ソードアート・オンライン —Raison d’être— 作:天狼レイン
一週間お待たせしました。漸く三十一話! 二人の過去 後篇です!
いやホント書いてて辛かったし、書きづらかった。矛盾してないか間違ってないか、ご都合主義にならないように伏線をちゃんと貼れてるかを確認し続けて漸くですからね。
ぶっちゃけ、最早黒歴史にしたいくらいの駄文ですよ。文才つけたら、真っ先に改訂してやります、ええ!
レクイエム・ノア編まで長々とかかると思いますが、今回の話を読んでなお! 最後までお付き合いしてくださる方は、楽しみにしていてくださいね。明らかになった際に、作者の頭ぶっ壊れてんじゃねぇの?というツッコミ期待してますから!
※2018.09.12.15:55 文章追加。
「————俺も、ただの餓鬼に過ぎなかった」
思い起こすようにアーカーはそう続け、後悔を繰り返す。口にされた言葉から分かるほどに、当時の自分の無能さを呪っていた。確かに彼は聡明だっただろう。同年代の者よりは発達した知能や感性があり、誰よりも先に進んでいたことだろう。そういう面や《雨宮》という地獄を生き抜いたことからしても、他の人間とは一線を画するユウキという存在が新鮮で興味深かったのは語るまでもない。〝楽しい〟と思えるようになったのも、それが漸くだったと彼は語る。
繰り返そう、彼は聡明だった。
しかし、同時に無知であった。
本来知るべきであった人間という
「怪我をしたユウキを背負って、俺はコイツの両親の元に送り届けた。感謝をされた。娘を守ってくれてありがとうって言われたのが嬉しかった。
————けどさ、それから何かに気がついて、すぐに謝罪をされたよ」
ユウキが、彼女の両親達が、彼女の姉が恐れていた事態が起こってしまったからだ。彼女らが保菌する〝HIVウイルス〟。その感染に足りうる状態にアーカーが陥っていた。痣や傷口を無数に作った彼女を助けるために傷を負い、その傷口を止血し、背負ってここまで辿り着いた。彼の両手を筆頭に身体には無数の傷があり、彼女の傷口を止血した以上、ほぼ確実に血には触れてしまっている。
時に善意ある行動は、悪意ある行動よりも向けられた相手が痛みを伴う。今回が正しくその例に洩れず、そうであったのは偽らざる真実だった。
「俺は———ユウキを守ったはずだった。あの場における最善手を尽くしたはずだった。きっとあそこにはもう戻れない。
けれど、それでもユウキが傷つけられ、痛い思いをするよりはマシだと思っていた。あんなゴミ共に苦しめられる必要なんてない。だから、この選択は間違っていなかった————そう、思っていた………」
後に訪れた
「………幸運だったのは、両親ではなく、俺や妹を最優先として仕えてくれていた老齢の執事が、偽装した戸籍や生きるために必要なものをバレないように作成してくれていたことだけだ。俺はそれだけを持って、放逐された。………義理の妹がいたが、アイツは———きっと何が起きたのか分かっていなかっただろうな。突然兄貴が放り出されて、それからあのゴミ共に「お前に兄なんていなかった」なんて言われててもおかしくない………」
それを聞いてキリトとアスナは、漸く納得をした。以前彼が何故両親から勘当されたのか、それを知ったからだ。彼は〝ちょっとした理由〟と言っていたが、そんな簡単なものではなかった。戸籍や生きるために必要なものを処分されるということは、生きていた証を奪われることに等しい。戸籍がなければ、何らかの取引をすることも叶わず、保険証がなければ、病院で治療を受けることすら苦になる。極々自然に病院に行っているならば、気付きもしないことだが、保険証が無ければ、請求される額はとてつもないものとなる。あれは元より本来請求されるはずの多額を、その多くが税金によって負担されているからでしかない。
そのことに真っ先に気が付いたユイが悲壮な顔を浮かべていた。
「幸運はいくつか続いたが、一番助かったのは野垂れ死ぬよりも早くユウキ達に発見されたことだ」
有形無形の嫌がらせを受け、転居を余儀なくされたユウキの一家が、唯一心残りであったアーカーの行方をギリギリまで捜そうとしてくれていたことを、助けられた後で知ったと彼は語る。
しかし、いくら助けられたと言えども、本来なら恨んでもいいような思いを味わったのは事実だ。彼女も、彼女の一家も、彼からの罵詈雑言を覚悟していた。よりにもよって、移されたのは〝HIV〟であり、それも《薬物耐性型》という最悪すぎるオプションも付いて回ってきたのだから恨まないはずがない。むしろ、責められないはずがない。憎悪されても仕方がなかった。
けれど———
「————ソラは、ボク達を責めなかった。恨まなかったし、怒りもしなかった。代わりに一言だけ「助けてくれてありがとう」って………」
過去の一端を思い出して震えていたユウキが、未だ微かに震えを残しつつも語り手に復帰する。話せるほどにまで回復したことで、アーカーは自分の席に戻るも「無理はするな」とだけ言って、その手を握る。それを受けて、彼女は「大丈夫だよ」とだけ答えると、彼に変わって続きを語る。
「それからソラと一緒にボク達は転居先に向かったんだ。
でも、きっとソラが前に住んでたとこよりも小さいんじゃないかなって思ったから不安だった。不自由な思いをさせちゃう気がしたんだ」
相変わらずユウキの声音には明暗が残っていた。新天地が自分達を受け入れてくれるかが怖かったというよりも、元々《雨宮》という旧家に属していたアーカーが不自由な思いをするのではないかという不安が大きかったとユウキは語る。彼女の一家がどういうお家なのかは分からないが、間違いなく《雨宮》の方が豪勢な暮らしをしていることだろう。どの分野にでも手を伸ばし、名を轟かせる名家とはそういうものだ。没落を命じられた分家筋とは言えど、何度も本家に召集された彼なら、贅沢な暮らしを求めていてもおかしくなかった。
しかし———
「そしたら、ソラはね。ほんの少しだけ嬉しそうに笑って「前よりも良い。むしろ、あっちの方がこっちに劣るよ」って言ってて、お世辞かなって思ったんだけど、ソラのことを知ったら納得できたんだ」
聞けば、昔から贅沢なんてしていなかったというのだから、アーカーという人間が《雨宮》という一族からすれば、かなりの異端だったことが窺えた。万が一に備えてコツコツと貯蓄をしていたというのだから、最早子供の所業とは思えなかったのも事実だろう。またも、変な視線が彼に向けられるが、当人は「いつか馬鹿がヘマしてドミノ倒しよろしく共倒れするんじゃねぇかって思ってな。あんなゴミ共見てると、自然に危機感が育ってたんだよ」と溜息交じりに言うだけに留まった。
苦笑が零れる中で、ユウキの声音が明るさを帯び始めた。
