ヤン一行は魔物との戦いをくぐり抜け、ようやく北海からスコットランドに上陸した。そこからは陸路を下に向かうつもりだ。その行程は途中まで順調に行ったが、さすがにそのままロンドンに着いたわけではない。
またしても魔物たちに遭遇してしまう。
素早く片付けたつもりだが今度の魔物は馬鹿な者だけではなく、狼煙を上げられてしまった。
「しまった、哨戒網に触れたようだ。これでは隠密行動からの突破は無理だなあ」
戦いが始まったことが付近一帯に知れ渡り、ヤンの言葉通り魔物が次から次へと集まってきた。
さすがにウランフ提督やシェーンコップは疲労をものともせず勇戦している。
ヤンでさえ一応攻撃魔法などを使っている。さっぱり当たりもしないが、牽制にくらいは役に立っている、と本人はそう思いたかった。もちろん周りはヤンの魔法力など全く期待していない。
数時間が経つと、逆にイギリス魔法省の偵察隊、すなわち味方の闇払いも加わってきた。戦いは偶発的なものなのに予想外に大規模になっていく。
しかも、何と途中からアメリカ・イルヴァモーニーの生徒らも合流してきたのだ。同じように北方の迂回路をとって魔法省を目指していたのでルートが同じであった。
魔物との激戦の最中、影のように忍び込んできた者がいた。
ヤンを見つけるとうすら笑いを浮かべ、卑怯にも背後からこっそり近付く。
万が一にも外さない距離にまで到達し、力を貯め込み、タイミングを伺う。そして一気に攻撃魔法を放った。
「危ない!」
その攻撃魔法を身を盾にして防いだ者がいた。
ウランフ提督だ。
危険を察知し、ヤンの所へ飛び出していたのだ。ヤンの代わりに攻撃魔法を受けて倒れ伏す。死んではいないが身動きできない程の重傷を負ったようだ。
「チッ、邪魔が入ったか。しかしもう一度、死ねヤン・ウェンリー!」
しかし、その卑怯な襲撃者は再びヤンを狙って攻撃しようとする。
だが、その場に強力な魔法が飛んで来た。ヤンと襲撃者の中間の地面に当たり土埃が舞い上がる。
襲撃者は思わぬことに手を顔にかざして埃を避けながら、なおも諦めていない。
埃がやや治まるのを待ち、もう一度杖をヤンに向ける。恐るべき執念だ。
ただしこの頃にはヤンの方も襲撃者を認識して声をかけた。
「いったい何者なんだ! こんなに執拗に狙ってくるなんて」
「うるさい! 名前などどうでもいいが、敢えて名乗ってやる。俺はお前に人生全てを狂わされた者、同盟軍少将アーサー・リンチだ! 驚いたか、ヤン・ウェンリー。俺を踏み台にして出世したことを忘れたとは言わせんぞ! 何がエル・ファシルの英雄だ。偽物の英雄め、ここで死んで詫びろ!」
ヤンは驚く他はない。前の世界からやってきた者はたいてい味方であり、敵はルドルフとその側近だけだった。先のアンドリュー・フォークの襲撃には驚かされたが、また同じ同盟軍から敵が出現してくるとは。
「アーサー・リンチ少将、どうやら誤解があるようです。エル・ファシルでは民間人救出に最善の手を打ったまでのこと。同盟軍として何より優先してなすべきことと判断しました。軍というものは市民を守ってこそ軍だからです。もちろん自分の出世のためではありませんし、何より民間人を見捨てたあなたに言う資格はないでしょう」
「ふん、相変わらず口が上手いなヤン。軍の意義にかこつけて自己正当化したか。だが下らんおしゃべりは止めてもらおう。どう言い繕ってもお前のせいで俺が帝国の捕虜になった事実は変わらんのだからな!」
その場にもう一人、走り込んできた者がいた。
先ほど魔法を撃ち込んでアーサー・リンチの襲撃を邪魔した者だ。
アーサー・リンチも無視はできず叫ぶ。
「なんだお前は、失せろ! 俺の邪魔するな!」
「アーサー・リンチ君。まだそんな歪んだ心持ちで、復讐など考えていたのか。君には昔から期待していたつもりだ。そして実際チャンスを与えてきたのだが、無駄だったようだ。今一度失望させられたよ」
「うるさい!」
アーサー・リンチは激昂して、ヤンよりも先にその邪魔者へ攻撃魔法を撃った。狙いは正確だったのだが、その者は最小限の動作で躱した。
そして素早く撃ち返す。
それは過たずアーサー・リンチの眉間に当たったのだ。その者はアーサー・リンチを一撃であっさりと倒した。
「今度はあのクーデターの最後とは違って、迷いなく撃てたよ。それがせめてもの情け、君のためだと思うからだ。私はね、実は射撃は得意なんだよ。アーサー・リンチ君」
