「ッ、急速潜航! 海底だ! 急げ!」
いち早く我に返ったローは咄嗟に能力を発動。甲板にいた全員を"シャンブルズ"で船内におさめ、自分で甲板の扉を閉めながら声を張った。
一拍遅れて『あ、アイアイキャプテン!』と唱和が響き、こういった強制移動に慣れているクルーたちは慌ただしく動き始める。
その間にローはコラソンを伴って手術用の部屋に移動して、何が起こったのかわからず呆けていたジンベエたちをざっと眺めて口を開いた。
「見たところ、いちばんひでぇのは『麦わら屋』だな。よく生きてるもんだ」
ローはジンベエに抱えているルフィを近くの寝台に寝かせるよう指示を出し、いくつかの機材のスイッチを入れる。
「すぐ処置に入るから大人しくしてろよ」
まぁさすがに動けねェだろうが、と言ったところで『注水完了!』と伝声管からクルーのくぐもった声が響いた。
ほどなく、ぎしぎしと船体が軋むような音が全体に伝播し始める。水中に入ったのだろう。
「そりゃありがたいが、お前さんは一体……」
ジンベエの問いに、ローは棚から何本ものチューブを取り出し、選んだものをコラソンに手渡しながら面白くもなさそうに小鼻を鳴らす。
「ミオが言ったろ。おれは医者だ」
確かにメスや注射器、小瓶に入った薬剤を選び取るローの手に淀みはない。慣れた手付きから察するに、医者というのは本当のことだろう。
「そこがわかんねェ。お前、そこのでかいのもだ。ミオのなんなんだ?」
先程ミオに託された紙切れを見つめていたエースが顔を上げて二人を睨めつける。警戒は当然だが、面白いものではない。
コラソンとローは顔を見合わせ、先にコラソンが口を開いた。
「コラソンでいい。さっき聞いてただろうけど、おれはねぇ、いや、ミオの弟だ」
「おと……?」
エースがコラソンの言葉を飲み込むのに数秒はかかった。
「……はああ!?」
理解はできたが納得は無理だった。うすらでかい図体の男が弟。ミオの。意味がわからない。
混乱するエースにローが畳み掛ける。
「トラファルガー・ロー。あいつは、おれのクルー(になる予定)だ」
こっちはこっちでえらいことをしれっとのたまいやがった。
「はあああ!? なんだそりゃどういうことだよ! あいつは! おれの! 部下になるって予約入ってんだよ!」
ほぼ瀕死のくせになんで元気いっぱいなんだこいつ、とローは眉をしかめながら口の端を吊り上げるという器用なことをした。
「生憎だがそりゃ無理だろ。そもそも『白ひげ』から勘当されてたじゃねェか、ミオのやつ」
「ぐっ……まぁ、そうなんだけど、よ」
映像まで放送されてしまった痛恨の事実に歯切れ悪く口をもごつかせ、エースは俯いて手の中の紙束に視線を落とした。
こんなものをあんな状況で投げて寄越してくる意図が読めなかった。
けれど、手の中の紙片をもう一度確認して──その中に、不自然なほど縮んだ紙切れが混ざっていることに気が付いた。
紙切れの中に混ざる親指の爪先ほどの小さな、本当に小さな、メモすらできないほどに小さな紙の欠片。それは炙られた虫のように身を捩りながら、エースの手の中で湯に落とした氷の速度で面積を縮めていく。よくよく見れば、そんな紙片はいくつもあった。
そしてそんな紙束の中にひとつ、あまりにも見覚えのある筆跡の紙片を見咎めたエースはぞっと肌が粟立ち、同時に紙片の正体に辿り着いた。
それを横から覗いたコラソンがつぶやく。
「それ全部、ビブルカードじゃねェか」
命の紙。ビブルカード。
それはミオがこれまで『白ひげ海賊団』から託されてきた信頼の証だった。ビブルカードには走り書きされているものが多かった。
マルコ、エース、ハルタにイゾウ、ジョズにサッチ。隊長格の紙片の中に紛れるように、『白ひげ』のものまである。エースはそれが『存在している』ことに途方もない安堵を覚えた。