「転居先は一軒家でね。前はマンション住まいだったから、庭があるのがとっても嬉しかったんだ。姉ちゃんと走り回ったりもしたし、意外だと思うけど、ソラとも走り回ったりしたんだよ?」
「
「うん、
「
「テメェら、さらっと〝こそあど言葉〟しようとしてんじゃねぇぞ……。〝どのアーカーが?〟とか言い出したらぶっ飛ばすからな?」
そこで小さくも、確かな笑みが生まれた。
最早何度目か分かったものではない。明るくなっては暗くなって、暗くなっては明るくなる。今日だけで何回これを繰り返したことだろうか。どうせこの後もそれが繰り返されるのだから、きっと野暮だろうと考えると、アーカーは静かに目を伏せた。それから見開かれ、覗いたのは意思の固き瞳。決意を固くしたことが一目でわかるほどのそれが三人に向けられた。
「ここまで来ると大体察してるだろうが、幸福な時間っていうのはそう長くは続かねぇモンだ。いくら幸福がまた舞い降りようが、あんな思いをして全く響かねぇような奴はハッキリ言って人間じゃねぇ。当然、影響は出るのが情理だ。
転居してから半年も経たないうちに、後から感染した俺を除く全員がAIDSを発症した」
《
その意味を知らない彼らではない。グッと唇を噛み締め、その言葉の意味、重さを感じ取る。ユウキも今一度真剣な面持ちを浮かべ、今度は自分の口で語ることを意識する。震えてばかりじゃいられないと目がそう訴えていた。
「すぐさまユウキ達は病院に入院することになった。当然、みんなで住んでた一軒家に俺だけが……一人残されたよ」
厳かに告げた最後の一言は、痛々しく辛いものだった。《雨宮》という蠱毒を生き抜いていた以上、人間不信は留まることを知らなかった。唯一信じられるようになったユウキは、自分の手が届きにくいところに行ってしまった。彼女の家族も然り。また———一人になった。
「———独りっていうのは痛ぇな………あの時は何となくだったけどさ。今ならよく分かるんだよ………」
現実なら唇から血が出るほど強く噛み締めながら、アーカーは悲痛な声を洩らす。体験から来る経験則は彼が誰かに物を語る上で欠かすことのできないものであり、理屈などで冷静に判断するところからも安易に予想できることだ。つまり、これもまた、彼の経験だ。独りになることを恐れた少年の弱く小さな姿。普段の彼らしくない様子に、キリト達も本当の弱さを見出していく。
「たった独りで生活するようになってからも、俺は度々ユウキ達の元にお見舞いに行ったよ。最初は一週間に一度くらいの頻度だった。その方が、ユウキ達には良いと思っていた。
でもさ、やっぱり俺は独りが怖かったんだろうな。気がついたら、ほぼ毎日通い詰めてたよ。ホント情けない話だ。他人の迷惑なんざ考えることもできなくなるぐらい独りになるのが恐ろしかった」
孤独にはなれている、大丈夫だ。きっとまた独りでもやっていける。————結局、怯えていたのは誰だ?
これ以上彼らに負担をかけてはいけない。————ほぼ毎日通い詰めてた奴が何を宣っている?
気がつくと、矛盾ばかり抱えていた。一度考えてしまったことはそう易々と止まるものではない。思っていたことよりも深く、深く、深くと考え込んでしまうものだ。抱いた疑念も、不安も。それが深ければ深いほど、思考の渦へと取り込まれる。人一倍聡明であるが故に、人一倍無知であるが故に、アーカーという少年は————否、雨宮 蒼天
当然、その矛盾と思考は次第に考えてはいけなかったものを想起した。浮かべてしまったのは、病院という存在が本当に信用して良いものかというもの。ハッキリ言って論外極まりない思考だ。多くの重病を治すためにはここ以外に手はない。最後の希望足りうる象徴を疑うなど言語道断だ。
始めはそう思っていた。
無論、アーカーは独りになってから、ただただ毎日を過ごし続けるだけの虚無な日々を送り続けるような————何もしないだけの日々は過ごさなかった。いずれ自分も同様に発症するであろう、エイズという存在。それを詳しく調べようと、文献を漁るようにもなっていた。結果、それが矛盾と思考の螺旋を強めてしまったのは言うまでもない。むしろ、強めたと言うよりは悪化したと言う方が正しかった。
AIDSという難病は未だ明確な完治に至る治療方法がない。その事実を知ってしまった衝撃は計り知れないものであった。発症を抑え続けるという方法も、一度発症してしまえば使うことができないものであることを知り、同時に発症すれば助かる見込みがないことを知ってしまった。
いつかまた元気な姿で一緒に暮らせる。そんな淡い希望は、いとも容易く崩れ去り、そこで漸く少年は目を覚ました。———否、むしろ、現実に目を向けたというべきか。
絶望を知った。
希望なんて微塵もなかったことを知った。
AIDSに至る原因を知ったが故に、漸くそこで自分が何をしてしまったのかは悟った。
「ユウキ達を責め立てたのは、あのゴミ共だ。それは間違いない。憎いし、殺したいとさえ今も思う。
でもな………ユウキ達を追い込んだのは、間違いなく
「ッ!? それは違————」
「————違わねぇよ、ユウキ。俺が感染しちまったことがお前らを追い詰めた。場合によっては悪意ある行動よりも善意ある行動の方が傷付けることは周知の事実だ。今でもお前を守ったことには後悔なんてない。後悔してるのは何の知識もなく、お前を手当てした俺の無能さだ。
だから————こればかりは譲らねぇ。
悔いるように告げるアーカーの言葉に、彼の手を握っていたユウキが目を見開いた。すぐさま口が動き、その言葉を否定せんとしていたのは、この場にいる誰もが気付いていた。
だが、それは当人によって制止される。短く確かな声音で自らの罪を肯定するかのように、多少卑怯とも言える言い回しと共に断言する。
本人も自覚している通り、雨宮 蒼天だった少年が〝HIVウイルス〟に感染したのは完全な不注意であり、知識不足から来るものだ。アドレナリンによって興奮状態に陥っていたことで普段よりも冷静さを失っていたのもあるだろうが、それでも然るべき対応と処置を行え切れてなかったのは事実。そこから派生するかのように、助けてくれたのに感染してしまったという事実が、ユウキ達一家に罪の意識を植え付けたのは言うまでもない。唯一信じてもいい他者を巻き込むどころか同じ境遇の者にしてしまったこと。こればかりは、当人が問題ないと訴えかけようが、罪悪感として背負いこんでしまうのは仕方がない。
〝病は気から〟という言葉があるように、精神的な苦痛やストレスは確実に身体を蝕んでいく。いくら許されたとしても、いくら明るく振舞おうとも、罪悪感から来る思いは正直であり、本来ならば、もっと発症までの時間が残っていたかもしれない可能性すら塗り潰してしまう。今こうして彼がそう悔いているのは、正しくそのことだった。責め立てたのは奴らで、追い詰めたのは自分。その言葉がどれほど痛いかなど、これ以上は言わずもがなであった。