アーサー・リンチはもう喋れることはなく、やがてこと切れた。
アーサー・リンチを撃った者は、今度はヤンに向き直って話し出す。
ヤンはその雰囲気と、先ほどの会話から推察することで既に誰か分かっている。
「ヤン・ウェンリー君。私はドワイト・グリーンヒルだ。この世界ではキングズリー・シャックルボルトと呼ばれているがね」
やはりそれは同盟軍の良心ともいわれたグリーンヒル大将だった。
あのクーデター事件で首班に担がれ、アーサー・リンチに裏切られた過去がある。
「そして初めに君に謝罪したい」
「グリーンヒル閣下、謝罪とはいったい何でしょう。今襲撃から助けられたのは私です」
「もちろん、今のことではなく前の世界でのクーデター事件のことだ。私は帝国の策謀に踊らされ、同盟を守るどころか取り返しのつかない傷を負わせた。無意味な内乱によって将兵たちも多く倒れてしまったのだ。ヤン・ウェンリー君にも非常な苦労をかけることになってしまった。これをただただお詫びしたい」
「そんな、顔を上げて下さい、グリーンヒル閣下」
心からの謝罪だと分かる。
生真面目なドワイト・グリーンヒルは深く頭を下げ、真摯な態度だ。
だがしかし、やがて顔を上げたグリーンヒルは謝罪だけでない雰囲気を漂わせているではないか。
ヤンは何かとてつもなく不吉なものを感じ、思わず身震いする。
「公人としては本当にいくら詫びても足らない。しかし、個人的なことは別だ。ヤン・ウェンリー君、どうしても君に詰問したいことがある。もう察しのいい君のこと、分かっているとは思う」
「 …… 」
「はっきり言って欲しいかね。私の娘、フレデリカについてだ」
「えっ! あっ、それは、その」
「君はフレデリカと結婚したそうだが、その経緯についてやましいことはないと、はっきり言えるのかな」
「そんな、決して!」
「例えばだ、父親を失って精神的にひどく落ち込んでいる娘に対して、これをチャンスと捉えたなどと」
「いいえ、閣下」
「あるいは上官の立場を利用して接近したとか」
「そんなことはしていない、つもりです……」
「いや、その前から狙って接触を増やたということも」
「いえ……」
ヤンは思わぬことに混乱し、消え入りそうな声で答えた。
完璧にそうではないと言い切るのにわずかなためらいがあったのだ。
確かに意味もなくフレデリカに紅茶を淹れさせることは日常茶飯事であった。イゼルローン要塞でも、ヒューべリオンの艦橋でも。もちろん副官の業務の範疇ではない。
それはフレデリカが紅茶を淹れるのが上手いからではない。いや、はっきり言えば無茶苦茶下手である。どうしてそうなのか分からないが、とにかくユリアンの淹れる紅茶とは雲泥の差だ。しかし、ヘイゼルの瞳がとても可愛くて、ついついフレデリカに頼んでしまっていた。
これではグリーンヒル大将に対しあまりにも分が悪い。
そう思ったヤンは慌てて目でシェーンコップを探す。結婚の経緯について、フレデリカの方も充分に結婚に積極的であったと証言してもらうためだ。それしか起死回生の手がない。
しかし、折悪しくシェーンコップは魔物との戦闘中であり、そんな私的なことで呼べない。
ドワイト・グリーンヒルは数歩ヤンに歩み寄る。
その威圧感に怯えてヤンは思わず後ずさる。
「どうしたというんだい、ヤン君。本当にやましいことがあるのかね。私はね、ちょっとした疑問を解消したくて釈明を求めているだけのつもりだよ。フレデリカもいつまでも結婚しないわけにいくまい。娘が結婚したのは父親としてとても嬉しいことじゃないか。私は別に怒ってなどいない。結婚したのはもう事実だし、君は義理でも息子になったのだから」
「そ、そうなのですか。お義父さん」
「何! 私をそう呼ぶのか!!」
ヤンはついに尻餅をついてしまう。
怒ってないと言ったのは嘘なんですか、と指摘できるような状況ではない。
そこへ横から驚きの発言が入った。
「ドワイト・グリーンヒル大将閣下、おそらくその詮索は無用のことと思います。そのヤン・ウェンリーは実は私に懸想しておりました。あのクーデター事件で私が消えるまでは間違いなくそうです。そしてヤン・ウェンリーは二股をかけるほど器用な人間ではなく、結婚前からお嬢さんに手をつけたことはなかったでしょう」
もちろん、会話を聞きつけて寄ってきたジェシカ・エドワーズからだ。
これはヤンにとって衝撃だった!
