数時間後。敵から離れたい一心で急ぎ足で密林を進む与野だったが、流石に疲労が限界に達していた。おまけに弱い月明かりだけが頼りの深夜。足元など見えようはずも無く、何度も木の根に足を取られ、泥濘に嵌り、段差で足を滑らせた。
「もー駄目だ。流石に限界だ…。」
聞く人も居ないのに疲労を口にした。
その時だった。
「ご飯〜…。」
すぐ近くで声がした。場違いも甚だしい可愛い少女の声だ。
「…は?」
思わず聞き返す。
「ご飯〜…。」
先程と同じ言葉が聞こえてきた。如何に声が可愛くとも、真夜中である。物の怪の類なのではなかろうかなどと、少年時代以来久しく抱いていなかった恐怖心が煽られる。そっと小銃を構えた。
「誰だ?こっちへ出て来い。」
声を掛けると、目の前の茂みがガサガサと音を立てた。音はゆっくりと近付いて来る。そして姿を現したのは、黒いショートカットに白いシャツ、そしてグレーのスカートを纏った少女だった。
「おなか…すいた…。」
彼女はそう呟くと、パタリと倒れてしまった。
「美味しいねぇ!」
座り込んだ少女は与野から貰った携帯糧食を頬張りながら満面の笑みを浮かべた。
「そんなに美味しいか…?」
「美味しいよ!」
彼女はコクコクと頷いた。肩までのショートカットが揺れる。
「しばらく食べてなかったのか?」
「んー、3日くらいかなぁ?」
どうやら本当に腹ぺこらしい。しかしそこまで悪くない顔色からして、3日前まではちゃんと食べれていたように思われた。
「最後に食べたのは何?」
「カタツムリ!」
「は?」
「カタツムリ!」
クリクリした大きな黒い瞳が、愕然とする与野を見た。
「…えっと、その前は?」
「なんかねぇ、これぐらいの芋虫!」
自らの人差し指を指し示す。
「えぇ…?その前は?」
「なんかよく分かんない虫!」
「うん、もういいや。」
なるほど虫に比べれば携帯糧食はご馳走に違いない。
「しっかし…どうしたもんかなぁ…。」
与野は頭を抱えた。見捨てられよう訳もなく食事を与えてしまったものの、雪女の安否が分からない今、新しく保護する余裕は無い。しかし、だからと言って置き去りにもできない。
「えぇと、君はこれからどうするの?」
「分かんない。」
「えぇ…?」
とりあえず訊いてはみたものの、本格的に困る事になった。
「ねぇねぇ、お兄ちゃんについてっちゃ駄目?」
丸い瞳が与野を見る。
「お兄ちゃん?」
「うん!お兄ちゃん!」
彼女の細い人差し指が与野に向けられた。
「むう。」
小さく唸り、また悩む。そしてとうとう決断した。
「分かった。いいだろう。君を放置する訳にもいかん。」
「やったぁ!」
「ただし!」
跳ねて喜ぶ彼女を制する。
「言う事をちゃんと聞くこと。約束できるね?」
「うん!できるよ、約束!」
にぱーっと笑う少女。屈託の無い満面の笑みは、ここが戦場だという事を一瞬忘れさせた。
「あ…まだ名前を聞いてなかったな。何て言うんだい?」
与野が問うと、彼女は元気よく言った。
「美代だよ!」
「そうか。美代だね。俺は与野正彰。宜しくね。」
「うん!」
与野が右手を差し出すと、美代はその小さな両手でしっかりと握った。
雪女は波の音で目を覚ました。目を開けると強烈な太陽光が突き刺さり、思わず目を細める。仰向けで地に肢体を投げ出しているようだ。
「ん…?」
ムクリと起き上がり、辺りを見回す。何気なくついた手が砂に少し沈んだ。
「海?」
白い砂浜に打ち寄せる波。目の前の景色は紛れも無く海岸のそれである。
「どうして…?」
僅かに痛む頭に手を添え、途切れた記憶の糸を掴もうとする。やがて彼女は全てを思い出し、立ち上がった。
「正彰様っ…!」
川に流され、ここがどこかも分からない。しかしそんな事よりも、敵が迫る中で自分を先に逃がしてくれた与野が真っ先に頭に浮かんだ。
「早く正彰様を探さなきゃ!」
踵を返して密林へと分け入ろうとする。が、そこで与野の言葉を思い出した。
「海沿いを北へ…だよね。」
密林の向こうに聳える山をしげしげと観察した。輪郭を記憶のそれと擦り合わせ、現在位置と向かうべき方向を推定する。見る限り、あまり形は変わっていないように感じられた。流されて他の島に来てしまった訳では無いらしい。一度海まで流されて、また波に揺られて戻って来たのだろう。
「うん、こっちで良いはず。」
彼女は検討を付けると、続いて腰のポケットに手を伸ばした。硬いものが触れる。拳銃と予備弾倉だ。
「よかった。流されたかと思った。」
