桃鳥姉の生存戦略   作:柚木ニコ

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二十ノ幕.願いと誠意と我儘と

 

 

 マリンフォード全体が霞んで見えるほどの戦塵があたりを漂い、爆音と剣戟と悲鳴と怒号がひっきりなしに響いている。

 遠目から見ても海軍基地としての威容は見る影もない。建物どころか島の地盤にも亀裂が入り、次々に瓦礫が崩落していくさまは島そのものが身悶えする巨獣を思わせた。

 

 それでもちょっと戦闘という行為に身を窶した経験のあるものならわかる。かの地からはすでに終いの空気が場に満ち始めていた。

 

「……あー。やめだ、やめ」

 

 面白くもなさそうに戦場を見据え、もじゃもじゃの黒髪に粗暴な空気を纏った巨躯の男──海賊『黒ひげ』ことマーシャル・D・ティーチはあっさりと退くことを決めた。

 『黒ひげ』はエースを海軍に引き渡した張本人だ。彼からしてみれば七武海に入るための手段としてそうしたに過ぎないが、あえて原因を求めるとすれば……この戦を引き起こしたのは『黒ひげ』であるといえる。

 

「よろしいので?」

 

 近くにいた細身の男がシルクハットに手を添えながら問いかける。この戦争に介入できるよう小細工を施したのはこのラフィットである。

 船長の決定に否やを唱えるつもりはなくとも、理由くらいは聞かせてもらってしかるべきだろう。

 

「ああ。目的は達成できたしな」

「ずいぶんと弱腰じゃねェか、おれたちの『船長様』がよ」

 

 葉巻を咥えた男が揶揄すように口を開き、その近くにいた囚人服のものたちも口々に不平を漏らす。

 最初にティーチを咎めた『雨のシリュウ』を筆頭に、囚人服を着ている者は全員ティーチが大監獄『インペルダウン』から『勧誘』したばかりの囚人だ。本来なら二度とシャバの空気を吸うことすらできずに大監獄で朽ちることを運命づけられていた、最悪を極めた札付きのワルである連中は総じて血の気が多い。ティーチの臆病ともいえる判断に不満が出るのも当然といえた。

 

 だが、ティーチはそんなシリュウたちの態度をこそ小馬鹿にするように鼻を鳴らす。

 

「馬鹿野郎、おれァ仲間思いの『船長様』なんだぜ? せっかく勧誘した仲間たちにハナッから死なれちゃァ、寝覚めが悪くてしょうがねぇ」

 

 ティーチは一見粗暴に見えるが観察眼が鋭く、引き際の見極めに長けていた。

 

「お前ら引き連れて海軍に喧嘩売って、多少くたびれちゃいるが『四皇』の一角とドンパチしろってか? そりゃちっとばかし分の悪い賭けだ」

 

 囚人どもは長年に渡る監獄生活で体力はもとより、なにより戦場の勘を取り戻していない。

 無論、一筋縄ではいかないあれくれ者の集まりなのだから遠からず膂力も勘も戻ってくるのだろうが、その前に死なれてはわざわざ監獄に行った甲斐がないというものだ。なんせ、仲間を募るためだけにティーチは『七武海』の称号を手に入れたのだから。

 

「まァ、それでも行きてぇヤツがいるなら勝手にすりゃあいい。止めやしねェよ」

 

 とはいえ、戦争特有の空気で血が沸いて辛抱できないというのならば仕方がない。そういう馬鹿揃いなのは承知の上だ。

 ティーチのぞんざいな物言いに元囚人たちは鼻白んだが、それがかえって彼らの闘争心を冷ましたようだった。いくら高揚したからといって、あんな場所に乱入したところで何が得られるわけでもない。歴戦の猛者たちの嗅覚はそこまで落ち込んではいなかった。

 奪うお宝もないのに危険を冒す海賊なんていないのだ。

 

「もう少し『白ひげ』がボロカスになってりゃあなァ……」

 