「————犯した罪は償うしかない。
だから、俺はユウキ達を救うことにした」
後悔を胸に、少年はただひたすら邁進する。
飛び出した言葉が深く、重く、聞く者達の胸に突き刺さる。罪を償うと始めに告げたアーカーの目は昏く、しかし、まだ諦めに至っていないものであった。浮かんでいたのは、果たしてどのような思いなのだろうか。一言で言い表わせる言葉をそう多く知らないユウキだったが、それでも、一つだけ検討が付いていた。
もし仮定するとすれば、それは—————執念。
「まず始めに、担当医の倉橋先生と正面切って話をした。ユウキ達を救う手段は本当に無いのか。確率がほんの僅かにでもある方法が存在するのなら教えてくれ———ってな」
これが〝一度目の戦い〟。世界最悪の難病に挑む、果てなき挑戦。凡そ齢10歳の少年には無謀過ぎるのは誰の目からも明らかであり、例え歴戦の強者と化した名医師であっても、不可能に近いものであった。
「ただの餓鬼が、全世界の医師が手を焼いてる難病に勝つ算段を求めるなんざお門違いにも程があった。それは認める。俺自身、納得はしていた。発症した時点で敗北は必至。よりにもよって《薬物耐性型》だったからな。元より長生きができる訳でもなかったのはユウキ達も認めていたことだ。ああ、分かっていたさ。それに不注意で感染した俺も、長くないことぐらいは」
聳え立つ壁がどれだけ高いものか。それを理解できないほど、彼は馬鹿ではない。聡明であったからこそ、誰よりも理解は早かった。事実を知る度に、再確認する度に心が軋み、重みに屈してしまいそうになったのは間違いなく事実。これから自分がやろうとしていることもどれだけ馬鹿な行為なのかも分かり切っていた。
「—————でも、俺は………もう二度と
絞り出すような声が噛み締めた唇から紡がれた。浮かべていた表情はくしゃくしゃで彼らしくない。今にも泣きそうにも見える。ここで泣いてしまわないのは、彼がまだ泣くべきではないと考えているからなのか。そこまで見抜けるほどの慧眼を持たないキリトでは分からなかったが、しかし————それでも納得はしていた。
かつて、彼がユウキとの繋がりを本気で断とうとしていたのをキリトは知っている。無理矢理連れ戻そうとして、抵抗され、挙句の果てには酷い目に遭わされたのも覚えている。それよりも以前に、その原因となった喧嘩の理由や内容もユウキから聞かされたこともあった。彼女が他者の死を前に迷いを抱き、動けなくなり、それを助けようとした者が犠牲となる。いわゆる、誰か一人の迷いから生じる〝犠牲の上に犠牲を積み重ねる〟こと。それを絶対に許さないと断じた彼の言葉は、今この時を知って理解できるものとなった。
単純な話だった。
明快で、何処にだって有り触れたものだった。
少し考えれば、分かることだった。
ユウキの元に連れて行こうとしたキリトに対し、激しく抵抗までして逃げ果せたアーカーが、何故彼女が《笑う棺桶》に囚われたことが広まった際に、攻略組に殴り込んでまで姿を見せたのか。ヒースクリフという最強の壁に対して、恐れもせず、真正面から脅しまでかけてみせたのか。《最前線狩り》という異名を纏った彼にとって、これ以上攻略組を刺激するという行為はメリット一つ存在しないはずだった。その後、アルゴが今でも分からないと首を傾げていた行動の真意は、確かにそこにあったのだ。
—————ただ、ユウキに生きていて欲しかった。
たったそれだけの理由。一層の頃からずっとそばでいたのも、ある時を境に厳しく突き放したのも、攻略組に喧嘩を売るようなことをしてまで救出に向かったのも、全てが有り触れた一つの思いから生じた行動。私利私欲など欠片もない、生産性一つない行動の真意が、紡がれた言葉の一つ一つに詰まっていた。
「絶望は希望を知った後の方が痛ぇ。それは何事にも言えることだ。俺の場合は、それが孤独だっただけだ……。俺はずっと独りだったからな………。
だから、孤独になりたくなかった………。また昔みたいに戻るのが………怖くて仕方がなかったんだ……………」
心が安らぐ〝家族〟という存在の暖かさを知った。
信じられる〝他者〟という存在の暖かさを知った。
知ってしまった。
味わってしまった。
覚えてしまった。
忘れ難いほどの悦楽が、彼を
だからこそ、未知の所業であり、それに魅せられる者もいる。当然、誰しもが一度目で目覚めるようなことはない。正当防衛の際に味わってしまってもおかしくない。最初は忌避感を覚えることだってあるだろう。
しかし、それが偶然であろうとも何度も何度も繰り返すようになれば、それは習慣となり、日課となる。クセになるだろうし、手に伝う血の滑りや温もりは不思議と記憶に強く刻まれる。
つまるところは、記憶に強く刻まれてしまえば、それが忘れられなくなるのだ。それが例え、本来ならば当たり前でしかないことであったとしても、彼にとっては当たり前ではない。何しろ、《雨宮》という存在が良識を持たぬ人の皮を被った化け物であり、そこに一度でも属していたのなら、当然本来の感性など持っているはずもない。事実彼は常に孤独であった。例え義理の妹がいようと、頼れる老齢の執事がいようとも、結局その二つを信じることもなく、ユウキという唯一無二の例外を知ることで、漸く
結果、それはある種の
「………至極当然の話だが、彼も立派な医師だ。尽くせる手は尽くそうとするし、なるべく縋れる
けどな、物事に〝絶対〟は有り得ない。クソ喰らえな話だが、この世の中は100%以外の可能性は確実に存在するんだよ」
よくゲームで100%というものが存在する。命中率100%、強化成功率100%、会心率100%………いくつも存在するそれらは、悲しいことに現実世界には決して存在できない確率でもあった。例え鉛筆を握ることすら、握ろうとした瞬間に何が起きるかは分かったものではない。例えば、ふとした瞬間に鉛筆の芯の方が刺さるかもしれない。誰かがぶつかって握ることなく転がり落ちるかもしれない。指が触れて奥へと転がってしまうかもしれない。
あくまでそれらは100%を除く可能性から〝握ることが出来た〟という事象を掴み取れただけに過ぎない。
「始めてその話をした時、彼はほんの僅かだけ逡巡した。それから諦めたように首を振って、現実の話をした。普通なら医師がそう言えば諦めがつく。医師は自分達よりも現実を知っている。だから、彼らが諦めることは出来ないこと、叶わないことだって誰もが識っていることだ。
————だけど、俺は突き進むしかなかった。諦めが悪いって言った方が正確だろうな。独りになりたくない一心で、容赦なく卑怯な手を取った」