ミオが投げてよこした理由が、エースにもようやく理解できた。
「『みんなに合流できる』って、そういうことかよ」
てんでバラバラに撤退している者たちの安否が、これなら一発で分かる。その気になれば追跡も容易だ。
「マルコも、オヤジもサッチも……まだ、生きてる」
きっと最初に千切られたときより随分とちびているだろうが、消えていないなら間違いなく生きている。
「……よかった、オヤジ……!!」
エースはビブルカードの束を握りしめたまま静かに涙を零し──そのまま真横にぐらりと倒れた。
「ッエースさん!?」
ジンベエが焦って肩を掴んで支えるが、エースは目を閉じたままぴくりとも動かない。意識を喪失しているようだった。
「緊張が緩んで落ちたか。ちょうどいい『海峡屋』、『火拳屋』をそっちのベッドに」
「あ、ああ」
さばさばとローは告げて、ジンベエはなるべくそっとエースを寝台に横たえた。
インペルダウンで蓄積されてきた疲労に加えて、これまでの連戦で負った怪我と疲弊を思えば、ここまで意識を保ってこられたことの方が不思議なくらいだ。
それを横目で見るともなしに見ながら、コラソンは懐を探って紙片が存在していることに触れて確認して、ほっと息を吐く。
ミオは生きている。少なくとも、今はまだ。
ここまできたら、信じるしかなかった。
コラソンはローから受け取った治療器具を持っている自分の手を見つめる。
「……」
──あのときの父の思いが、今ならわかる気がした。
加勢する力もない、無力で不甲斐ない自分が情けない。それでも請われたのだから、応えるしかない。
それだけがミオの望みであるのなら、最後になるかもしれない願い事を跳ね除けることなんて──できない。
「……ロー、ごめんな」
「謝んな。コラさんは悪くねェよ」
コラソンの謝罪に、ローは手術用の手袋をはめながらそっけなく返した。
「悪いのはどう考えてもミオだからな。患者だけ放り込んで面倒増やした挙げ句に、本人はまた突っ走って結局合流すらできてねェときた」
冷静に考えてもなんだそりゃという話である。
文句も不満も山程あるが、それは本人にぶつけるために溜めておくしかない。あとで覚悟しろよと思う。とりあえずしぬほど説教して輪切りにする。絶対にだ。
それから、
「……あいつの治療はとびきり痛くすっから、それでいい」
返していない心臓は元気に脈打っている。心配も憤りも不安もあるが、ローとてわかっていた。もはや事態が覆せないのならば、信じるしかない。
自分にできることを、するしかないのだ。
☓☓☓☓☓
海底へと急速潜航する『ポーラー・タング』号は、当然『青キジ』の攻撃を受けていた。
極寒の冷気が海面から海中へと小さな潜水艦を猛追する。
無数の砲弾と急速冷凍されていく海中を逃げ惑う潜水艦は、持ちうる技術すべてを駆使して全力で海底を目指していた。
それでも、おそらく『青キジ』も全力なのだろう、海水の凍りつく速度は尋常ではない。音を立てて凍りつく氷の柱が、潜水艦を囲う檻のように形成されつつあった。
このままでは氷の檻に閉じ込められる方が早いかもしれない、とクルーたちは冷や汗をかいていたのだが、ある一点を過ぎた途端だった。
嘘のように『青キジ』の攻撃がゆるんだ──ようにクルーには思えた。
凍りつく速度があからさまに遅くなり、凍った端から溶けていってしまうので『ポーラー・タング』号にはかろうじて氷が届かない。
これ幸いにとクルーたちは『ポーラー・タング』号の速度を限界まで上げ、それが嵩じてなんとか危険区域からの脱出に成功することができたのだった。
……クルーたちは軒並み逃走することにいっぱいいっぱいで気付いていなかったのだが、『ポーラー・タング』号の真上ではとある潮流が常に蛇行していた。
それは政府の軍艦のみが通行を許されている潮流で、一般には『タライ海流』と呼ばれている。
