反省も後悔もしていないが、最終話までの筋道が見えないことを後悔している。
01:道。
「息子が学校で虐められている」
知人が漏らした言葉に、グラスに伸ばしかけた手が止まった。
困惑しつつ視線を向けたが、知人はじっと自分のグラスを見つめているだけだ。
その横顔からは、私に相談したいのか、それともただ聞いて欲しいだけなのかを察することができなかった。
いじめ、か。
どこかで聞いたような対応策がいくつも浮かぶ。
浮かぶのだが、その程度のことは私がアドバイスするまでもないだろう。
私も、知人も……いい大人だ。
いや、いい大人だからこそ……自分たちの経験が、今の子供たちの役に立たないことを良く知っている。
自分の子供時代を振り返れば、『子供が純粋な存在』などとは口が裂けてもいえない。
子供なりに、社会のゆがみに触れ、大人の弱みを知り、いつだって周囲を出し抜こうとしていた。
そして、今は……あの頃よりも、大人の立場が弱い。
それは、相対的に子供が強くなったことを意味する。
悪いことをした子供を叩けば事案発生だ。
叱るだけでも事案発生。
話せばわかると言う者もいるが、言葉に対して銃弾が撃ち込まれるのが人間社会というものだ。
そして、子供は、子供だからこそ、相手の弱点を無邪気に、無慈悲にえぐってくる。
「それで……理由はわかってるのか?」
私の問いに、知人はただグラスを傾けた。
そしてポツリと。
「名前だとさ」
「名前?」
「子供たちの間で人気の、アニメだか漫画だか……その悪役の名前が、うちの息子と同じなんだとよ」
眉をひそめる。
名前がきっかけなのか、それともただの口実なのか。
しかし、そういうことではあるまい。
「あいつの将来を願って、妻と一緒に精一杯考えた名前だったんだがな……泣きながら『なんでこんな名前をつけたんだよ』って言われると、こたえるなぁ……」
……かける言葉が見つからないというのは、こういうことを言うんだろうな。
グラスに手を伸ばし、傾けた……が、のどを通っていかない。
仕方なく、そのままグラスを戻す。
悪役、か。
私にも、覚えがある。
まあ、悪役ではなく、やられ役というか、かませ犬、か。
私の名前は、龍一。
速水龍一、という。
どこにでもいそうな、それでいて、ちょっとばかり格好いいと思える名前だ。
速水龍一。
それは、20年以上昔、ちょっと話題になった名前。
そして最近、また少し話題になった名前。
ある人気作品に出てくる、登場人物の名前。
知人に教えられて、数年ぶりに読んだが……心がざらついた。
いい大人でさえそう思うのだ、子供ならなおさらか。
おそらく、創作物における『実際にはいそうもない名前のキャラクター』というのは、このあたりのことを考慮しているのかもしれない。
酒を飲むでもなく、ただそんなことを考えていた。
知人と別れ、夜の街を歩く。
何気なく……ふっと右腕を振ってみた。
『ショットガンやってくれ』
大学時代、何度も聞いた言葉。
私の名前が『速水龍一』だからって、いつの間にか、宴会芸になってたんだよなあ。
もちろん、ボクシングの構えを取ってから、缶ビールに穴を開けて『ショットガン飲み』だけどな。
まあ、さすがにもうあんな若さに任せた飲み方はごめんだが。
もちろん、みんながみんなそのネタがわかるわけじゃない。
そしてまた、『速水龍一』という名前のネタが説明される。
私は、それをおとなしく聞くしかなかった。
「速水龍一、か」
主人公のために用意されたやられ役。
挑戦し、打ち倒すための、レベルの高い、本来なら勝てるはずのない、主人公にとって都合の良いかませ犬。
それで終わったはずだった。
日本王者を争う舞台で再登場したのはいいが、ただ残酷な結末だけが示された。
今度こそ終わったと思った、思っていた。
それが再び、作品に登場して……ボクシングの残酷さを表現するために、都合よく使い捨てられるのか。
もう一度、左手を振り、返しの右。
うん、全然だめだな……。
名前のせいで、ボクシングに興味を持ったからこそ……それがわかる。