武器の無事を確認すると彼女は大きく頷き、与野の下へと戻るべく一歩踏み出した。
点滴を外されて歩き回れるようになった出雲は、サムに連れられてピチュ飛行場の滑走路脇を歩いていた。滑走路に敷き詰められた鉄板が陽の光を照り返し、ギラギラと輝いている。これは細かく整地せずとも航空機の運用を可能にできる画期的な発想である。
爆音が轟々と近付き、カモメの翼を上下逆に取り付けたような主翼を持つ戦闘機が降りて来た。着陸と同時に軽くパウンドし、再びしっかりと主脚を地に押し付ける。
「変な形をしてるよな。」
出雲が呟くと、サムが少し笑った。
「F4U、コルセアです。ああ見えて一番足が速い機種なんですよ。」
コルセア、と出雲が小さく復唱する。
「でも、そういう情報を俺に教えて大丈夫なのか?」
「大丈夫です。我々に協力してくれる以上、仲間なのですから。それに情報を持った以上、脱走しようものならスパイの嫌疑を掛けられる。」
そう言ってサムが口元を僅かに歪めた。
「堂々と殺せるって訳か。全く、あんたらは腹の底が知れないねぇ。」
「それはお互い様では?」
「どうだか。」
出雲は首を竦めた。
サムが格納庫の一つの前で立ち止まった。扉の前には白地にMPと書かれた鉄帽を被った米兵が二人立っており、睨みを利かせている。どうやら目的地らしい。
「貴方をここへお連れしろと命じられましてね。」
「中に行けば良いのか?」
「ええ。」
扉へと数歩進む出雲。しかしサムはその場から動かない。
「あんたは?」
「私は戻ります。これ以上は私の守備範囲ではありませんから。」
出雲は訝しんだが、とりあえず一人で行ってみる事にした。扉の前に進み出ると米兵が手招きして、脇の通用口に通してくれた。格納庫内は薄暗く静まり返っており、その中央には大型の双発機が駐機している。その機体に彼は驚いた。
「一式陸攻じゃないか!」
濃い緑色の塗装にハッキリと描かれた日の丸。それは紛れも無く一式陸上攻撃機であった。鹵獲されたのかも知れないが、この島に元々飛行場は無かった。わざわざ鹵獲機を前線に置くだろうか?そんな事を考えながら眺めていたその時、不意に照明がつけられて格納庫内が照らし出された。
「やぁ、君が新入りだね?」
背後から声がした。振り返れば、帝国陸軍の軍服に身を包んで腰に軍刀提げた、大佐の階級章を付けている男が立っていた。
「はっ!」
条件反射で敬礼した出雲だったが、状況が理解できなかった。捕虜であれば帯刀などできる訳が無い。
「出雲義輝中尉であります!」
一先ず名乗って様子を見る。しかし大佐は見透かしたように言った。
「混乱しているようだね。まぁ、無理も無い。」
彼は小さく笑うと、再び口を開いた。
「満洲第659部隊南方派遣隊の豊崎だ。」
「満洲…659…?」
初耳の部隊名に思わず呟く出雲。豊崎が補足する。
「関東軍防疫給水部…と言えば分かるかな?」
出雲は小さく頷いた。満洲の精鋭である関東軍、その衛生関連の部隊である。傷病に対する治療や予防を研究して兵の健康維持に貢献している、いわゆる縁の下の力持ちというやつだ。しかしこんな所、よりにもよって米軍基地内に我が物顔で居る理由が分からない。
「我々は衛生兵が不足していてね。そこに君が捕まったもんだから、できれば協力して欲しいと思ったのさ。もっとも、協力してくれないなら機密保持の為に君を始末せねばならない訳だが…。」
何気ない動作で手が軍刀の柄に触れる。
「きょ、協力します!」
出雲が竦み上がって言うと、豊崎は満足気に頷いた。
「んー、そう言ってくれると思ったよ。そうと決まれば早速案内しよう。」
彼は格納庫の隅に置かれたコンテナへと歩み寄り、扉を開いて言った。
「ようこそ659部隊へ。歓迎するよ。」
最後までお読み頂き、ありがとうございました。
艦これの響と雷のヤンデレ妄想を捏ねてたらこちらが疎かになってました。反省はしていません(キリッ)
さて与野がまた変なの(直球)を拾いましたね。彼の優柔不断というか無駄にお人好しな性格は面倒の種にしかならなさそうです。
出雲は何故か日本軍将校と出会いましたね。察しのいい方はどんな連中か分かりますよねコレ。
それではまた気が向いたらちょくちょく書いていきますので、楽しみにしておられる方がもし居られましたら、気長にお待ち頂ければ幸いです。
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