ソードアート・オンライン —Raison d’être—   作:天狼レイン

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 はい、遅くなりました。申し訳ありません。
 本当は今回で終わらせたかったのですが、結局このまま書くと二万文字を平気でオーバーして、エラー地獄に遭うと判断したため、前中後に分割することにしました。
 最初は当時の彼らの視点で書こうとしましたが、それだと今のアーカーとユウキの思いや様子がわからないので、今の彼らが当時のことを語る作風にしました。あんまり得意ではないので、のちのち要改訂ですね。感想や評価で悪い点を指摘してくだされば、確認したのち手直ししようと思っています。逆に良い点があれば、教えてください。今後にも活かします。




30.二人の過去 中篇

 

 

 

 

 

 

「俺達が感染していた病気は《後天性免疫不全症候群》。

 一番分かりやすい言い方で言えば—————エイズだ」

 

 

 

 

 

 アーカーの口から放たれた真実(こたえ)に、キリトとアスナ、そしてユイまでもが目を見開いた。それは当然の反応だ。出来ることならそうあって欲しくなかったとすら思っても間違いではない。嘘偽りを見抜く彼の妙技が、確かに彼らの動揺、苦悩を読み取っていた。

 

 まず初めに———医学は進歩を繰り返している。それも日進月歩と称するに値するほどの勢いで着実に、何よりも確実な速度で。それは誰もが知る事実であり、希望であった。病院に行けば、どんな病気でもきっと治る。そんな望みが誰の胸にもあるほどに、医学・医術というものは進化した。

 同時にそれは学ぶ者からしても同様だ。昨日が明日へと活かされる。これほどあって嬉しい学問、及び術は他にないだろう。自分の手で誰かを救えることほど嬉しいものはない。

 

 江戸や明治の頃は不治の病とすら謳われた最悪の病気の一つに数えられる〝結核〟でさえも、今では早期に発見し、治療することで完治にすら至れるほどとなった。戦国の頃に某有名武将の目を奪った〝天然痘〟は世界中から駆逐され、今やその影響を見ることはない。

 

 古今東西、過去に世間を震撼させた多くの病が、今の技術で完治させることが可能となった現代において、未だ確実に完治させられる方法が確立され切れていない病気—————それがエイズだった。

 

 エイズというのは、あくまでも症状であり、正式には一種の病気とは異なる。正確に説明すれば、ヒト免疫不全ウイルス———〝HIV〟と呼ばれる、人間の身体にある免疫細胞に感染し、これを破壊するものに過ぎない。こと単純な猛威で言えば、インフルエンザにも劣るようなものだろう。

 

 ———しかし、HIVウイルスの真髄、その真の恐ろしさというものはそこではない。これが及ぼす影響によって引き起こされる事態こそが、最も重要であり、且つ洒落にならない地獄を齎す。

 

 先に述べた通り、〝HIV〟は人間の免疫細胞に感染し、これを破壊する程度のものだ。当然の如く感染者は、世に言う免疫力と言われるものが次第に減少していく。常日頃感染してしまう病と言うのは、それほど怖いものではない。感染した後も、療養をすることで免疫細胞は活性化を果たし、次第に病原菌を駆逐してしまうからだ。

 

 だが、免疫細胞が破壊され続けると、日頃感染するはずもないような病気にすら感染してしまうのだ。カンジダ症やサイトメガロウイルス感染症など、これは普段から身の回りに漂っているが、正常に働く免疫力によって、感染することが決してなかった。そんなものですら命に危険を及ぼすほどの猛威と化す。

 

 減少し続けた結果、日頃感染しないはずの病気にすら感染してしまう状態、後天的に免疫不全を起こしてしまう、これをエイズと言う。

 

 つまるところエイズとは、元凶たる〝HIV〟によって破壊され、弱り切った人間の免疫機能から引き起こされる事態に相違ない。

 

 勿論、免疫細胞というのは常に作られ続けるものであり、いずれは数の暴力で押し切ってくれるのではないか?という脳死突撃ゴリ押しが大得意なゲーマーほど、そんな楽観的希望を抱いていてもおかしくない。

 

 しかし、そうもいかないのが現実だ。そもそも、感染し破壊されるということは、体内に潜み続ける訳である。有象無象に作られようとも、〝HIV〟という元凶に対する耐性や対策を持たない雑兵が、いくら無謀に挑み続けても結果が変わらないのと同じなのだ。そのウイルスが体内に存在する間は、下がることはあっても、免疫力が上がることは決してない。

 

 そのため、本来打ち勝てるはずのものにすら押し負け———そして、死に至る。現代において存在する医学・医術は、あくまでも人間の免疫力を補助するものや、外的に介入する程度のものであり、ことウイルスは悪性の腫瘍のようにそれを取り除けば大丈夫とはならない。発見初期から年月が経った今、当然手がない訳ではない。

 

 とはいえ、それすらも現状を維持するものでしかなく、抑止するのがせいぜいである。それも発症していないことが前提であることが多く、発症すれば元通りの生活などそう送れはしない。

 

 ここまで粗方の説明が成されたが、これはある程度の教育を受けていれば、必ず知ることになる事柄である。

 

 先にあれほど述べたが、実のところそうは言っても、これほどの脅威を持つウイルスであっても、通常は感染することはほぼない。当然の話だが、未だ齢14ほどのアーカーとユウキが、大きく分けて三つほど存在する感染経路の中でも不注意が大半とされる〝アレ〟を行うはずもない。有り得るとすれば、残り二つ。〝血液感染〟と〝母子感染〟のみに絞られていた。

