速水龍一で始める『はじめの一歩』。   作:高任斎
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再開(会)の喜びは後回し。
わりと、状況説明回です。

なお、ジュニアフェザー級は現在ではスーパーバンタム級と呼ばれてますが、基本は原作の中で使われている呼び名でいきたいと思います。


A級賞金トーナメント編。
12:伊達英二の事情。


 朝の公園。

 いや、早朝というべきか。

 まだ、薄暗い公園を、俺は走っている。

 

 出勤前にランニング、仕事が終わればジムで練習。

 身体の調子を確認しながら、練習量を調整する。

 それが、ボクサーとしての速水龍一(おれ)の日常だ。

 

 ジュニアフェザーに階級を落としてくれと頼まれたあの日。

 再出発を誓ったあの日から、ほぼ1ヶ月。

 ジムでの練習を再開してからは1週間か。

 結局、俺は8回戦に昇格を決めた試合から、ちょうど1ヶ月ほど休養をとったということになる。

 

 ……ロードワークはジムの練習とは別腹だからノーカウントで。

 

 

 今日は黄金週間(ゴールデンウイーク)の初日。

 4月29日の『みどりの日』だ。

 前世の記憶が、こんな形でも俺を戸惑わせたりする。

 

 前世の記憶と、この世界とのずれは、あまり深く考えないことにしている。

 個人が知りえる世界は狭いものだし、詳細を比較するに耐えるほど、人の記憶は確かなものとはいえない。

 この世界でも、いずれ『みどりの日』が5月4日へ移動するのかどうか?

 正直、わからないとしか、俺には言えない。

 

 歴史は偶然の積み重ねという人がいる。

 歴史には必然の流れがあるという人もいる。

 

 たぶん、どちらも正しいと俺は思う。

 偶然と必然によって世界は構成されている。

 

 歴史などと大げさな話ではなく、人間関係に目を向ければよくわかる。

 挨拶のときに頭を深く下げたか下げないか、あるいはちょっとした言葉のやりとりで、人との関係はがらりと変化したりもする。

 

 人の営みが歴史を作るなら、ほんのちょっとしたことで歴史は変わるだろう。

 そこで生きていくのなら、毎日を、その瞬間を、真摯に生きていくしかない。

 

 犬を散歩させている老人。

 すれ違う際に、軽く会釈をしておく。

 無視はしない。

 しかし、認識はしてますよという自己主張だけはしておく。

 こうした積み重ねが、何かの変化をもたらすこともある。

 

 というか、俺はマスクをつけて走っている。

 まだ、『ストーカー』なんて言葉はこの国で使われていないが、フードこそかぶっていないものの、素顔を隠すような俺の格好は、怪しいといわれたら否定はしづらい。

 普段から、周囲とのコミュニケーションをしておけば、無用のトラブルを避けられることもあるだろう。

 逆もあるかもしれないが、長い目で見れば減るはずだ。

 

 正直、この公園のランニングコースから追い出されるのは困る。

 

 原作で、幕之内はもちろん、鴨川ジムの面子がロードワークに使っているあの道や斜面もそうだが、下が舗装されていないランニングコースは、都会では貴重だ。

 アスファルトの上を走ると、その衝撃が自分の身体に返ってくる。

 そんなものはわずかな差だと笑い飛ばされるかもしれないが、毎日、そこそこの距離を走りこむ人間にとっては、その小さな差が累積されて、ひざや腰などの負担へとつながる。

 本来、骨や関節、靭帯など、その負担の回復に、摂取した栄養が使われるのだが……スポーツ選手は普段から節制を心がける。

 体重制限のある競技の選手は、さらに神経質にならざるを得ない。

 

 ある意味、スポーツ選手は必要な栄養を摂取はするが、余分な栄養を取る余裕がないといえる。

 だとすると、栄養と休息を十分に取る一般人よりも、回復そのものが遅くなる可能性を否定はできない。

 

 一番いいのは、プールの運動だろう。

 ただ、あれはあれで、余分な筋肉がつくというデメリットがあるが。

 

 

 ペースを上げる。

 もうひとつ上げて、今度はいきなり落とす。

 インターバル走とは違う、ギアチェンジの確認のようなもの。

 同じペースで走っていると、そのリズムやテンポに身体が慣れてしまい、反応できなくなることがある。

 複数のギアを持つ意識は、前世で野球をやっていたときに学んだことだ。

 当時としては、異端の指導者だったと思う。

 それが評価され始めるのは、ずっと後になってからのことだった。

 正しさは、時代とともに移り変わっていく。

 

 変化を恐れないこと。

 変化を忘れないこと。

 

 それはきっと、前に向かって歩き続ける姿勢にもつながるだろう。

 

 

