春の光は呪いの鎖になる   作:しゃけ式

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4話

 午後八時というのは不思議で、外の人の数は意外と少ない。曜日にも依るのだろうが、週頭である今日だとがやがやとした不快な喧騒は形を潜めている。

 

 しかし今の俺の胸中はそんな穏やかなものではなかった。

 

 

(冷静に考えたら俺ヤバくね? これご両親にどう説明すんの? まして俺ままのんには顔バレしてたよな?)

 

 

 全身から吹き出す汗は夜風によって気化し、どんどん熱を奪われていく。視線がキョロキョロと忙しなく動くが、それで問題が解決するわけでもない。

 

 

「比企谷君、どうしたの?」

 

 

 流石に不審に思ったのか、陽乃さんは俺の顔を覗き込んだ。

 

 

「やっぱ俺帰りますね」

「え、なんで」

「男が女の家に上がり込むってのはやっぱダメだと思うんですよ。倫理的に、そう倫理的に」

「本音は?」

「ままのんこわい」

 

 

 手汗によって陽乃さんと手を繋いでいたことを思い出す。流石にこのままはマズイと思い手を離そうとすると、陽乃さんの方からぎゅっと握られる。

 

 

「私一人暮らしだよ?」

「あ、なら大丈夫です」

 

 

 倫理的な問題は丸めてゴミ箱へ捨てちゃおう。今はこの人ともっと長く一緒にいたい。ベタ惚れ丸わかりの思考を自覚しながら、連れられるまま歩く。

 

 

 

 十分程だろう。俺と陽乃さんは道中ずっと手を繋いだまま歩き、七階建てのアパートへ到着した。見た目は白を基調とした至ってオーソドックスなもので、外から見える部屋の広さは学生マンションに比べてやや広めである。

 陽乃さんの部屋は最上階の七階らしく、静かなエレベーターによって上へと運ばれていく。着いた先の通路を左に曲がった奥のところ、七〇七号室が陽乃さんの部屋だ。

 

 

「ここですか?」

「そ。七〇七、私の誕生日」

 

 

 手慣れた手つきで解錠し、ガチャリとドアを開ける。ドアを上から抑え、陽乃さんに先に入ってもらう。小さくありがとうと言った彼女は腕をくぐって中へ入っていった。

 

 

「ただいまー」

「お邪魔します」

 

 

 陽乃さんが先んじてリビングの方へ向かい、電気を付けていく。促されて中へ入ると、学生にはおよそ似合わないような部屋だった。ベランダに繋がる大窓は広い範囲を占め、部屋の左に設置されたテレビは馬鹿でかい。右隅にはチェストがあり、その上には小さな観葉植物が三つほど並んでいた。

 

 

「……なんかOLの部屋みたいすね」

「何それ、反応に困る」

「大人びてるって意味ですよ」

 

 

 大きなテレビからテーブルを挟んだ向かい側にあるソファ(やはりこれも大きい)に陽乃さんは座り、左隣をポンポンと叩く。断る理由もないので拳二つ分ほど距離を開け座った。そばに寄ると彼女の甘い匂いが漂ってくる。

 

 

「それにしてもさ、今日はなんであんなところ行ってたの?」

「隣に女がいたのは覚えてますか? あいつについて来てくれって言われたんで、その成り行きで」

「ふーん」

 

 

 それ以上はその話題に興味を示さず、少しの間だが無音が流れた。

 

 

「……陽乃さんって何か香水でもつけてるんですか? たまにめちゃくちゃ良い匂いしますよね」

「ホント? 君こういう匂いが好きなんだ」

 

 

 肩口の方を自身の鼻に近付け、クンクンと鼻を鳴らす。その仕草を見て思わずエロいと感じたのは、恐らく不可抗力だろう。露出なんかは一切増えていないのに、不思議なものだ。

 

 

「何の匂いですか?」

 

 

 何気なく投げかけたその質問は、しかし俺の予想とは大きく違った返答を生み出した。

 

 

「じゃあ嗅いで見る? はい」

 

 

 両手を少し広げ、抱き締められる姿勢を作る。滲み出る唾液をバレないように飲み込み、硬直して動けなくなる。

 

 