 忌々しげに舌打ちひとつ。それだけはティーチも惜しいと思っている。戦争で疲弊した『白ひげ』ならばあわよくば、とも思っていたが予想より『白ひげ』の損耗が低い。

 『ヤミヤミの実』のためにサッチを殺しかけたティーチがノコノコ顔を出せば、海賊たちから集中砲火を食らうのは確実である。殺す気で仲間を手に掛けたというのはそれだけ重い。『白ひげ海賊団』ならば尚更だ。首を突っ込むならそれなりの旨味がなければ意味がない。

 

「……フン。なら、楽しみはあとにとっておくか」

「そうしろそうしろ。なァに、どうせそんな待たせねェから安心しろよ」

 

 『黒ひげ』の言い分にひとまずは納得したのか、シリュウは「期待してるぜ」とだけ言ってさっさと船の方へ行ってしまった。

 そんなシリュウを目線で追いながら、ティーチは逆方向で今にも死にそうな馬に跨って死にそうな咳をしている矮躯へ問いかける。

 

「おいドクQ、どう見る?」

 

 乗馬、というよりはもはや馬首にかろうじてしがみついているような有様のドクQと呼ばれた男は、伸ばしっぱなしのむさくるしい金髪の隙間から瞳を覗かせながら、にぃと口の端を無理矢理に引き上げた。

 

「ゼェ……早くて、三ヶ月……いや、運命がかの御仁を生かすというなら、もっと……ガフッ」

 

 ぶつぶつとうわ言のように呟き、なぜか吐血までしているこの海賊団の船医にティーチはぼりぼりと頭をかいた。

 

「ケッ、なら倍でみとくか。あいつらのナワバリは知り尽くしてる。なんとかなんだろ」

 

 すでにティーチの思考は今後へと向けられ、未だ戦乱吹き荒れるマリンフォードを一顧だにしていなかった。

 脱出するなら海兵の目が向かないよう早いに越したことはないし、これからに備えてやるべきことは山ほどある。

 

 最後にティーチは一度だけ振り向き、マリンフォードの端へと視線を向けた。

 

 シャボンディ諸島で流通しているボンチャリ──のようなものにまたがる小さな影と、その背中にしがみついて鈴なりになっている元七武海と『麦わら』とエース。

 

「テメェさえいなきゃ、よかったんだろうぜ」

 

 『白ひげ』の娘だった、見かけと裏腹に年食った忌々しいガキんちょ。サッチを殺そうとした自分を止めて、こんなところにまでノコノコやってくるような大馬鹿野郎。

 

 極めつけの阿呆だ。けれど、その阿呆はとびきりの実力と戦況の潮目を見極める抜群の『眼』を持っていた。

 

 おかげで『黒ひげ』は『白ひげ』の能力を奪う千載一遇のチャンスを逃した。心底憎たらしい。

 

 とっととくたばってくれや、と『黒ひげ』はミオへ向けて親指を下へ向けた。

 

 

 

×××××

 

 

 

 マリンフォードからの砲撃がぎりぎり届くかどうかの位置で浮上したひまわり色の潜水艦は、ミオにはまるで灯台のように見えた。

 

 見知った顔が慌ただしく甲板を行き来していることを確認できただけで、胸が詰まっていっぱいになる。

 ローがいる。車椅子だけどコラソンがいる。ちゃんと意識が戻って、元気そうだ。迎えに来てくれた、本当に。嬉しさと安心感でぐちゃぐちゃになって、涙を堪えるのがやっとだった。

 

──けど、ここはまだゴールじゃない。

 

 ゴールにしたかったけど、そうもいかなくなってしまった。

 ぐっと息を吸い込み、『ポーラー・タング』号のちょうど真上あたりでブレーキをかけ、ボンチャリは半円を描くように止まった。ミオは再会を喜ぶ暇もなく大きく声を上げる。

 

「ジャンバール! ベポ!」

「え?」

「む?」

 

 二人が声に反応した途端、ミオは「ほら終点だぞ降りろオラァ!」とあろうことかジンベエをボンチャリから振り落とした。

 

