理想は、全ての話をプラマイ1000文字の誤差に収めたいのですが、なかなか難しいです。
ボクシングジムの、人の入れ替わりは結構激しい。
プロボクサーよりも練習生のほうが数は多く、その分、ジムから消えていく人数も多い。
練習生が増えるのは、春と秋が多い。
春は、学生なら学年が上がるなど、環境の変化に合わせて何か始めたいという気持ちになるのだろう。
秋は、身体を動かしたいとか、日常の変化を求めてとか、そんな理由が多かったように思う。
「速水さん、ちょっといいですか?」
「ん、どうした?」
練習生が話しかけてくる。
月謝を払って指導を受けるのが練習生で……ジムの経営的には、わりと重要な存在だ。
大事なことだからもう一度。
練習生は、ジムの経営的に重要な存在だ。
プロだからといって、練習生をバカにするような態度をとることはありえない。
もちろん、自分の練習を邪魔されない範囲で、という条件がつくが。
「インファイターって、足の幅を広くとりますよね?あれって、何か意味があるんですか?」
「そりゃあ、あるさ。まずは、重心が下がることと、力の分散によって重心の触れ幅そのものが広がるから倒れにくくなる……と口で説明するより、実感したほうが早いか」
練習生を立たせ、身体を押したり、姿勢を崩したりしてやる。
まあ、上から見て、足の幅の外側に重心が移動したとき、何もしなければそのまま倒れてしまうわけだが。
理屈で説明したほうがいい場合と、実感させたほうがいい場合があり、それは相手にもよる。
「それともうひとつ……てこの原理だな」
「てこの原理、ですか?」
棒状のトレーニング器具を持たせた。
それを、回転させる動き。
持つ位置によって、必要な力が変化することを実感させる。
ボクシングのパンチは、腕だけじゃなく、身体の回転する力を使う。
よく使われるのが、腰の回転。
この場合、身体の回転軸は、身体の中心線にあると見ていい。
つまり、そこが作用点にあたる。
足幅を広く取る。
それはつまり、身体の回転軸、作用点から距離が離れることを意味する。
右足、そして左足。
地面を蹴る力が、身体を回転させようとする力。
足の幅を広く取ると、同じ力であっても身体を回転させやすくなる、と。
「あ、あぁ、わかります。なんか、わかりやすいです」
まあ、腰を回転させるのには、膝を入れるとかつま先を絞るとか、いろんなやり方があるが……中級者向けだから今は教えない。
「……ただ、いいことばかりってわけじゃないんだ、これ」
回転はさせやすくとも、角速度の問題が出てくる。
作用点から距離をとるほど、一定の角度を回転させるために多くの動きが必要になる。
長い距離を動かなきゃならない。
それは、時間がかかるってことだからな。
遅いってのは、ボクシングが求めるベクトルとは逆だ。
「インファイターは、接近戦で左右の連打を放つ。パンチが相手に届くまでの距離が短いことを想定しているからな。連打のしやすさと、倒れにくい安定感を求めて、自然とスタンスが広くなる……そのかわり、アウトボクサーのような動きは難しくなる、と」
ぽんと、練習生の肩を叩き。
「まあ、自分の身体と戦い方に合った姿勢が一番ってことさ。色々考えて、実験してみるんだな」
「はい、ありがとうございます」
はは、なんだかこそばゆいね……って。
気がつけば、練習生が数人俺たちの話を聞いていた。
「おまえら、練習もせずに何してんの?」
「速水さん、俺も聞いていいですか?」
「……なんだよ?」
「相手と距離をとって戦う場合、ジャブを出しながら左へ……えっと、相手の右手のほうに回れって教えられたんですけど、速水さんは、逆のほうにも回りますよね?」
ちょいと困る質問だ。
セオリーと逆のことを、今教えていいもんかね、これ。
……セオリーの意味を考えさせたほうがいいか。
「逆に聞くが、なんで相手の右手のほうに回ったほうがいいと思う?」
「……」
「……」
練習生たちが、顔を見合わせる。
なんか、別の意味で心配になってきた。
練習生の中には、アマチュアとして競技に参加しているものもいる。
試合というか、勝負は、相手がいて成立するのに……自分の都合しか考えてないってことか。
