「バカな息子を──それでも愛そう」
戦場には到底似つかわしくない静かな声音と、己を抱きしめる強いちからと、染み入ってくる熱。
そのすべてが密着した肌から、響きから、伝わってきて──スクアードは目が覚めるような思いだった。
己の過ちを悟り、あんなにも猛り狂っていた敵意や憎悪がまとめて凍り付いていく。そうなってしまえば、押し寄せてくるのは途方もない後悔と自責の念だ。
かつての仲間を殺したロジャーが憎い。
その気持ちに嘘はない。どれだけ白ひげを慕い忠義立てしていても、その思いは今なおスクアードの胸の奥で熾火のようにくすぶり続けている。
ロジャーへ傾けた憎悪の多寡は、そのままかつての仲間たちに預けてきた親愛の深さに繋がっている。奪い奪われるのが海賊の信条とはいえ、それで納得できる海賊などこの世にいない。
おそらくこの憎悪が消えることはないだろう。それでよかった。かつての仲間たちに終生捧げるなら、湿っぽくて不甲斐ない船長の後悔や詫びなんぞより、消えることのない怨嗟の方が酒の肴に相応しい。
それはこの世でたったひとり、『海賊王』に仲間を殺し尽くされた船長である『大渦蜘蛛のスクアード』だけが自由にできる感情だった。
それを、勝手に利用されたのだ。今となってはまんまと乗せられた己が恥ずかしい。悔恨が頬を伝い、慚愧の念が報仇を求めて啜り泣く。
エースがゴールド・ロジャーの息子だった。知らされた瞬間の驚愕は筆舌に尽くし難い。反射的に裏切られたと感じて、親愛の情がそのまま反転した。元々スクアードは情が深く直情的で、だからこそ悲憤も強かった。エースと仲良くしていた自分が愚かしいとさえ思った。
怒りで沸騰した脳髄へ『赤犬』から注ぎ込まれる言葉をそのまま飲み込み、激情に突き動かされるままに現場を放棄して『白ひげ』を襲撃した。止まれるわけがなかった。
──結局、その襲撃は失敗に終わった。
スクアードは一矢報いる間もなく簀巻きにされて転がる羽目になった。乱入してきたのは馬鹿みたいにでかい蜘蛛で、最初はなぜそんな化け物が『白ひげ』の味方をしているのか分からず混乱したが、そんなことよりしくじったという念の方が大きかった。行動不能になっただけで収まりがつくわけがない。身体が動かずとも口は動く。
スクアードはあらん限りの面罵をぶつけ、『白ひげ』を非難した。一撃をくれる奇跡さえ起こせなかったが、傘下に混乱のひとつも与えることができれば御の字だと思った。
白ひげ傘下の首と引き換えに、エースの生は確約されている。
馬鹿馬鹿しい話だ。仮にも『白ひげ』へ籍を置く者ならば尚更信じるはずもない、駄法螺の中でもとびきりのホラ話だった。平素ならば笑い飛ばしていたかもしれない。
だが、スクアードはそれを信じて踊らされてしまった。そうなるように仕向けられていた。
『反乱分子』を名乗る『赤犬』の奸計で海軍の矛先は操作され、一笑に付して当然の与太話がよってたかって補強されていたのだ。鉄火場で狭くなった視野とロジャー憎しという感情を持ち続けていたスクアードが狙い撃ちされたのは、ある意味では当然だったのかもしれない。返り忠をそそのかすだけの材料が揃っている。
しかし、だ。
そんなお膳立てが整っていたとしても、スクアードが『白ひげ』に全幅の信頼を寄せていれば防ぐことは可能な策だったはずだ。
『赤犬』の言葉に頷いたその瞬間、スクアードは間違いなく『白ひげ』より『赤犬』を信じていた。信じてしまっていたのだ。こんなにも大好きな人へ疑心を、抱いて。
それを理解できてしまったからこそ、スクアードは己の愚挙を恥じた。
「親の罪を子に晴らすなんて滑稽だ。エースがお前になにをした……!?」
ああ、そうだ。本当にその通りだ。スクアードの恨みつらみはロジャーにのみ向けて然るべきもので、エースとは一切の関わりがない。エースは自分に何もしちゃいない。喧嘩はしたし、気にくわないことだってある。殴り合いだってしょっちゅうだった。
だからってそれは心底エースを嫌っていたとか、そんなことではなくて。
もし、本当に心底嫌い抜いていたら、スクアードはこんなところに来ていない。だってスクアードは、小面憎いくせにいつも寂しそうにしているあのガキんちょのことが──
