朝、スマホが机の上でブーッと振動する音によって目覚める。一定のリズムを刻みながら俺の眠気を奪っていくようで、即座にそれを掴みメールを開いてバイブを止める。手を伸ばした際に首と背中がやたらと軋むな、と思った時初めて今の自分の状況を思い出した。
(……そういや、陽乃さんの家に泊まってたな)
ようやく思考が機能し始めた頃、遅れて漂ってきた鼻腔をくすぐる香りの方へほぼ無意識に顔を向ける。そこでは陽乃さんがキッチンで朝御飯、具体的には卵を焼いているところだった。
「起きたね、比企谷君? とりあえずちゃっちゃと顔洗ってきてねー。あと歯ブラシは私の歯ブラシの隣に置いてあるから」
返事するのも億劫で、言われるがまま洗面所へと向かう。雑に冷水で顔をバシャバシャと濡らし、備え付けられていたタオルで水滴を拭き取る。歯ブラシを探すと、取っ手の無いコップにピンクの歯ブラシと青の歯ブラシが二本並んでいた。何も考えず青の歯ブラシを取ろうとするが、ふとあることに気付いて手を止める。
(……水滴)
歯ブラシの色だけで見れば俺が青だろうというのは悩むまでもないが、問題はその青に濡れた跡があるということだ。青の方は見ただけでわかるので、濡れていないであろうピンクのブラシ部分を親指でなぞってみる。やはりこちらは水に濡れた形跡がなく、俺は自信を持ってピンクを手に取り、コップの隣に並んでいた歯磨き粉をブラシに付けた。ちなみに歯ブラシに先に水で濡らすのは間違いらしい。泡立ちが良くなって短い時間で磨けたと誤解するためだ。
シャコシャコと歯を磨くこと二、三分。もう良いかと勝手に自分で見切りをつけ、口に溜まった歯磨き粉混じりの唾液を吐く。コップに入っている青い歯ブラシを一旦手に取り、口をゆすいでから青と、それから使用したピンクを水で流してからコップの中に入れる。二つだけがコップの中に囚われた姿はなぜか奇妙な羨望を俺に抱かせ、心の中で首を捻りつつリビングへ戻った。
リビングでは既に食器が並べられており、そのどれもが美味しそうな見た目をしている。香る匂いも香ばしいものばかりだ。
「おかえり〜」
「ただいまです。ところで陽乃さん、もしかしてこれ全部作ったんですか?」
「そうだよ。まあ普段はこんなにしっかりしたのは作らないけど、今朝は比企谷君がいるしね」
また陽乃さんは勘違いしそうな言葉を恥ずかしげもなく言い放ち、その言葉によって照れた顔を隠すように並んだ朝御飯へと目をやる。
一言で言えば、THE・日本食といった感じだ。白米に紅鮭、卵焼きに味噌汁と誰しも一度は憧れるようなオーソドックスタイプ(とはいえ既にそれ自体がブランドを持っているためもはやオーソドックスとは言えないかもしれないが)のものだ。
「何でも出来るんですね」
それが俺の混じり気の無い素直な感想であり、特に何も考えずに口にしていた。
しかし陽乃さんは、なぜか少し寂しそうな笑顔を浮かべた。
「まあ、基本は大体ね」
今の俺の言葉にそう返せる人間は果たして何人いるのだろうか。自己評価が高いのではなく、単なる事実の確認。嫉妬するほど冷静な彼女に、少しだけ愛おしさを感じた。
「いただきます」
「はい、召し上がれ」
会話が無くなるのを恐れ、言っていなかったいただきますを口にして卵焼きを一つ口に運ぶ。甘いものではなく醤油ベースのそれは噛むだけで熱い汁が口の中で溢れた。先程焼いていたからだろうか、丁度良い温度の出来立ては今まで食べたどの卵焼きより美味しかった。
「……小町より美味いじゃないですか。もしかしてそういう薬とか入れました?」
「失敬だな、君は。別にスパイスとして入れたのは一つだけだよ」
「小町はブラコンですよ?」
「それだけ純度の高い愛情なんだよ、私のは」
軽口を交わしつつ、他のものも食べていく。やはりどれも一級品の味で、こんなのが毎朝出てきたらとんでもなく舌が肥えそうだなと考えていた。
にしても。
「この味噌汁だけ別格じゃないですか? 美味すぎてちょっと引くレベルです」
普通の見た目なのに、妙に後を引く味。飲む度に残りが減ることを悔やむほど、これは美味しい。先程卵焼きが過去に類を見ない美味しさだと言ったが、その言葉はこの味噌汁にこそ相応しい。そう感じるほどこの味噌汁は格が違った。
「毎朝作って欲しい?」
「ええ」
言葉を取り繕うこともせず、ありのままを伝える。それが何の隠喩かは、勿論わかっているんだが。
「じゃあ私を泣かせられたらね?」
「鳴く? ……え? 童貞の俺にそれを言いますか」
「誰があんあん言わせなさいって言ったの。クライよ、cry」
「なら授業の帰りにでもレンタルビデオ屋でホラーを借りてきますよ」
「……今日も来てくれるんだ」
思わぬ陽乃さんの微笑みに大きく胸が鳴り、否応なしに緊張させられる。
「じゃあ、はい。これ」
そう言って俺に渡してきたのは一つの鍵。え、これ合鍵だよな?