速水龍一でありながら、私は野球少年であり、高校球児だった。
もしも、私がボクシングをやっていたらどうなっていたやら。
まあ、インターハイを優勝するなんてことはできなかっただろうな。
そして、『速水龍一なのにボクシング弱い』とか言われたか。
これは、親の七光りに近い感覚なのかもしれないな。
逃げても親の名は追いかけてくる。
ならば乗り越えるしかない。
強くなるしかない。
周囲を黙らせるほどに。
その強さをどこに求めるか……の選択だ。
知人のことを思った。
知人の息子は、ある意味、今が正念場だという気がする。
誰かに助けを求めるというのも、ある種の強さだ。
転校を選択するのも強さ。
独りでいられるのも強さ。
強さにも、種類がある。
そして、何かを選ばなければならない。
少し、酔っているのかもしれないな。
自分の中の青い部分。
若さとは言い切れない何か。
私は、死ぬまで速水龍一だ。
その名前を背負って、生きていく。
信号が青に変わり、私は歩き始めた。
まぶしい光。
クラクション。
私の死。
……うむ。
唐突に記憶がよみがえった。
子供時代から人生をやり直しってわけじゃなさそうだ。
なんせ、両親の顔が違うし、下の名前も違う。
生まれ変わりというやつだろうか。
なのに、私の名前は速水龍一だ。(震え声)
混乱した。
そして、猛烈にいやな予感を覚えた。
スマホを探そうとした自分に気づき、舌打ちする。
前世の記憶、そしてどこか曖昧な今世の記憶をかき分けるように思考する。
残念ながら、ネットがない時代だ。
子供が情報を集める手段は、テレビと新聞ぐらいしかない。
新聞を探す。
スポーツ欄をめくる。
ボクシング。
ボクシングはどこだ。
昨日は試合がなかったのか、それとも単に試合結果が載ってないのか判断がつかない。
そういえば、タイトルマッチでもない限り、結果が記載されないこともざらだった気がする。
電話帳の存在に思い至るまで、しばらく時間がかかった。
探せ、探すんだ。
『鴨川ジム』を。
ここが『はじめの一歩』の世界で、私があの『速水龍一』だとすれば、速水龍一は、主人公のひとつかふたつ年上だったはずだ。
だとすると、今は原作が始まる10年と少し前というところか?
確か、鴨川ジムは20年の歴史があった気がする。
ならば、今もあるはずだ。
ただ、名前だけでは、それが私の知る鴨川ジムなのか、同名の鴨川ジムなのかはわからない。
名前からして、会長も鴨川なんだろうけど、名前が源二なら覚悟をきめたほうがいいだろう。
前世の記憶もちで、生まれ変わりで、時代が逆行とか、この時点で常識は投げ捨てるほうがいい。
人生という名の現実ってやつは、いつだって想像の斜め下をぶっ飛んでいくものだ。
電話帳をめくりながらふと思った。
鴨川ジムって、東京都にあったんだったっけ?
電話帳を見る。
自分の、私の家族が住む家の住所を思い出す。
いかん、深呼吸でもして落ち着こう。
大きく吸い、時間をかけてゆっくりと吐き出す。
それを、繰り返す。
鴨川ジム、そして音羽ジムか。
間違いなく、首都近郊だろう。
東京、神奈川、千葉……あたりか。
少なくとも、一歩の家は海からそれほど離れてはいない。
電話帳で直接調べるのは無理だ。
家の近くのボクシングジムを調べ、そこで日本プロボクシング協会だか連盟の連絡先を聞いて、鴨川ジムの代表者の名前を聞けば……。
まあ、まだプライバシー保護なんて言葉が希薄な時代だ、なんとかなるだろう。
いや、落ち着け。
それを知ってどうする。
私は、私だ。
この新しい人生で、今度こそプロ野球の選手になるという夢をかなえたっていいじゃないか。
仮にこの世界が『はじめの一歩』の世界であったとして、私があの『速水龍一』だとしたらだ。
ボクシングの世界に足を踏み入れたところで、鳴り物入りでデビューしたのはいいが、ビッグマウスを叩きながら一歩に負けて……ああなって、こうなる。
ははは。
一撃で肋骨を持っていく殺人パンチに相対しろと?
沢村みたく、顔面の形を変えられろと?
デンプシーロールの餌食になれというのか?
