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「俺達は、もう会わない方が良いかもしれませんね」
初めて口付けを交わした橋の上。月は頭上に構え、その光が俺と陽乃さんを照らす。陽乃さんの表情は豊かでこれまでにも沢山見てきたはずだが、今の顔は見たことがない。
──あんなに、寂しそうにする陽乃さんは初めて見た。
「……うん。そうかもね」
俺と目は合わさず、陽乃さんは橋の下に流れる川を眺めていた。
「比企谷君が言わなかったら、私が言ってたよ」
辛そうな笑顔。今日初めて合った視線は、しかし熱を帯びる前に逸れた。
流れる雲が月を隠す。昼間太陽によって温められたアスファルトは、月によって急速にその温度を奪われていく。
「まあ、俺なんかに陽乃さんは勿体ないですから」
本心でもあり、強がりでもある。無理やり合理化しようと口に出して納得しようとするが、今までの思い出がそれを邪魔する。
「陽乃さん」
「何?」
「今まで言ったことありませんでしたね」
急に何の話だ。そう言いたげな目を受け止め、逸らさずに目を合わせた。
「好きです、陽乃さん」
その瞬間、交わった俺達の視線は確かに熱を帯びた。
§
卒業式も終わり、晴れて俺は春から大学生となる。奉仕部の部室での最後の挨拶も終え、俺は桜の咲き乱れる帰り道を歩いていた。視界は桜の花弁のピンク、それに白い雲一つない青空。眼下では乾いた
なぜこんなにも晴れやかな気分なのか。考えたくもないが、そんなことはわかりきっている。つまるところ、俺はまた性懲りも無く一人に戻りたかったからなのだろう。無論あいつらといた時間は無駄ではなく、むしろ実りの多かったものだったが、こと放課後の時間という点において俺は制約を受けていた。無論この後も奉仕部の関係は続いていくだろう。ただ自由な時間が増えたというのは、ただそれだけで解放される意味を持つのだ。
桜並木を歩く。小町は生徒会としての後片付けがあるらしく、俺は誰もいない隣をふと見ては静かに笑う。ぼっちであることに苦悩した俺が、今はこうして一人でいることに喜ぶ。盛大なアイロニーに身を任せ、通学路よりも少し遠回りをして帰る。
『俺はお前らのことを大切に思う。……だから、この関係はこれからも続けていきたい』
部室で言った最後の挨拶。俺はその締めくくりにそう言った。その場に居たのは俺を含めて四人。俺、雪ノ下、由比ヶ浜、そして平塚先生だ。一色も来たそうにしていたがそれこそ生徒会の仕事があり出ることは叶わなかった。
その言葉を言った時の三人の顔は文字通り三者三様だった。雪ノ下は目を見張って微かに笑い、平塚先生は困ったような顔をして頭を掻いた。
由比ヶ浜は、酷く悲しそうな顔をしてそっかと呟いた。
罪悪感がないと言えば嘘になる。事実その後の由比ヶ浜の涙を目に溜めながら言った“ありがとう”は今までのどの謗りや嘲りよりも胸に刺さった。その棘を無造作に引っこ抜くのは危険で、そうして俺は気にするのをやめ一人で奉仕部の部室を出た。晴れ晴れとした気分は一種の呪いのようで、しかしこの思考こそが一番由比ヶ浜のことを気にしてしまっていると自覚して眼前に広がる視界を別のものへと変えた。
橋の上で桜が舞う。花霞とはよく言ったもので、雪のように美しい白は陽気な日差しと共に橋を包んでいた。そして独り、そのこの世のものとは思えない景色をただの背景にしている女性が、哀愁を伴って眼下に流れる川を眺めていた。
「あれは……」
デニムに白のシャツ、そして青のニットカーディガンを着ている女性は桜の中でも強い存在感を放っていた。均整の取れた顔つきにメリハリのついた体型。しかし今の彼女の纏っている雰囲気は過去にあったどの時にも見たことがなく、一瞬誰かわからなかったほどだ。
「雪ノ下さん」
普段なら間違いなく声を掛けない。それなのに話しかけた理由は、なぜだかそうしなければならないような気がしたから。
より俺の感覚に近付けて言うなら、雪ノ下さんの匂いに惹かれたから。
「ん、ああ……比企谷君」
対する雪ノ下さんの反応は想定していたものよりも何倍も薄く、いよいよこれが本当に雪ノ下さんなのか疑わしくなってくる。
「どうしたんですか。今日テンション低いすね」
「それはこっちの台詞。何? 君が話しかけてくるなんて雨でも降るのかな?」
「今日の降水確率は五十パーセントらしいですよ」
「こんなに晴れ晴れとしてるのにねえ」
雪ノ下さんは橋にもたれかかりながら空を仰ぐ。どの部分を切り取っても絵になる辺り、やはり彼女は雪ノ下さんで間違いない。
「で、何してるんすか。こんなところで」
「なんだろうねぇ。なんか全部投げ出したくなっちゃったのかなぁ」
瞬間、彼女の放つ蠱惑的な匂いは濃度が高まる。正体がわからないものなのに、いや、正体がわからないからこそこんなにも惹かれてしまうのか。
「……何、急に笑って」
「え?」
「え、もなにも、気付いてないの? 君今すっごい笑ってるよ」
「いやいや、そんなわけないでしょう」
そう言って頬の筋肉を確かめる。冗談だと思っていたのだが、雪ノ下さんの言うことは本当で俺の頬は確かに上がった状態で硬直していた。
「もっと正確に言うとにやけてた。それも知らない人が見たら通報するレベルのね」
「そんなレベルですか……」
「まあこーんなに可愛いお姉さんと出会えたんだもんね?」