「ぬぅおッ!?」

「ジンベエ!?」

 

 タイミングが絶妙だったのかジンベエはあっけなくボンチャリからずり落ちる。当然エースもルフィも諸共である。

 ジンベエのような巨体が突然落下してくるものだから、ほぼ真下にいたジャンバールが慌ててキャッチした。なぜだか横のベポが「よし! それでいいんだ!」とか言いながらサムズアップ。

 

「じ、嬢や! どういうつもりじゃ!?」

「おいこらミオ! なんだよこいつら!」

 

 ジャンバールに抱えられたままジンベエとエースが口々に声を上げる。『ハートの海賊団』は『白ひげ』の傘下でもなんでもないのだから、意味がわからなくて当然だ。

 周りのクルーたちには三人がどれだけの重傷なのかすぐに看破できたのだろう、「うわひっでェ怪我!」「あんたらよく生きてるな!」とか騒いでいるが、ローたちはそれどころではない。

 

 甲板から身を乗り出し、ローはボンチャリから降りようとしないミオへ怒鳴りつけた。

 

「あんたも早くしろ! すぐ海に潜る!」

 

 ミオはその言葉に返事、どころか視線もよこさずエースたちを見下ろしながらローを指差す。

 

「その船は『ハートの海賊団』で、目つき悪いもこもこ帽子はロー! んで、僕が世界でいちばん信頼してるお医者さん!」

 

 医者、という言葉にジンベエとエースは顔を見合わせ、同時にルフィへと視線を落とした。この中で最も重傷なのは、未だに意識の戻らないルフィである。生乾きの傷から流れる血はまだ止まっていない。

 『白ひげ』にだって腕のいい医者はいるが、どこにいるかを探るのは至難の業だ。撤退戦に移行して手近な船に乗り込んだ船医を探し出す時間が惜しいことは確かである。

 

 二人の胸中を察しているのか、ミオはそこでようやくローへ首を向けた。

 

「ロー、その三人をお願い! ひっどい怪我だから、たぶん『死の外科医』じゃなきゃ無理だと思う!」

 

 まっすぐに自分を見つめるミオの姿は、送り出した時を思えばひどいものだ。

 髪はぐしゃぐしゃで頬にも擦過傷が目立つ。服なんか埃と泥で汚れ放題である。中でも気になるのは、ハンドルに固定しているらしい左手だ。包帯越しでは判別が難しいが、何があったんだかめちゃくちゃに腫れ上がっている。

 転がり込んできた奴らよりはマシかもしれないが、それでも相当にひどい怪我を負っているだろう。

 

 だというのに、三人をお願いとはどういうことだ。

 

 それでは、まるで。

 

「お願いって、あのな、おれたちがなんのために──ッ」

 

 ミオの表情と瞳から、ローの背筋に猛烈に嫌な悪寒が這い上がる。

 その表情は静かだった。砂や傷で汚れてひどいもんだが、瞳だけは澄んでいた。純度の高い鉱石のような何かがあった。

 

 この状況で、問い質すことすらイヤな思考が脳裏を埋め尽くし、口の中が一気に渇く。

 

 

──こいつ、まさか。

 

 

 一秒すら生死を分ける戦場であるまじき硬直に襲われ動けないローに、ミオは不思議に清廉な笑みを浮かべた。

 

 そして。

 

「僕は、あとで追いつくから」

「いやだ!」

 

 反射的に声を上げたのはローではなく、その横にいたコラソンだった。ローよりよほど顔色をなくし、恐懼にも近い表情でミオへと必死に腕を伸ばす。

 それはお世辞にも成人した大人の仕草ではなかった。大事なものを取り上げられて泣きわめく寸前の子供の方がよほど近い。

 

 コラソンの脳裏に蘇ったのは、幼少時のトラウマとも呼べる記憶だ。

 

 戦塵と硝煙の臭いが勝手に記憶の蓋をこじ開ける。呼び戻す。頭の中で時計が狂ったように逆回転しているようだ。指先から温度が消えて、胸がざわめいてどうしようもない。

 