 

 

「ここからはボクが話すよ」

 

 

 これまでアーカーに関係することばかりだったことから、あまり話の中心には立たなかったユウキが、そこで話し手を引き受ける。本当に良いのか?と目配せのように訊ねる彼に対し、「大丈夫だよ。ここからがボクの戦いだから」と覚悟を決めて話の中心へと進み出る。

 

 それから何度も深呼吸を繰り返し、気持ちも心も、何もかもを整えるかのように、ゆっくりと時間をかけて準備をする。漸くユウキが口を開いたのは、準備を始めて一分以上経ってからだった。それほどまでの重圧と不安がのしかかっていたのだろうと、キリト達には安易に想像できた。勿論、それを隣に座るアーカーが今なお支え続けているのも察していた。

 

 開口一番、ユウキが呟くように言った言葉は、世界は残酷であると言わんばかりの現実だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ボクは———生まれた時に感染しちゃったんだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 最早何度目なのかと数えることすら億劫になるほど、再び三人は驚いた。その驚きはアーカーの話によって引き起こされた驚愕とは、似て非なるものであった。どちらかと言えば、それは悲痛な叫びのようであり、あまりにも残酷な現実に対する恨み言故か。

 くしゃりと歪む彼らの表情を窺いながら、ユウキは言葉を続けた。

 

 

「ボクには双子の姉ちゃんが()()()()

 いつもソラを振り回してばっかのボクと違って、お淑やかで静かな————アスナみたいな人だったんだ。すっごく強くて、きっとこの世界に来てたらボクなんか相手にならないくらい。それこそ、ソラが頑張って引き分けに持ち込めるかどうかって感じかな?」

 

 

「ユウキでも相手にならないの………!?」

 

 

「アーカーが引き分けに持ち込めるかどうかって……どんな人なんだよ………」

 

 

 懐かしむように、思い返すように呟くユウキ。先程浮かべていた沈痛な面持ちは、不意に彼女が語る〝姉ちゃん〟と存在によって、少しずつ和らいでいく。意図的に微笑ましい話を挟んだのは、彼女の技量なのだろうか。思わず、感嘆の声を洩らすキリトとアスナ。ユイも驚いたような顔をしつつ、三人揃って〝お淑やかで〟〝静かな〟〝すごく強い人〟という三つの情報からどんな人かを想像しているに違いない。

 

 そっとアーカーも「アスナを魔改造しまくった感じだな。間違いない」と補足すると、何か思い浮かんだらしいキリトと、実の姉の顔とは別に想像したらしいユウキが余程面白いものを考えついたのか、ブフッと笑った。すぐさまアスナが余計なことを考えた旦那の頭を一発叩き、流れるような動きでテーブルに身を乗り出しつつ、ユウキの額にもデコピンを見舞った。「イデッ!?」やら「痛ぁっ!?」と、一撃受けた場所を両手で押さえながら情けない声を洩らす両者に、制裁を加えた当人は「失礼なことを考えた罰です」と言い切った。

 

 話に水を差す結果となったが、それでも場の空気はある程度元に戻っていた。これを見越して持ち込んだのなら、ユウキは意外と考えているのだろう。勿論、そんなことはほとんどなく、偶然そうなっただけに過ぎないのだろうなとアーカーが少しばかり考えたところで、話が再開された。

 

 

「双子だったボク達の出産は難産で、えーっと……フツウブンベン(?)……が出来そうになかったからテイオウセッカイ(?)……が行われたんだ」

 

 

 何やらアーカーが、アイテムストレージからメモのような紙切れを取り出し、素早く漢字と読み仮名を書いたそれをユウキに見せると、彼女はそれを頼りに説明をする。学校に行っていた頃は確かに優等生だったが、当然習っていない漢字などは読み書きできるはずもない。むしろ、何故彼が習ってもいない漢字であろうそれに対し、読み書きが出来ているのか些かキリト達には不思議だったが、恐らく努力していたのだろうと考えてそこで余計な思考を止める。止めたと同時に、ユウキが説明を続けた。

 

 

「その時に事故が起きたみたいなんだ。たくさん血が出て、このままだとママも、ボク達の命も危なくなっちゃったんだ。すぐに輸血が行われて、ボク達も、ママもみんな助かった」

 

 

 本来ならここで〝良かったね〟で何も起こらず終わるはずだ。退院まで療養し、生まれたばかりのユウキと彼女の姉を抱きかかえて、これからのことを笑って話し合う。そんな優しい時間が訪れる。きっと赤子の頃から元気一杯だろう少女に手を焼きながらも、彼女達がすくすくと育っていく様を見て、毎日楽しく過ごせるはずだったのだ。

 

 

 

 しかし、そうはいかなかったからこそ————みんなの知る、ユウキがここに存在する。

 

 

 

「でもね、その時に使われた血液がそうだったんだって。ボク達家族は、その日から〝HIVキャリア〟になった」

 

 

 この場合においてキャリアとは保菌者を示す。病気の元となる菌を持っている者。それも〝結核〟どころの騒ぎではない。更に厄介な〝HIVウイルス〟の保菌者となってしまったんだとユウキは言う。キリトの顔に怒りが浮かぶ。それは彼女が保菌者でアスナに近づくな!という訳ではない。

