この書き方で、試合の描写が延々と続くと、読むのが厳しい気がします。
あと、新人戦の今のルールでは4勝以上している選手同士の地区決勝、全日本は5R(5回戦)扱いになりますが、この頃は6回戦扱いでやってた……記憶がある。
リング中央で、グローブを合わせる。
千堂と相対して、実感する。
攻撃的な構えだな、と。
ガードではなく、パンチを打ちやすい位置にグローブを置いている。
そして、身体の向きは、フラットに近い。
ビデオと、幕之内とのスパーで見た感じだと、無駄な動きはせず、届く距離で手を出す。
倒せる位置、タイミングで牙を向いて飛び掛ってくる。
荒々しい暴力に、ボクシングの皮を一枚かぶせたイメージだ。
正直なところ、俺としてはやりにくい相手だ。
俺のボクシングの経験が、大きく殺されるから。
理詰めの、理の部分で何かが狂う気がする。
相性の悪さはお互い様と言いたいが、逆に千堂はボクサーとの対戦にはなれているだろう。
のそりのそりと近づいてくる千堂。
眠りから覚めた獣を思わせる。
いや、それは原作のイメージか。
それを、細かく動きながら待ち構える俺。
足。
距離。
目。
見えないラインを越えた。
左で、千堂の顔をはねあげた。
速い右で追撃。
右へ回って、反応を見る。
ゆっくりとした動きで、千堂が俺を見る。
ボケてもツッコんでくれない会話のようだ。
左。
もうひとつ左。
右の追撃。
千堂の踏み込み足。
即座にとび退いた。
千堂の右フックのスイングが、俺の身体をかすめたような気がした。
錯覚だ。
千堂の殺気が、俺の距離感を狂わせている。
しかし、ジャブもなしに右フックか。
千堂が俺を見る。
俺を見ている。
どこか不機嫌そうな表情。
野球少年が、文学少年に向かって『野球で勝負しようぜ!』って言ってるようなもんだろう、それは。
そういうのは、幕之内とやってくれ。
あるいは、島袋と。
左。
また左。
動きながら、ジャブを打ち続ける。
俺も見る。
千堂を見る。
距離を。
癖を。
傾向を。
とはいえ。
宮田の言葉じゃないが、『逃げてばかりでは勝てない』だったか。
どこかで、勝負には出る。
前へ出る。
そのタイミングを。
俺は待つ。
豪腕。
千堂が痺れを切らしたように、振り回してきた。
左。
右。
カウンター気味に返す。
そのまま突っ込んでくる。
一度フェイントを入れてから、右へと回った。
リング中央で、千堂を見る。
のそりと、こちらを振り返る千堂。
大歓声。
そして、大罵声。
人気者だな、千堂。
豪快で、人を魅了するボクシングか。
少し、妬ける。
迫力はある。
だが、荒い。
気合のノリが悪いのか、調子が悪そうにも見える。
セコンドの叫び声。
聞き取れない。
打つ。
千堂の顔を打っていく。
まだ様子見の段階だ。
どこかで、いきなりギアがはね上がる。
そういう人種だ。
感情に左右される、爆発力。
残り10秒の合図。
来た。
右へ回ってかわす。
ジャブを返す。
返事は大きなスイング。
この荒さになれるとまずい。
ギアがはね上がったときに、食われる。
天然の、ペースチェンジ。
ゴングが鳴る。
コーナーへ戻りながら、背中に千堂の視線を感じていた。
「気分屋だとわかってはいたが、ひどいな」
呆れたように、音羽会長がつぶやく。
「俺が相手じゃ、気分が乗らないんでしょうね」
「本気で、気分の問題なのかよ……」
「でも……無理でしょうね」
「何がだ?」
「千堂みたいなタイプは、負けるのが死ぬほど嫌いなんですよ……どこかで突然、爆発的にギアを上げてきます」
2R。
千堂の手数が減った。
俺をじっと見つめ、じりじりと距離をつめてくる。
うん、そのほうがやりにくい。
だから、リスクをとって手を出させる。
ひょいっと。
ガードを下げた。
手招き。
いきなりの右。
その大振りに合わせて。
丁寧に。