 前方に人影。

 普通の走り方に戻す。

 ギアを意識する走り方は、傍から見れば怪しいことこの上ない。

 なので、周囲に人がいないときにやることにしている。

 

 犬を連れた女性。

 さっきの老人とは違って、顔なじみの人だ。

 軽い会釈と『おはようございます』の声かけを。

 会釈と、笑顔が返ってくる。

 この女性も、最初は会釈するだけだった。

 今では、俺がボクシングをしていること、そしてそこそこの選手であることも知られている。

 これも、積み重ねの成果だろう。

 

 俺が上京してから2年あまり。

 ボクシングとは関係ないところでも、人とのつながりはできていく。

 

 

 気がつけば、日の出を過ぎていた。

 あわてて、時間を確認する。

 走り始めたのがいつもより早かった分、長かったかもしれない。

 

 今日は約束がある。

 伊達英二との、スパーの約束が。

 

 まあ、それが理由で早起きしたわけじゃない。

 幕之内(バージョン3)にぶっ飛ばされて目が覚めたら、中途半端な時間だっただけだ。(目逸らし)

 

 

 

 

 

 

 

 

「こんにちはー」

 

 仲代ジム。

 祝日とはいえ、午前中だからか、人は少ない。

 なんだかんだ言いながら、ジムが人でにぎわうのは夕方から夜にかけてだ。

 ジムによっては、練習生とプロの時間を意図的にずらしたりもする。

 

「おお、速水くん」

「お久しぶりです、仲代会長」

 

 仲代会長とは、去年の夏、いや秋以来になるか。

 世界には届かなかったものの、フライ級で東洋を獲った選手だと、以前音羽会長が教えてくれた。

 原作では触れられなくても、ひとりひとりが背負っている過去がある。

 ちなみに、音羽会長自身はどうだったのかと尋ねたら、目を逸らされた。

 たぶん、それ以上は触れない方がいい。

 

「今日は悪かったね、午前中から」

「伊達さんとのスパーは久しぶりですからね。早起きしちゃいましたよ」

 

 俺の言葉に、仲代会長が苦笑した。

 

「お手柔らかに頼むよ……英二は、今が疲労のピークなんだ」

「つまり、ボコボコにするチャンスですか?」

「おいおい……」

「冗談ですよ。まあ、俺も練習を再開したばかりですしね」

 

 何気ない会話。

 しかし、触れようとしない話題。

 たぶん、スパーが終わった後に、話があるだろう。

 

「ところで……伊達さんは?」

 

 周囲を見渡したが、その姿はない。

 沖田はいたけど、なぜか目を逸らされた。

 

「英二なら……と、きたか」

 

 むっと、汗のにおいを漂わせながら、伊達英二が現れた。

 何気ないシャドウ。

 その動きに、ピンときた。

 

 ……コークスクリュー、か。

 

 威力のあるパンチと言っても、話は単純ではない。

 まあ、敢えて単純に考えるならば……パンチの威力は、相手にぶつける物体の重さと速さで決まる。

 言い換えれば、運動エネルギーそのものが、パンチの威力といえる。

 そのエネルギーをしっかりと相手に伝えられるかというのは、また別の話になる。

 

 手首と拳だけ。

 肘から先。

 肩から腕全体、と。

 ぶつける速さが同じなら、重量で威力が異なる。

 体重を乗せるというのは、自分の拳にどれだけの身体の部分を一体化できるかが重要になる。

 

 原作でいう宮田の『ジョルト』は、拳から身体まで……全身を一体化させるのが理想だが、本当にそれが実現できたら、殴る場所にもよるだろうが、自分の拳が壊れるだろう。

 幕之内にも言ったことだが、パンチの威力は自分の身体に返ってくる。

 ボクシングの初心者が、指導者に無断でサンドバッグを全力で殴りつけたら肋骨が折れたなんて事故がたまに起こるが、パンチの反動が自分の身体に返ってくるいい例だ。

 

 パンチの速度と質量。

 ここで、ひねりという回転を加えるとどうなるか。

 回転するという、運動エネルギーが加わることになる。

 運動エネルギーそのものが増加するなら、パンチの威力はあがる、と。

 

 ただ、動きが複雑になればなるほど、当然難易度は上がる。

 普通のパンチでも、体重移動、身体のひねり、関節の位置、タイミングなど、やることは多い。

 ひねりを加えることを意識しすぎて、バランスが崩れたら意味がない。

 モーションが大きくなれば、避けられる。

 

 それと、人はひとりひとり、骨格や筋肉のつき方が違う。

 この、ひねりを加えるという動きがスムーズにできるかどうかは、本人の資質によるところが大きい。

 

