「ただいま……つっても、誰もいねえか」
両親は仕事、小町はまだ生徒会の仕事が終わらないようだ。一人で呟いた帰宅の合図は虚しく響き、やや乱雑に脱ぎ捨てた靴をそのままに部屋へと直行した。制服のままベッドにダイブすると、ポケットからくしゃっと音が鳴る。
「陽乃さん……ね」
静かにポケットの音源を取り出し、綺麗な字で書かれた文字列を眺めながら、思い出したかのようにスマホへその連絡先を登録する。雪ノ下の上に登録された“雪ノ下陽乃”を見て、なぜか言いようのない充足感を覚えた。
とりあえずメール作成画面に移り、ふと思い立って指を止める。
…………。
あれ? これ本当に連絡しても良いの? 冷静に考えてみたら俺からかわれてない?
今日の陽乃さんは平時とは明らかに違った。それは言葉を交わした俺が一番わかることだが、だからといってこの誘いに安直に乗っても良いのか? 連絡したら最後、『あれ? もしかして本気にしちゃった? ごめんねww』とか言われるかもしれない。というかこの思考すら読まれていそうで怖い。
「たっだいまー! おかえり小町! ただいまお兄ちゃん!」
「おわっ!?」
ゴトトン、とベットから落ちて割と大きな音をたてる。落ちた拍子に手に持っていたスマホが部屋の隅へ飛んでいき、しかし画面が割れている様子はないので安堵する。
「大丈夫お兄ちゃん?!」
バタバタと階段を駆けてきて俺の部屋のドアを勢いよく開ける小町。靴は履いていないがカバンは持っているあたり、音に驚いて急いで駆けつけてくれたのだろう。
「ん、おお……。ちょっとびっくりしただけだ」
「怪我してない?」
「してねえよ」
「もぉ……、本当に勘弁してよね? ……あれ、スマホ飛んでいっちゃってる」
部屋に戻ろうとした時、隅にあるスマホに気付いた小町はそれを億劫そうにしながらも取りに行ってくれる。小町のこういうところは多分将来ダメ男をどんどん製造していくんだろうな。小町製ダメ男一号が言うんだから間違いない。ちなみに俺はもうベッドの上に寝転んでいる。
「はい」
「おう」
受け取ったスマホの画面は依然メール画面で、受信ボックスやらメッセージRなんて文字が横書きで書かれている。先程の陽乃さんへメールを送るかどうか悩んでいた画面とは異なり送らずに消したか既に送った後のもので……。
「マジかよ」
急いで送信ボックスを覗いてみると、既に陽乃さんへ空メールを送った後になっていた。ただこれは不幸中の幸いか。空メールを送るってなんか格好良くね? 別にあなたに興味はありませんけど、一応貰ったものには返しますよ的な。
そんなことをあれこれ考えていたのだが、そのせいで周囲の状況、具体的には小町が何をしているのか全く見えていなかった。
「え?! お兄ちゃんって雪ノ下さんのお姉さんと連絡取ってるの!? とんでもないところにお姉ちゃん候補ってこと?!」
気付いたら小町は俺のスマホを覗き込んでおり、驚いた顔の手本みたいな表情をしていた。
「話が飛躍しすぎて大気圏抜けそうな勢いだな」
「いやー、でもあの人かあ……。お兄ちゃんの手には余りそうな気がしないでも……、いやでもなあ……」
勘違いだと伝えたはずなのに一人で話をどんどん展開していく。うんうん唸る小町はそれから少しして、パンと手を鳴らした。
「お兄ちゃんの恋愛はお兄ちゃんのものだよ!」
「投げんのかよ。てかそもそも恋愛じゃねえ」
「うんうん、そう言うのもお兄ちゃんの自由だからね」
「いいからはよ行け」
口で小町を部屋から追い出し、自身の部屋へ戻ったことを音で確認してからスマホを確認する。新着メールは無く、更新してみても受信する気配は無い。
それからは読みかけの本を読みつつ少ししてはスマホを確認する、まるで思春期の中学生男子のようなことをしていた。陽乃さんは思ったよりも俺を掻き乱しており、客観的に見て恥ずかしいことをしていることに気付いたのは二時間もしてからだった。
(返信来ねえなあ)
読了した本はすでに本棚へ片付けられており、やることもなくただただスマホをいじる時間。なぜ陽乃さんからの返信を待っているのか、というかそもそもこれに返信が来るのかなんて今考えるには遅すぎる疑問にぶち当たり静かに画面を閉じた。呼応するように俺も目を瞑り、ベッドの上で本格的に寝る体勢になる。
まどろみの中、瞼にたゆたう桜を見た気がした。奇妙なことに、その時の俺は風にさらわれる桜の花びらよりも桜の木自体を眺めていた。風が吹く度に自身の体を千切る桜は痛々しく、それを隠すように花弁を辺りに降らせる。この上ない本末転倒にどこか既視感を覚えながら、俺は眠りに落ちていった。
どれくらい経っただろうか。目を開けると部屋は暗く、スマホの放つ点滅する光だけがその周辺を照らしていた。スマホの画面を開くと、時刻は二十時半を示していた。寝てからおよそ五時間。久々の昼寝にしては寝すぎたなと軽い反省をし、あることに気付き画面をもう一度開く。
新着メール 1件
……来てんじゃねえか。急に心拍数上がったんだけど何これ心臓病? それとも俺を殺すための陽乃さんの策略?