速いパンチを合わせてやる。
全部で5発。
それでようやく、わずかに千堂が退く。
いや、自分から距離を開けた、か。
怒りが冷めている。
あるいは、怒ったまま冷静に。
ガードを下げ、俺にも聞こえるように大きく息を吐く。
俺は、拳を握り締めた。
くる。
この試合初の、千堂のジャブ。
そして右ストレート。
スイング系からの変化。
それをわかっていながら、戸惑う。
左も、右も。
まっすぐ俺の顔を狙ってくる。
右。
また右。
もうひとつ右。
違和感。
ガードを固めた瞬間、スマッシュの衝撃が来た。
死角から飛んで来るだけじゃなく、過程が上手い。
しかも、ストレートの連発からの、スイング系パンチだ。
たぶん、計算じゃなくて、天然でやってる。
人を殴るための才能か。
追い込まれる。
ガードしたせいで足を止めてしまった。
ストレートと、スイング系のパンチ。
直線と曲線で、空間を削ってくる。
逃げ道。
あるが、そこが誘いだろう。
そんな甘い相手じゃない。
なら、前へ。
千堂の顔面に、いきなり右をたたきつけた。
別の意味で意表をつけたらしい。
千堂がたじろぎ、俺は一息つく。
何故笑う。
その『やればできるやないか』って目はやめろ。
うれしそうに振り回してきたパンチにカウンターをいれ、俺は千堂と位置を入れ替えるように距離をとった。
大歓声。
千堂への歓声とわかっていても、気分が高揚する。
襲い掛かってくる千堂。
1Rとは別人。
速さも、キレも、威力も。
右。
左。
ガードを通して伝わる衝撃。
意識を防御にシフト。
観察のやり直し。
呼吸を。
足を。
タイミングを。
……バラバラのように見える。
それでも、わかることはある。
パンチが上に集まる。
集めてくる。
微かに退き、上体を反らす。
スマッシュをやり過ごし、右を叩き込む。
そして左のアッパー。
お返しにボディをもらった。
それを右で突き放す。
……きついな。
なめていたつもりはなかったが、厳しい。
気分良く打たせるとまずい。
ガードじゃなく空振りだ。
そこからだ。
残り10秒の合図。
考えることは同じか。
俺と千堂、同時に距離をつめた。
千堂の右をかわして、右。
踏み込んでアッパー。
ボディを返される。
左のアッパーで返し、右で突き放す。
ようやく離れた。
ゴングが鳴る。
千堂が俺を見る。
俺も、千堂を見る。
時間にして、2、3秒。
同時に背を向け、コーナーへと戻った。
「この歓声と、敵地だ。判定を狙うなら、そのつもりでな」
「あれ?倒してこいと言わないんですか、会長」
「……正直、少しなめていた」
いつもと逆の反応だ。
それが少し楽しい。
「会長。俺は伝説を作る男ですよ」
「はは、そうだったな」
ぱしんと、背中を叩かれた。
さあ、3Rだ。
開始早々コーナーへと走る。
振り払うようなパンチをかいくぐって、ボディへ。
千堂の距離ではない、接近戦。
まるで、幕之内のように。
それを苦笑したくなる。
もうひとつボディ。
丁寧に。
千堂の腹を叩いていく。
ボディの防御が甘い。
むしろ、無頓着なのではと思える部分。
攻撃力が突出した選手にありがちな防御の甘さ。
まあ、今だけの甘さになるんだろうが。
踏み込みと同時に千堂の脇が開く。
とん、とグローブで手首を下へはじいてやった。
逆の手で腹を突き上げる。
そこからアッパーへ。
そして距離をとる。
接近戦から千堂の距離へと戻る。
気持ちよくパンチが打てる距離。
だからこそ反射的に出るパンチ。
それをかわして、またボディをうつ。
内側から、そして下から。
反撃のタイミングを、ある程度コントロールする。
接近戦と中距離の繰り返し。
それが、俺と会長が出した答え。
「千堂ーっ!上は当たらん!腹を打ち返せ!」
余計なことを。
だが、的確な指示。
いったん距離をとった。
一転して、上を。