 原作では、幕之内が野球のシュートを投げるような動きと説明していたが、シュートを無理なく投げられる人間は少ないとされている。

 特に、日本人には不向きらしい。

 カットボールではなく、シュートを持ち球にしている投手の人数を調べたら、その少なさに気づくかもしれない。

 日本人の骨格か、筋肉のつき方か、あるいは生活習慣によるものかは不明だが、無理に投げようとすると、いわゆる予備動作が大きくなって見抜かれやすいし、怪我の元にもなる。

 たぶん、スクリューブローにも同じことが言える。

 

 というか、コークスクリューブローは俺には合わなかった。

 沢村のように、肘から先だけのひねりも試してはみたが、連打の速度が落ちることにくわえ、肘への負担が大きい感じがしてやめた。

 スポーツ選手にとって、怖いのは怪我だ。

 前世も含めて、身にしみている。

 

 

 あらためて、伊達英二を見る。

 

 去年のスパーでは見ることがなかったパンチ。

 あれから覚えたのか?

 今日のスパーで、見せてもらえるのか?

 

 少し、楽しみだ。

 

 

「おい、英二」

「ん?お、おお、速水か」

 

 俺の姿に気づいて、伊達英二がちょっと右手を上げ。

 

「新人王については、祝いの言葉はいらないよな?」

 

 そのままポンと俺の肩を叩き……笑った。

 

「それよりお前、スポンサーに切られたんだってな。高校6冠も、アマの世界王者の前じゃ、かすんでしまったか」

 

 ……まあ、気を使われてるのはわかる。

 敢えて真正面からというのも、ひとつの優しさの形であろう。

 

 ただ、仲代会長は手で顔を覆ってるけど。

 

「……ははは、今日のスパー、楽しみですね、伊達さん」

 

 ……別に、怒ってはいない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なるほど、疲労のピーク、か。

 

 伊達英二の動きが鈍い。

 ただ、やはり巧い。

 要所要所で、はぐらかされる。

 

 引き出しの数の多さ。

 そして、それをタイミングよく使う判断力。

 

 ……学ばせてもらおうか。

 

 ギアをあげた。

 追い詰めることで、色々と見せてもらう。

 

 挑発するように、ジャブを叩きつけていく。

 手を出そうとしたところを、右の速いパンチで押さえ込む。

 すかさず追撃。

 1発目は軽く。

 しかし、2発目の重いパンチを、きっちりといなされた。

 

 決して偶然ではない。

 読みなのか、勘なのか。

 理由はともかく、技術と言えるだろう。

 

 感心しつつ、手は緩めない。

 

 左のジャブから。

 踏み込んで、左のフック。

 角度を変えて、左のダブル。

 右のフェイントから、左のトリプル。

 

 伊達英二の顔がはね上がった。

 

 踏み込んで、右のボディフック。

 すぐに退いた。

 

 俺の鼻先をかすめていったのは、右のアッパー。

 

 伊達英二の、俺を見る目が鋭い。

 

 威嚇するような左ストレートが飛んできた。

 右フックへつなげてくる。

 さらに踏み込んできて、俺のボディへ。

 

 接近戦の位置取り。

 

 どうやら、それが課題らしい。

 俺も足を止め、それに応じる。

 スパーリングパートナーとしての、最低限の礼儀。

 

 ボディへのパンチを、下へ打ち落とす。

 ブロックでは連打は止まらない。

 千堂戦の反省から考えていた、防御手段のひとつ。

 その確認。

 

 パンチの出始めをはじく。

 手元に引き込んで、強くはじく。

 体勢を崩して、細かいパンチで反撃。

 

 その動きを読まれたのか。

 はじいたはずの手が、そのまま顔に来た。

 経験の差だろう。

 対応が早い。

 

 立て直す。

 体重移動だけでなく、細かくステップを刻む。

 そして細かい連打。

 やはり、防御が巧い。

 ブロックではなく、受け流す感じで、こちらの体勢を崩される。

 

 反撃を避ける。

 相手のパンチをはじいてから攻撃へのつなぎ。

 単調になると、すぐに反撃をもらう。

 

 接近戦でありながら、お互いに有効打が出ない。

 純粋な技術から、駆け引きへと、ステージが変化する。

 

 やはり、伊達英二とのスパーは面白い。

 俺の、素直な感想だ。

 

 しかし、それを口にするとなぜか怒る。

 

 

 

 2Rも、示し合わせたように接近戦からはじめた。

 

 俺から仕掛ける。

 最初から肩を狙って右フック。

 ブロックさせてからぐっと押しこみ、体勢を崩して左。

 そう思わせて、右の連打。

 2発めのパンチで、顔をはねあげた。

 

 自分から首をひねったわけじゃない。

 去年、それを狙ってカウンターを決めてから、俺とのスパーでは使わなくなった。

 あれは、一瞬とはいえ視界を失うからな。

 わかっていれば、狙える。

 

