びるものがいる。

 中でも『音無し』の名前はそこそこに有名だった。今まで捕縛した海賊は全て生きたまま数知れず。無軌道な真似をしたという噂を聞いた試しのない、優秀な賞金稼ぎだと認識していたが……。

 

「あれが、か?」

「いきなり襲われりゃそう思うわな。だが事実じゃぞ」

 

 なんせわしも会ったことがあるからなと語るガープは自分でも信じたくないという様子で、本当だというのがいやでも分かった。

 

「だが、まさか『白ひげ』の一味、いや、傘下か? どのみち、海賊だったとは……知らなんだ」

「十年以上隠し通し、賞金稼ぎとして動いていたということか。厄介な」

 

 隠しおおせたことも勿論だが、それ以上に問題なのはその行動である。

 愚直にエースを助けようとするだけならいざ知らず、この戦争での司令塔を担っているセンゴクを真っ先に狙い潰そうとする発想。オーズの行動不能すら奇貨として処刑台へ到達するための布石とした判断力。海楼石による能力封じ。なぜ殺すことを思い留まったのかは知れないが、それなら声を奪おうと切り替える悪辣さ。

 ひとつひとつは奇抜な動きに見えるが、その内実は理に適っている。最小の働きで最大の効果を狙う道理に基づいた、あまりにも海賊らしくない、冷たい数式で導き出した最適解である。

 場合によっては、優先して潰すことも念頭に入れるべきかもしれない。

 

「あいつは、ミオはオヤジの娘だ」

 

 そうセンゴクが思案する中、それまで口を噤んでいたエースがぽつりとぼやいた。

 

「けど、あんなの……おれだって見たことねェよ」

 

 信じられないものを見てしまったというような、呆然とした声だった。

 

「それだけ、お前を取り返したかったんじゃろ。おそらくな」

 

 ガープが苦虫を噛み潰したような顔で答えると、エースもまた苦しそうに表情を歪めて呻いた。

 

「ちくしょう……!」

 

 項垂れるエースを尻目に、センゴクは痛みに顔を引き攣らせながら自分を倒そうとした『音無し』改めミオとやらを探そうと首を巡らせる。

 先ほどガープが殴り飛ばした方へ視線を向けて──気付いた。てっきりガープに吹っ飛ばされどこぞの戦禍に落ちたと思われたミオは、なぜか宙に留まっていた。

 

「は、な、なんだ!?」

 

 違う。浮かんでいるのではない。処刑場から随分距離は離れたが中空に、まるで見えない足場でもあるかのように膝をついて、ガープに殴られた箇所を押さえながら眼下の『白ひげ』と睨み合っているようだった。

 その光景を見て、センゴクの中にいやな予感が走り抜けた。『音無し』が能力者だというのは聞いたことがあるが、詳細は分からない。

 

 だが、もしセンゴクの想像通りの『悪魔の実』を食べていたとすれば──非常に、まずい。下手をすれば戦局が一気に傾く可能性すらあり得た。

 

「ガープ! 『音無し』は何の能力者だ!?」

「わしも知らん!」

 

 使えない。しかし不確定要素は迅速に処理しなければならない。

 電伝虫から全海兵に注意を促そうとセンゴクは懐に手を入れ、指先に触れるいやな感触で反射的に指先を引っ込めながら顔面を忌々しげに歪ませた。

 

「やられた……!」

 

 懐に入れた連絡用の電伝虫が死んでいた。めちゃくちゃに踏んできたのは攻撃のみならず、これを狙っていたのだろう。

 連絡用に便利に使ってはいるが電伝虫は生き物だ。融通が利かない。海軍間に通達できる電伝虫を新たに持って来させなくてはならない。

 

 一分一秒が勝敗を分ける戦争のまっただ中で、これはあまりに痛烈な嫌がらせだった。

 

 




主人公はセンゴク元帥をモーガン大佐(婉曲表現)にする気まんまんだった。チッ

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