それは常に動き続ける底深い水路だ。力強く船を運ぶ水の動きはそれに比例して強く、影響は当然海の底深くまで波及している。
『青キジ』の攻撃を、渦巻く
☓☓☓☓☓
マリンフォードのほど近く。周囲の軍艦が認識するにはまだ間があるが、気付かれるのは時間の問題だろう。
気付かれたところで構わない。むしろ連絡する手間が省けて結構だ。
乗船している誰も彼も、海軍からの攻撃や轟沈の可能性など欠片も考えていない。その海賊船はそれだけの異名を轟かせている。
竜を象った船首をした、赤を基調とした船体のてっぺんで左目に3本の傷がある髑髏の旗がひらめいている海賊船とくれば、それは『レッド・フォース』号しかありえない。
その甲板では『赤髪海賊団』のクルーたちが揃って同じ方向を見つめている。
彼らは、この戦争を終わらせるためにここまで来た。
「見えるか?」
その中で船長である新世界で名を馳せる『四皇』のひとり、『赤髪のシャンクス』は甲板から物見台へと声をかける。
『赤髪』の異名通りのワインレッドの髪に片腕の偉丈夫の問いに、物見台で双眼鏡を覗き込んでいる狙撃手──ヤソップは短く答えた。
「終いっぽいんだが、どうにも掴めねェな……せめて、もう少し戦塵が晴れてくれりゃあなァ」
それは、この戦争で駆り出されるであろう人数と能力者のお歴々を鑑みれば無理からぬことである。
「そうか」
さして残念そうでもなく返事をしたシャンクスはマリンフォードへと視線を移し、けれど何かに引っ張られるようにがばっと天を仰いだ。
そのまましきりに瞬きを繰り返し、ややあって目の前に映っている光景が幻覚でもなんでもないことを知り、口を半開きにして唖然とした。
「おいおいおい、どういうことだよ。こりゃあ」
「お頭?」
その妙な動きに傍らの副船長──ベン・ベックマンが訝しげに声をかける。
シャンクスはベックマンの声を聞いているのかいないのか、甲板の一点を示しながら慌ただしく片腕を振った。
「お前らそこから離れろ!」
「はァ?」
「どういうことでさ?」
唐突かつ意味のわからない命令で目を白黒させるクルーに、シャンクスはなおも珍しく焦り顔でがなった。
「早くしろ! さもないと
『いッ!?』
その物騒極まりない台詞にクルーたちは瞬間的に飛び退き──ちょうど開いたその空間めがけて、上空から何かが猛烈な勢いで落下した。
砲弾でも落ちてきたような凄まじい衝撃で船体が激しく揺れ、木片の焦げ付くような臭いがクルーたちの鼻をつく。
「なんだぁ……──ッッ!!??」
だが、衝撃そのものより、その落下物の正体に対しての驚愕の方が大きかった。
『あ、『赤犬』!?』
落下物は海賊にとっての不倶戴天の敵、その中でもとびきりの危険人物──海軍大将『赤犬』だった。
さすが自然系といったところか大きな怪我はなさそうだが、仰向けになった身体を押さえつけるように、甲板の床板を巻き込んでまるで猫の肉球のようなかたちに凹んでいるのが奇妙である。
咄嗟に戦闘態勢になるクルーたちを軽く手を振って制し、シャンクスは『赤犬』の前に歩み寄った。
「招かれざる客ってのは、こういうのを言うんだよなァ。なぁ、『赤犬』」
一方の『赤犬』は、意識まで失っていなかったのか即座に跳ね起き、
「~~!! あ、の、ゴンタクレのくそ餓鬼がァアアアッ!!」
骨すら残さず溶かし尽くすような、それは怨嗟の咆哮だった。
一体全体、なにをされたら人間ここまで憤怒を溜めることができるのだろうか、と勘ぐりたくなってしまうほどの赫怒の形相。こめかみに浮かぶ血管はおどろに膨れ上がり、激情に支配され尽くした視界には自分の落下地点すら映っていないらしい。
シャンクスの存在すら認識できていないのか、『赤犬』の放つ激怒と殺気の塊がびりびりと周囲に伝播して船体そのものすら怯えているようだった。