 反撃の右をかいくぐり、左でボディを。

 アッパーをちらつかせ、右の連打で突き放す。

 

 俺のパンチを浴びながらの強い右。

 避けはしたが、攻守が逆転した。

 

 パンチをさばいていく。

 捨てパンチにフェイント、そして本命の強いパンチ。

 俺には、なんとなくしかわからない。

 さっきされたような、弱いパンチを読みきって反撃はできない。

 

 俺の反撃のタイミングが限られてくる。

 誘導されていくのがわかる。

 どこかで、相手の読みをはずしたい。

 しかし、それを待たれている可能性がちらつく。

 

 飛んでくる左。

 それを引きつけて、右で上にずらした。

 はじくのではなく、受け流すやり方。

 

 伊達英二が、俺をにらむ。

 ははは、盗めるものは盗みますよ、と。

 

 たぶん、ムキになってもう一度同じ左を叩きつけてくる。

 

 的中。

 相手の左を肩の上を滑らせるように踏み込み、ボディに右フック。

 そこから、左のアッパー。

 

 右のフックをカウンターでもらった。

 いや、相打ち、か。

 

 ほぼ同時に体勢を立て直す。

 

 左で突き放そうとして、相手の右がためられているのに気づく。

 伊達英二の、コークスクリュー。

 

 わずかな逡巡。

 

 ……ほんの少しだけ、好奇心が勝った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 心臓打ち、か。

 不思議な感覚だったな。

 

 心臓は、筋肉の塊だ。

 電気の刺激で筋肉が反応するのをカエルの解剖で学んだ人間は少なくないと思うが……これは逆もある。

 筋肉を動かすと、電気信号が発する。

 これは、筋肉の収縮に関して、細胞内の電荷物質のやり取りを必要とするからだ。

 

 乱暴だが、心肺停止時の心臓マッサージとして胸を叩くというやり方がある。

 下手をすると肋骨を折ってしまうので素人にすすめられる方法ではないが、衝撃を与えることで電気ショックを与えるのと似た効果が得られる。

 そして通常、心臓は動き続けている。

 

 まあ、ものすごく簡単に言うと、心臓に強い衝撃を与えると、心臓を動かそうとする本来の信号が乱れる現象が起こることがある。

 心臓は神経が集まっている部分でもあるし、心臓の動きと身体の動きが連動している部分は多く、身体全体の動きが空白状態に陥る……と。

 推測だが、この技は、心臓の鼓動のタイミングでも効果が大きく変わってくると思う。

 

 というか、おそらく今のは不完全だった。

 

「おい……今の、避けられただろ?」

「いやあ、去年のスパーでは見せてもらえなかったパンチでしたし」

 

 俺は立ち上がり、大きく息を吸った。

 ダメージはある。

 でもまあ、何とかなるだろう。

 

「約束は4Rですよね?ちゃんと付き合いますよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

「お疲れ、速水くん」

「いえ、面白かったし、勉強になりました」

 

 伊達英二がぷいっと顔を背けた。

『面白かった』という言葉ではなく、スパーの続きを俺が優勢に進めたからだろう。

 

 2Rの心臓打ちでかなり神経を使ったんだろうと思う。

 あの後は、疲労もあってか、動きも悪くなっていた。

 なので、4Rは俺も流す感じにしたが……それも気に食わないのだ、きっと。

 

 俺も万全とは言えないが、今の伊達英二のコンディションなら勝てると思う。

 ただ、勝てると断言できないところが、伊達英二の強さであり、巧さだろう。

 負けん気が強いイメージがあるが、その本質は理論派だ。

 どんなに不利な状況でも、それに対応し、打開しようとしてくる。

 

 ……真田との試合は、たぶんこんな感じになるはずだ。

 幕之内とは別の意味で、気が抜けない。

 

「それで、速水くん……この後ちょっといいかな?少し話があるんだが」

 

 仲代会長が会長室へと誘う。

 不自然に避けていた話題、ヴォルグの件だろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 仲代会長の話を聞いて、俺は頭を抱えたくなった。

 伊達英二は、さっきから顔を背けたまま。

 

 いや、しかし……そういう事情だったか。

 

 そりゃそうか。

 伊達英二の企画と、俺の企画はある意味つながっていた。

 俺と伊達英二は戦う予定がなかったから、こんな風に気軽にスパーを行っていた。

 俺をはずして、ヴォルグを配置するってことは……当然、こちらにも影響が出るってことで。

 

 俺は、よそのジムの会長室であることを忘れ、大きく息を吐いた。

 

 

 

 この時代、日本プロボクシングが認めている……というか、加盟している国際ボクシング団体は、WBA(世界ボクシング協会)とWBC(世界ボクシング評議会)の2つ。

 