彼が為す卑怯な手。かつて、攻略組を脅し切ってみせた程の力量を持つならば、どういう方法を取るかは想像に難くなかった。果たして、その時の彼がどのような手を選んだのかをキリト達が数多の可能性から一つに絞り切ることはできない。とはいえ、いくつかには絞り切れる。攻略組の信用・信頼を奪う策略も、応用すれば、使うことができる。その医師は患者を見捨てたなどと言えば、他者に不信感を募らせることもできる。浮かび上がった可能性から、ユイを筆頭にキリト達は「まさか……」と声を洩らした。
「俺は相手の様子や仕草、行動から真実か嘘かを見極められる。真っ先に彼が言った言葉は嘘だと断じた。〝絶対〟なんて世の中には存在しないからな。
だから………俺は彼にこう言った。
「医師としての倉橋先生は無理だと言うのなら、倉橋という一人の人間に訊ねる。あるんだろ? まだ残されているんだろ……? まだ打てるかもしれない手が。………頼む教えてくれ。あんたが今後の医師人生を無駄にしたくないのなら、情報だけでいい。どんな目に遭うかを恐れているのかもしれない。
だけど、もし………医師人生なんて放り出して、今苦しんでいるユウキ達を救うために全力を尽くしてくれるなら———手を貸してくれ 」
………ってな」
彼が選び取った選択は、医師としてではなく、一人の人間の感情に対して訴えかけるというものだった。まだ穏便な方法を取ったことにキリト達どころかユウキも安堵する。そんな周囲の反応にアーカーは「テメェら俺が過激な奴だと勘違いしてねぇだろうな……?」と今にも怒りだしそうな顔をしていたが、すぐさま話を元の流れに戻す。
「………結果として、倉橋先生は
そう語る彼は嬉しそうで、何処と無く巻き込んだことには申し訳なさそうで、けれど、医師人生を捨てる覚悟を抱いてくれるくらい誇り高い人だと敬うように。当時の彼がどう思っていたかは分からないと述べながらも、今の彼は賞賛だってしていた。あまりユウキ以外の他人を褒めたりしない彼には物珍しい光景がそこにあった。
「後から聞いてみると、やっぱりユウキの両親からもお願いされたことがあったらしい。
「例え遅延でも良いから、あの子達が少しでも生きられるようにしてほしい」ってさ。それからずっと悩み続けてたらしくて、そこに追撃とばかりに家族でもない俺の必死な姿もあって決心したそうだ。
………さて、話を戻すが、それから俺は倉橋先生から〝残された手〟に関する情報を得た」
当人であったアーカーとユウキを除く全員がぐいっと引き寄せられるように、続く言葉に耳を傾ける。本来なら完治することのない死病とも言えるAIDS。それに対する残された手など聞いたことがないからか、ユイに関しては知識として蓄えたいのか食い入るように待ち望んでいた。
「————————〝骨髄移植〟。それが、残された最後の手段だった」
三人の耳朶を震わせた言葉は、思っていたよりも普通とも思える方法だった。その方法は元より白血病に対する手段として取られていた医術であった。もっと医師でなければ知られていないような、特別中の特別と言える方法が飛び出すのではないかと思っていた彼らは何とも言えない顔をしていたが、アーカーは呆れた顔を少しだけした後、真剣な面持ちで言葉を続ける。
「ユウキ達が入院する何年か前の話だが、HIVウイルスに感染した患者に骨髄移植をした後、完治に至った例が両手の数に満たない程度だが、確実に存在していた。HIVウイルスが減少していることを知った者達が後々詳しく調べてみれば、移植されたのはHIVに耐性がある骨髄だったらしい。提供者は白人。今のところ、それ以外では見つかっていないらしいが、それでも確かに完治に至る方法は存在していた。正確には………つっても、不安がらせることになるだろうから割愛だ割愛。
まぁ………何はともあれ、当然確立されていない療法を信用して行うほど医師は馬鹿じゃない。確証のあるもの以外に縋るわけにはいかない。医師は治す職業であって博打打ちじゃねぇからな。
それでも、医師人生放り投げる覚悟をした倉橋先生はこの話を俺にした。当然、どうしてそれが療法として確立されていないかの理由も説明してくれた」
一呼吸を入れ、語り出す。
「人間の身体は俺達が思っているよりも繊細だ。何でもかんでも交換すれば大丈夫なロボットや人形、プラモデルのようにはいかねぇからな。俺達の身体には免疫力が備わっている。その免疫力が大体何を指すか、分かるだろ?」
問いかけられた質問に、アスナが答える。
「白血球とかキラーT細胞……他にも色々あると思うけど、そういう細胞のことよね?」
「ああ。細かく言えばキリがねぇから割愛するが、要するに輸血同様、適合するものを移植しなくちゃならない。骨髄移植の場合で言えば、白血球の血液型《ヒト白血球型抗原》———略称HLAっていうモンがあってな。
それが適合しないと移植した三ヶ月以内に急性の拒絶反応が起き、それに耐え切れず死に至ることもしばしば。当然何もしない訳じゃねぇからステロイドを投与したりして対応してるらしいが、仮に耐え切ったとしても、ほとんどの人が今後免疫抑制剤を服用し続けなきゃいけねぇし、皮膚や消化管、肝臓のうち一つには何らかの障害が起きる。それが軽い時もあれば、重い時もあるのは人それぞれだ。
つまるところ、目下の難題の一つはそれだった。適合するHLAっていうのは、普通に見たら結構存在するんだよ。臓器移植で治った患者の話が持ち上がるのはそれが理由だ」
そう、ユウキ達が臓器に異常があるだけの患者なら、それで移植さえしてしまえば終わりなのだ。そうじゃないからこそ———HIVという病気がとてつもない難病で有り続ける理由は、そこにあった。
「HLAだけで見れば、ドナー登録されている者達から探すだけで多くは無くともきちんと見つかるモンだ。
————だけど、問題はそこじゃねぇ。ユウキ達が感染していたのは、HIVウイルス。世界最悪の難病だ。免疫機能を破壊するっていう
それにそもそも移植だって何度も出来るモンじゃねぇ。特に骨髄移植に関しては、一度患者の骨髄自体に致死量の抗ガン剤か放射線を照射して、造血機能を停止させる必要がある。その後、すぐに移植を始めなければ、患者は死に至る。何せ血を造る力を殺すんだからな」
臓器移植よりも更に難易度が遥かに高いことは、今こうして聞くだけでキリト達にも分かった。何度も話に登場した〝死〟というワードが、この世界————アインクラッドを生きる彼らには重く感じられる。日常では脅し文句やその場のノリで〝殺すぞ〟はよく飛び出すものだが、デスゲームを体験してからはそんな気安く言えるようなものではなくなっていた。命の重さというものを改めて実感したからである。例外はあれど、閉じ込められた者達の大半は理解しているはずだ。そういう点からも、彼の説明には命の重みが存在した。