「今ポケットから出てきた気がしましたが? てかそれよりそんな風に鍵配ったらダメでしょ」
「だってこれ後で雪乃ちゃんに渡そうと思ってたやつだし。あとこんな風に合鍵を渡す相手なんて、肉親を除いたら君だけだよ」
「……今回は言ってくれるんですね」
「味噌汁を作れって言われちゃったからね、私も今日は特別」
言い終わるなり、殆ど同じタイミングでお互い朝御飯を食べ終わる。それが当たり前のように俺達は顔を見合わせ、手を合わせてご馳走様と言う。その後陽乃さんはお粗末様と言って皿を重ね始める。陽乃さんが鮭と卵焼きの皿を重ねたので、俺は茶碗と味噌汁のお椀を先に重ねて台所へと持っていく。陽乃さんが先のその二つと四本の箸を持ってくるなり水でゆすいで洗おうとするが、それを他でもない陽乃さんの手によって阻止される。
「今日はまだお客様だから」
そう言って俺に退くよう指示する。服はテーブルの上だからと言われ、半ば強引に着替えさせられた。勿論着替えさせてもらうなんてことはないが。
「いつまでもバスローブじゃ寒かったでしょ」
言われてからやっと気付く。そう言えばバスローブのままだったな。上質なものが使われているのか、全く違和感のない肌触りのこれは着ていることすら忘れさせられた。
「あ、そうだ比企谷君」
「何ですか?」
「歯ブラシ、どっち使った?」
普通ならばしないような、奇天烈な質問。それを答え合わせとして、俺はピンクだと答えた。
「……流石、見逃さないねー」
「ぼっちの観察力を舐めないでください」
「観察力が凄いのはもう認めてるよ」
そんな他愛の無い会話をしながら、俺は授業に間に合う時間ギリギリまで陽乃さんの家に居た。
授業開始五分前に大教室に到着する。少し見渡すと鶴岡は前と同じ席に座っており、都合の良いことに真ん中の席を挟んで隣の席は空席だった。
少し照れを感じながらもその席へ腰を下ろす。鶴岡はビクッとしてこちらを見たが、俺とわかるなり安心した表情になった。そしてそうだと言いながら自身のカバンの中を漁り出す。
「はい、これ」
見るとそれは俺が落としたはずの定期入れで、中身を確認すると落とした時そのままの状態で安心した。
「ありがとう。これどこで拾ったんだ?」
「あれ、メール見てないの? あの時比企谷君が座ってたところに落ちてたんだよ」
そう言えば陽乃さんの家でこいつに起こされたんだっけな。ポケットに入れていたというのに見ようともしなかったスマホを取り出し、メール画面を開く。新着メールは二件あり、その内の一つが鶴岡からのものだった。
(もう一つは……?)