 WBAフェザー級王者、リカルド・マルチネス。

 原作では無理ゲー状態だったが、この世界でも、フェザー級史上最高の王者という評価を受けている。

 ある意味、高すぎる壁だ。

 なので、フェザー級の世界ランカーのほとんどがリカルドを避け、WBCの王者へ挑戦する道を選ぶ。

 世界王者は一定期間内にランキング1位の選手と戦う義務があり、それを指名試合と呼ぶのだが……その1位の選手がリカルドから逃げているのが実情らしい。

 リカルド陣営も、『戦う価値のある相手としか、試合はしない』と明言している。

 金も栄誉も手に入れて、あとは意味のある戦いだけを望む状態なのか。

 

 リカルドに挑戦しようと思ったら、『ランキング1位になる』か『リカルド陣営に認められる実績をもとに、挑戦状を叩きつけるか』のどちらかになる。

 

 国際ボクシング団体の主な収入源はタイトルマッチの認定料だから、リカルドのような世界王者は、正直なところ都合が悪い存在といえるだろう。

 

 認定料、あるいは承認料と呼ばれるのは、『この試合に勝ったほうを、自分たちの団体の世界王者だと認定します』と、保証させるために支払う金のことだ。

 選手のファイトマネーの総額の数%に加え、タイトルマッチの主催者も金銭の支払いを求められる。

 契約の期日までにその認定料を払わないと、タイトルマッチと認められないし、試合に勝ったとして世界王者にはなれない。

 

 団体ごとに細かい部分は違うが、階級ごとに上限や下限が定められている。

 仮に選手がノーギャラで戦っても、決められた下限額の金を払う必要があるし、タイトルマッチの主催者も、その規模や、黒字赤字に関係なく、一定の金を支払う必要がある。

 他にも、タイトルマッチに派遣される役員へのギャラや、宿泊費、渡航費用なども負担しなければならない。

 

 これは、複数の団体の統一王座のときも同じだ。

 それぞれの団体に、お金を払わないと認めてもらえない。

 単純に、2つの団体なら2倍、3つの団体なら3倍の費用がかかることになる。

 つまり、それだけ大きなビジネスにしないとペイできないし、次が続かない。

 

 ホームで開催するということは、このビジネスをきっちりやりとげることを意味する。

 タイトルマッチのたびにこのビジネスを成立させないと、どこかで破綻する。

 

 この時代、スポンサーというか、テレビ局がバックにつかないボクサーが、世界に挑戦しようとすることがどれだけ厳しいかは、これだけでも想像がつく。

 

 挑戦できればいいという話でもない。

 勝たなければいけないのだが……この国には、世界王者がいない。

 5年前、伊達英二がリカルドに挑戦したときも、世界王者は日本にはいなかった。

 たぶん、この世界では前世の同時期よりもひどい状況が続いている。

 

 この時代の、世界戦における日本人ボクサーの勝率の低さ。

 その理由を選手やマッチメイクに求める前に、世界王者に挑戦するためには、世界ランカーになることが必須であることを、俺は重視する。

 試合によって条件は異なるが、世界王者と世界ランカーの戦いであることに変わりはないのだ。

 

 世界タイトルマッチは、ホーム開催した選手サイドの勝率が少し高いとされている。

 しかし、日本人ボクサーはホーム開催が多いにも関わらず勝てていない。

 ならば、日本人ボクサーに与えられた世界ランキングそのものに問題があると考えるのが自然だ。

 

 意地の悪い考え方だが、国際ボクシング団体はタイトルマッチをどんどんやってもらわないと収入が増えない。

 そして、物価の高い国、経済力のある国の選手のほうが、収入面で都合がいい。

 だとすれば、タイトルマッチにつながるランキングの発表も、実力以外の部分に恣意的なものがあると思ったほうがいい。

 

 世界的には不人気傾向にある軽い階級で、日本人ボクサーが次々と世界戦に挑み、負け続けてきた背景には……そういう部分があると俺は思っている。

 

 

 

 ……もう一度確認する。

 リカルドに挑戦しようと思ったら、『ランキング1位になる』か『リカルド陣営に認められる実績をもとに、挑戦状を叩きつけるか』のどちらかになる。

 

 リカルドや、世界前哨戦の相手との交渉がうまくいかなかったのか……スポンサーがひねり出した一手。

 

「……世界アマ王者を倒したという、箔付けですか」

 

 俺がぽつりとつぶやくと、仲代会長がうつむいた。

 

「こっちだって、寝耳に水の話さ……ただでさえ、速水くんにはデビューの件で迷惑をかけてるっていうのに」

「迷惑……ですか?」

 

 仲代会長が、俺を見た。

 