「なあ、アーカー………。そのHIVウイルスに耐性のある骨髄は、どれくらい存在するんだ………?」
「————ドナー登録をしている白人の1%程度の確率だ」
「なっ————!?」
約1%。
飛び出した余りにも低過ぎる確率にキリトは絶句する。彼の隣にいるアスナは悲鳴にも似た声が洩れ、ユイは現実を識る。身内などではない限り、赤の他人から移植するための骨髄を受け取ることはできない。受け取るための手段として存在するのがドナーというものであり、そこから臓器や骨髄液を手に入れるしかない。
だが、そのドナー登録をしている総数のうち、白人という条件が必須であるにも関わらず、更にはHIVウイルスに耐性を持つ骨髄は、そのうちの約1%ほどという。それは最早恐ろしく残酷な数字でしかなかった。太平洋に沈んでしまった小さなガラス玉を探すのと、どちらが優しいのかさえ分からない。
「以前この世界で手に入る調味料を全て解析して、醤油やらマヨネーズの味を作り出した話はしたな? 約百種類如きの組み合わせなんざ、これに比べりゃ屁でもなかったんだよ。
だから、平然と数ヶ月で出来た。こっちの世界だと家事やら洗濯やらするのにもそう時間かからねぇからな。時間が割き放題だった。勿論、俺一人でやった訳じゃねぇのはどっちも同じだ」
一蓮托生の協力者となった倉橋先生と共に、彼はひたすら一家のHLAと適合するHIV耐性を持つ骨髄を探し続けた。大前提としてドナー登録者は年々増え続けている。ゼロではない限りは、希望は確かにそこにある。そう信じて、戦い続けた。誰一人死なせないと宣い、寝る間を惜しむつもりで無茶を繰り返した。
「………それからまずは一年が経った」
その言葉にキリト達は絶句する。一年も探し続けていたのかという感嘆ではなく、一年が経ってもまだ続きがあると言わんばかりの語り方に畏怖を抱いた。
しかし、その畏怖は次に飛び出した言葉で悲鳴に変わる。
「—————ユウキの両親が死んだ」
両親の死。
ユウキを、彼女の姉を慈しみ、育て、愛してくれていた彼女らの両親が死んだという現実がキリト達の胸に深々と突き刺さる。
「………初めてその訃報を聞いた時、信じられなかったよ。誰も死なせたくないって宣って必死で探し続けて一年経った矢先の出来事でさ………心が折れかけたよ。想定よりも早過ぎた。まだ後一年以上残されていると思っていたんだが、そうはいかなかった」
どうして想定よりも早く死んだのか、その原因がなんだったのかを倉橋先生から聞いたことをアーカーはキリト達に話した。原因は————病気の進行が思っていたよりも早まっていたこと。エイズによって、弱まっていた免疫力が防げなくなっていた感染症の数々が相次いで発症し、その猛威が瞬く間に強まり、限界を迎えたという。それを聞かされた彼は、当時の心境を代弁するかのように語る。
「………恐らく、二人は俺を巻き込んだことを悔いていたんだろうな。罪悪感に苛まれていたのかもしれない。〝病は気から〟っていうだろ? ………きっと、そうなんだろうな」
唯一無二の理解者を巻き込んでしまったこと。それがどれほど辛いことかは当人達にしか分からない。いくら赦されようとも、己が赦せない。カトリック信徒であった彼女の母親は勿論、信徒でない父親もまた、そう感じていたのだろう。
結果、それは想定よりも早い死を齎した。当然、その死がそれだけで済むはずもない。死とは齎された者にも深い痕跡を残すものだ。
「………その死に引き摺られるように、ユウキの姉の容態までもが少しずつ悪化を始めた」
身内の死とは連鎖するもの。一人や二人の死では飽き足らない死神がその鎌を再度掲げて刈り取るが如く、次の標的が定まってしまった。告げるアーカーの苦悩が見て取れるほどにその表情に陰が強く差した。
「両親の死っていうのは子供からすれば、耐え難いものだ。俺みたいな例外はともかく、ユウキ達の場合は両親からの愛を注がれて生きてきた。二度と会えない、声を聞けない、自分たちもそうなる日が来ると知れば、絶望だってしてもおかしくない………。
当然の話だが、ユウキの容態も少しずつ悪化し始めた。それまで精神力で耐え続けていたのが弱まった証だった」
当時齢11歳程の少女には仕方のないことだった。もし自分達がそうであったのなら耐えられただろうかとキリトとアスナは思考し、すぐさま否と判断する。
生みの親の死を物心つく以前から経験したとはいえ、現在彼は義理の両親を持つ者だ。彼らから注がれた愛情は嘘ではなく真実だ。初めてこの世界に閉じ込められた日は、あの日々に戻れないかもしれないと絶望しかけたこともあった。その時、ユウキ達が経験した絶望と全く同じとはならないが、それがどれほど痛いものかは察することはできた。
そして、それはアスナも同様だ。生憎彼女は無上の愛を注がれて生きてきたとは言い難い人生を過ごしてきたが、少なくとも母方の祖父や祖母にはよくしてもらっていたし、愛されてきた。二人が死んだ時はとても辛かったのは間違いなく、彼らから向けられた愛が喪われた時は苦しかった。同様とは言わないが、大切な人が死ぬ痛みは分かる。
今こうして目の前に存在するユウキという少女は、ここまで聞いただけで両親を失っている。時より見せる陰のある表情はそこから起因するものなのか……? そんな予想が二人の脳裏を過る中で、ユウキが口を開いた。
「パパやママが死んじゃった時は、ボクもいつかそうなるんだと思ったよ……。遅かれ早かれ死んじゃうなら、もうどうなってもいいや……って投げ遣りにもなった」
齢11ほどの少女に
間近に迫る死が、今日か明日か。それとも明後日か。いつかは分からなくとも、そう遠くないうちに訪れると知れば、誰しもが絶望することだろう。況してや、それを平然と受け入れられる人間がいるのなら、それは存在自体が破綻している。こと正確に言えば、受け入れられるように破綻するしかないのだ。
不幸ばかりの人生。
幸福など両手の指の数に相当するかさえ分からない。
だが、彼女はまだ幸運だった。それは今まで生きてこられたことではない。唯一無二の理解者を持つことができたことではない。
「ソラは————まだ〝諦めてなかった〟んだ。ずっと来てくれなかったから、もう来ないと思ってた。
でも、来てくれた。久しぶりに見たソラはね………ボロボロだったよ。弱ってた。今にも倒れちゃいそうなくらいなのに、まだ〝諦めてなかった〟。それでね、こう言ってくれたんだ。
「俺はまだ諦めていない………。まだ可能性は残ってる。だから
って。最初はボクも無理だよって言ったんだよ……?
そしたらね、ソラはこう言ったんだ。
「残酷なことを頼んでいるのは分かってるさ………でもな! 諦めることが何でもかんでも正しいと思うな! 足掻いて足掻いて………! それでも死ぬなら仕方ねぇよ!
