虜囚にできることは、ただ、ただ、見つめることだけだ。
瞳に焼き付け、記憶して、心に刻みつけることだけだ。
処刑台の上、跪いたまま後ろ手に海楼石の枷で拘束されているエースにできるのは、それだけだった。
「野郎共ォ!! エースを救い出し!!! 海軍を滅ぼせェエエ!!!」
『白ひげ』の大音声が号砲のように響き渡り、伝播して、仲間たちの応じる声が負けじと地を揺るがす。海賊たちの決意と覚悟、怒りと戦意が火柱の如くほとばしっているのを感じる。
処刑台からは戦況がよく見える。
『白ひげ』を頭に据えた隊長たちが相対するのは、海軍の主戦力ともいえる三大将。入れ替わり立ち替わり攻撃してはし返され、激戦を繰り広げている。
そこに混じっているのは大切な弟。すでに体力なんかろくに残っていないのはここから見ていたって一目瞭然だった。
瞳だけは不退転の覚悟を秘めて恒星のような煌めきを放っているが、果たしてどこまで持つか。すでに傷ついていない箇所を探す方が難しいほどの満身創痍である。
意地と根性だけで身体を動かし、なんとか目の前の敵をぶっ飛ばしているが──遂に、底なしかと思われていた体力が限界の先を越えてしまったのか、別の海兵からの攻撃をまともに食らってぶっ倒れ、ダメ押しのように現れた『黄猿』が能力を込めた前蹴りを放った。
「ルフィ……!」
避けることもできずに吹き飛ばされたルフィは水切り石のように軽々と宙を舞い、運良く『白ひげ』に受け止められ、後方にいた船医へと託された。
どんな会話が交わされているのか、ここからでは聞こえない。もどかしい。苦しく、辛い。
この戦争に参戦している海賊たちが──傷つき、血を流し、倒れる仲間たちが、抱いている思いはひとつだ。
エースを助ける。救う。処刑なんかさせてたまるか。
そのために、そのためだけに集結した『白ひげ』海賊団と傘下たち。──そして。
ほんの数分前に『モビー・ディック』号で奇跡を起こした、『白ひげ』の元愛娘。
迫る"流星火山"を睨み付けていたミオは、ふとエースを見て笑った。明るい表情だった。『モビー・ディック』号は守るから安心してね、と言われた気がした。
エースのおうちはここだから──だから、早く帰っておいで。
この戦争におけるとびっきりの異端児は『赤犬』の放った"流星火山"をたったひとりで食い止めるという信じられない偉業を成し遂げ、我らの偉大な鯨は今や遅しと仲間たちの帰りを待っている。
そんな、もはや海軍にとっては『化物』のような存在はといえば、奥の手として潜ませていた
無理もない。ただでさえ『白ひげ』とルフィが最前線で戦い、仲間たちも入り乱れている。目玉がいくつあっても足りるもんじゃなかった。これだけの混戦を極めているのだから、戦塵の舞う中でちっこいミオを見失うのはある意味当然といえる。それにしても本当に忽然と姿を消していた。
そして、それはどうやら海軍も同じなようで、背後の元帥の電伝虫から引っ切りなしに入る連絡の中でも発見できずという報告が入っていた。
あちこちで爆発が起こり、砂嵐が巻き起こり、氷塊が砕け、光が弾け、煮え立つマグマが海賊たちに襲いかかっている。剣戟、あるいはビーム兵器、銃声と悲鳴と怒号、鼓舞と気勢の声が入り交じり、戦況は混沌としていた。
凄まじい光景だった。そして、その光景を生み出すに至ったすべての起点は間違いなくエースなのだ。
彼らの行動原理のすべてが伝えてくる。
長年の疑問の答えが、ここにある。
『おれは、生まれてきてもよかったのか』
幼い頃からエースに根ざしてきた問い。『海賊王』の血を継いだせいで呪いのように付きまとう疑問は、時々あぶくのように湧き出てエースの内側を激しく揺さぶってきた。
けれど、仲間たちが口々に自分の名前を叫んでいる。呼び続けている。祈りのように、願いのように。
エース。必ず助けるから、待っていろ。諦めるな。
「……くそ……おれは、歪んでる!」
エースは己を嫌悪するように吐き捨てながら深く項垂れた。熱い涙が頬を伝って落ちてくる。
「こんな時に、オヤジが……弟が! 仲間たちが!! 血を流して倒れていくのに……!!」
滂沱と流れる涙に込められているのは、悔悟でも悲嘆でもない。
「おれは嬉しくて……涙が止まらねェ」
胸から湧き上がり、とめどなくまなじりからこぼれ落ちるのは──歓喜の涙だった。