「どうしたの? ……やっぱりそういうことは出来ない?」

 

 

 いたずらっぽい笑顔を浮かべて俺を挑発する。

 

 

「良いんですか? マジで嗅ぎますからね?」

「君なら良いよ。さ、どうぞ」

 

 

 再度腕を広げる。その瞬間、やはり初めこそ躊躇ってしまったが抑える理性を無視して彼女の体を抱き締める。右手は陽乃さんの頭を包み込み、左手は腰へと手をやった。

 

 

「んっ……、ホントにしちゃうんだ」

 

 

 不意に漏れたであろう吐息は艶っぽく、そして確かに性を意識させた。

 どこもかしこも柔らかい彼女の体はいつまででも抱き締めていられそうだ。彼女も何も言わず体を預け、加速している俺の鼓動が伝わっていないかだけ心配しながら陽乃さんを感じていた。

 

 

「……比企谷君? お姉さんをぎゅってしてくれるのは嬉しいんだけど、趣旨忘れてない?」

「ん? ……ああいや、忘れておりませんのことよ? 別にフニフニの実のフニフ人間とか考えてませんよ?」

「……まあ何でもいいや」

 

 

 完全に忘れていた目的を確認され、鼻の近くにあったうなじに顔を近付ける。深呼吸の要領で息を深く吸い、長く吐く。

 

 

「んんっ!? ……ちょ、それダメ。そこダメだから」

「なんかあれですね。やっぱりめちゃくちゃ良い匂いですけど、ちょっとだけ酸っぱい。具体的には汗」

「は、はぁ?! 何言ってんの!? 別に臭くなんかないからね!!」

「いやいや、誰も臭いとか言ってませんよ。それも良い匂いの内です」

 

 

 そう言ってもう一度深く息を吸う。鼻腔をくすぐる甘い香りは脳が溶けるような錯覚さえ覚えた。

 

 

「やっ!! ……もう終わり、終わり! お風呂入ってくる!」

 

 

 俺を突き放し、風呂の方へと早足で歩いていく。普段見ることのない彼女はただの女性のようで、しかしこの思考こそが陽乃さんは普通の女ではないと裏付ける根拠にもなっていた。

 

 

 しかし、まあ。

 

 

「……この匂いじゃないんだよな」

 

 

 初めて橋の上で彼女ならざる陽乃さんを見た時。あの日香った蠱惑的で何時まででも嗅いでいたいようなあの香りは、ついぞ感じ取ることはなかった。

 

 

 

 

 

「お風呂上がったよー、エロ谷君」

「名前にエロを付けていいのは江口とかその辺の名字だけでしょう」

 

 

 これで下の名前が拓也とかだとエロタクとか呼ばれるんだろうな。実に不名誉な渾名である。

 

 湯上りの陽乃さんは上下無地の白いタンクトップとモコモコしたホットパンツを着ていた。先程よりも数段増えた露出に思わず目が釣られてしまい、そこであることに気付いた。

 

 

(……胸の先端に突起? 巨乳は寝る時はしないって聞いたことはあるが、それにしても……?)

 

 

 確認のため、そう確認のためにもう一度陽乃さんの胸部に目をやるが、やはりそれは見間違えではなかった。

 だが流石に見過ぎたのか、陽乃さんは俺の視線に気付き自身の胸へと目をやった。

 

 

「……やっぱりエロ谷君だね。まあこれは私も悪いけど」

「しょうがないですよ。この世には万乳引力ってもんがあってですね」

「乳首に釣られたくせに」

 

 

 陽乃さんの口からそんな言葉が出るとは考えておらず、思わず言葉に詰まる。てか自覚してるのにそのままってどういうことだよ。由比ヶ浜も真っ青なビッチ度だな。

 

 

「次にビッチとか考えたらもぎ千切るからね」

 

 

 何この人、なんで俺の考えてることわかんの? 別に顔にビッチとか書いた覚えはないぞ?