 恐らくは、何故そんなウイルスに汚染されていた輸血用の血液が存在したのか……ということだろう。表情から先んじて読み取ったアーカーは補足する。

 

 

「《ウインドウ・ピリオド》————要するに、感染直後から十日前後はウイルスを検出できない期間のことだ。一度の輸血で何らかのウイルスに感染する確率は何十万分の一。それだけしかないのにも関わらず、今の科学じゃゼロには出来ない。たったそれだけの確率が、不幸なんていう洒落た言い訳通り越して———ユウキ達に牙を剥いたんだよ」

 

 

 そう告げるアーカーの表情には、激しい憎悪と怒りが浮かんでいた。カーディナルが興味を示し、たくさんの犠牲を生んだ上で狂ったであろうそれを実際に見て、ユイがか細い悲鳴を洩らす。それが耳に入った彼は、すぐさまその感情を何とか鎮めるが、それでも耐え難いものなのだろう。ユウキがどれだけ辛い思いをしてきたのかを間近で見てきたであろう彼だからこそ————そして、彼もまた同じ病気に感染した者として。

 

 

「ボク達家族が感染したことを知ったのは、ボクと姉ちゃんが生まれて四ヶ月後経ってからだったんだ。でも、それだけなら今の医学や医術でどうにか出来るみたい。

 ………でもね、ボク達家族が感染したのは、《薬物耐性型》だったんだ。薬が効きづらくて、本当なら発症をある程度まだ簡単に抑えられるはずだったけど、そうもいかなかったんだ……。

 その時にも一度、パパとママはこれからどんな思いをして生きていくのか。それを考えた上で、みんなで自殺も考えたんだって」

 

 

 何を勝手なことを……と本来なら思うことだろう。本人の意思がまだ確認できない状態、或いは出来たとしても一家揃って自殺する、所謂無理心中をしようと考えたのは間違いではあるが、同時に間違いではない。何しろ、ただ家計が苦しいだの何だのという理由ではない。最も悪質で最悪とも言える〝HIVウイルス〟。それも《薬物耐性型》。これに感染したということは、当然長くは生きられない。薬で発症を抑えるにも、たくさんの薬で誤魔化し続ける必要がある。小さな子供だったユウキや彼女の姉には苦痛でしかない。それも治ると断言されないのだから、いつまで続くかすら分からない絶望感も果てしなかっただろう。

 

 それに加えて、下手に怪我をして他人が血液に触れてしまいでもすれば、その人が感染してしまう。その人の人生を狂わせてしまうかもしれないのだ。

 人間とは誰かの存在を求める生き物であるが故に他者を求める。

 しかし、その他者を求めることができないと言われているようなものだったのだ。今こうしてみんなの前に存在するユウキを見る限り、昔からきっと知的好奇心が旺盛で、元気で、天真爛漫な少女なのだ。そんな子に、果たして耐えられるだろうか。他者を求めすぎてはならないと、押し付けてまで少ない人生を生きようとさせて良かったのかと。

 

 そう……思ったのだろう————ユウキの両親は。

 

「ボクの家がキリスト教信者なのは二人ももう知ってるよね? 正確に言うとボク達はカトリック信徒なんだ。だから自殺はいけないことなんだって。そうしちゃったら、お葬式もしてもらえなくなるみたいなんだ。

 だから、踏み止まってくれたんだとボクはそう思ってる。一番辛かったのはパパやママだったのに、きっとボク達のためを思ってくれたんだって。

 それから、ボク達家族は病気と闘い続ける道を選んだんだ」

 

 

 辛い記憶。優しくも悲しく。暖かくも厳しく。家族という小さな世界すら呑み込んでしまうほど、社会という大きな世界は甘くない。それは分かっている。分かっていた。

 けれど、ボク達は足掻き続けるって決めたんだ———今、この瞬間。間違いなくユウキの目には、確固たる意志が煌煌と燃え盛る炎のように灯っていた。それは、この世界で彼女に出会って共に戦い続けてきたキリトとアスナが、どうして彼女がこんなにも強く在ろうとできたのかを理解するに足る要素であり、同時にアーカーという少年と出会ったことで更に強まった、〝絶対不滅〟とすら揶揄される不屈の精神を持ちたる所以でもあったのだと納得させた。

 

 強い想いを孕んだ語り草に続くように、ユウキは次なるエピソードを口にする。それは、小さな子供だったユウキが歩んできた人生の片鱗。大雑把ながらも、確かに彼女が必死に生きようとしていたことが伝わるものだった。

 

 

「たくさんの薬を飲み続けるのは辛かった。途中でやめたいって思ったこともたくさんあった。もしも移っちゃったらどうしようって思って怯えてた時もあったんだ……。

 ———でも、病気になんか負けない。絶対に足掻き続けるんだーって決めたから、辛くても苦しくてもずっと頑張ってきた。気持ちで負けちゃわないように強いふりしてまで、たくさん自分を欺いてたかもしれないけどね………」

 

 

 欺いてきた。

 そう告げるユウキに、アスナは胸を痛めた。強要されるばかりの人生だった彼女もまた、この世界に閉じ込められるまでは———いや、それよりも以前から閉じ込められ続けてきた人でもあった。むしろ、この世界に来て、漸く解放され、飛び立てるようになった小鳥なのかもしれない。隣に座る、ユイやキリトの存在。そして何より、アーカーやユウキの存在が、確実に彼女を変えている。そういう意味では、きっとアスナは恵まれた方なのだろう。