 狂気と憎悪で染まった夜の街。

 

 周りは敵しかいなかった。生き延びるにはミオが囮になるしかなくて、自分と兄は止められなくて──そして。

 

 遠ざかっていった、ちいさな背中。

 

「それは、それだけは駄目だ! やめてくれ! 早くこっちに来てくれ! 頼むから!」

 

 捨てられた親に追いすがる子供のようなコラソンに、ミオはバツが悪そうに「ごめん」とつぶやいて身じろぎした。

 

「でもまだ、僕は一緒に行けない。合流がちょっと遅れるだけだから、そんな顔しないで」

「ここまで来てなに言い出してやがる!」

 

 怒号を上げたのはロー、ではなく、ジンベエの横で膝をついているエースだ。

 身体のあちこちから炎が噴出しているが、うまく形になっていない。ガス切れ寸前のカセットコンロのようだった。

 監獄からこっちろくに食べておらず、ここまで連戦続きですでに体力は底を尽いて久しい。能力を使おうにも、もうコントロールできるだけの力が残っていないのだ。

 

 そんなエースにミオは苦く笑って、宥めるように言葉を紡ぐ。

 

「ここまで来れたから言ってるんだよ。『ハート』のクルーに迷惑かけたらあとで吊るし上げるからな!」

 

 エースにとっちゃ『ハートの海賊団』は得体のしれないルーキー海賊団に過ぎない。

 あとで喧嘩を売られても困るので先に釘を刺し、すぐに眉をきっと吊り上げてジンベエに抱えられたルフィを右手で示す。

 

「つか、エースはお兄ちゃんでしょ。ルフィくん守ったげないと」

「う……」

「そのためにも、僕はいったんここから離れて、大将のひとりでも『ポーラー・タング』号から逸らしてみる。幸い、とは言えないけど……僕はだいぶ恨み買ったしさ」

 

 なんたってこの戦場で最も注目されていた面子がここまで揃っているのは『ポーラー・タング』号だけだ。

 喋っている間にも砲撃が何発も発射されて水柱をぶち上げているし、恐ろしい気配が近づいているのを肌で感じる。多少の距離はあるが、傷病者の安否は『ポーラー・タング』号の航行にかかっている。

 

 そして、そんな事情を抜いても万が一、ここで『ポーラー・タング』号になにかあったら──ミオは死ぬ。

 

 この戦争には本来、縁もゆかりもなかったはずのローたちが、船が、自分のせいで轟沈してしまったら、もう生きていけない。胸に穴が空いて、きっと死んでしまう。

 ルフィを盾にされて黙りこくってしまったエースを横目に、ミオはハートのクルーたちへと首を巡らせる。

 

「ボンチャリの速度を限界まで上げて、大回りしてから追いつくから待ったりしないで大丈夫。最速で潜航して。僕には軍曹がいるから、海底でも見つけられる」

 

 任せろと言わんばかりにミオの頭に乗っている軍曹が脚を上げた。

 状況は切迫している。今だってぎりぎりだ。海兵の軍艦がこの船に目をつけ始めた。砲撃の音はいや増すばかりだ。水柱との距離がじりじりと近づいている。ここに来て大将たちにまで襲われてしまえば、無事で済む保証はない。

 潜水艦は精密機械の塊。一発でも食らってどこかが故障でもしてしまったら、それだけで『ポーラー・タング』号の命運は尽きる。

 

「……なるべく早く追いつけよ」

 

 最初に決断したのは状況判断に優れているペンギンだった。

 

「うちのキャプテンはそう気が長くねェんだからな!」

 

 ありありと苦笑を浮かべているペンギンの横で泣きそうに怒鳴るシャチに「わかってる」とミオも真面目に頷いた。

 クルーたちも無言で現在の状況と船長とを天秤にかけて決断したらしい。ジャンバールを筆頭に何人かのクルーが頷き、それに驚いたのはベポだ。

 