「ようも、ようも邪魔してくれたのう……あの餓鬼、あのくそ餓鬼はわしが必ず殺す! ドラゴンの息子ども諸共、わしが地獄に落とさんと気が済まん!!」
口にしたことで激昂に燃料が追加されたかのように『赤犬』の足元が焦げ付き、熱泥と化す瞬間には『赤犬』はすでに甲板から跳躍していた。
そのまま活火山の噴火のような小刻みな爆発を利用して空中を砲弾のように駆けながら、八つ当たりのように四方八方へ火山弾を撃ち出している。あちこちから爆熱の残滓が漂い、野放図に放たれた火山弾が海面と衝突して派手な飛沫と蒸気を上げる。とんだ災害兵器だ。
どうやら足場にした『赤髪海賊団』の存在は最初から最後まで気付かなかったらしい。時間にしてみれば数秒にも満たない僅かな間ではあったのだが、ここまで相手にされないとなるとある種の感心すら浮かんでしまう。
「ありゃあ……相当お冠らしいが、だからっておれたちすら眼中の外か」
何があったんだかなぁ、とシャンクスは飛んできた流れ弾を一刀のもと切り裂きながら呆れ顔である。
『赤犬』怒りの拳骨火山弾は未だ降り止まず、ひっきりなしに爆音が轟いてくる。海面が衝撃で頻繁に波濤を上げるものだから『レッド・フォース』号どころか近海の軍艦すら進退に難渋しているようだ。
ベックマンも似たような顔で相棒のマスケット銃をくるりと回した。
「一発くらいいっとくか?」
「いいさ。どうせすぐに会う」
シャンクスはそう言って、考え込むように眉を寄せた。
これまでの経験上『赤犬』は確かに逆上しやすい方だが、だからといってあの怒り方はどう考えても異常である。『徹底的な正義』を掲げる『赤犬』が、果たして『赤髪海賊団』の存在すら視界の外に追いやるほどの怒りを抱えるような事態となると、さすがのシャンクスでも見当がつかない。
……能力者である『赤犬』が『レッド・フォース』号に墜落したおかげで命拾いした、なんて事実を認めたくないがために無意識に意識下から排除していた。なんて可能性ならまぁ、なくもない。結果論としてではあるが、これほどの屈辱は、潔癖のきらいがある
そうでないなら、あとは──『あほほど煽られた』くらいの、それこそ馬鹿みたいなことしか思いつかない。
立場的に『赤犬』へ物申す輩なんてそうそういないうえ、煽り慣れていても煽り返される経験は少ないだろう。
海軍の戦略を徹底的に邪魔しまくって苛々させて、最高潮になったところで軍にとって後ろ暗くて痛いところを的確に小突いて煽り倒し、逆鱗にとどめでも刺せば、あるいは。
ただ、そういうこすっからくて地味で目立たない嫌がらせをこつこつ繰り出せるような酔狂者が『白ひげ海賊団』には……。
「いたわ」
脳裏で唐突に、とびきりお人好しだが身内意識が高すぎて一旦敵認定すると己の持てる手段を駆使して全力で嫌がらせする、無自覚に嫌いなやつの地雷をぶち抜くタイプのちびっこがピースサインしている図が浮かんだ。
『白ひげ』は戦争に参加させるつもりなど毛頭なさそうだったが、シャンクスは本人の気質を知っている。あれは救うべき身内を見定めたら、誰が反対しようがなりふり構わず参戦するだろう。絶対に止まらない。可能性だけなら、じゅうぶんある。むしろ高いぐらいだ。
シャンクスのつぶやきはごく小さいもので、隣のベックマンには幸いにも聞こえていなかった。
「なにか言ったか、お頭?」
「いんや。ただ、もしかしたら……おれたちの出番はねェかもな」
今の『赤犬』の様子やマリンフォードから感じる気配から、シャンクスは思ったことを口にする。
「それなら、その方がいいだろう」
「そりゃそうだ」
ベックマンの正論にシャンクスは苦笑して肩をすくめ、甲板の床板の修繕を部下に命じた。どのみちマリンフォードに行かなければなにも分からない。
それより、甲板は船乗りの誇りだ。焦がされたままでは格好がつかない。