 

 しかし、ユウキは違う。他者に、真実を共有することもできず、下手をすれば拒まれるどころでは済まない。迫害のようなものを受けてしまいかねないような崖っぷちに立ち続けているのだ。親や家というしがらみだけしかなかったアスナと違い、ユウキは社会にすら受け入れられるか定かではない。それがどれだけ辛いことなのか、一度として同じ境遇にならないものには計り知れないものなのだろう。きっと自分では、彼女の全てを理解してあげることはできないのかもしれないという悲嘆な思いが胸に渦まこうとするところで、語り手ユウキの声音が明らかに変わった。暖かく、優しく、それでいて元気よく。いつもの彼女らしい声音だった。

 

 

 

 

 

「それから小学校に入学して、ボクはソラと出会ったんだ」

 

 

 

 

 

 その言葉に、アスナは思わず俯きかけていた頭も気持ちも勢いよくあげた。幼馴染だと言っていたから、いつかは登場するのだろうと予想していたユウキにとっての大事な人、アーカー。小学校の頃からの付き合いだったのかと思う一方で、彼女はそれから懐かしむように、それでいて揶揄うような口調で語り始めた。

 

 

「ソラの第一印象はね、す—————っごく! 静かだったんだよ! 他人なんか興味ない。言葉を話すのすらめんどくさい。関わってくるな、って。そんな感じだったんだー!」

 

 

「ゴホッゴホッ………おいコラユウキテメェ。途中で下手くそな声真似混ぜてくるんじゃねぇ! 危うく茶噴き出すところだっただろうが!」

 

 

 わざわざ動きまで真似したかのように———恐らく捏造だが、声真似まで混ぜ込んだ上でそう告げるユウキに、隣で茶を啜っていたアーカーは気管支に入ったのか咳き込みながら文句を言うが、彼女が感じた第一印象が変だとかそういう否定を一切していない。確かにその通りだと認めているように窺えた。へぇーと感嘆の声を洩らす三人に、彼は頭をガシガシと掻いた。

 

 

「………まあ、実際その通りだからな。当時の俺は、クソッタレのゴミ(雨宮家の者共)を先んじて知ってたせいで、他人なんざ全く興味なかった。むしろ、話しかけてくるんじゃねぇ、とっとと失せろぐらいの気持ちでいたのは間違いなく事実だ。ユウキに会ってなかったら、確実に今の俺はいないだろうなぁ」

 

 

「そうなのか……。ところで、アーカー……お前、昔から言葉遣い悪かったのか?」

 

 

「ンな訳あるか。少なくとも悪くなったと自覚してるのは、四年近く前だっての。学校どころか家でも、今みてぇな話し方はしてねぇよ。つーか、思い出せキリト。一層の頃から二十五層フロアボスで顔を合わせた時までは、まだマシだっただろうが」

 

 

「あー………うん? まあ………そうだ………な?」

 

 

「やっぱテメェ表に出ろ」

 

 

 席から立ち上がって今にもストレージから長剣引き抜いて襲ってきそうなくらいの形相を見せたアーカーを、隣に座っているユウキが必死に止める。対するキリトはアスナとユイに叱られる。

 彼が少しばかり落ち着くまで僅かな時間ではあったが、要した後、話が進む。

 

 

「ボクが初めてソラと話をしたのは、ちょっとしたことで絵を描くことがあった時なんだ。実はボク、絵心があったんだー」

 

 

「へぇ〜、ユウキって絵心があるの?」

 

 

「絵心っていうか創作系統全般にもコイツは才能あったんだよなぁ。………今更思ったが、なんでお前は俺に絵の出来とかで勝負してこなかったんだ?」

 

 

「だって、ソラ。壊滅的に絵心無かったんだもん」

 

 

「——————ンな馬鹿な」

 

 

 そんな訳はないに決まってるだろ……と現実逃避をしかけるアーカーとは違い、ユウキは珍しく憐れむような目で彼を見る。その様子から、キリトとアスナ、ユイが持っていた何処と無く完璧超人風であった彼のイメージがいとも容易く崩壊した。基本的に失敗してもフォローしてくれる彼女がフォローも出来ず、それを認めてしまうことは早々ないのを知っていたからだ。あまりにも酷かったのだろうと推測できる。

 コホンと咳払いをして、気を取り直すようにユウキは続ける。

 

 

「全く他人に興味を持ってなかったソラが、初めて自分から声をかけてきたから、ボク、すっごくびっくりしちゃって、強い自分のふりなんか忘れて、頑張って教えてあげたんだ〜♪ ———結局あんまり変わらなかったけどね………」

 

 

「「「あー…………」」」

 

 

「なあ、俺ってマジでそんなに下手か?」

 

 

「……うん、流石にフォローできないくらい下手だったよ………」

 

 

「………向こうに戻ったら絵の練習するか…………」

 

 

 アーカーがボソッとそう呟いて項垂れる。本人には自覚が無かったらしいが、漸く自覚したせいか、どよーんとテンションが明らかに下がっているのが見て取れる。本来なら今すぐにでもフォローしてあげることをしないといけないのだが、話が進まないためにユウキは一旦放置して、あとでたくさん励ましたり慰めることにした。

 

 

「そこからソラとよく話すようになってね。二人で遊ぶことも増えたんだ。どうしてソラがボクに興味を持ってくれたのかは分からなかったけど、不思議と安心できる気がするくらい楽しかった」