どちらにせよメールを見ない理由はなく、手紙のアイコンをタッチする。差出人はやはり陽乃さんで、件名は無題だった。
『空メールは予想外だったなあ。電話番号も知りたいから比企谷君がお風呂入り終わったらかけてきてね?』
と、メールの返信をなぜか電話でしろという旨のものだった。基本誰とも電話しない俺からするとハードルが高すぎて潜った方が遥かに簡単なのだが、陽乃さんはこの後に続けた文によってハードルの下に剣山を突き立てたのだった。
『あ、ちなみに電話してこなかった場合は君が毎日お風呂に入らない不潔な人だって雪乃ちゃんにメールするからね』
何なのこの人? しかもメールってあれだろ? 雪ノ下が吹聴する時周りにフォローさせないために文字として残しておくとかいう要は逃げ道潰してるんだよな?
正直出来れば電話なんてしたくない。こういう小さなところから俺の日常は崩れていく。それは高校の頃に経験したつもりであり、俺と陽乃さんの間に要らない縁が結ばれてしまうのは実に面倒なことだ。
……まあ、言われた通りに陽乃さんなんて呼んでいる今の俺の言葉だと説得力なんて皆無だがな。頭の片隅には確かに『電話をかける口実が出来た』とでも考えているのだろう。
実際のところ俺がどう考えているかなんて、俺にもわからない。
中断した思考は遅めの晩飯を食べ風呂に入った後、否応なしに向き合うハメになる。
鳴動するスマホ。初期設定であろう軽快な音楽は陽乃さんが早く出ろと言っているようで、恐る恐る先程登録した番号の着信に出る。
『遅くない?』
「むしろ風呂上がって部屋戻った瞬間にかけてきた早さにビビってますよ」
だが予想に反して俺は意外とスムーズに答えることが出来た。声の震えも無く、ましてスマホを持つ手が震えることも無かった。
『では問題。なぜ今私は比企谷君に電話をかけたのでしょうか?』
「突然すね……」
いきなり言われてすぐに返答出来ない。普通に答えるならば“俺が電話をかけるのが遅かったから”であるが、陽乃さんのことだ。わざわざそんなわかりきった答えを言わせるためにこんな問題を出すわけがない。
数秒考えた末、俺は冗談交じりに口を開いた。
「俺をデートに誘うため、とかすかね」
『ふっ』
確かに確率は一パーセントに満たないとは思ってたよ? けど鼻で笑うのはダメだろ。ぼっちのメンタルの強さを過大評価しすぎだ、彼女は。
『もしかしてデートしたかった?』
「まさか。陽乃さんと平塚先生なら迷わずひらつ……すんませんなんでもないです」
『これは静ちゃんに報告だね』
「いくら積んだら勘弁して貰えますか?」
平塚先生のことを考えると体が震えてドキドキが止まらなくなるんです。何これ恋? もしかして俺アラサーに恋しちゃったのか? そんなくだらない妄想は背中をつたる一筋の冷や汗によって否定される。あの人は性格をどうにかしたら良いのにな。まああの人の一番格好良いところも性格によるものなんだけど。つまり平塚先生は結婚出来ない。QED。
『なら明日お花見行こっか。私大学の子とそういうの行くの本当に嫌いだからさ』
いつもの調子でキツいことを言う陽乃さんは普段と同じように見えた(この場合は“聞こえた”が近いか)。それを本心から言っていると確信するに充分な彼女の声色は温度が全く宿っていなかった。
「俺も人混みは嫌いですよ」
『この後静ちゃんに電話する用事があるんだけどさ』
「喜んで同行させてもらいます」
見た目は嫌々ついていく流れの俺だが、正直なところ俺は少しだけ楽しみにしていた。むしろ陽乃さんがなら来なくて良いやと言ったなら、どうにかして俺もついていくために食い下がっただろう。