「今になって、命が……惜しい!!」
それは、エースの心の奥底に沈み込んでいた本音が長い、長い時間をかけて絞り出された瞬間だった。
生への渇望と未練が泣き叫んでいる。こんな時なのにたまらなく嬉しかった。もうエースはひとりぼっちの海辺でうつろに膝を抱えていた子供ではなかった。孤独は怖い。寂しいのは地獄だ。けれどもう、エースには仲間がいる。大事なものがある。それが実感できる。心の底から。
帰りたい。いきたい。オヤジたちのいる『白ひげ海賊団』と──もっと、一緒に。
だって仲間たちが望んでくれている。こんな鬼の子の無事を願い、救い出すためにすべてを賭けて戦っている。もう捨て鉢でいることなんてできなかった。それは命を賭している者たちへの侮辱に他ならない。
異変が起きたのは、その直後だった。
エースの位置からでも分かった。見えてしまった。
群がる海兵を相手に大型の肉食獣を思わせる威圧と迫力とともに大薙刀を振るっていた『白ひげ』が、唐突に体勢を崩したのだ。動きが不自然に止まり巨体をくの字に曲げ、苦悶するように身をよじる。
目撃した仲間たちから悲鳴が上がり、マルコを筆頭にした隊長たちがそれに気付き──『白ひげ』の体調の激変に見せた一瞬の狼狽。
それが隙となり、優勢だった海賊勢に乱れが生じた。
最初に狙われたのは一番隊隊長『不死鳥』マルコだった。『白ひげ』に意識を割いたために動きがにぶり、それを『黄猿』が狙い撃ったのだ。光熱のレーザーがマルコの肉を貫通し、三番隊隊長のジョズが半身を青キジに凍らされてしまったのもちょうど同時期だった。一番隊と三番隊、二枚看板ともいえる隊長たちが大将の攻撃を浴びたことで動揺が伝播する。
そして寸の間もおかず『赤犬』が『白ひげ』へと肉薄した。マグマと化した拳を振りかぶり、その巨体へと潜り込ませた。
焦げ付いた臭いが辺りに漂い、血飛沫が待った。
生きながら焼かれる苦痛はただの怪我とは一線を画す。『白ひげ』の負担は相当なものだっただろうが、頑健な精神力で無理やりそれらをねじ伏せた『白ひげ』は小揺るぎもせず──間髪入れず至近距離の『赤犬』をぶん殴った。
「ぬぅッ!」
痛烈なカウンターに『赤犬』は反撃に転じることが出来ず吹き飛ばされ、瓦礫の上に転がったがすぐに起き上がる。
『白ひげ』はなんとか立て直したが、海賊たちに広がった衝撃は大きい。
海賊側に勢いが乗っていたことが不利に働いていた。統率が崩れ、生じた迷いが全体の動きにまで影響を与えてしまう。海賊団の中核をなす『白ひげ』が斃れるというのはそういうことだ。
総崩れを起こす危険性もあり得るほどの致命的な隙だった。
けれど、そんな窮地を狙い澄ましたかのようなタイミングで事態を動かす存在がここにはいた。
「ウォォオォオオォォ──!!!」
ただのひとりが発しているとはとても思えない、地鳴りの如き大音声。
それは、今の今まで瀕死の状態で船医に預けられていたはずのエースの弟の喉から反撃の狼煙として上げられた、獅子の如き咆吼だった。
そして──ルフィは再び走り出した。
全身に刻まれた傷も、底を突いたはずの体力もすべてが嘘だと言わんばかりの、まさに破竹の勢いで吶喊するルフィは並み居る海兵を片っ端から拳で足で頭突きで粉砕する。
海兵は次々に骨を折られ肉を潰され血をまき散らし悲鳴を嗄らしながら、小石のように吹き飛んでいく。どういう理屈かは不明だが、体力さえ回復してしまえば実力と気概と覚悟が違うルフィに海兵が勝てる道理などない。
詰まる。詰まっていく。エースとルフィとの距離が。
「オヤジぃい!!」
体勢を立て直しきれていなかったのはむしろショックから抜け出せていない『白ひげ』たちの方で、『黄猿』のダメージから回復する前にマルコは海楼石の錠をかけられ、ジョズに至っては全身を氷付けにされてしまった。
『白ひげ』が劣勢に立たされた今逃がすわけにはいかぬとばかり、『元帥』の檄が飛ぶ。
「ぐずぐずするな! 全員で『白ひげ』の首をとれぇえッ!!」
号令一下、『白ひげ』の周りを取り囲んでいた海兵たちが一斉に武器を構え、あるいは躍りかかり、それは教本にでも載りそうな一糸乱れぬ総攻撃だった。
四方八方から軍刀が迫り、無数の弾丸とバズーカという、いち個人に向けるには明らかに過剰な暴力が『白ひげ』を穿つ──その、刹那。
ガガガガンッ!!