右へと回りながら、左でポンポンと千堂の顔をはね上げる。
止まらない。
千堂の左のジャブ。
鈍い、ただ置くだけのパンチ。
疑問。
違和感。
千堂の左が、目の前に置かれたまま。
俺の視界を奪う……不良が喧嘩で使う技術。
左腕のガード。
間一髪。
しかし、ガードを通して伝わる衝撃。
大きくよろめく。
崩れた体勢の俺。
踏み込んでくる千堂。
「速水ーっ!」
音羽会長の声が、悲鳴に近い。
千堂の左フック。
衝撃と同時に、視界が一変。
千堂の返しの右が見える。
左腕の痺れ。
無理。
踏ん張るな。
右ひざと太ももの力を抜く。
ひざカックンの要領。
位置エネルギー。
重力に引かれて、俺の身体が傾く。
千堂の豪腕が、俺の上をかすめていく。
そして俺は。
すとんと、尻餅をついた。
「ダウン!」
レフェリーの宣告。
千堂が俺を見ている。
どこか不服そうな表情で、俺を見下ろしている。
まあ、俺も不本意だ。
その場から動かない千堂を、レフェリーが押すようにしてニュートラルコーナーへと行かせた。
レフェリーのカウントが始まる。
命拾い。
追撃をもらわずにすんだ。
そのはずだ。
前向きに。
深呼吸を2度。
このダウンで、ほぼ判定の線は消えた。
敵地であることを考えて、1Rはイーブン。
2Rは千堂。
そして、この3Rで俺のダウン。
この時点で3ポイントの差が付いていると見たほうがいい。
この試合は6回戦扱いだが、敵地でポイントを取るってことは、結局わかりやすく圧倒しなければいけないってことだ。
つまり、どのみち倒しにいくしかない。
うん、冷静だ、俺は。
きちんと計算ができている。
最悪を想定し、リカバリーを目指す。
カウント7で立つ。
「やれるか?」
「当然。これから逆転しますよ」
手は動く。
痺れは抜けた。
足も、平気だ。
しかし、千堂相手にインファイトか。
それをやり続ける、か。
まあ、やるしかない。
「ファイトっ!」
千堂がゆっくりと近づいてくる。
俺は、拳を握りこむ。
わずかに重心を落とす。
少しだけスタンスを変える。
強い右から入った。
千堂が首をひねってかわす。
左をボディへ。
そしてまた、右を顔面へ。
千堂の頬をかすめる。
千堂の目。
俺を見る目。
また、左をボディへと突き刺した。
パンチの反動。
そして、身体を戻そうとする反動でまた右を上へ返す。
千堂の顔が、後方へはじける。
千堂がガードを固めた。
そのことが、俺を調子に乗らせる。
上から下へ。
下から上へ。
左はボディ、そして右はかまわずにガードの上から。
ボディを返された。
痛みが、俺を引き戻す。
単調になるな。
冷静に。
接近戦。
腕の回転。
上下の打ち分け。
アッパーで、千堂の身体を起こす。
腰を落とさせない。
身体を起こす。
それでパンチの威力がいくらか殺せる。
窮屈そうな千堂の右をかわし、左のボディアッパー。
下から上へ。
右のアッパーは、避けられた。
左をボディへ。
また千堂の顔が下がる。
そこをまた右で狙う。
千堂が頭を上げて、それをかわす。
また伸びた腹に左を入れてやる。
「……ッ」
距離をとり、千堂の反撃を誘う。
千堂の左。
もぐりこみ、腹を突き上げる。
続けてアゴへ。
それをかわせば、またボディへ。
相打ち。
俺のアッパーを避けずに、ボディへ打ち込んできた。
息が詰まる。
しかし、千堂の動きも止まる。
大きいのはいらない。
細かく、速く。
ボディ。
千堂の手がアゴをかばう。
ならば、右フック。
「ッ!」
またボディへ返す。
そしてアッパー。
千堂も、俺のボディへ。
有効打の割合は、俺が圧倒的に多い。
技術と速度の差だ。
俺は、たまにボディをもらうだけ。
顔へのパンチだけはもらわない。
これで互角の打ち合いになるのがムカツク。
焦るな。
力むな。
そして、羨むな。
宮田のカウンターを思う。