————だけどな………お前言ってただろ! 闘い続けて、いつか治る日が来るのを信じてみたいって! だったら、最期の時まで自分らしく生きてみろよ! 俺の知ってるユウキはもっと生き汚い奴なんだよ……!」………って」
それは、ユウキが《マクアフィテル》を手にした日に聞いた話の全貌。死にかけの人間にかける言葉にしては、残酷で無慈悲で悪辣極まる声援であり、しかし同時に————
「————目が覚めた。ボクはまだ助かるかもしれないんだって、まだ諦めちゃいけないんだって、そう思えたんだ」
そう、これこそが、彼女の信念を変え始めた
それは、生き汚いほどに死を拒み嫌う抵抗力となり。
それは、死を望む少年の未来を変える行動力となり。
それは、どんな絶望的状況にも屈さぬ精神力となった。
奇しくもそれは、《マクアフィテル》という彼女の得物を手にするために用意された難関と同じ渾名と化している。
——————〝絶対不滅の意志〟。
全てを見越した上でカーディナルが、茅場 晶彦が用意したとあれば、彼らは千里眼の持ち主でもあったと言えようか。
彼女が持つ強き意志の起源を知ったキリト達は、感嘆と驚嘆が相成った心地を抱いていた。
「それから半年もの間、ユウキはそれ以上の病気の進行を意志力だけで抑え続けた。倉橋先生も度肝を抜かれるぐらい驚いていたよ。若い頃だから出来る芸当————そんな範疇をコイツは平然と超えていやがった。正直俺も想定以上の結果を出してやがったせいで、実はプラナリアか何かの遺伝子でも持ってんじゃねぇかと思ったぐらいだ」
「えへへ〜♪ ………あれ? プラナリア………?」
「どれだけ細切れにしても分裂した上で元通りに戻る生命力化け物の奴。教科書とかで見たことあるだろ?」
「へぇ……ソラはボクのこと、そんな風に思ってたんだ………?」
空笑いを零しながら、ホラーに出てくる怪魔よろしく、ぐるんっ!と首をアーカーの方に向けるユウキに、失言を洩らしたと気付いて逃げようとする彼だったが、逃げるよりも早く首根っこを掴まれ捕獲される。向かい側でキリトとアスナが溜息を零し、ユイが隣の部屋へと消えた二人の様子を窺おうとするも阻止される。いったい何が起きていたのかは知らない方が今後のためだろう。ライトエフェクトが何度も瞬くのが見えるが、ログハウスの中は《圏内》であるため、きっと恐らく命の保証は出来るだろう………多分。
それから少しばかりした後、見るだけでボロボロのソラとヘソを曲げたユウキがもう一度テーブルに戻ってくるのを合図に、二人の過去に関する話が再開された。
「………コホン。ユウキの両親が死んでから半年が経った頃、条件を絞って探し続けていた俺達の方にも進展があった。
ドナー登録をした白人から何度も確認を取り続け、探し続けていた、ユウキとユウキの姉のHLAが適合する件のHIV耐性を持つ骨髄が—————」
————————
絶望が—————舞い降りた。
奇跡は起こらなかった。見つからなかったという言葉が、現実が、どれほど残酷なものだったかなど語るまでもない。耳朶を震わせた一言に、キリト達は当然己の耳を疑うしかなかった。反射的に言葉として飛び出したのは嘘だという小さな呟きで、ポツリポツリと繰り返し口にするも、対峙するアーカーの顔にはそれが真実であることを証明していた。
悲鳴が洩れる。両親を喪い、それでも生きることを諦めなかった少女に対する答えが、絶望という無慈悲で冷酷で残酷なものに終わるとは認めたくなかった。誰しもの表情が昏くなっていく—————
「————というのが、本来そう在るべき残酷な現実の話だ。
第一、よく考えてもみろ。そんな状況の餓鬼二人が二年もこの世界に存在できる訳がねぇだろうに」
——————はずだった。
周囲一帯を全て包み隠してしまうような暗雲を一言で払ったのは、先程見つからなかったという現実を肯定したアーカーだった。
突然の切り返しに一同が困惑する中で、当人は話を最後まで聞けと言わんばかりの顔をする。ユウキもまた何とも言えない顔をしていたが、それからいつもの元気一杯の天真爛漫少女らしく、こう訊ねてきた。
「ねえ、三人とも。ボクが幽霊に見える?」
「………いや、見えないな」
「………うん、見えないわ」
「………はい。第一、この世界はナーヴギアによって、五感を遮断・回収した先にある仮想世界なので、幽霊というオカルト分野はシステムによって作り出されたモンスターでなければ介入できないはずです。ねぇねは、正式サービス開始時からログインしていますし………」
あくまでも現実的に考えるユイの言葉に、こればかりはキリト達どころかアーカーですら苦笑するが、気を取り直すようにユウキはニッと笑ってみせた。
「実は、治っちゃったんだ。
ボクも—————それに、ソラも」
突然飛び出したそれに、彼らは言葉を失った。絶句し、困惑し、何度も思考を巡らせ、現実を認識するまでに少しばかりの時間をかけた。一番聞きたかった言葉なのに、いざそれが飛び出したら認識し、理解して、実感するのに時間をかけることになるとは皮肉極まることだろう。最も冷静な判断が出来るはずのユイですら、〝治った〟という言葉が、〝助かった〟〝無事だよ〟〝これからも生きていられるんだよ〟という言葉に変換するのに手間取った。
漸く認識し、理解して、実感した頃には、その目尻には玉粒の涙が浮かんでおり、感情の波が溢れんばかりに押し寄せており、整理がついていなかった。言葉が喉で詰まり、言語としてすら発せない。それでも、何とか表現しようとして————ユイは椅子から立ち上がって、向かい側の椅子に座るユウキに飛び付いた。当然テーブルは倒れ、その上にあったコップなどは散乱し、妹分のような少女が飛び付いてきたことで体勢を崩した彼女や、突然のことで驚いたアーカーも巻き添いで後方に倒れた。二人揃って後頭部を打ち、変な声を洩らす。
突然の愛娘の行動に夫婦は揃って唖然としていたが、その行動がどういう意味を表していたのかを分からないほど愚かではない。続けて彼らもまた漸く把握すると共に、アスナはユウキの元に駆け寄り、ユイ共々起こすと、痛いほどにギュッと抱き締めた。嗚咽を洩らし、はしばみ色の瞳は涙に濡れる。そんな彼女を抱き返し、かつて死病に侵されていた少女は小さく「ボクのために悲しんでくれてありがと、アスナ」と呟き、慰めた。その光景は奇しくも、いつかのアーカーと酷似していた。
一方で、キリトはその場で膝から崩れ落ちた。しかし、倒れ伏すことはなく、けれど、男なのに情けない声をあげて泣いていた。何度も目の前で失ってきたからこその反応だろうか。男らしさはなかったが、それでも、彼らしくはあったし、その行動に彼の優しさが籠っていることだけは誰の目から見ても明らかであった。
三人の様子は、真実か嘘かなど見抜く必要もないほどに、間違いなくユウキを思い遣ってくれている証に他ならなかった。
後頭部を摩りながら、アーカーはふと反省と共に安堵する。疑う必要なんて無かった。彼らはあのゴミ共とは根底が違っていた。我が身可愛さに他者を拒み、傷付けることを厭わない下郎ではなかった。
そして、同時に思うのだ。もっと早く出会えていれば良かったと。
三人が落ち着くまで、時間はそれなりに要した。未だ三人の目元は泣き腫らしたことで赤く腫れてはいるように見えたものの、暫くすれば元に戻るだろう。倒してしまったテーブルを元の位置に戻し、散乱させてしまったコップなどはストレージなどに仕舞うと、アーカーは話の続きを語り出した。