 

 

「比企谷君」

 

 

 こっちこっちとジェスチャーする陽乃さん。何かと思い示されるまま近付くと、突然抱き締められた。

 

 

「ほら、これで汗の匂いはしないでしょ?」

 

 

 今度は先程の匂いとは異なり、柔らかい香りがふわりと辺りを包んだ。薄く香る桃の香りは扇情的で、首の後ろに回された両腕から強く漂っていた。

 

 

「……この匂いも良いですね。あとさっきよりも胸の感触がダイレクトに伝わります」

「当ててるからね〜」

 

 

 それから少しして陽乃さんは俺から離れ、俺も風呂を借りることになった。着替えは心配するなと言われたが、一体どういうことなのだろうか。聞く間もなく俺は風呂場へと押されて行った。

 

 

 

 

 

「……バスローブかよ」

 

 

 風呂を上がり体を拭こうとすると、そこにはタオルと着替えの代わりにちょこんとバスローブだけが置かれていた。仕方無くそれを羽織りフードのところで髪の毛を雑に拭く。足先を脛辺りの部分で拭くと、その時点でもう体が全て拭けていることに気付く。バスローブすげえな。

 

 バスローブのままリビングへ移動すると、陽乃さんはPCを叩いていた。淀みないタイピング音は俺が話しかけるのを躊躇わせ、ソファの端に座って彼女を見ていた。

 一段落ついたのか、エンターキーを押すと両手を挙げて伸びをした。

 

 

「何してたんですか?」

 

 

 ここでようやく話しかけた。陽乃さんはこちらを見ずに会話を進める。

 

 

「卒論」

「やっぱり面倒臭いもんすか」

「だねぇ。ただどちらかと言うと、最近は全部が面倒臭く感じるよ」

 

 

 後ろからだと彼女の表情は見えない。しかしその雰囲気は気怠そうで、今の言葉が嘘だったとはとても思えなかった。

 

 

「あ、そうだ」

 

 

 何かを思い出したのか、陽乃さんは急に急に口を開いた。

 

 

「寝る場所なんだけどさ、私のする問題に正解したら一緒に寝てあげる」

「不正解だったら?」

「そこのソファ」

 

 

 横幅は五十センチほどで、縦幅は二メートルほど。寝るには充分な大きさのソファだが、ベッドで、それも陽乃さんと寝るとのことなので一応身構える。

 

 

 

「じゃあ問題。この世の全ての人に平等に与えられたものは何でしょう?」

「ない」

「……回答早くない? 本当にそれで良いの?」

 

 

 

 この世は不平等の塊である。生まれた時は平等と言うが、それは単なる欺瞞だろう。生まれた瞬間捨てられる命もあれば丹念に育てられる境遇の子もおり、また個々に与えられた才能も違う。言い換えるならば、命というのは環境によって価値が変わる。

 

 つまり生き続けること自体が不平等であり、生き地獄と言っても過言ではない。それを解決する方法というのが、春日狂想にもある“自殺”である。

 

『愛する者』が死んだ時には、死ななきゃならない。そうじゃないと辛くて生きていけないだろうから。

 

 

 

「はい、じゃあ君はソファで寝てね。枕は後で持ってくるし」

「いやいや、今のは正解でしょう」

 

 

 

 不正解を明言せず、しかし陽乃さんはソファで寝ろと言う。

 

 あるはずがないのだ。この世で平等に与えられたものなんて──

 

 

 

「不平等だよ」

「は?」

 

 

 予期せぬ答えに思わず聞き返してしまう。この人は今何と言ったのだろうか。

 

 

 

「この世でただ一つだけ平等なものっていうのは、等しく与えられた不平等。羨ましいところ、もしくは自分にあって欲しくないところがあればその時点で不平等でしょ? 仮にそれが全くない相手でも、自分と瓜二つの人間だとは思わない。つまりそういうことだよ」

 

 

 

 不平等だけが平等。ともすれば定義破綻さえ起こしそうなその理屈は、俺には覆すことが出来なかった。それにこれを言うのが陽乃さんというところにもまた皮肉が効いている。不平等の権化のような彼女は、恐らく数多の憧憬を受けて育ってきたことだろう。

 

 

 端麗な容姿を持ち、明晰な頭脳を使役し、更に実家のクラスもトップレベル。百人に訊けば百人が羨ましいと答えるようなハイスペック。

 

 

 

 

 “平等な不平等”を語った陽乃さんは、そう“愚痴”を零した。

 

 

 

 

 

 

 

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