 

 

 強い自分のふりをし続けた少女の、心からの喜び。それは聞き手に回っているキリトやアスナ、ユイにも充分に言葉だけからでも伝わっていた。心成しか隣で落ち込んでいるアーカーも嬉しそうにしているような気だってしてくる。

 すると、突然ユウキが楽しそうに話すことをやめ、苦笑交じりに話し始める。

 

 

「それから半年ぐらいした頃かな。突然ソラが遊んでる最中にね、「なんで君は演技をするの?」……って聞いてきたんだ」

 

 

 それを聞いたキリトとアスナ、ユイが、ソラの過去の一端である《雨宮》という存在のことを思い出した。人間を使った蠱毒の中で育ってきた彼は、平然と嘘をつき、裏切り、殺めるような人間を見てきている。ユウキを除く全ての人間が同じように見えていたはずだと考えられた。彼が真実か嘘かを見抜けるのも、そんな環境で生き抜くために養った力だというのなら————当時の彼女が、強い自分のふりをしていることにも気付いて当然だった。

 

 

「その時初めて、ソラが怖いって思ったんだ。何とかみんなとやっていけてる気がしてたから、こんなタイミングでバレちゃった気がして、すごく怖かった。

 その日は、逃げ出すように帰っちゃってさ。パパやママ、姉ちゃんの前でわんわん泣いちゃったんだ。「ボクのせいでバレちゃったかもしれない」……って」

 

 

 不意にアーカーに向けるキリトとアスナの目が厳しくなった。それは怒っているような顔にも見える。昔からこの男はユウキに対して色々と鈍かったんだなと言わんばかりだ。時に相手の気持ちを察し切れずに喧嘩したり、時に彼が彼女を捕まえて〝抱き枕〟よろしくすっぽりと抱きしめてあたり。昔からとことん鈍かったのだとよく分かる話だ。どれだけ怖かったのかは体験しないことには分からないが、その心中は察することができるものだった。

 

 

「それからボクはソラを避けるようになった。逃げるように離れちゃうこともあったよ。いつか気付かれちゃう気がした。いつか彼がボクの秘密に気付いて、そのことをみんなにバラしちゃう気がしたんだ」

 

 

 小学校ぐらいの少年少女には、秘密を守るということはなかなかに難しく、出来ないことだ。いくら他人に興味がないからと言って、彼が秘密を守れる道理はない。もしかしたら、何かの拍子に言ってしまうのではないかと怯えるユウキの心境は正しかった。

 

 

「それからもずっとボクはソラを避けてたんだけどね。ある日、ソラがボクの逃げた後の動きや逃げる場所を全部先回りしてきたんだ。昔からソラはボクよりも勉強も出来たけど、まさかそんなことしてくるなんて思ってなかったんだ」

 

 

 何度も逃げられた末に取った行動が、行き先の予測。最早下手なストーカーよりも怖いぐらいの行動力だ。それを聞いたキリトとアスナは無論、ユイまでもがアーカーに向ける目を更に厳しくした。ドン引きだと表情から訴えかけてきている。ゴリゴリと三人からメンタルにダメージを与えられながらも、彼は顔を上げて呟くように言った。

 

 

「当時の俺には、どうして避けられているのかその理由が分からなかったんだよ。理由を聞こうにも、俺の顔を見た途端、何回も逃げるモンだから全部覚えてやった。それだけの話だろうが」

 

 

「お前なぁ………」

 

 

「アーカー君って、そういうところとんでもないわね………」

 

 

「にぃにはストーカーさんなんですか?」

 

 

「先に言っておくが、()()()違ぇからな?」

 

 

 ユイの言葉に過剰反応しつつも否定するアーカーはさておき、ユウキは当時の自分の気持ちを思い出しながら話を続けた。

 

 

「流石にそんなことされてるとは思ってなかったから、ボクも捕まっちゃって近くに誰もいなかったから、もうダメかな……って思ったんだ。そしたら、もう怖くて仕方がなくて泣いちゃったんだよね」

 

 

「まぁ、ユウキが逃げた場所は場所だったから聞かれることもなかったんだけどな……流石に焦った。せっかく掴んだチャンスをふいにするところだったからな。取り敢えず、落ち着いてほしくて一言先に謝った。追いかけ回したことについてな」

 

 

 「今思えば、あれが初めての謝罪だったなぁ……」と呟くアーカーの言には、とてつもない異常さがあった。他人に謝ったことがないというのは、なかなかに異常だ。一人っ子であろうとも、父親や母親に迷惑をかけることは勿論あるだろうし、小さい頃こそ好奇心の塊みたいなものだ。突き動かされ、なんだってしていてもおかしくない。

 しかしながら、彼の一族こそが正しく異常の塊だ。普通なら有り得ることすら有り得なかったのだろう。誰かに迷惑をかけるということすら無かったのかもしれないし、謝るということすら知らなかったのかもしれない。

 

 

「泣いてたボクも突然謝られてびっくりして、泣きやんじゃったんだよね。悪いのはボクなのに、なんでソラが謝るのかが分かんなくて、「もう謝らなくていいよ」って何回も言ってたら、ソラのことが怖くなくなってたんだ。

 今度はボクが謝ってた。ごめんなさいごめんなさいってさ………。気付かれてるんだと思ってたから、ボクの病気のことも全部言っちゃってた。でも実は、ソラもそこまでは気付いてなかったんだよね」

 

 