「速水くんはもともと、すぐにB級でデビューするはずだっただろ?それが、英二の復帰プランが絡んで、1年遅らせた上でC級デビュー……そして今回の件だよ」

「むしろ、必要な経験を積めたと思ってます。スパーで勉強もさせてもらってますし」

 

 仲代会長と、そっぽを向いたままの伊達英二に向かって言っておく。

 気休めかもしれないが、こういうことは言葉にしておいたほうがいい。

 

「……こんなことを聞けた義理じゃないんだが、どうなんだい?ヴォルグ・ザンギエフは?」

「いや、実はまだ会ってないと言うか、見てないんですよ」

 

 ヴォルグが日本にやってきたのは10日ほど前。

 すぐに練習を始めたらしいが、音羽ジムで汗を流すのが、午前中から午後にかけてで、夕方になる前に帰るらしい。

 そして、仕事を終えた俺がジムに顔を出すのが夕方だ。

 

 平日はすれ違うというか、会えない。

 

「会長から、走り込みを中心に基礎メニューが多めの練習と聞いてますし、もしかすると少々のブランクがあるかもしれません」

「そうか……」

 

 考えてみれば、ソ連崩壊の後ではなく、その前からトレーニング環境は悪化していたんじゃないだろうか。

 それまで何の影響もないとは考えにくい。

 

 俺の沈黙を別の意味で受け取ったのか、仲代会長が口を開いた。

 

「交渉が難航しているとはいえ、それでもまだ、リカルドに挑戦するほうがマシなんだよ、速水くん。それほど、今のWBCへの挑戦権は、大渋滞の状態だ」

「あぁ……王者が交代するたびに、交渉権があっちこっちに転がるってことですか?」

「そうなのさ……今思えば、5年前の世界戦の話がスムーズに進んだのも、リカルドの評価が向こうでは相当に高かったことの裏返しだったんだろうな」

 

 ……ありそうだ。

 

「……実際、あの時ってリカルドの情報とか、どの程度入手できたんです?」

「映像は、リカルドが王者になった試合の、KO直前の十数秒だけさ。防衛戦の映像は入手できなかったよ」

 

 テレビ局が手に入れられなかったのなら、どうしようもない、か。

 情報収集の妨害はもちろん、ファンが相手選手に嫌がらせするのも、世界基準なら当たり前だ。

 こんな時代だからこそ、テレビ局がスポンサーにつく大きなメリットとして挙げられるのが、その情報収集力。

 国を超えた人脈と言うかコネがあるというのは、この時代において相当の強みとなる。

 

 ただ、家庭用というか、民生用のビデオカメラが普及し始める時期にさしかかっているだけに、情報面でのメリットは失われていくのかもしれない。

 ネットが普及し始めたら、その傾向は顕著になるだろう。

 

 

「……タイトルマッチが決まった時点で、もうベルトはもらった気分だった」

 

 伊達英二のつぶやき。

 鼻の傷跡を指先でなぞりながら、続ける。

 

「右のファイター。そして、戦績をチェックしてパンチはあるんだろ……ぐらいだったよ。文字通り、高い鼻を折られて帰ってきたがな」

 

 伊達英二が、ようやく俺を見た。

 

「なあ、速水。正直に言うと、ヴォルグが強くなきゃ困るんだよ」

「……強すぎても、困りません?」

 

 笑う。

 伊達英二が笑う。

 

「オレも、今年で29になる。1年に3試合か4試合……世界戦が絡んでくると、前哨戦のスケジュール調整なんかで、2試合ってとこか。引退までに、あと何試合できるか、なんてことも考えるのさ」

 

 握りこまれた拳。

 

「戦うなら、強い相手とだ」

 

 感情をそのまま押し出すような言葉。

 

「わかるか、速水。お前と違って、オレにはもう時間がないんだよ……相手がリカルドじゃなくとも、負ければ引退。それでも、オレには時間がない。戦うのは強い相手じゃなきゃダメなんだ」

「強い相手だからこそ、得るものがある、ですか?」

 

 伊達英二が、俺を見つめる。

 

「正直、オレはまだブランクを取り戻しちゃいない……スパーの相手に『面白かった』なんて、笑顔で言われるのがその証拠さ」

 

 なんとなく、目を逸らしてしまった。

 俺が思っていたより、重い言葉だったらしい。

 

 そんな俺を見て、仲代会長が笑った。

 

「あの頃は、英二のスパーの相手を探すのも一苦労だったんだ……2度めは受けてもらえなくてね」

「世界戦のときは、わざわざ海外から呼んだのに3日でダメになっちまった」

 

 微笑を浮かべたまま、仲代会長が少しだけ遠い目をした。

 