「でも、ミオだって危ないよ!」

 

 大将を相手に単身囮になって、それを撒いて戻ってくる。それがどんなに無茶な夢物語なのか、ベポにだってわかる。

 けれど、ベポの悲鳴めいた声にミオは首を振る。

 

「今、いちばん危ないのはこの船だよ。ベポたち、もといローを呼んだのは僕だし、エースたちを途中で落とさなかったのは僕のわがまま」

 

 もし、ミオだけが『ポーラー・タング』号に辿り着けば、ここまで集中砲火されることはなかったし、ジンベエたちを途中で白ひげ傘下の海賊団の近くで落とすことだってできただろう。

 でもそれをすることができなかったのは、この戦場で最も卓越した医療知識と技術を持っているのはローであるという確信と、エースたちの怪我のひどさを肌身で感じてしまったから。つまりは、エースたちには死んでほしくないというミオのわがまま。

 

「だから、責任を取らないと」

 

 ミオが『ハートの海賊団』と逃げおおせるチャンスを逃したのは──他でもない、自分なのだ。

 

 自業自得なら、責任を取らなくてはならない。彼らが無事に安全圏へ逃げおおせるよう、手助けをしなければならない。

 でないとミオはこの先、晴れて仲間になれる日が来たって自分が『ハートの海賊団』のクルーだ、と胸を張って名乗ることができなくなってしまう。

 

 それは、それだけは心の底から、いやだった。

 

 ベポはミオを見上げて、落ちてくる言葉を拾って、理解して、ぐすりと鼻を鳴らした。

 

「……すごく。すっごくわかりたくないけど、わかった。早くね。おれたち、先に行ってるから」

「うん」

 

 頷き、さてあとはこの船のキャプテン様と弟だけだとミオは二人へ口を開こうとしたのだが。

 

 それより早く、ローが怒号を上げた。

 

「おれたちがここまで来たのは、あんたを迎えに来たんだよ!」

 

 ローからすれば冗談ではない。同じルーキー同士の『麦わら』はともかく、『火拳』のエースもジンベエもなんら関係がない。

 

「その意味わかってて言ってんのか!」

 

 そんなのにミオの帰還を邪魔されるなんて、本人の望みだろうとはいわかりましたと頷けるはずがなかった。

 

「わかってる。わかってるけど、ごめん。お願い」

 

 ミオのローを見つめる瞳はどこまでも真摯で、ひたむきだった。

 

「ローはさ、お医者さんじゃん。()()()()()を間違えないで」

 

 トリアージ。患者の重症度に基づいて、治療の優先度を決定して選別を行うこと。今だけに絞っていえば、船の安否も含まれる。

 確かに『ポーラー・タング』号は『ハートの海賊団』旗揚げ以来の危機的状況といえる。これだけの海軍と大将から標的にされているのだから当然だ。

 ある程度の危険は織り込み済みでマリンフォードまでやってきたが、現実は想定をやすやすと超えてくる。

 この船を預かる船長として、クルーの命を抱えるキャプテンとして、ミオの判断が間違っているわけではないことは、わかる。わかるが、納得も看過もできない。できるわけがない。

 

 ミオを回収できないなら、ここに来た意味そのものが消失する。それでは本末転倒もいいところだ。

 

 反射的にローは眉間に思い切り皺を寄せ、さっきより大声で怒鳴った。

 

「ふざけんな! 馬鹿も休み休み言え! 大将にやられたらどうするつもりだ!」

「そっ、そん時はローが治してよ! 這ってでも追いつくから!」

「どんな怪我でも治すに決まってんだろ馬鹿が! だが追いつける保証がどこにある!!」

「なんとかする! 大丈夫!」

「ウソつけ信用できるか! なんだその左手! シオマネキみてェになってんじゃねぇか!!」

 

 秒と持たずに否を唱えてくるローの形相はあまりにも必死なもので、勢いで頷いてしまいそうな迫力があった。

 けれど、ここで折れるわけにはいかない。

 