ああ、『速水龍一』とやるときは、まだそこまでいかないのか。
間柴の肘をオシャカにする程度だよね。
そして、『速水龍一』のアゴをぶっ壊す程度。(白目)
ここはひとつ、
私、速水龍一は、野球少年として少年期を過ごすことにします。
あかん。
この身体、野球にむいてない。
子供の頃からなんとなくそうじゃないかとは思っていたが、この身体、運動神経は良いし足も速いが……中学1年の夏で成長が止まり、どうも身長が170センチを超えないことがはっきりした。
確かに、父親も、母親も、そろって背が低い。
そして、前世に比べて筋肉があまりつかない。
前世も含めて、日本ではほとんど情報が流れないが、人間の身体は生まれた瞬間に筋肉量の上限が定まる。
そして、努力で上限に近づけることができるが、上限そのものは変わらない。
これは、1980年頃には欧米のスポーツ界では常識に近いものだった。
まあ、だからこそドーピングなんてものが生まれたわけだが。
ドーピング違反に対してのコメントが、欧米では『ルール違反、スポーツの定義が乱れる』というものが多いのに対し、日本では『ずるい、卑怯』というコメントが多くなる。
日本では、筋肉がつかないのは、『努力が足りないせい』という考えが主流だからだ。
対して、欧米におけるスポーツ思想の根底には『優れた遺伝子の選別』という考えがある。
そして、だからこそ、ドーピングが禁止されている。
あと、遅筋と速筋の割合も生まれたときに決まってしまう。
要するに、生まれた瞬間、筋肉の資質で向いている競技と向いてない競技が決まっている。
もちろん、筋肉の質だけですべてが決まりはしないが、大きな要素であることは間違いない。
海外では運動能力に優れた子供に検査を受けさせ、それから競技を選択させるなんて事もある。
日本も一部ではやっているだろうが、報道はされない。
私は努力の大切さを知っている。
しかし、それを盲信はしない。
そして中学3年、私は野球に決別を告げた。
現時点では、そこそこいい選手と評価されているが……すでに伸びしろがほとんどないのがわかったからだ。
というか、前世のほうが選手としては間違いなく上で、先は望めない。
どうせスポーツをやるなら結果を残したい。
身長が低く、速筋が多め……柔道もレスリングもだめだろう。
目はいい。
反射神経も優れている。
何気なく、右手を振る。
涙が出そうになった。
左、そして返しの右。
ステップを踏む。
足でリズムを刻み、手を出す。
もちろん、素人の動きだ。
素人の動きなんだが……これだけの動作で、野球よりもはるかに『向いている』のがわかってしまう。
まるで、世界が私にボクシングをやれと言っているかのように。
その夜、デンプシーロールでリングの外に吹っ飛ばされる夢を見て目が覚めた。
汗が冷たい。
呼吸が荒い。
まだだ。
まだ、この世界が『はじめの一歩』の世界と決まったわけじゃない。
だって、あれから調べてないから。
つまり、シュレディンガーの世界なんだよ。(震え声)
汗を拭き、シャツを着替えて寝なおした。
夢は、見なかった。
数日後、世界が容赦なく私に現実を突きつけてきた。
伊達英二の世界挑戦が決定したというニュース。
もちろん、相手は『リカルド・マルチネス』だ。
場所は、メキシコ。
……うん。
間違いないな。
そう、なのか。
自分の部屋で、鏡を見た。
『速水龍一』の顔を見る。
ははは。
好みは分かれるだろうけど、イケメンですね、この野郎。
私が速水龍一である限り、前世の記憶が追いかけてくる。
これは、私自身が乗り越えなければいけないことなんだろう。
逃げても無駄だ。
そして、前世の記憶なんてネタ、相談する相手はいない。
私だ。
私が乗り越えなければいけない壁だ、これは。
ははは。
やったるわ。
スポーツの世界に背を向けるぐらいなら、ボクシングをやる。
過信はしないが、才能があるだけでもラッキーと思おう。
大口を叩いて結果を残し、ファンの女の子にキャーキャー騒がれてやろうじゃないか。
そこにたどり着けないなら、所詮私はやられ役にもなれない偽者なんだろう。
目を閉じ、主人公を思う。
殺人パンチ。
デンプシーロール。
練習が、特訓が、すべて血肉になっていく、才能の化け物。
……骨を強くしないと。
ガムをかんで、地道にアゴを鍛えなくちゃ。
それと、プロになるまで、食事制限は控えたほうがいいか。
人が摂取した栄養素はまず生命活動のために使われ、余剰エネルギーを身体の成長へとまわす。
身長は伸びなくとも、筋肉や骨の成長は続く。
その時期に栄養を十分に摂取しないと、当然弱くなる。
アマチュアとはいえ、高校生の時期にきつい減量をするのは、影響が大きいと思う。
電話帳を開く。
家から通える、ボクシングジムを探す。
私……いや、俺の、速水龍一の、『はじめの一歩』を踏み出そう。
いつものような、完結まで毎日更新、というのはできません。
というか、まだ終わらせ方とか何も考えてないの。(震え声)
2話が書きあがったので、1時間後(19:30)に投下予約入れておきます。