殴り倒すのではなく、動けなくすればいい。
動きを止めるパンチ。
脳を揺らすパンチ。
角度。
タイミング。
やれることを。
連打。
俺の、速水龍一の連打。
接近しての連打。
アゴ。
みぞおち。
テンプル。
急所を、正確に。
そして速く。
距離をとる。
俺の連打を邪魔するボディ。
わずらわしい。
連打を中断させられるのがわずらわしい。
腕の回転を速く。
さっきより1発多く打てた。
正確に狙う。
千堂の反撃がさっきより遅くなった。
接近していられる時間が長くなる。
連打の時間が長くなる。
千堂の目を見る。
足を見る。
ひざ、腰、腕。
ダメージは与えている。
でも、棒立ちになっているわけじゃない。
千堂の癖。
苦しいと、振り払いに来る。
豪腕に頼る。
みぞおち。
肝臓。
パンチをボディに集め、距離をとった。
打って来い。
踏み込み足の動きと脇。
それが、千堂のスマッシュの予備動作。
千堂の左腕が通り過ぎる。
振り切った左腕の脇の下から、俺は右のアッパーを突き上げた。
千堂のひざが揺れた。
左でもう一発突き上げ、よろめかせる。
右フックでアゴをとらえる。
千堂の腰が落ちる。
勝負どころ。
たたみこむ。
力むな。
速く、細かく、正確に。
顔を。
頭を。
揺さぶる攻撃を。
退がる。
あの千堂が退がる。
右を。
踏み込んで左を。
棒立ちの千堂に、左右の連打を叩き込む。
ぐらつく。
観客の悲鳴を後押しに、俺は右ストレートを振り切った。
ニュートラルコーナー。
拳を突き上げた。
興奮している自分がわかる。
興奮している自分を誇らしく感じる。
観客が、千堂を見ているのが許せないように感じて、もう一度拳を突き上げる。
俺を見ろと叫びたい。
千堂相手のインファイト。
打ち勝った。
退かせた。
興奮のままに、もう一度、拳を高く突き上げる。
「速水!冷静に!」
会長の声。
引き戻された。
熱が冷める。
時計を見る。
千堂を見る。
心の中で、会長への礼を言う。
千堂が立つ。
立ち上がった千堂が俺を見ている。
射抜くような目で。
そこで、ゴングが鳴った。
俺は、コーナーへ。
……ゆっくりと、コーナーへ戻った。
「よーし、よしよしよし。良くひっくり返した、速水」
「……会長」
「どうした?」
「千堂のボディが効いちゃってます」
左の太もも。
かすかな痙攣。
興奮が冷めて、それに気づけた。
さりげない動きで、村山さんが俺の足をマッサージしてくれる。
痙攣が、治まった。
治まっただけだろう。
ひとつ、爆弾を抱えた。
大きく息を吸い、吐く。
俺のミスから始まったダウン。
ミスには、代償を払わなければいけない。
それがめぐって、今の状況だ。
パンチ力の差を理不尽とは嘆くまい。
さっきの攻防の感触が残っている。
俺の目指す方向が見えた気がした。
向こうのコーナーで、千堂がじっと俺をにらみつけている。
原作どおりに、気絶して終わっては……くれないだろうな。
セコンドアウトの合図。
ゆっくりとだが、千堂が立ち上がる。
俺は、幕之内一歩じゃない。
俺の、速水龍一の結末を手繰り寄せるだけだ。
ふと気づいた。
試合では初めての4R。
未知の世界か。
4R。
ダメージの気配を濃厚に残しつつ……千堂が近づいてくる。
そして俺は、受けて立つという感じに、コーナーから少しはなれた場所で待ち構える。
足が止まる。
千堂の距離。
たぶん、最初は……。
右のスイング気味のパンチを放つ前に、俺が左を合わせた。
速いパンチで出鼻をくじく。
パンチを出そうとするたびに、千堂の顔がはね上がる。
いつものパターン。
手を出せば殴る。
まあ、止まらないタイプだ、千堂は。
わかっている。
だから俺は、狙っている。
静かに待っている。
現状を打開しようとする、千堂の大振りのパンチを。
千堂のジャブ。
右ストレート。
かわして、ジャブを返す。