 あははと「やっちゃった」とユウキが笑う。キリトとアスナ、ユイがギョッとする。知られてはマズイ秘密を勢いのままに話してしまったのだ。相手がどう受け取るかによれば、彼女がどんな目に遭うかは想像し難くなかった。

 けれど、今こうして彼女のそばに彼がいるということは————

 

 

「そしたらね、ソラがボクにこう言ったんだ。「病気なんてどうでもいい。僕は一緒にいて初めて楽しいと思えた。だからお前とこれからもいたい。ずっと避けられてたのは癪だった。でも、理由があったから気にしない」……ってね」

 

 

 突然キリト達から歓声が上がる。それはアーカーに対する賞賛だろう。昔から子供っぽくない彼らしい言葉遣いだったが、それでも孤軍奮闘し続けていたユウキの気持ちとしては充分すぎるくらいだった。心の底から安心しただろうと容易に想像できる。

 

 懐かしい台詞を掘り返され、見事に下手な声真似と共に披露されたものだから、アーカーは顔どころか耳まで真っ赤にして、みんなから背けた。黒歴史を公開されるという、精神的に殺しに来ている現状は誰にだって耐え難いものだ。それは彼とて同じ。その貴重すぎるシーンに、アスナがストレージから記録結晶を取り出してユウキに手渡していたが、当人は羞恥心を誤魔化そうと躍起になっている。気付くはずもない。冷やかすようにキリトが指笛を吹くが、やり過ぎるあまり、記録が終わる頃にはアーカーはすっかり羞恥心を駆逐し切っており、容赦なく顔面に《閃打》を叩き込まれ、衝撃で吹っ飛んでいく。《圏内》判定がなによりも偉大だと思えるワンシーンとして、キリトは記憶に刻むことにしていたという。

 

 壁際まで吹き飛ばされた彼が定位置に戻ると、話が再開される。

 

 

「初めて本当の友達ができた。それがすごく嬉しかったんだ〜。パパやママ、姉ちゃんにもちょっとだけ怒られたけど、「良かったね」って言われたよ。

 それからなのかな? ボクはソラとずっと一緒にいるようになってたんだ。もしかしたら、その時からソラのことを好きになり始めてたのかなって、今はそう思えるくらいだよ」

 

 

 えへへ〜と惚気話のように聞こえ始めたことに、思っていたよりも良い話だと思い始めた三人。アーカーも当時のことを思い出しながら、「その頃から俺のことが好きだったのかコイツ……」と相変わらずの鈍さを一同に披露する。なるほど、これはユウキが苦労した訳だとアスナが納得したところで、話は再開。

 それからは一年の頃から三年生の終わりに至るまでの楽しかった出来事エピソードを次々と彼女が語っていく。どれも楽しそうで幸せそうな話ばかり。熱が入ったように話していくユウキも、とても楽しそうに教えてくれていた。隣に座るアーカーも、あまり表情に出してはいないが楽しそうにしていると分かる。

 

 何もかもが幸せな毎日。聞き手に回る者でさえも、ユウキが過ごしてきたその日々がどれほど幸福に満ち溢れていたものかなど考えるまでもない。救われた。救われている。救いは訪れている。他者との繋がりさえ求めることができないはずの難病をその身に宿してしまった不幸など、何処にもないようにすら思える。彼らが決死の覚悟で話したかったのはこんな幸せで優しい現実だったのだろうか。

 

 

 

 ———————いや、違う。違うのだ。そんなはずはない。

 

 

 

 ふと天啓の如く舞い降りた直感がキリト達の心にそう訴える。

 

 あの日、あの時。キリトが見たものはなんだ? ユウキと離れただけで狂ってしまうようなアーカーが見せた影は《雨宮》という蠱毒だけで孕んでしまったものでは決してない。文字通り、彼には彼女しか残っていないのだ。彼女以外に手を伸ばし、その手を握ってくれるような人を持たないのだ。そう思うと二年の付き合いがある彼らからすればいい加減信じてくれてもいいだろうと思ったりして癪だろうが、そういう話ではない。

 

 〝他者を全く信じられなくなる〟。

 ユウキだから救われたと語る時点でキリト達は気付くべきだった。あの言葉は、仲良しこよしだから云々というものではない。ユウキ以外の誰かでは決して救われる訳がないと()()()()()()()のと変わらないのだ。逆転の発想から導き出される結論は彼の歪みを示していた。かつて七十四層の安全地帯でそう呟いたアーカーの言葉の真意に漸くキリトが辿り着いたと同時に————ユウキの口から〝あの日〟の出来事が告げられた。

 

 

 

 

 

「四年生に上がってすぐの頃にね……バレちゃったんだ」

 

 

 

 

 

 バレた。その言葉が何を指し示しているのか、キリト達には容易に理解できた。ユウキが〝HIVキャリア〟であることが。陰の差した表情を浮かべ始めた彼女が勇気を出して話そうとするも、なかなかにその言葉が一つとして出ない。震え始めた身体を両手で身体を抱き締め始めたのを合図にアーカーが席を立ち、彼女の顔を彼らに見せないように自らの背を向けた状態で、弱々しい姿を見せた少女を庇う。

 

 たったそれだけの反応で、キリト達は何が起きたのかを察した。その察しが真実であることを補足するようにアーカーが口を開く。

 

 