「女は星の数ほどいますよ」
「星には手は届かないんだよ?」
「星はいずれ消えるんですから、触れないくらいが丁度良いと思ってるだけです」
この人との会話は楽しい。俺のくだらない言葉遊びにも付き合ってくれて、さらに俺の想定を超えることも言ってくれる。口では嫌がっている俺だが、本心では楽しんでいる部分がないと言えば否定せざるを得ない。
「ね」
「どうしました?」
それまでの静けさを伴った雪ノ下さんとは異なり、俺のよく知っている雪ノ下さんは突然思い出したかのように口を開いた。
「君卒業式だったんだよね?」
「ですね」
「なら誰かに告白された?」
この人は何を馬鹿なことを言っているんだ。そう言おうにも、今日の俺のやったことさえあの大きな瞳に看破されていそうで、すぐには否定出来なかった。
「いや、まあそんなことはありませんでした」
事実ではある。そこにどんな想いが絡まっていようと、事実であることに変わりはない。
「ふ〜ん……?」
答えは出たはずなのに、なおも雪ノ下さんは疑った目をしている。
橋の上ではまだ桜が散っている。俺と雪ノ下さんは白い花弁に包まれながら、言葉を交わしていた。
「じゃあ賭けをしない?」
「賭け?」
思いがけない言葉に俺はついオウム返しをしてしまい、真意を探るべく彼女の目を覗き込んだ。
……ダメだ、何もわからん。てか逆に見つめ返してくるからまともに目を見れん。
「まず君がガハマちゃんに何かを言ったことが前提なんだけど、それは同じ奉仕部だったんだから言ったってことでいいよね」
「ええ」
「じゃあそこで君がガハマちゃんに言ったことを当てるゲームをしよう。チャンスは一度きりで、合ってるか間違ってるかの判断は君に任せるってことで、どう? 後、勝った時の賞品は負けた相手に一つだけ言うことを聞いてもらえるとかね」
「そんなもん合っていても俺が違うと言えば俺の勝ちになりますよ?」
「それでも君はそんなことしないでしょ?」
一寸の迷いもない信頼。無条件の信頼は時として残酷に映るというが、この人のそれはむしろ脅迫に近い。
それに、なぜだか従いたくなってしまう。リスクリターンを考えたらここは嘘をついてでも俺の勝ちにしてしまえばいいのに。本当にこの人は、なんというか、恐ろしいな。
しかし、本当に恐ろしいのはここからだった。
「結論だけ言うと、比企谷君は告白させないようにしたんじゃない?」
胸がドキリと鳴る。顔には出していないつもりだが、雪ノ下さんは薄笑いを浮かべていた。
「あれだね。『卒業しても奉仕部の関係は続けていきたい』とか? そしてその意図とは」
──雪乃ちゃんを、雪乃ちゃんの依存する居場所を守るため。
「……お見事ですね。当たりすぎていて怖いくらいです」
「私はなんでも見てるからね〜」
嘘をつくことも忘れ、気付いた時にはすでに賞賛した後だった。それにしても、なぜ雪ノ下さんはこうも俺の言葉を予想出来たのだろうか。
「俺ってそんなにわかりやすいですか?」
「比企谷君は理屈で動くじゃない? だから状況さえ把握してたらどんなことを言うかなんて意外と予想しやすいんだよ」
成る程と感心しつつ、しかしそれでもそんな芸当をやってのけることが出来るのは雪ノ下さんしかいないだろうとも思う。
「じゃ、何を聞いてもらおうかなー?」
「……なるべく思いやりを持った要求をお願いします」
「そうだね、それなら」
そこまで言って少し逡巡する雪ノ下さん。元から決めていたのか、それとも思いついたことを整理しているのか。どちらにせよ彼女の目は何を要求するか既に決まっているような目だった。
「私のこと、これから陽乃さんって呼ぶこと。良いね?」
瞬間、一際大きく桜が舞う。ふわりと舞った白の花弁は彼女を霞ませ、触れたら崩れてしまう弱々しくて脆いものへと変えた。美しすぎる光景は、時にこの世から無くしてでも否定したくなってしまう。
「……なぜですかね。なぜか春光呪詛が頭に浮かびましたよ」
「宮沢賢治?」
「ええ」
春光呪詛。状況は定かではないが、かつて宮沢賢治が残した詩の一つだ。その詩は明らかにある女性への想いを綴ったもので、しかしそれを嫌厭するかのように否定する言葉が並べられている。
『いったいそいつはなんのざまだ』
『どういふことかわかってゐるか』
どうしても否定したかった恋の詩。なぜ俺は彼女にそんなものを連想してしまったのだろう。
というより、なぜ俺はそれを伝えた?
「私も意外と好かれてるものなんだね」
「思い違いも甚だしいですよ」
「告白してくれたくせに、何を今更言ってるの?」
彼女の目はいつものからかうような目付きではなく、本気だと形容するのが最も的確だと思えるくらい落ち着いたものだった。
「……勘違いしてしまいますよ?」
そんな目をされたら、本当に。
「答え合わせの時までには、勘違いの定義を理解しておいてね?」
彼女に似つかわない、柔らかい笑顔を浮かべてそう言う。
「はいこれ、私の連絡先。立場上こういうのは携帯しとかなきゃダメなんだ」
そう言って俺の手の平を彼女の手の平で包む。くしゃりと音を立てた一枚の小さな紙は、彼女の手の温度と相まって確かに現実のものだと確信する。
「……近いうちに連絡しますよ。陽乃さん」
彼女の目はいつもの茶色で、頬は少しだけうす赤い。その意味を探そうとするが、今はまだ良いかと思い考えるのをやめる。
ただそれっきりのことだ。意味なんて探す方が無粋である。