2つ続いたストレート系のパンチ。
予感。
千堂の口が開く。
何かの言葉。
叫び、あるいは獣の咆哮。
千堂より速く、俺の踏み込み。
右を振りぬいた。
千堂がぐらつく。
左右のフックでアゴを狙う。
連打をまとめる。
認める。
一発で倒せない自分を認める。
認めてやる。
右。
左。
千堂のボディをよける。
また連打を。
千堂の顔が左右にはじける。
ボディで顔を下げさせ。
アッパーでカチ上げる。
右フック。
左ストレート。
千堂との距離が開く。
踏み込んで右。
ぐらついたのは俺。
左足。
痙攣。
こんな時に。
よろける千堂を追いかける。
気持ちだけ。
左足がついてこない。
右足でリングを蹴る。
そして、半ば押し倒すように、右ストレートで千堂を殴り倒した。
「ダウン!」
絶叫。
悲鳴。
歓声は聞こえない。
ここは、敵地だ。
「ニュートラルコーナーへ」
俺の左足。
ニュートラルコーナーが遠い。
拳を突き上げ、ごまかしながら左足を引きずっていく。
観客はごまかせても、向こうのセコンドは……どうかな。
俺に背中を向けるように倒れている千堂を見る。
その頭が動く。
最後の一発。
殴り倒しただけだった。
あれではダメだ。
もっと、狙いを正確に。
もっとだ。
気がつくと、千堂コールが始まっていた。
広がっていく。
『せ・ん・どぅ!せ・ん・どぅ!』の千堂コールが、大阪府立体育会館を埋め尽くす。
大合唱。
空気の振動。
大勢の声は、物理的な圧力をもつ。
それが、千堂に届く。
千堂が拳をつき、上体を起こす。
千堂の目が、右へ、左へ。
そして、俺のいる場所を向いた。
俺は、左手でポンポンと太ももを叩く。
痙攣は治まらない。
正直、ここで止めて欲しい。
しかし、この大声援だ。
止めにくいだろうな。
止まらないだろうな。
『千堂コール』を浴びながらの、長い長い待ち時間。
そして。
「ファイトっ!」
大歓声。
チクショウめ。
両足を引きずるように千堂が近づいてくる。
その目だけがギラギラとしているが、押せば倒れそう。
でも、その一押しをどうするか。
太ももの痙攣。
腹筋も、小さく震えだした。
人間の身体はつながっている。
一部分の悲鳴は、全身へと広がっていく。
まあ、それでも、か。
右足に重心を移して、俺は構えを取った。
千堂が来る。
千堂の右。
千堂も人間か。
気力だけで、足がついてこないのだろう。
左で応戦。
半身になって、後ろ足、右足で蹴るように手を伸ばす。
連打ではなく、単発の繰り返し。
全部当たる。
もう、千堂は避けるだけの反応ができないのか。
そして俺も、体力は残っていて、冷静でもあるのに……もどかしい。
何度か、左足でリングを踏む。
蹴ろうとする。
反応が鈍い。
俺の足ではなく、棒きれがくっついている感じだ。
左を打つと、腹筋が引っ張られる感じがする。
押せば倒れそうなのは、俺も同じ。
向こうのセコンドも気づいた。
声が飛んでいる。
くそ。
左手を伸ばす。
千堂の顔が揺れる。
もう一発。
また顔が揺れる。
何度でも。
左。
外れた。
いや、かわされた。
寒気。
大きく沈み込んだ千堂の身体。
右の拳。
踏ん張りの利かない俺に向けて。
改良型という言葉が頭をよぎった。
それも利き腕の。
必死のガード。
「……ぉぐ」
俺の声。
顔ではなくボディに持ってこられた。
腹筋が痙攣する。
連動するように左足が震える。
それでも。
これは千堂のミス。
おそらく、一番威力のあるパンチに頼った。
千堂の右は、俺の左側からの攻撃。
俺の右足で踏ん張れたし、耐えられた。
逆なら、終わっていたかもしれない。
震える腹筋に力をこめた。
マウスピースをかみ締め、顔を上げた。
ここをどうにかしのいで……
一瞬の静寂。
そして、悲鳴。
倒れた千堂にレフェリーが駆け寄り……腕を交差した。
え?