「ドナー登録の中に、ユウキや彼女の姉を救うために必要な骨髄はなかった。当時の俺は絶望したよ。縋りたかった希望はなかった。助かる未来は一分もなく、誰もが〝諦める〟ことしかできなかったのは事実だ。当然、流石の俺も諦めてしまいたくなった。どれだけユウキが強靭な精神力で耐え抜こうと、発症した以上長続きするはずがない。ずっと気を張り続けるっていうのはリスクが大きすぎる。ふとした瞬間に糸が切れるみたいな状況になれば、食い止められていた進行は激化する。
…………それにその頃には、ユウキの姉は末期だった。あと半年持つか持たないかの瀬戸際だった。彼女まで喪えば、恐らく流石のコイツでも耐え切れないのが目に見えていた。それ以前に、俺も過労が祟って一度倒れたせいで、身動き一つ取れもしなかった。そのまま入院して、検査して、無茶を重ねたことで〝HIVウイルス〟の進行が早まってることを知って、そのまま終わる。俺もそう思ってたんだよ、
〝その時は〟という前提を踏まえた上で、アーカーは自分自身でも未だに納得があまり言っていない様子ではあったものの、その後何が起きたかを正確に語った。
「過労の回復ついでに数日間入院して、一時退院を迎えようとした日のことだ。突然見たこともないような変な形相した倉橋先生が病室に訪ねに来たんだよ。それから有無も言わさず、「今すぐ来てください! もう一度調べ直したいことがあるんです!」って言うモンだから、そのまま俺は一通りの検査を受け直す羽目になったんだよ」
「検査をか? まだ疲労が残っていないかとかそういうことなのか?」
「それも最初は考えたんだが、過労っていうのは数日間しっかり休めば回復する程度のモンだ。実際あの時の俺は精神的にはグッタリ来てたが、肉体的には全快だった。始めは意味がわからなくて困惑してたんだが、途中から何の検査をしているのかがハッキリしたんだよ」
キリトの問いにアーカーは真っ当に答えつつ、誰もが予想していなかった事態が起きたことを口にする。
「—————検査内容は、体内に〝HIVウイルスが存在するかどうか〟を調べるためのものばかりだった」
驚嘆と驚愕。何が起きたかを知っているユウキを除く三人にとっては、倉橋という医師が何故そのような検査を彼に受けさせたのかが全く以て理解できなかっただろう。事実、当時のアーカーもそうであった。何度も無駄だと制したが、それでも倉橋先生はやめなかったと語ると、真っ当な医師である彼がどうしてそのような行動に出たかを知った。
「検査後の結果は—————〝
有り得ない。それは誰もが思うことだろう。
HIV、及びAIDSはほぼ不治の病だ。辛うじて完治する可能性があったとしても、それはしっかりとした環境で療養している者でこそ有り得る話だった。
しかし、彼は違う。今生きているユウキと彼女の姉を救うために自らの身を粉にして奮戦し続け、過労で倒れるような奴だ。そんな奴から何故HIVウイルスが尽く消え去ったのか。齢以上に聡明であった彼からすれば、不明瞭過ぎて困惑すら通り越してしまっていた。
「正直今もどうしてそうなったのかは本気で意味がわからなかった。今だってあれが真実なのかを疑うことがある。疑って、訝しんで、毎度の如くユウキを見て、間違いなく現実だと認識することを繰り返してるぐらいだ。
…………ちょっと話がずれたから戻すとして。ハッキリ言って機械ぶっ壊れたんじゃねぇかと思った俺が声をかけるよりも先に、まーた倉橋先生に連れられて、今度は骨髄自体の検査をすることになった。そこからも次から次へと真意を知らされる前に振り回される羽目になってな。漸く解放されたのは数時間後だ。意味が分からな過ぎて困惑する暇もなかった。解放された後も「数日間ほど僕に時間をくれませんか!」だけ言い残して何処かに消えちまったモンだから、正直あの時はどうかしちまったのかと思ったよ………」
「あの時の先生はボクよりもすごかったね〜」などと横で揶揄うユウキに、「お前もどっこいどっこいなの忘れてんじゃねぇ」と一喝するアーカーだったが、事実は早急に語るべしと咳払いしてから話を続けた。
「単刀直入に何が起きていたかを言えば、本来なら有り得ないと断言してもおかしくないことが起きてたんだよ、俺の身体に。
なあ、お前ら。〝突然変異〟————って知ってるか?」
「生物やウイルスが持つ遺伝物質の質的・量的変化のことですね。
要するに読んで字の如く、突然異なるものに変化することです」
あまり聞きなれないワードであったが、システムと繋がっていた高性能AIであるユイは、誰にでも分かるように簡単に答える。その言葉に感嘆の声がキリトだけに留まらず、一度説明されたはずのユウキも納得したように挙げる。多少その反応に呆れを覚えたものの、これ以上話の腰を折る訳にもいかないアーカーは率直に告げた。
「それが、俺の骨髄に起きてたんだよ。具体的に言えば、造血機能を持つ〝造血幹細胞〟。より細かく言えば、〝赤色骨髄〟に
………まぁ、反面、その件のウイルスも自分と同じ手で返されるとは思ってねぇだろうな」
もし、仮に奇跡というものが実在するならば————それはその時のためにあったのではないかとキリト達は思わざるを得なかった。本来有り得るはずのない現象が引き起こされたという事実は間違いなく、二人がこの場にいることが証明だった。過去を語るというのに、下手な嘘をつくはずもなく、三流作家の脚色だっていらない。元気に生きていられることが喜劇であるならば、二人が歩んできた人生は悲劇という辛い現実を乗り越えて、尊いほどの喜劇を迎えたのだろう。
「————とはいえ、問題はあった。たまたま幼馴染が、どういう訳かHIVに耐性を持つようになった骨髄を秘めていた。この時点でも、何年か前のご都合主義なラノベの主人公よろしくと言った具合だったが、それで万歳三唱したら即ハッピーエンド………ンなご都合展開にならないのが、この世の中の道理だ。ラノベはラノベだ。現実はそういななくて当然。
こと骨髄移植において、一番大事なのはHIVに耐性を持つ骨髄かどうかじゃねぇ。それはHIVに感染した者にとっては避けて通れない道であって、本来存在する骨髄移植という医術には全く関係がないものでしかない」
「…………そうか、《ヒト白血球型抗原》—————HLAか」
「察しが良いな、キリト。
骨髄移植において、最も重要視されるのは、〝提供者とそれを受け取る者同士のHLAが適合していなければならない〟という必須条件の方だ。幼馴染でこそあれど、元々赤の他人の俺がどれだけ二人のHLAと適合しているかが鍵だった。その件のHLAっていうのは、恐ろしい話だが、兄弟姉妹、挙句の果てには親子同士ですら適合する確率は高くない。今回に至っては、姉妹同士でも完全に適合する確率は25%程度、赤の他人なんざ数百分の一から数万分の一程度しかねぇ。一流の博打打ちですら多少青褪めるような確率だ。適合する耐性持ち骨髄を探すのと何ら変わらねぇって言うモンだから、これには流石にもう一度絶望するかと思ったよ」
「今後も気の遠くなるような博打だけはやりたくねぇ………」と愚痴ると、不安そうな顔を向ける彼らを安心させるために、アーカーは再度口を開いて答えた。
「残念ながら、俺のHLAとユウキの姉のHLAは適合しなかった」
当然、有り得る話だった。元より適合する確率は低い。適合しないということの方が訪れるのはむしろおかしくない。適合するということの方が
————だが、もし。
その
———————それは最早、〝偶然〟というより〝必然〟ではないのだろうか?