「仲良くやんな」
今まさに自分へと刃を向けようとしていた馬鹿な息子へ向けて紡がれる言葉はただ、優しい。
「エースだけが特別じゃねェ、みんなおれの、家族だぜ」
家族。
海賊から遙かに乖離したその概念を誰より大事にしているからこそ、スクアードは『白ひげ』を慕っていたのだ。
静かに教え諭すような言葉はそれまでで、滂沱と涙を流すスクアードから顔を上げた『白ひげ』の雰囲気は一変していた。
「おれが息子らの命を、売っただと……?」
老いたりとはいえその瞳には一切の陰りはない。怒りに煮えて炯々とぎらつき、おもむろに振り上げられた拳で空間を力の限り殴りつけた。
そのたった一撃で、『白ひげ』は己の生き様をすべての海賊たちに知ろしめる。
空間が震撼し、邪魔な氷塊が砕け散る。退路が拓かれ、傘下たちはこれでいつでも逃げられる。
その上で、『白ひげ』は傘下の海賊すべてを束ねる長としての威厳を纏い、問うのだ。
「海賊なら!! 信じるものはてめェで決めろォ!!!」
傘下たちに広がっていたはずの焦燥が、戸惑いが、混乱が、その一言で鎮まっていくのがスクアードにはよく分かった。
そうだ、これが『白ひげ』なのだ。船員たちをひとり残らず息子と呼んで尊び、慈しみ、守る。決して見捨てたりしない。
その行動ひとつが、千言を尽くし、万言を弄するよりもなお雄弁に『白ひげ』を語る。
「おれと共に来るものは──命を捨ててついてこい!!!」
応える声は海賊たちすべての覚悟を束ね、強く、激しく、荒々しく天へと轟き──豪雷のそれに似ていた。
×××××
「おれは……なんて事を……!! すまねェおやっさん……!! すまねェ!!」
ついに出撃した『白ひげ』を見つめながら、甲板で転がったまま涙を流すスクアードにひとりの男が近づいた。
「まんまと海軍にしてやられちまったなァ、スクアード」
「サッチ……」
サッチだった。フランスパンみたいな頭も変わらず、憐憫めいた感情を瞳に湛えながらも彼の傍らにしゃがみ込んで、少しぎこちない動きで愛用の包丁めいた武器でざくざくとスクアードの縛めを解いてやる。
「……お前がオヤジを刺さねェで済んだのは、軍曹のおかげだ。あとで礼言っとけよ」
本当は言いたいことが山ほどあっただろうが、サッチはそれだけを告げて『白ひげ』のあとを追った。
「軍曹……?」
おそらくあの蜘蛛の名前だろうが、あんなペットを飼っている船員などいただろうかと少し考えて、ようやく『モビー・ディック』号で時々見かける──先ほど盛大な啖呵を切って絶縁された──白ひげの『娘』が連れていた蜘蛛だということを思い出した。
自船を持っているスクアードとしょっちゅう旅をしているミオは接点が少なく、さして仲がいいわけではない。せいぜいが時候の挨拶と、そうでなければエースとつるんでいるのを時々見かけるくらいのもので、紹介されるまで座敷童の類かと疑っていたくらいだ。
しかし、今となっては……本当に座敷童かもしれないと逆に認識を改めてしまいそうだ。
おそらくあの『娘』──ミオが横車を押し通してこの戦場にいなければ、あの蜘蛛だって当然ここにはいなかっただろう。そうなれば、スクアードはきっと白ひげを刺していた。殺すことはなくとも、傷を与えていたに違いない。
そんなことになってしまえばと思うだけで、今更になって肝が冷える。
「すまねェ……、ありがとう」
感謝を込めてつぶやくと、ちょうど見張り台の方へ戻ろうとしていた軍曹が片脚を上げたようだった。
×××××
頃合い良しとみたのか、遂に『白ひげ』ことエドワード・ニューゲートが甲板から降り立った。
この戦争において、最も重要な大将首である。
群れをなして向かってくる雑兵たちを『白ひげ』は大薙刀で、あるいは拳でいとも容易く薙ぎ払い、能力の引き起こす威力も相まってそれはまさに出撃と称して差し支えがなかった。
スクアードの引き起こした混乱もすでに収まり、我先にと海軍へ立ち向かっている海賊たちの結束は一連の出来事でいや増している。