「……世界王者を作るためには何人もスパーリングパートナーをつぶさなきゃならないって言葉は、こういうことかと思ったもんだよ」

 

 ブランク、か。

 

 俺の知る、この世界での伊達英二の経歴はこんな感じだ。

 

 高校2年からボクシングをはじめ、大学1年で全日本アマを制し、そのままB級でプロデビュー。

 6戦目で日本王座を獲得。

 防衛を重ねて東洋へ。

 東洋でも防衛を重ね、めぐってきた世界への切符。

 

 23歳の伊達英二は、メキシコのアステカスタジアムで、2つ年下の若きリカルドの前に、2Rで散った。

 

 原作では、帰国した伊達英二を待っていたのは、愛する奥さんの入院と、流産。

 この世界では、どうなのかわからないが……俺が踏み込める領域ではない。

 ただ、この試合のあと……伊達英二はリングを去った。

 

 そして、約3年の空白を経て仲代ジムに戻ってきた。

 実践的なトレーニングを積み、カムバックの宣言。

 復帰して3戦目に、日本王者に返り咲く。

 去年の夏、俺がスパーの相手をつとめたのは、そのあとだ。

 

 

「オレがリカルドに負けたのは……初の世界戦で気負ったとか、緊張したとかじゃない。単純に力の差だ」

 

 相手が悪かったといえばそれまでだ。

 ただ、伊達英二のようなボクサーにとって、情報不足というのは大きな要素だと俺は思うが。

 まあ、口を挟める雰囲気じゃない。

 

「ブランクを取り戻すだけじゃ足りないのさ……オレは、リカルドの前に立ちたいんじゃなく、勝ちたいんだからな」

 

 仲代会長が、苦笑を浮かべた。

 

「速水くんに言うことじゃないが、英二は、ヴォルグとやるまで日本王座の防衛を続けなきゃならないんだ」

「あぁ……なるほど」

 

 仲代会長が、俺を見つめる。

 

「……速水くん、何かあるのかい?」

「いえ、なんというか……スポンサーは、伊達さんとヴォルグの両天秤をかけてるのかなあと」

 

 この国に世界王者のいない現状。

 日本のジムに所属する世界王者という妥協案。

 

「ヴォルグが予想以上に強くて、伊達さんを倒すのであれば、それはそれで別のプランへ移行というか……伊達さんのプランと、ヴォルグのプランが同時に動いてると思います」

 

 テレビ局やスポンサーの判断は、企業の判断だと考えていい。

 不確かなものに全賭けはない。

 最低でも、元を取ろうとするはず。

 

「ヴォルグに足りないのは日本での知名度です。つまり、ヴォルグも伊達さんを倒さなきゃ箔がつかない」

 

 うん、良くできてる。

 伊達英二と、ヴォルグの、お互いの不足する部分を補うための企画。

 

 そして、余った俺はポイっと。

 

 情報収集面で協力はする……ぐらいの捨扶持扱い。

 ただ、捨扶持をもらってるぶん、紐はついている。

 あるいは、伊達英二とヴォルグの2人がつぶれた場合のスペア……か。

 

 たしかに、当事者の気持ちを無視すれば……悪くない企画ではあるんだよなあ。

 少なくとも、強いボクサーを争わせるのは正しい。

 

 

 気がつけば、2人とも黙り込んでいた。

 

「あくまでも推測です……スポンサーを利用するぐらいの感覚でいいと思いますよ」

「まあ、な」

「……しかし、それが正しいとすれば、なおさら速水くんは貧乏くじを引かされたよなあ」

 

 ははは。

 これからフェザー級は魔境と化すんだよなあ。

 

 もちろん、逃げ続けるつもりはない。

 幕之内との、約束のようなものもある。

 

 今はただ、状況が変わることを信じて……勝ち続けるしかないが。

 

 

 

「速水くん」

「はい?」

「連休に予定してた英二とのスパーはキャンセルさせてもらうよ」

 

 俺を見つめる穏やかな眼差しに、ほっとする。

 

「経緯はどうあれ、ヴォルグは速水くんのジムメイトになるんだ。弱点を聞き出そうとなどとは思わないが、下手にかんぐられるのも困るし、英二もそれを良しとはしないさ」

 

 スポンサーに対して思うところがあろうとも、勝負には関係ない、と。

 そして何よりも、仲代会長は伊達英二を信じている。

 

 今日のスパーも、おそらくは情報のすりあわせと……俺への同情か。

 

「ヴォルグには、オレのコークスクリューでも、心臓打ちでも、好きに伝えていいぜ」

 

 伊達英二が、パチンと右の拳を左手に打ちつけた。

 

「オレは、正面からねじ伏せるからよ」

「とか言って、情報を多く与えて迷わせるつもりですよね?」

「まあな」

 

 伊達英二が笑い、俺が、仲代会長が笑った。

 その笑いが、とぎれる。

 

「オレじゃなく、同じジムのヴォルグを応援してやれよ。それが筋だぜ、速水」

 

 え?