例えるならば、それはポーカーの最終盤。負けられない状況で、必勝とも言えるロイヤルストレートフラッシュを引き当て勝利を勝ち取るということ。
無数に存在する数多の
〝絶対〟に100%が存在しないはずの現実で、手にした勝利が変わりようのない100%だったとしたら—————
——————それこそが、矛盾そのものが矛盾していることに他ならないのではないか?
紡がれた言葉は、絶望を振り払うものであった。〝適合した〟というたった一言だけだというのに、何度も顔を上げ、俯くことしか出来ず、それを繰り返していたキリト達は歓喜の声を挙げるしかなかった。数分ほど前にも泣き腫らした顔は、再び涙に濡れ、嗚咽を洩らし続けた。
アスナやユイにつられて、当時のことを思い出し泣きしたユウキのせいで、一時的に感傷に浸ってはいたが、落ち着きを取り戻した後は、二人の過去を締めるにあたって必要な〝助かった命〟と〝助からなかった命〟の話となった。
助かった命の話は、ユウキを殺し損なった死神が、意地でも彼女を死の淵に引き摺り込もうと意図的に引き起こしたのではないかと思えるようなタイミングで拒絶反応が起きてしまったことから始まった。喜んだ直後なのに心臓に悪過ぎたせいか、「いい加減安心させてよ!」と涙と共に絶叫したアスナの制裁によって、アーカーが酷い目に遭ったことで代役となったユウキが進行役を務め、本人の口から拒絶反応を乗り越えたことと、それほど大事に至らなかったことが告げられた。
勿体振るように話し続けた少年は、全ての話が終わるまでは正座をさせられることとなった。当然の報いである。
そして、もう一つは—————助からなかった命の話だった。
「姉ちゃんは、ボクが拒絶反応を乗り越えたことを先生の口から伝えられた翌日に亡くなったんだ………。すごく悲しかった………。
………でもね、手紙を残してくれてたんだ」
一言一句忘れることなく、ユウキはその内容を口にする。書かれていたのは、いくつかの心残りと小さな願い。姉として当然の心配事から始まり、無事に完治してほしいという願いに派生し、自分達の分まで二人に人生を楽しんでほしいという祈りへと繋がった。妹や彼女を守ってくれた少年に対する有り触れた言葉ばかりだったが、その一つ一つが有り触れたものとは違う、唯一無二の真摯な思い遣りに満ち溢れていたことは言うまでもなかった。
深い愛情と気持ちで包み込んでくれた優しい姉の姿を、不思議とキリト達は二人の背後に幻視した。それは奇しくも、キリトとアスナがグリセルダという女性の霊を幻視した時に酷似しており、懐かしさを胸一杯に感じていたのだった——————
時は巡り、日が沈もうかという黄昏時。
夕食をご馳走になり、楽しげな会話を交わしていたユウキにアスナとユイを任せるように残すと、キリトはアーカーに連れられるまま、ログハウスの外に出ていた。突然、小さな仕草で合図され、呼び出された彼はどういった了見かさえ知らない状態にあり、ひたすら疑問符を浮かべ続けていた。
ただ夕焼けを見るだけに呼び出すような男ではないことを知っているが、何も語らず背を向け黙っている少年に、痺れを切らして訊ねようと口を開く—————
「なあ、アーカー。俺だけを呼び出したのはどうしてなんだ?」
「…………キリト。何か変だと思わないか?」
「変………? 何が変なんだ?」
「何故《雨宮家》が俺を拾ったのか。
何故俺の骨髄が後天的に〝突然変異〟を迎えたのか。
何故俺の骨髄にHIVウイルスへの耐性が目覚めたのか」
突然アーカーによって挙げられた三つの疑問は、確かに思い出してみると違和感を覚えるものばかりだった。二人の過去を聞くことに集中していたせいで気にしていなかったキリトだったが、よく考えてみれば、明らかにおかしい点がいくつか存在することに気づく。何かを察した様子を見せたことで、違和感を提示した少年は一つずつおかしな点を指摘し始めた。
「まず一つ目————異常な程の純血主義に囚われているはずの《雨宮家》が、分家筋の俺に本家の敷地を跨がせたこと。そもそも何処の馬の骨かも分からない俺を拾ったこともおかしすぎる点だ。冷酷無慈悲な一族にしては、どう考えても尤もらしい説明がつかねぇ」
左手の指を一本立てると、続けて二つ目に移る。
「二つ目————昔に比べて人間についての研究が進んでいるとはいえ、〝突然変異〟がああもここぞというタイミングで起きたことだ。確かに〝突然変異遺伝子〟がどうこうという研究が進んでいることや、〝火事場の馬鹿力〟だの〝ゾーン〟だの、いくつか説明できなくもない言葉はあるにはあるが、研究や言葉以前にどう考えても
二本目の指が立つ。
「最後に三つ目————最初の完治例が発表されて以来、未だにHIVウイルスに耐性がある骨髄を持っていることが明らかになっているのは白人だ。それも少数に限られている。
いくら出自が未だに分からないとはいえ、どう見ても俺は白人に見えない。そんな俺に耐性が目覚めるのは異常だ。本来なら、俺もユウキも助からないはずだった。
こう言っちゃ何だが、
三本目の指が立ち上がり、疑問を全て述べ終えると、アーカーはキリトの方に向き直る。見合わせた顔には真剣な表情が浮かんでおり、同時に何処か嫌な予感を感じているようにも窺えた。それに答えるかのように彼は断言する。
「—————どう考えても、
賭け事において、イカサマが出来るのはプレイヤーだけか?
—————否、もう一人存在するだろう?
疑えば疑うほど、その異質さを露わにする存在が—————
「——————お前は俺よりも勘が鋭い奴だ。
だからこそ、絶対に《雨宮家》には近づくなよ。アイツらはまだ何か隠しててもおかしくねぇ」
それは、元《雨宮家》の者だった少年からの警告であり、同時に、これより始まる本当の戦いへの予言でもあったことを、この時は警告したアーカーですら知る由はなかった———————
二人の過去 後篇 —完—
いくつもの謎を抱えながらも、彼らの歩みは止まらない。
この世界に生きている以上、平穏な日々は続かない。
ついに、あのフロアボスが姿を現わす時が来た。
————だが、忘れてはいけない。
対峙する敵が、ただのフロアボスではなくなっていることを。
次回、相対すべき敵は既に無く