船長の下知は思いのほか効いたらしく、先ほどより動きが統率され、団結しているのが見て取れた。
それは心強いことだが、同時に不安だった。
海賊側が一気呵成に攻めているわりには、海軍の動きが妙に落ち着き払っていたからだ。
現に白ひげが能力を駆使して処刑台の破壊を試みたが、それは三大将が阻止に成功している。三人がかりでないと難しかったのだろうが、白ひげが動き始めてから即座に配置に戻るあたり、徹底しているといっていい。
「なんか、まずいかも」
それらを横目に見つつルフィの援護に努めていたミオがつぶやくと、聞こえたらしいジンベエとイワンコフが同意した。
「嬢やもそう思うか。あちらさん、何か仕掛けてくるぞ!」
「かといって麦わらボーイが止まらナッシブル!」
先ほど合流したイワンコフはミオの存在に大層驚いていたが、お互い手短に説明して事なきを得た。
十年以上前に会ったきりだというのに覚えられていたというのもそうだが、革命軍の重鎮がここにいる事の方がミオには意外だった。ただ、イワンコフはドラゴンに恩があると言っていたことを覚えていたので納得もした。
「それなんですよ、ッと、すとっぷ!」
言いながら、ミオは白ひげの能力発動の気配を感じてルフィの襟首を引っつかみ無理やり方向を変えさせた。
「ぐえッ、なにすん、!」
そう、文句をつけようとしたルフィの足下の氷が音を立てて崩れる。グラグラの実の影響である。進んでいたら危なかった。
「敵も味方もねェのかあのおっさん!」
ぜい、と荒い呼吸をつくルフィにミオはいや、と答えた。
「僕ら慣れてるから。避けられるんだ」
白ひげの人たちは船長の攻撃の直線上には出ないように実践で叩き込まれるので、身体が自然に動くのだ。
「船員達はわきまえて避難しとるわい」
とはいえ、能力発動云々なんてのは一度でも連携をしていなければ分かることではないから、こればっかりはどうしようもないのかもしれない。
しかもルフィは前しか見てないうえ、白ひげに注意を払う余力もないので、結局はジンベエたちがフォローに回るのがいちばん簡単なのだった。
白ひげの参戦によって戦場が混乱したおかげで、海兵の邪魔は大分減っている。
妨害のないことをチャンスと見たルフィは腕を伸ばして壁を掴み、一足飛びにエースの元へと向かおうしたのだが、突如としてグラグラの能力とは別種の震動がマリンフォードを揺らした。
そうして氷を突き破りながら音を立てて屹立したのは、鋼鉄の壁である。
高く、重厚感のある壁はそれだけでも厄介だが、ずらりと並ぶ砲塔の群れが不吉さを底上げしていた。
「な、なんだ!?」
戸惑いの声を上げるルフィの横で、ミオは納得を覚えていた。海軍の策はこれだったのか。せり上がってくる鋼鉄の壁はまるで湾内を囲うかのように配置されている。海賊を追い詰め、物理的な袋小路に陥らせるように。
海賊たちは戸惑いながらも壁に攻撃を仕掛けるが傷一つついておらず、どれだけの厚さで構築されているのか見当もつかない。
唯一抜け道があるとすればオーズの超巨体を持ち上げきれずに空いている部分だが、あんなところにノコノコ向かえば狙い撃ちされてしまうだろう。
その耐久力とあちこちから覗く大砲を見れば、海軍の目的など決まっている。そも、殲滅できるならそれに越したことはない。
なら、海軍の動きが意図するところは──
「親分さんとイワちゃんさん! ルフィくんのこと頼みます!」
自分のたどり着いた答えに血の気が引き、ミオは二人に向かってそう言うと返事も待たずにその場で現場を放棄。反転して走り始めてしまった。
あまりにも唐突な行動だったので周りの人間も反応できなかった。
「どこ行くつもりだ!? 白いの!」
気付いたルフィが慌てて腕を伸ばして肩を掴もうとするが、その鬼気迫る表情に何かを感じて引っ込める。
「別ルート探る!」
それだけが聞こえて、みるみる遠ざかる背中を呆然と見るしかなかったルフィだが、どのみち目的は同じだ。すぐに前を向く。
鋼鉄の壁の向こうから、何か異様な気配が渦巻いていた。
それはあまりにも熱く、重く、破滅的で──
「"流星火山"」
花火が打ち上がるような音とともに──空が、まばゆく輝いた。