それほど俺は彼女に、もっと言えば彼女の放つ異様な香りに惹かれていた。普通の人では感じさせてくれないような、特別の象徴のような、そんな香り。
『じゃあ明日の午後六時に今日出会った場所でね! じゃあおやすみ、比企谷君』
「わかりました。おやすみなさい」
耳を離してから彼女が切るのを待つ。三秒ほどでその通話は途切れ、一気に静寂が場を支配する。先程久々に誰かと夜通話したせいだろうか。いやに冷たい無音は俺に早く寝ろと催促してくるようだった。
午後五時十五分。俺は家を出ていた。家から昨日出会った場所まではおよそ十五分ほどであり、万に一つも待たせられないなと直感的に判断した俺は早足で向かっていた。
なぜかあの人の前だと格好つけたくなるんだよな。服装はいつものように小町に見立ててもらったものだが、こういう俺自身の努力によって変わる行動面くらいはしっかりしたい。陽乃さんは本当に飄々としており、いつ俺から興味が失われるかわからない。
……昨日陽乃さんは告白されたつってたけど、実際本当に俺はあの人に好意を抱いているのかもな。なんて、軽い冗談を一人考えながら目的地へ到着する。五時半手前ほどの時間で陽乃さんはまだ来ていなかった。
『髪がくろくてながく』
『しんとくちをつぐむ』
『ただそれっきりのことだ』
春光呪詛のこのフレーズなんて、どちらかと言うと雪ノ下の方が近いのにな。奉仕部の部室の窓辺で紅茶を飲む姿なんかはまさにこの一節に合致する。
だがあいつを見てこれを連想することは無かった。そこに意味があるのかどうかは、今のところ検討もつかない。
それから十分程経つと、彼女は気まぐれに現れた。なぜそんな表現をしたか、それは彼女を見た瞬間本当にふと感じたものだったからだ。
「や、比企谷君。お待たせ〜」
「別に待ってないんで」
「んん、それは不合格かな? ありきたり過ぎてなんか嫌」
昨日とは少し違い、陽乃さんは俺が知っていたいつもの陽乃さんだった。ホワイトワンピースに黒のカーディガン、後はルージュのベレー帽を着ており、地味めな俺の服装だと隣に立って歩くのは気後れするほどだ。
「花見って、この橋の上から見るんですか」
「いや、近くに桜並木があるんだよ。病院の近くなんだけど、知らない?」
「病院はわかりますけど、桜並木は知りませんね」
「じゃあ確認しに行こっか! レッツゴー!」
そう言って腕を組む陽乃さん。無論組まれた腕は俺の腕であり、時折胸が当たる度に顔をひくつかせた。しかし俺は大袈裟に腕を払うことも、胸が当たっていると言うこともせずそのまま連れられるままに歩く。
その行動が意外だったのか、陽乃さんは歩いている途中黙ったまま俺の顔を覗き込んだりした。だが覗き込むだけなので何かを言ったり、まして腕組みをやめることはせず目的地へと順調に進んでいた。
それから数分、橋の上のものとはまだ違う桜模様が見えてきた。綺麗に舗装された道を桜が囲むようにして連なっている。横幅の広いそこは散歩道としては最高のロケーションであり、病院が近いからか車椅子を押される人もちらほら見える。
「ここ良いのがさ、大学生とかいないじゃん? 何ていうか、パリピ的な?」
「確かにこんなとこにそういう輩は来にくいでしょうね」
車の音と桜の木が揺れる音、それに静かな談笑の音に駆け回る子どもの音。どれも花見スポットでは聴くことがないものばかりだ。そういうところは大体がやがやとした話し声で埋め尽くされている。
「良い感じですね」
「そうだね〜」
組まれた腕は徐々に下がり、お互いの手の平が触れ合う。不意に絡めてきた指を俺は抵抗することなく、彼女の温度を受け止めた。