「平気! ちょっと時間はかかるかもしれないけど、必ず追いつくから!」

 

 まだ痛みは遠い。勝算というには頼りないが、なんとかする算段もある。

 このまま『ハートの海賊団』に合流して諸共に死ぬより、全員生き延びる可能性に賭けたかった。

 

 互いの覚悟と我儘がぶつかり合い、火花を上げ、先に切れたのはローの方だった。

 

「ッ"ROOM"」

 

 おもむろに持ち上げた手から能力が唸りを上げる。ザッとミオの顔から血の気が引いた。

 まずい、能力で船内の何かと自分を入れ替える気だ。今度は前回のようにはいかない。気迫も覚悟も段違いだ。

 

「ロー!」

「らちが明かねェ。あんたをこれ以上戦場に置いて、いかせて──たまるか!!」

 

 怒りの煮える声だった。けれど、ひどく物哀しい響きだった。

 ローは二度も置いていかれるなんて御免だった。もう少しで手が届く。手に入る。たとえ世界でいちばん大切な少女がそれを拒んでいても、ここで折れるわけにはいかなかった。

 

 己の無力に咽び泣いた夜がある。

 

 骨さえ痛むような雪の夜。喉が枯れて涙が底をつくまで泣いて、わめいて、胸が軋んで、それでも歩くしか許されないことが苦しくてたまらなかった。

 

 もうあんな思いはいやだった。あの夜に空いた胸の空洞はようやく埋まろうとしているのに、それが叶う前に永遠に喪われてしまうかもしれない。それは底知れない恐怖で、絶望だった。

 

 全力で発動させた能力が虫の羽音に似た音を立てて船を覆い、もう少しでミオも射程範囲に入る。

 

 ミオはほんのわずか、迷うように視線をさまよわせたが、すぐにそれを引き剥がすように言葉を紡ぐ。

 

「本当にごめん、ロー」

 

 ローは聞いてくれない。当然だ。だって無茶を言ってるのはミオの方だ。そんなのわかってる。

 

 わかってるから、もう、これしかない。

 

 外道でも卑怯でも、使えるものすべてを使って、ただ、みんなで生きるための手段を。

 

「これを、ここで言うのはずるい。わかってるけど、でも、必ず追いつくから。僕のもうひと踏ん張りのために──ちからを貸して」

 

 そのくちびるが、吐息のように誰かを呼んだ。

 

 

「お願い、     」

 

 

 誰にも聞こえないはずのささやきが、けれど確かに届いた。

 

 こえなき言葉が、瞬きの間に消えてしまった(こいねが)うような眼差しが、ミオの望みを物語る。

 

 

 だから──()()()()()()()()()を押しのけて、ローの腕を掴んで扉の方へぶん投げた。

 

「ッな、コラさん!?」

 

 想像だにしていない方向からの強襲。

 よもやコラソンがそんな行動をするとは夢にも思っていなかったのだろう、ローの能力がふっつりと途絶えた。表情からありありと驚愕が伝わってくる。

 

「コラさん! なんで邪魔するんだよ!」

 

 けれどすぐに再び腕をもたげようとしたローに、車椅子を蹴倒すようにコラソンが飛び出してしがみつき、でかい図体を利用して羽交い締めにする。

 怒りに任せて全力でそれに抵抗しながら、ローはコラソンへも怒鳴った。

 

「あんたはいいのかよ!?」

「いいわけねェだろ!!」

 

 至近距離で反射的に怒鳴り返すコラソンの瞳には涙が滲んで、今にも零れそうだった。ローはそれに驚き、束の間思考が止まってしまう。

 

「いいわけねェよ! 行ってほしいわけがあるか! おれだって、おれだってなァ……!!」

 

 声には心底からの悔悟があって、ローを掴む手は震えていた。

 

 己の中の葛藤を封じ込めるように、コラソンの力がつよくなる。

 

 わなわなとくちびるを震わせ、絞り出された叫びは血を吐くようだった。

 

「けどミオが、姉様が、望んでるんだよ!」

 