「バレた原因は………犬の糞にも劣るような矮小極まりない嫉妬だった。ユウキ以外の他人と全く遊ぼうともしない、会話一つ満足にしない俺が《雨宮》の人間だからだろうな……。よくある、〝媚を売っとけば、将来的に役に立つ〟とでも考えたゴミ共が、俺とユウキとの関係を引き裂くことができる術を探していたらしい。中には俺のことを好いてた奴がいたそうだが、心底どうでも良かった。俺はただただ……ユウキと一緒にいられれば、それで良かったんだ………。

 だけど、現実はそう上手くいく訳がない。病院やら何やら色んなところにツテがある親を持ったゴミが、ユウキが〝HIVキャリア〟だという情報掴んで子供や他のゴミの保護者に噂として流しやがった」

 

 

 人は時に、取り返しのつかない事態を簡単に引き起こす。七つの大罪よろしく、人間には矮小で愚かな罪がある。今回で言えば、それは嫉妬だ。なんでアイツだけが仲良くできるんだ? なんでアイツだけが目をかけられているんだ? なんでアイツが————と、四年もの間で蓄積された負の感情が爆発したのだろう。

 正しくそれが、それこそ何の罪もないユウキに牙を剥いたのだ。

 

 

「奴らは《雨宮》がどういうものか知らない。表面的なお綺麗な面しか見えていない。腹の底を見抜けない。いざ媚を売っても、ボロ雑巾になるまで利用されて捨てられるオチになるとは思ってないんだろうよ。————だから、平然とアイツらは………ッ!」

 

 

 「思い出すだけでも五臓六腑(はらわた)が煮え繰り返りそうだ……ッ!」と吠えるアーカーの姿に、キリト達は胸を傷めることしかできない。同情することさえ侮辱だろうとすぐさま理解する。肉体的な痛みこそ治れば、そう辛くないものだ。記憶というものがあるせいで、ありもしない痛みを感じることこそあれど、それまでで済んだはずだ。

 しかし、精神的な痛みはそう治りはしない。傷口として表出していない以上、どれだけ治ったかなど分かるはずもないのだ。時に精神的苦痛とはトラウマへと姿を変える。心的外傷後ストレス障害(PTSD)となることだってあるくらいだ。二人は何とかそれにならずに済んでいるのかもしれないが、本来ならばそうなっていてもおかしくない。

 

 

「なあ……キリト。

 絶望ってな、実は希望を知った後ほど痛ぇんだよ………」

 

 

 後悔するように告げるアーカーの言葉に、一同がその真意を知った。ユウキは、たった一人ではあったが、秘密を告げても変わることがなかった他者を知ってしまった後だ。彼以外にも変わらずそばにいてくれる人がいてくれるはずだと信じてしまっている。それが、何を引き起こしてしまったのか———容易に想像できてしまった。

 

 

「バレた直後、ユウキは真摯にその真実を真っ向から認めた。下手にそんな事実はありませんっていうよりも、心のうちを真剣に伝えれば、きっと分かってくれる人がいると信じたかったんだろうな………」

 

 

 震えるユウキの身体を抱き締め支えると共に、アーカーは代弁者としてその心境を語る。自分のことのように。自分に向けられたもののように。その痛みを、その恐怖を、演説するかのように代わりとして告げていく。

 

 

「日頃から誰かの迷惑にかけないように気をつけて過ごしていることや、感染してしまう行為が何処までなのかを告げたんだよ、ユウキは……。怖いだろうし、痛いだろうな。俺が同じ立場だったら、そんな風には言えねぇよ、きっと………」

 

 

 ユウキは強い。確かに年相応の弱さはある。脆くて弱々しい部分だってあって当然だ。

 しかし、他者へとそう告げられるほどの心の強さは存在していた。誰かに理解されて認められる。これからも関係は変わらないと言ってくれる。そんか確信。それは唯一無二の理解者を得られたからこそ、手に入れることができた答えであり、当時の彼女が手に入れた強さなのだろう。

 

 だが—————

 

 

 

 

 

 

 

 

「—————ユウキは、拒まれた」

 

 

 

 

 

 

 

 

 社会(げんじつ)を知らない小娘に絶望(げんじつ)を教えるかのようにユウキは拒まれた。それまでずっと気兼ねなく触れていた者達はその手を退け、声をかけていた者は声をかけず、遊んでいた者達は共に遊ぶことをやめ、良い成績を取る度に褒めていた教師達は、褒めることをやめた。そして、皆一同にこう言うのだ。

 

 

 

 

 

 —————————触るな、病原菌。

 

 

 

 

 

 多少意訳が変わるだろうが、極論それと何ら変わらない。向けられた言葉が、どれだけユウキを絶望させたかなど彼らは知らない。四年生に上がって、クラスが変わってしまっていたアーカーは、そんなことが起きていたことにも関わらず、すぐに気付けなかった。何が起きていたのかそれを知ったのは、混乱がユウキの所属しているクラスのある方向が騒がしくなり、何人かの生徒達が教師に連れられている逃げてきたのを目にした時だ。偶然自身が所属していたクラスに、ユウキが〝HIVキャリア〟だという噂を知っていた者達がいたことが、何が起きたのかを確信させた。

 

 すぐさまその場を飛び出して、必死の形相でユウキの元へと向かった彼が見たのは————《雨宮》という蠱毒が作り出していた、あの光景(げんじつ)と何一つ変わらないものだった。

 

 