自分に対する有利な証言のはずなのに、とてもそんな気にはなれなかった。いや、もう消え入りたい気分だった。自分の淡い恋心がジェシカに気付かれていたなんて!
ずっとずっと長いこと素知らぬ顔を続けて、巧妙に隠していたはずなのに。
「ヤン、やっぱり隠してたつもりなのね。そんなのバレバレよ。むしろ隠せていたつもりの方がおかしいわよ。そしてラップも知ってるわ」
ジェシカが視線で促すと、そこにラップの姿があった。ラップは肩をすぼませて、ジェシカの言葉が事実であることを示している。すまんな、ヤン、とでも言っていそうだ。
ジェシカ・エドワーズは以前からヤンの恋心を承知していて、しかも自分も憎からず思っていた。
そしてヤンに幾度もチャンスを与えたつもりだ。
しかしヤンはそのチャンスを生かすことはなかった。結局ジェシカは陽気で積極的なラップの方を選び、ヤンのことは心の中からフェードアウトさせるつもりだった。
一方でヤンの方は諦めるどころではなく、いつまでも未練がましかった。
しかしジェシカが消え、その傷が癒えてようやく踏ん切りをつけ、フレデリカを見るようになっている。
もちろんジェシカのことは決してフレデリカに言っていない。死ぬまで秘密のつもりだ。
ここでジェシカが最後の一撃を加えた。
とても繊細なところのあるヤンの心を、無残に打ち砕く言葉だ。
「もちろん、そんなことはフレデリカさんも当然承知してるでしょうけど。聞いてもしょうがない過去だから詮索しなかったのかしら。たぶん、賢いお嬢さんなんだわ」
もはやヤンは打ちのめされ、がっくりうなだれて声も出ない。
そこへまた横から声がかかる。途中から戦いの応援に入ってきた知らない顔だ。
「もうその辺で勘弁してはくれんか。それ以上いじめたら可哀想じゃ。ヤン・ウェンリーはその道では臆病ともいえるほど誠実なのはみんなも知ってる通り。そしてグリーンヒル大将、儂が証言しよう。ヤン・ウェンリーではなくお宅のフレデリカ嬢の方が結婚に積極的じゃったことを」
皆はその者を見る。見かけは若いがその言葉使いに既視感があった。
次の言葉に納得することになる。
「おお、そうか。自己紹介がまだじゃったな。ほれ、ヤン、儂じゃよ。ビュコックじゃ。あ、そういえば思い出したがグリーンヒル大将、娘さんが第十三艦隊に配属になったのは貴官が手を回した結果ではなかったのかな」
「それは事実です。実は私はフレデリカがヤン君を好きなのを知っていたので敢えてそうしたのです」
ビュコックの親父さんが現れたことはヤンにとって何よりの喜びだ。
旧知だからというだけではない。前の世界でヤンはイゼルローン再奪取作戦にとりかかったため、同盟最後の抵抗マル・アデッタ会戦に参加できず、ビュコック元帥を失ったことを通信で知るばかりだった。
しかし今はグリーンヒル大将の言葉が気になった。
フレデリカが第十三艦隊に配属されたのが偶然ではなく、グリーンヒル大将の手によることだったとすると今までの会話は何だったのだろう。
グリーンヒル大将が最初から望んでいたような結果ではないか。
そのヤンの心を読んだようにグリーンヒル大将が向き直った。
「ヤン君。フレデリカのことは私が一番よく知っているんだよ。あれは母親を亡くして以来、私といつも一緒だったのだからね。本当に大事に育ててきたんだ。私が全ての子育て、もちろん料理も洗濯もしてきたんだよ。だからこそ君に文句を言いたくなる。娘が誰かのところに行ってしまった、そんな父親の気持ちが分からんかね」
「あ、もちろん、分かります……」
「何がどう分かるというのかね!」
「 …… 」
それは単なる感情論であり、グリーンヒル大将も本当にヤンを責めようとは思っていない。
実際のところはむしろフレデリカが誠実な人間を選んだことを誇りたいくらいなのである。わだかまりなど最初から存在しない。しかしそれとは別にして文句を言ってみたかっただけだ。
そこへ戦闘を終了したシェーンコップがやってきて、陽気な声でその場を収めた。
「ヤン提督、娘の父親なんてそんなもんですよ。この場合、グリーンヒル大将が物分かりのいい父親で助かりましたな。なにね、小官ならカリンの結婚相手をトマホークで撫でるくらいのことはするでしょう。相手がユリアンなら大まけにまけて、優しく触れるくらいで、ユリアンでないなら少しばかり力を入れて」
「どのみちトマホークを使わないという選択肢はないんだね」
「そりゃまあ当然でしょう。父親としては、ね」