送信者には『由比ヶ浜結衣』とあり、どうせ大したことは書かれてないんだろうなと当たりをつけながら開く。内容はやはり取るに足らないことで、サークルには入ったのかと質問されていた。
短く入るつもりはないとだけ打ち返すと、鶴岡が俺のスマホを覗き込んでいることに気付いた。
「……返信してるだけだぞ?」
「え、ああごめん! ……この由比ヶ浜って人、もしかして昨日の綺麗な人?」
おずおずと俺の表情を伺いながら問う。
「いや、こいつはまた別だ」
「そっか。……ねえ」
「?」
「私達って独りぼっちじゃないといけないのかな」
唐突に壮大なことを言い出す鶴岡。一体なぜこのタイミングで言ったのかわからず、何も返せないまま口を噤んでいた。
「あ、ほら。昨日綺麗な人が比企谷君に言ってたでしょ? 個は個でいるべきだって」
「……あれは俺限定の話だ。高校の頃良い感じにぼっちって特性を活かしてたからな」
そのおかげで、そのせいで俺は色んなことを知った。ただしそこまでは口にしなかったが。
「そっか」
それ以上鶴岡は何も言わず、見計らったかのようなタイミングでチャイムが鳴った。
「雨降ってる……」
今日も一緒に昼食を摂ろうということになり、前のように外で食べようと天気を伺うと強くもなく弱くもなくといった雨が降っていた。
「こういうのって、確か桜雨って言うんだよな」
由来は桜に雨が当たるから。何とも安直な言葉だ。鶴岡はへえ〜と興味深そうにしている。
「……学食は混んでそうだし、空き教室でも見つけるか」
「え、使ってもいいの?」
「まあ長い時間使うわけじゃねえだろ」
鶴岡の返事を待つことなく歩き出す。遅れないようにと少ししてから駆け足でこちらへ寄ってきて、丁度俺の一歩後ろ辺りをついてきた。
空き教室はそれほど時間をかけずに見つけることが出来た。ゼミで使う教室なのか、大教室に比べて六分の一程度の広さしかなかった。中には誰もおらず、長机の前に二人並んで座った。だがカバンの中から小町弁当を取り出そうとした時、あることに気付いた。
「……あ」
「どうしたの?」
「弁当無いこと忘れてた」
陽乃さんの家に泊まったので小町弁当が無いことなど考えればすぐ思いつきそうなものだが、いつもあるものはそもそも無いという考えすら浮かばないようだ。
「じゃあ私のお弁当食べる?」
「いや、それだとお前の分どうするんだよ」
自分の弁当の蓋を開いて、おかしな提案をしてくる鶴岡。ぼっちは自己犠牲をするのが好きなのか、と自分に鑑みて思考する。
どちらかと言うと、自己犠牲によって承認欲求を満たしていると言う方が正しいかもしれないが。
「ならその卵焼きだけ」
三つ並んだ卵焼きのうち一つを指で摘み、口に放る。陽乃さんのものと同じで醤油ベースのそれは、程良い辛さをしていた。
「どう?」
何の含みもないその質問に、俺は出かかった言葉をすんでのところで喉元に留めた。
(……流石に陽乃さんのと比べるのは酷か)
浮かんだ無礼を咀嚼し、打ち消すように卵焼きを飲み込む。
「俺好みの味だ」
「そっか。良かったぁ」
心底安堵した表情を浮かべる。言葉のセレクトには間違っていなかったことに同じく俺も安堵し、後は雨の降る外を見ていた。
授業が終わり、レンタルビデオ屋へ行く道中あることを思いついた。
空を見上げると雨は既に上がっており、今後も降る様子はなさそうなので傘を持っていない俺は丁度良いと思い進路を変える。
先程までは主要道路沿いを歩いていたが、少し脇道に逸れてある場所へと向かう。まだ一度しか行ったことがない場所だが、最近行った場所なので覚えているはずだ。
辺りをさ迷うこと十数分。四月はまだ日が早く落ちるため太陽は視界の先に沈んでいた。しかしロスタイムとも言える明るさ、確か薄明と言ったその時間は夜よりも暗い空をしていた。
やっと見つけたその場所は、やはり思い描いていた通りの光景をしていた。
桜の花弁は全て散り、辺り一面無造作に置かれていた。恐らく先程の雨によって流されたのだろう。病院から見えていたであろう桜は、もう既に葉桜へと名前を変えていた。
(……なんつーか、あれだよな)
あの日桜の中に彼女を見つけたからだろうか。陽乃さんはどこか桜に似ている。
見目麗しい仮面を辺りに振りまき、しかしそれによって自身を千切るような、一見すると見ることの出来ない自己犠牲を孕んでいる。花弁を散らすことを強要される陽乃さんは、桜のままだと救われることがない。
──なら、俺が雨になれば彼女を救えるかもしれない。
酷い妄執にも思えるその思いつきは、口に出しても誰にも聞かれることはない。俺だけの妄言で、俺だけの救い。
薄明に照らされた葉桜は、確かにその葉に雨粒を残していた。
実はpixivにも上げています。よろしければそちらもどうぞ。まあ内容は変わりませんが(笑)