「……えっ?」
思わず間抜けな声を出してしまったのは海兵だった。それはそうだろう。『白ひげ』を的に放たれた剣林弾雨すべてが弾き飛ばされ、あさっての方向へ散らばってしまったのだから。不可思議な現象だった。
それは──まるで、『白ひげ』の眼前に突如として
当の『白ひげ』はといえば謎の現象にかすかに瞠目したものの、すぐにくつりと喉をふるわせる。
「心配、かけちまったか」
攻撃を食らったと誤解したらしい海賊たちが口々に悲鳴を上げて殺到しようとしたところを「来るんじゃねぇ!!」と制し、『白ひげ』は豪放磊落に笑った。
「グラララララ! おれは食らってもいねェよ!」
その様子に今度は海兵たちが動揺する。
誰の仕業かは先刻承知している上の者たちが顔をしかめ、あるいは「まだ見つからんのか!」と電伝虫にがなっているが、どうやら本当に発見できないらしい。
あれだけの耳目を集めたにもかかわらず煙のように消え失せて、けれど『白ひげ』の危機は見逃さない。本当に幽霊か座敷童の類にでもなってしまっているようでなかなか痛快だった。
「どこから見てやがったんだか、元馬鹿娘がお節介焼きやがった」
広場に突っ込んでからすぐに姿を消していたミオがこんな戦場のどこで油を売っているのか気になるところだが、今は目の前に集中すべきだろう。
『赤犬』の一撃以外の傷が見当たらないことが海賊たちにも見えたのか、明らかに安堵の気配が漂う。そうなると、噴き上がるのは海軍への殺意である。
「助けなんざいらねェってのに……これしきで、おれが死ぬわきゃァないだろうが」
不意にぐん、と『白ひげ』の武威が圧搾される。
「おれァ『白ひげ』だァッ!!」
恐ろしいまでの殺意と怒気が獰猛に吹き荒れ──振るわれた大薙刀が圧倒的な暴力となって海兵たちへ襲いかかった!
轟音。
地響き。粉塵が舞い上がる。『白ひげ』の攻撃が爆裂する。瓦礫がめくれ上がり、海兵がまとめて雲霞のように薙ぎ散らされ吹き飛ばされ血をまき散らし蹂躙される。
生半可な輩では太刀打ちできない。力の差は歴然である。数の暴力など通用しない。
これが『四皇』の一角を冠する『白ひげ』なのだ。
「おれが死ぬこと……それが何を意味するか、おれァ知ってる……!!」
ロジャーと時代を生きた男の言葉は、重い。
「だったらおめェ、息子たちの明るい未来を見届けねェと、おれァ死ぬわけにはいかねェじゃねェか……」
それが、『白ひげ』がここに立っている理由だ。
新しい時代が来ている。もうすぐそこまで。皮肉にもこの戦争がそれを証明している。それが『白ひげ』には少しだけ喜ばしい。
「なぁ、エース」
処刑台のエースを見上げる。愛すべき息子。若い命を散らせてたまるものか。次代に受け継ぎ、託し、繋がなくてはならない。
それが『父』としての義務で、『白ひげ』としての責務だった。
「未来が見たけりゃ今すぐに見せてやるぞ、『白ひげ』!!」
元帥が吠えると同時、背後の処刑人が処刑刀を大きく振り上げる。あれが振り下ろされれば、エースの首が飛ぶ。
「無駄だ、それをおれが止められねぇとで、も──」
こんなにも肝心な時なのに、『白ひげ』の身体は本人の意思に反して悲鳴を上げた。内臓が軋み、目の前が揺れる。外傷とこれは別問題だ。
体内の病巣という名の時限爆弾が疲弊と同時に露出してしまう。視界が霞む。立っているのがやっとだ。
自由にならぬ内臓を叱咤して掻きむしり、その『白ひげ』の様子を奇貨として振り下ろされた刃はエースの首へと吸い込まれ──。
エースの大事な義弟にして稀代の革命家の血を引く麦わら帽子の船長が、起死回生の一手を放ったのは、まったくの同時だった。