千堂のセコンドがリングの中に。
それで、試合が終わったのはわかる。
倒れたまま動かない千堂。
そして、ただそれを見つめる俺。
悲鳴とため息。
音羽会長が、トレーナーの村山さんが駆け寄ってきたが、俺は夕暮れの公園に、独り取り残されたような気分だった。
千堂が担架で運ばれ、俺は左足を引きずりながらリングを下りた。
少ないながらも、俺を応援してくれた観客に手を振る……が、罵声にかき消された。
千堂というボクサーが、とても愛されている。
そういうことだろう。
寝転んで、マッサージを受ける。
栄養ドリンクを一口。
東日本の関係者から、『おめでとう』の言葉がかけられる。
礼をいい、これから試合の関係者には激励の言葉を返す。
ようやく痙攣が治まった。
そして寄ってくる記者連中。
千堂のことを聞いたが、病院に運ばれたということしかわからないらしい。
「きつい試合でしたよ。強いというか、とにかくタフで……3Rにダウンをもらって、判定はあきらめました。倒しにいくしかなかったですね」
「パンチ力不足では?」
ひとりの記者の言葉に、ほかの記者連中がぎょっとした表情を浮かべる。
いるんだよなあ、こういう人。
とにかく、怒らせて、刺激的なコメントを聞けたら勝ちだって勘違いしてるというか。
「かもしれませんね」
笑って流す。
自分が良くわかっている。
いまさら腹も立たない。
「パンチ1発でダウンもしたし、打たれ弱いんじゃないですか?」
……喧嘩売ってきてるな、こいつ。
でも俺は笑顔。
何も言わずに、肩をすくめてやった。
まあ、ほかの記者連中に追い出されたからよしとしよう。
後で、どこの記者か聞いておくけどな。
音羽会長も交えて、今後の予定の話に切り替わる。
そうすると、新聞記者ではなく、専門誌の記者がメインになった。
春に1試合。
それで8回戦の資格を手に入れ、その後は未定……と。
まあ、そう言うしかない。
結果的に、俺は千堂にKO勝利を収めた。
それが派手だったかはわからないが。
でも、おそらく。
俺は、スポンサーに切られる。
今年のフェザー級の新人王戦のレベルが高かったなどと、わからない人間もいる。
幕之内戦につづいて、千堂戦でもダウンを奪われた。
俺というボクサーの力に対して、疑問を抱くのは……必然だろう。
今、この国には世界チャンピオンがいない。
国内を圧倒的な強さで駆け抜けていく……そんなボクサーに、世界への夢を託したいと思うのは自然だろう。
取材が終わり、その場にぽつんと藤井さんだけが残っている。
俺のほうから水を向けた。
「どうしました?」
「……速水君、これはオフレコだ。記者として、いや、1人の男として誓ってもいい」
「大仰ですね……何を聞きたいんです?」
藤井さんが、俺を見た。
「あのダウン……わざと倒れたのかい?」
藤井さんが俺を見つめる目。
正直に答えることにした。
「あそこで、千堂くんの右をもらったらまずいと思いましたから。倒れたほうが良いと判断しました」
「そうか……」
藤井さんは、視線を足元に向け、もう一度つぶやいた。
「そうか……わかった」
「何がです?」
「俺が、君じゃなくて幕之内のファンである理由だよ」
「……」
「速水君の試合を見て、強いと思ったことはある、巧いと思ったことがある、すごいと思ったこともある……それでもだ」
右手を自分の胸にあて、藤井さんが言葉を続けていく。
「胸が熱くなったことはない。いや、なかったんだ」
「……今日は、熱くなれたと?」
「そうだ、熱くなれた。速水君にもこんなボクシングができたのかって、驚きもした」
言葉が途切れる。
また、口を開いた。
「なあ、速水君……あのとき、君は本当に千堂君のパンチに耐えられなかったのか?いや、何故、耐えられないとあきらめてしまうんだ?」
「耐えたら、もう一発もらうかもしれませんよ」
「いや、君の言いたいことはわかってるつもりだし、理解もできる……実際にリングの上で、命を削って戦うのがボクサーだとしてもだ」
藤井さんが、ぐっと右手を握りながら言う。
「限界に挑み、そして、限界を超えていく姿……時として戦いあう二人が限界を超えていくような……そういう姿が、そういう試合が、人を熱狂させるんじゃないのか?ボクシングを盛り上げるっていうのは、そういうことだろう?」
そこでいったん言葉を切ると、藤井さんは髪の毛をかき混ぜながら補足した。