「………拒まれたユウキは、物を投げつけられ、箒で叩かれ、罵詈雑言の嵐に襲われた。いつからそんな目に遭っていたのか分からなかったが、目に見える範囲にいくつも痣や血が出来ていたのを目にしたよ………」

 

 

 そこでアーカーは人生で初めて————〝怒り〟を覚えた。同時に初めて誰かを殺してやりたいと〝殺意〟も覚えた。自分の至らなさを実感し、自分自身に対して〝失望〟した。

 

 

「俺はユウキを庇いに入った。そしたら、あのゴミ共なんて言ったと思う?」

 

 

 僅かに顔をキリト達に向けたアーカーの顔には、いつか見た〝死んだ魚のような目〟が浮かんでいた。感情が籠っていない瞳。どうしてあんな目を浮かべてしまえるのか、その原点を確信と共に理解した。

 

 

 

 

 

「「庇っちゃダメだよ。そんな病原菌なんかとこれ以上一緒にいたら君までおかしくなっちゃうよ。大丈夫、君には私達がいるよ」……だってさ。あーあ、本当に————ふざけんじゃねぇよ」

 

 

 

 

 

 可笑しいのはどっちだ。そう呟くアーカーがどんな思いを抱いたのか。彼自身ではない以上全てを把握できるものではない。

 

 それでも————分かることはあった。アーカーが他者を信じようとしなくなったのは、()()()()()()()()と。

 

 

「初めて殴った。初めて蹴った。初めて暴力の限りを尽くした。人間を————いや、あんなモン人間ですらねぇな……寄生虫にすら劣るクソ害虫だ……ッ!」

 

 

 まずはふざけた発言をした女を殴った。遠慮も慈悲も、躊躇すらなく全身全霊で殴り飛ばした。《雨宮》に在籍する者だったせいで必然的に習わされた武術の全てを、今この瞬間に〝暴力に使ってはいけません〟などという教えなんて投げ捨てて暴力の全てに変換した。殴り飛ばされた女は前歯を数本折って気絶した。

 彼がそんな行動を取るとは思ってなかった他の奴らも、次々と薙ぎ倒された。ある者は〝掌底〟を顎に受けて舌を噛み切り、またある者は鳩尾に重たい一撃を受けて臓器を損傷させて、またある者は持っていた箒を奪われてその目を突かれた。次々と薙ぎ倒されていくゴミ共に恐怖を覚えた教師にはその全てを見舞ってやることにした。煮え繰り返った五臓六腑から溢れ出す怒りと憎悪を糧に大暴れして————

 

 

 

 

 

「——————ユウキのためだと信じて、俺はゴミ共を瀕死に追いやることしかできなかった」

 

 

 

 

 

 誰かを傷付けることができないくらい優しいユウキの代わりに、アーカーはその体現者となるかように誰かを痛めつけた。それしかできなかったから。それしかできないと悟ってしまったから。この場所にユウキが信じられる人間はただ一人を除いて元から存在していなかったんだと確信した。

 一頻り大暴れをして、ユウキに害を成す輩を全て動けなくして、漸く彼は彼女の元に駆け寄ることができた。

 

 

「いくら武術を嗜んでいようが、俺も餓鬼だ。数に劣る俺の手や足は当然、擦り傷も痣もいくつもできた。アドレナリンっていうんだったか。あれのお蔭か、痛みなんて感じなかった。

 でも、ユウキの方は絶対に痛いはずだと思った。身体も、心も、何もかもが。

 一先ず、俺は傷付いたその身体からどうにかするしかなかった。痣は痛むだろうが、医者でもねぇ俺にはどうにもできない。そんな俺にでも出来る治療と言えば————」

 

 

 そこで、キリト達はどうしてアーカーが〝HIVウイルス〟に感染したのかに気がついた。当時の彼の年齢から考え、感染経路は二つしかない。

 

 一つは〝母子感染〟。

 だが、彼は捨て子だ。拾われただけの養子でしかない。もし感染していたとすれば、もっと早いうちに《雨宮家》は彼を処分していたことだろう。いくら発症が五年以上かかるとしても、検査で判明させるくらいは数週間後には可能だ。つまり、この可能性はなかった。

 

 

 

 なら、有り得るとすれば、たった一つ残されてない。

 それは—————

 

 

 

 

 

「—————その時、自分の傷口なんて何処にあるか確認してるはずもねぇ俺は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 ——————血液感染。

 

 

 

 病気を持つ者の血液が傷口や粘膜に付着、及び侵入することで、感染が成立するというもの。残された経路からしても、アーカーが〝HIVウイルス〟に感染したのは、これ以外に他の可能性は残されてなどいなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 回り始めた運命の歯車は最早止まらない。

 加速する。加速すル。加速スル。

 果たして、彼らは二人が信じるに値する者達か。

 覚悟の時が次第にその歩みを早めていく。

 さあ————ここからが、漸く彼らの本番。

 少年達が知った絶望(げんじつ)を受け止める時だ—————

 

 

 

 

 

 二人の過去 中篇 —完—

 

 

 

 

 

 

 






 斯くして、絶望(げんじつ)は二人の心に刻まれた。

 少年は、ユウキ達一家を除いて他者を信じなくなった。

 少女とその家族は、少年を巻き込んだことで

 ついに罪悪感に苛まれ始める。

 これは、罪悪感に苛まれる一家と、

 彼らを救おうと足掻き始める一人の少年、

 そして————同じく果敢に挑んだ、一人の医師の話。

 次回 二人の過去 後篇

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