 俺、伊達英二を応援するように思われてる?

 

「はは、ヴォルグが勝てば、音羽ジムの興行で俺がセミファイナルをつとめることになるでしょうね。注目されるという意味では、伊達さんよりもヴォルグが勝ったほうがいいんですよ、俺は」

「……っ!」

 

 伊達英二が投げつけた雑誌を避け、入り口まで退避。

 そしてドアを開く。

 

「伊達さんとのスパーは、学ぶべき部分が多くて楽しみでしたよ……リカルドと戦う時は、またパートナーに指名してください。じゃあ、仲代会長。俺はこれで失礼します」

 

 そう言って、すぐにドアを閉める。

『ムカツク』とか『かわいげがない』とか聞こえたような気もするが、たぶん気のせい。

 

 

 しかし、ヴォルグと伊達英二か……どうなるかな。

 

 まず、ヴォルグは世界アマ王者だからA級ライセンスというか、8回戦デビューだ。

 1試合こなさないとランキングに入らないからタイトルマッチはできない。

 とすると、原作のようにA級トーナメントに参加するのか。

 

 考えてみたら、そこでヴォルグが負けたらどうするつもりなんだ?

 

 幕之内……は、おそらく間に合わないな。

 俺に負けた時点で4勝だから、6回戦で2試合こなす必要がある。

 宮田はあとひとつ勝てば8回戦。

 千堂も、あとひとつ……ただ俺に負けたのが2月末で、3ヶ月の休養をはさめば6月。

 たぶん、間に合わない。

 間柴も6回戦だが、たぶん階級を上げることになるだろうし……。

 

 ……まあ、実際にヴォルグを見てからの話か。

 すでに、原作の流れは壊れている。

 原作の知識よりも、この目で見て、肌で感じるものを信じるべきだ。

 

 

 

 帰ろうかと思ったら、沖田と目が合った。

 そしてすぐに逸らされる。

 去年はうっとうしい目つきで睨まれていたんだが……これはこれでうっとうしい。

 

 もしかして、俺が階級を落とすと聞いたのか。

 伊達英二を狙う敵じゃないと理解した……か。

 原作では、伊達英二を崇拝する勢いで憧れてたが、この世界でもそんな感じだろうか。

 

 沖田圭吾、か。

 前年度のフェザー級の新人王で、無敗のホープ。

 先月のランキング発表では5位だったが、同じジムの伊達英二が王者だから挑戦はできない。

 足踏みしながらタイトル返上を待つ状態だ。

 ある意味、スポンサーに貧乏くじを引かされている仲間ともいえるのか。

 

 あれ。

 いい相手じゃね?

 

 近づき、話しかけてみた。

 

「……なあ、沖田くん」

「な、なんだよ……?」

「俺と試合しない?ジュニアフェザーで」

 

 首を振られた。

 もちろん、横に。

 

「新旧の新人王の対戦。こいつは、客が呼べるぜ」

 

 首を振られた。

 ぶんぶん振られた。

 

 やはり、原作のように伊達英二のフェザー級への思い入れが強いのか。

 あるいは、減量の問題か。

 まあ、5位のランカーが俺と戦うメリットはないもんな。

 

 そうなんだよなあ。

 ランキング10位って、ランクのないボクサーには狙われても、ランク上位のボクサーにとっては、『試合をする』以上の意味がないんだよなあ。

 勝ってもランクが上がるとは限らないが、負ければ確実にランクが下がる。

 さっき伊達英二が言ったように、『ボクサーが引退するまでの試合数は限られている』とすれば、意味のある試合、そして自分の価値を高める試合を選ぶべきだろう。

 

 とはいえ、俺の10位は、あくまでも『フェザー級』のランクだ。

 ジュニアフェザーで試合をして、その内容を認められて、ようやくジュニアフェザーのランキングになる。

 つまり、ジュニアフェザーで試合をしない限り、俺は王者の真田に挑戦することはできない。

 そして試合をしなければ、すぐにランク外へと落ちる。

 

 ここでもまた、マッチメイクに苦労するわけか……音羽会長が。

 

 ……うん。 

 

 たぶん、今の俺にはA級トーナメントに参加するしか選択肢が無い。

 ボクサーに限ったことではないが、スポーツ選手ってのは、つくづく不自由な生き物だ。

 




とりあえず、A級トーナメントが始まるまでは、連日更新で。
状況説明が続いてくどいから、連日更新でごまかしたいとも言う。(目逸らし)

なお、この世界には、T吉もO塚もT久地もいません。

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