桃鳥姉の生存戦略   作:柚木ニコ

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二.迷いのあさ

 

 

 朝の気配に意識が浮上した。

 

 部屋の中は薄暗く、まだ全身が重くて身じろぎひとつも難儀する。鈍痛があちこちで響くものだから眠りも浅く、夜中に何度も目が覚めた。

 眠気の残る身体を引きずるように、掛け布団の隙間から半ばずるりと降りて絨毯の上にへたり込む。しばらく呼吸を整え、気合を入れて膝に手を当ててひどくゆっくり立ち上がると、途端に目眩がした。本当に体力が底部を這っているらしい。鍛え直さなければならない。

 

 水を吸った服を着ているように身体は重い。信じられないほど時間をかけて窓辺にたどり着いてカーテンに指をかけ、引いて、ミオはまぶしさに目を細めた。

 

 窓を開ければ小鳥の声と朝の光、清澄な空気が室内へ一気になだれ込んでくる。鮮烈な刺激を伴ってくるそれは、細胞が生まれ変わるような心地だった。

 

 

──否、実際生まれ変わったようなものだ。

 

 

 眼下に広がる光景は、ミオのまったく知らない景色。高台にあるらしいこの建物からは街の様子がよく見える。

 

 向日葵の目立つ大きな花畑を越えてとりどりの色彩で彩られた煉瓦作りの家や、遠目に見える巨大な建物は、なんだろう。つくりは大昔の歌劇場、あるいは闘技場のように見える。まるで古代ローマのコロッセオだ。

 朝の空気は馴染んでいたそれよりも暑さを孕んで僅かに甘く、時々潮の匂いが混じる。

 

「うみ」

 

 特有の匂いに思わずつぶやく。

 海なんてもうどれだけ見ていなかっただろう。これまで砂と岩と機械と、あとは森とか谷とか田畑ばかりだったから。

 

 見上げた空は高く、雲ひとつない。青さは記憶よりも色が濃いように見えた。どこか目がしみるような放射性のコバルトブルー。海外の、それも外洋の空だ。

 

 見知らぬ空気、見知らぬ街、見知らぬ人々。ここはミオにとっての異界で、異国で、名前といえばドレスローザ。

 

 ついでに今日からミオが生きていかなければならない場所だ。なんの冗談だろうと思う。しかし現実なのだ。残念なことに。

 どんなお国柄かはまだ分からないが、考えてみれば体力がゼロどころかマイナスぶっちぎった怪我人かつ一文無しがリスタートを切るなら、どんな世界でも国でも厳しいだろう。弱くてニューゲーム。つらい。

 

 しかも早々にとんでもない額の借金まで背負ってしまった。難易度もはやルナティック。

 

「50億とか、ねぇ……」

 

 口に出してもまだ実感が湧かない。借金も一定の額を超えると麻痺するものらしい。

 ちなみに通貨は円でも銭でもドルでもリラでもなくベリーという。ジンバブエではないのだ。インフレもしていないらしい。なんてこった。

 

 とはいえ、だ。

 

 どれだけ法外な金額をふっかけられようがそれが『救い料』であるなら返済するのが道理だ。まぁ治療する間の衣食住は保証してくれるというし、完治後しばらくは仕事の斡旋もしてくれるというのだから多少難易度は下がるような気がしなくも……ない。

 

 しかしそれを約束してくれたのも借金背負わせたのも同一人物である。もうなにがなんだか。

 

「ミスタ・ドン……ああ、いや、『若旦那』か」

 

 『ミスタ・ドンキホーテ』と呼んだら全力で拒否されたので折衷案の末にこうなった。申し訳ないがあの年齢の人間を『若様』と呼ぶのは抵抗があった。……その名称自体にトラウマも。

 

 あの、全力で胡散臭くて享楽主義の権化みたいな人物がこの国の主だというのだから、本当にこの世界は不思議だ。そして、よりにもよってそんな人物に命を拾われた自分は果たして運がいいのか悪いのか。

 かの御仁を判断するには材料が足りないが……現時点での印象は最悪をぶっちぎっている。べつに嫌いではないんだが、間違っても一文の得にもならない死に損ないを善意で救う性質のひとではない。

 

 しかしそうなると、なんだって自分を助けたりしたんだという話になるわけで。

 