 コラソンは、ずっと後悔していた。

 

 ミニオン島で、コラソンは自分の命はここで終わりだと思っていた。だから、末期の祈りにも似た願いを口にした。

 愛しい子供が、ローが珀鉛病を克服して大人になって、すごいお医者さんになる未来を夢に見て、眠るように逝けるのならば、こんなに幸せな終わりはないと思った。

 

 たとえそこに自分がいなくても、きっとそこにはミオがいる。それだけで満足できた。思い残すことなどなかった。

 

 だけど、だから──ローに救われて嬉しかったのは本当だ。

 

 ローと再会して、過ぎた年数に愕然とした。同時に、ミオがどれだけ骨を折ったのだろうかと考えて、気が遠くなった。並大抵、どころの努力では済まない。途中で心が折れなかったことは奇跡どころか半ば狂気の沙汰だ。半死半生の木偶の坊など捨て置けばよかった場面なんていくらでもあったはずだ。

 

 それでも絶対に諦めず、愚直なまでにひたむきに、十年以上の時をかけて、己のすべてでコラソンの思いに応えたミオ。

 

 そしてそれはきっと、コラソンに関わらなければミオが得られたはずのたくさんの幸福や、人との縁、そんな形にできない(たっと)い何かを犠牲にして──ようやく成り立たせることができた『奇跡』なのだ。

 

 生き延びたがゆえの贅沢な悩みと言われればそれまでだが、それでもコラソンは苦しかった。

 

 コラソンが口にした子供の駄々にも似た夢物語を、小さな姉は本当に実現させてくれた。叶えてくれた。

 

 だったら、今度はコラソンの番だ。

 

 たとえそれが、コラソンの意に沿わぬ願いであったとしても。

 

 たとえそれが、結果的にローの心を挫くような結末を連れて来るとしても。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()……!?」

 

 だって、そうでなければ、それぐらいのことすらしてやれないなら──本当に、姉は報われない。

 

 それは、あんまりだった。

 

 だから。

 

「──行け! そんですぐ戻ってこい! おれはミオを信じる!」

 

 コラソンは顔を上げて、ミオを見つめてへたくそな笑顔を作った。

 

「言っとくけど戻って来なかったらおれが泣くし、ローも泣くからな!?」

 

 馬鹿みたいな最高の脅しにミオは短く吹き出して、明るく笑った。

 

「わかった! すぐ戻る!」

 

 シャチが双眼鏡片手に「キャプテン!『青キジ』だ!」と悲鳴を上げたのは、その時だった。

 表情を引き締めたミオが即座に足でボンチャリのハンドル真下にあるレバーを思い切り蹴り上げるとガコンッ、と音を立ててボンチャリの後部座席が外れて落ちた。

 そのまま思い切りハンドルを逆に回そうとした──ところで、一瞬だけ手を離して懐から何かを取り出して「エース!」放り投げた。

 

「!」

 

 放物線を描いたそれをエースは咄嗟に受け止める。小さな紙切れの束だった。適当にメモをちぎったかのような、無数の紙片が金属製のリングで綴じられている。

 

「それでみんなに合流できる! ロー! できれば()()()()もよろしく!」

 

 それだけ言って、今度こそミオはハンドルを思い切り回した。

 

 

 瞬間──轟音。

 

 

 遅れてやってきた衝撃波に海面から飛沫がぶち上がり、最初は爆発かと全員が思った。

 海兵の攻撃かと錯覚しそうになるそれは、ミオのボンチャリから発されたものだった。宣言通り『ポーラー・タング』号とは真逆の方向へ、近くに迫っていた軍艦の隙間をぶち抜き常識を逸脱した速度で疾走したボンチャリはもはや親指程度にしか視認できない。

 

 パンッ! パパァンッ!

 

 爆竹のような音が聞こえてくる。外れた後部座席から飛び出したいくつものパイプから噴き上がる、赤と青のまだらな爆炎が遠目には火花のように弾けていた。

 

 

 

 

 


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