「ありゃ、これでも動揺しない。君も成長したんだねぇ」
「……こんなこと誰にでもしてたら勘違いするやつが続出しますよ」
「言わせたいの? 意外と嫉妬深いんだ」
「別に告白した覚えはありませんよ。陽乃さんが勝手に勘違いしただけで」
「なんか手繋ぎながらファーストネームで呼ばれるとドキッとするね。子どもだと思ってたのに、知らない間に大人になってるんだなー」
一々思考を必要とさせる陽乃さんの言葉は驚く程すっと胸に染み込んでくる。それにしても、最後の言葉。あれは一体どちらに向けて言った言葉なのだろうな。もしくはどちらにも向けて言ったのかもしれないが。
並木道をゆっくり歩きながら、彼女はおもむろに口を開いた。
「もしも比企谷君の好きな人が死んだらどうする?」
「そりゃ葬式でしょ」
「誤魔化さない」
握られる手の力が少し強くなる。別におかしなことは言ってないんだがな。
「俺のですよ」
ふと思いついてそう言ってみる。春光呪詛がわかるんだ、これも理解してくれるんじゃないかと少し期待した。
「好きかもしれないけど、別に愛する人とは言ってないよ? それとも好きになることはイコールで愛するって方程式が成り立ってるの?」
「……流石ですね、本当に」
春日狂想。中原中也の詩で、愛する者が死んだらという酷く残酷な命題について詠まれたものだ。曰く愛するものが死んだならば自分も死ぬべきであり、それでも死ななかったら奉仕の心になるべきだ。
死ぬほど愛する人が居なくなるのに生き長らえてしまう。これほどの地獄は恐らくこの世のどこを探しても見つからないだろう。
「でもさ、死んだ後のことを考えたら今死んでも同じだと思わない?」
「というと?」
「I'm now hereとI'm no whereは本質的には同じってこと」
前者は『私は今ここにいる』。後者は『私はどこにもいない』。背反する言葉をなぜ同じと言ったのか、少し考えれば出そうな気がしたが、言葉にはしなかった。体の中に留めておくから意味があり、それを口に出すと陳腐になり得るのが怖かったからだ。
「俺が死ぬのなら人生最高の瞬間で死んでみたいですけど、まあそうは行かないでしょうね」
「比企谷君もそんなこと考えるんだ。……あ、いや中学生の時に腐るほど考えてるか」
「そんなことより陽乃さん」
「露骨に話を変えるね〜。何?」
別に中二の頃の話をされるのが嫌なわけじゃない。本当だからな? いやマジで。
「陽乃さん俺にファーストネームで呼ばせる割に、俺のことは苗字で呼ぶんすね」
八幡と呼んでほしいと言っているようにも聞こえるその発言は、陽乃さんにはどう聞こえたのか。握る手はまだ暖かく、時折見せる温度の無い彼女とは切り離れているように思えた。
「呼んで欲しいんなら私に認められなきゃ。ね?」
パッと握っていた手を離し、俺の目の前に立って満面の笑みで笑う。仮面のない彼女の笑顔は少し意地の悪そうな、だがとても感情の伝わる笑顔だった。
彼女の上を待つ空を見上げると、もうすでに暗くなりかけていた。太陽の沈む方向を見ると、そこは赤と言うには赤すぎる、恐ろしい色をしていた。
「すごいね。小説だったら燃えるような空とか表現するのかな?」
「いや、あれは血でしょ」
なぜそう答えたのかはわからない。しかし推敲する前に口をついており、遅れて陽乃さんの表情を伺う。
──目を大きな丸にし、しかし口元は笑っていた。その時の心に浮かんだ『予想外』という驚愕は、恐らくどちらの心にもあったのだろう。
「今のは良かったよ、比企谷君」
だがそれでも、彼女は俺のことを名前で呼ばなかった。