「いや、こういう言い方は卑怯か。正直に言うと、俺は、そういうボクシングが見たくて、記者をやっている」
「ファンの目線を持つことは大事だと思いますよ。読者に受け入れられなければ、雑誌は売れませんし」
俺の言葉に、苦笑を返し……。
「俺は、本当の限界なんてものは、自分ではわからないと思っているんだ。試合で、戦いの中で、勝つために、死力を尽くしていく中で……思っていた限界を超える自分に気づく。あるいは対戦相手も、そうなるかもしれない」
千堂と幕之内、か。
原作でもベストバウトと名高い、2人のタイトルマッチ。
ボクシングスタイルがかみ合ったというより、千堂は対戦相手に全力を振り絞らせようとするところがある。
相手の力を8にも9にも『見せて』、10の力で倒すのではなく、相手の力を8にも9にも『引き上げて』、10の力で倒す感じだ。
『相手が千堂だからこそあそこまで戦えた』
原作において、幕之内がそんなセリフを口にしたが……千堂と実際に戦ってみて、その気持ちが少しわかる気がする。
そして、千堂に人気が出るのもよくわかる。
ただ、憧れるボクシングスタイルに、向いているとは限らない。
やりたいスタイルが、できるとは限らない。
「俺に、千堂くんのように戦えと言われても無理ですよ」
「……いや、別に今のスタイルを捨てろと言ってるんじゃない。自分で自分を早々と見切らないでほしいと思ってるんだ」
「そう、見えるんですか?」
わずかな間。
「言っちゃ悪いが、君は自分の限界を設定し、安全に安全に、正確に作業を実行している……そんな気がする」
「……」
「俺も、ボクシングをやっていたから、ボクサーにとっての『ダウン』の重みを理解できるつもりだ。しかし君は、あっさりと『わざとダウンした』などと言う……もちろん、とっさにその判断ができること、実行できるのはすごいとは思う、思うんだ……ただ、君のファンはあの場面で『倒れないでくれ。がんばってくれ』と願っていたんじゃないか?」
「勝ちはしたが、あの場面においては期待を裏切った……ですか」
わざとダウンしたと言えば、少なからず非難を受ける。
ルール上問題ないということと、それが好まれるかどうかは別問題だ。
それはわかっているが……そうか、その場面においてファンの期待を裏切っているという考えはなかったな。
「あのダウンの後、君が倒しにいくのは想像していた……千堂相手のインファイト。俺には、あの中で君のボクシングが変化していくように見えた」
「破壊力ではかなわないと認めたんですよ」
「威力では千堂、手数では君……それが、最後には君が圧倒した。なあ、あれは速水君が試合前に想定していたインファイトだったのかい?」
俺は、何も言わなかった。
まだ、形にならない何か。
おぼろげなもの。
それでも、何かをつかんだ。
「今日の試合を見て、俺はまた速水君のそういう試合を見たいと思った。記者ではなく、1人の、ボクシングファンとしての言葉だよ」
「そうですか……参考にしますよ」
沈黙。
そして、俺に背を向けかけた藤井さんが、ふっと振り返った。
「忘れていた。新人王、おめでとう」
「ありがとうございます」
藤井さんの背中。
その、右手が上がる。
「ナイスファイト」
藤井さんの姿が見えなくなっても、その言葉が響いているような気がした。
スポンサーの件。
そして、藤井さんの言葉。
幕之内一歩が、幕之内一歩のボクシングに憧れていたとは思わない。
幕之内一歩が憧れたのは、宮田一郎のボクシングだろう。
そして、幕之内一歩には、憧れよりも先に『強いってなんですか?』という問いかけがあった。
幕之内一歩は、幕之内一歩にできることを突き詰めて……ああいう戦い方になった。
この世界では、別のスタイルを模索するかもしれないが、俺はそう思う。
俺が求める、憧れよりも先にあるもの。
そのために必要なものが、勝利だ。
いや、最低限必要なものが、勝利。
俺は、負けられない。
そして……勝つということは、
俺にあるもの。
そして足りないもの。
俺の道。
速水龍一の歩いている道。
その夜。
夢は見なかった。
先に言っておきますが、千堂は無事です。
しかし、千堂は書くのが難しい。
たぶん、別人のイメージの影響だと思います。
あと、藤井さんがわりといい空気を吸ってる。
(7月16日)ちょいと、藤井さんの発言が言葉足らずだったみたいなので、色々と修正しました。
次の話で一区切り。