「よくわかんない人なんだよなぁ」

 

 昨日の顛末を思い出しながらミオは癇症な吐息を漏らし、一晩経っても未だに整理のつかない頭をぐしゃぐしゃと片手でかき混ぜた。

 

 

 

☓☓☓☓☓

 

 

 

 ミオが懊悩を抱えて悶々としていたのと同時刻、ドフラミンゴは似たような煩悶を抱えながら急遽幹部たちを集め説明を行っていた。

 

 ちなみにベビー5は昨日のショックをまだ引きずっていて席にはついているものの、まだ発言すらしていない。

 他の幹部からの反応はだいたい「なんと、若の姉君がそんなことに!?」「とんでもない悲劇ざます!」「若様、なんとお労しい……!!」と同情一色である。

 幹部たちはドフラミンゴのミオへの執心具合も、今回ミオを救うためにどれだけ苦心していたかを知っているので当然といえる。

 

 そんな中、当時幼かったがゆえにミオとの縁故がさほど深くないデリンジャーが遠慮がちに口を開いた。

 

「でもそれじゃあ、若さまどうするの?」

 

 それをドフラミンゴも迷っている最中である。

 肉体だけでいえば疑いようもなくドフラミンゴの最愛の姉ではあるが、今の『中身』はほぼ別物といっていい。それは昨日の会話で理解している。

 

 今のミオは『ミオ』であっても、『ドンキホーテ・ミオ』ではない。

 

「そりゃ、若がどうしたいかによるだろ」

 

 ドフラミンゴより先に答えたのはセニョール・ピンクだった。

 過去の事件からスーツを脱ぎ去り首にはスタイ、頭にはピケハット、口にはおしゃぶりという傍から見ると変態的な格好にしか見えないが、その実義理人情に篤く部下からの評判も高い。信頼できる幹部である。

 セニョール・ピンクは口に咥えたおしゃぶりを軽く鳴らしながら続けた。

 

「記憶がなくなっちまったのは確かにひでェが、意識が戻ったのだって奇跡みたいなもんなんだ」

 

 ドフラミンゴの『家族』は誰しもが過去に何らかの瑕疵を抱えているが、セニョール・ピンクはその中でもある種特別な瑕疵を抱えている。

 おそらく、現状のドフラミンゴの感情を最も理解しているのは彼だろう。

 

「そこは、大事にしなくちゃいけねェところだぜ。若」

 

 事故で最愛の息子を喪い、心の砕けた妻に最期まで寄り添い続けた男の言葉は、重い。

 

「……ああ」

 

 ドフラミンゴは僅かに顎を引いて頷いた。

 

「けど、記憶がなくなってしまったのはまだしも、自分を別人と思い込むなんてあるんザマスか?」

「おれァその道の専門家じゃねェからな……だが、世の中には自分の中に別の人格を持っている人間だっている」

 

 妻の病状を調べていた時に知ったのだろう、ジョーラに答えるセニョールの言葉に淀みはなかった。

 

「ありえない症状ではない、ということか」

 

 グラディウスが重くつぶやき、それを皮切りに意見交換を始めた幹部たちを見るともなしに見ながらドフラミンゴは沈思にふけっていた

 

 ドフラミンゴは幹部たちに『ミオはこれまでの記憶を喪い、自分を別人だと思いこんでいる』程度の非常にざっくりした説明しかしていない。

 

 それは結局のところ、ミオをどう扱うかはセニョールの言う通り『ドフラミンゴがどうしたいかによる』からだ。

 ドフラミンゴの『家族』は彼の決定が最優先。どんなものであろうが必ず従う。そこにミオの都合や人格は一切含まれていない。

 

 しかし、その肝心なドフラミンゴ自身の方針は未だに定まっていなかった。

 

 それは現在のミオがあまりにもドフラミンゴの知る姉とかけ離れているせいでもあるし、その中身に関する推測に確信があっても口に出せる類の問題ではないせいでもある。

 そして、仮にドフラミンゴの推測が当たっていたとしても──あまりにも荒唐無稽すぎて、自分ですら信じ切ることが未だに難しい。直感と理性は別の話なのである。

 

 ……けれど、腑に落ちてしまう部分があったりしてしまうのが悩ましいところだ。

 

 

 


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