自分がこう動けば、相手はどう感じるかなんて、勝負事の初歩の初歩なんだが。
「まあ、構えてみろよ」
オーソドックスな、右ボクサーの構え。
左足と、左手が前にある。
この構えで、何故右が大砲かというと、利き腕というだけじゃない。
後ろ足の、右足が地面を蹴る力で身体を回転させやすいのが重要だ。
相手が、右手のほうに回る。
足の位置がそのままだと、上体をひねってそれを見る。
それで、右を打とうとすると……。
「……打ちにくいですね」
「そういうこと。間接的に、相手の右を封じる動きなのさ」
右ストレートは、脇をしめて打ち出すパンチだ。
ある意味、自分の身体の内側へと向かって打つパンチ。
その、外側に移動するのが、いわゆる相手の右手側に回るという動きの意味のひとつ。
この動きにはもうひとつ利点がある。
こちらの動きに合わせて、相手は足の位置を変えなきゃならない。
こちらの動きで、相手を動かす……先手がとりやすいってことだ。
俺の言葉に、練習生たちがうなずく。
……ついでだ。
対策も教えておくか。
「その動きを止めるには、やはり強い右が有効だ。左のジャブを出して回るとわかっていれば、迎え撃つように右のフックでボディを狙う」
これは、相手の右に回ろうとするステップが、どういう動きになるか考えるといい。
左足が前で、左でジャブを打ちながら回ろうとすると……動きの起点は右足からになりやすい。
左足は、右足のあとに動く。
つまり、右フックでボディを狙うと、わずかに反応が遅れる。
もちろん、踏み込まないと届かないし、相手だってその対策は考えているから……そこでようやく、駆け引きらしいやり取りが始まる。
ボディじゃなくて、動きを止めるために相手の左肩を狙うのもありだ。
カウンターで脇の下に打ち込んでやれば、うるさい左ジャブを黙らせることもできる。
「とまあ、そんな単純でもないが、セオリーと言われるような事は、大抵はちゃんと意味があるんだよ。何故そうなのかと考えると面白いぜ」
「じゃ、じゃあ、なんで速水さんは逆に回るんですか?そんな人、あんまりいませんよね?」
ヒントは与えたから、質問する前に考えて欲しいんだが……まあ、いいか。
相手が左のほうに回る。
自分の姿勢は、左を前に出した、ある意味半身の状態。
さて、どうなるというと。
「……これ、視界が?」
「そういうこと。相手の左に回ると、俺の姿を追おうとして、動くんだよ……顔が」
速い左を二発。
練習生が、息を呑む。
「いい目標、だろ?」
ぽんぽんぽんと、練習生たちの頭を軽く叩いておく。
「さっきも言ったが、自分の身体と戦い方に合ったスタイルが一番だぜ。色々考えて試すのは、俺も賛成だけどな」
ほら、練習に戻った戻った……と、追い払う。
まあ、音羽ジムに来てから2年が過ぎたとはいえ、世間的には俺はまだ二十歳の若造にすぎない。
だから、こんな風に俺に話しかけてくる練習生は、俺と同年代か年下のほうが多い。
「……速水はいい指導者になりそうだなあ」
練習生とのやりとりを聞いていたのだろう。
感心したようにつぶやいたのは、トレーナーの村山さん。
俺に聞きに来ることに危機感を持つべきでは……という言葉は飲み込んでおく。
練習生の数が多いから、どうしても細かい指導が行き届かない部分はあるからだ。
まあ、運動不足解消のために通う、ボクササイズというか、フィットネス気分の練習生も少なくはないのだが……これは、年配の社会人に多く、本格的な指導は必要ない。
基本を教えた後は、怪我をさせないように目を配る感じになる。
というか、まだ二十歳の若造に、引退したあとのことを語るのはやめて欲しい。
「村山さん。俺に何か?」
「おっとそうだった。速水、会長が呼んでいる。話があるそうだ」
「話ですか……なんだろ?」
首をかしげながら、俺は会長室へ向かう。
音羽会長は、『一見』上機嫌だった。
まあ、それがわかる程度につき合いも長くなった。
「速水、喜べ」
「何をです?」
「ジュニアフェザーの、めぼしいランカーに声をかけたが、全部断られたぞ」
予想はしてたけど、何を喜べと言うんですかね。(震え声)
俺の疑問と、不機嫌さを読み取ってくれたのだろう。
会長が説明してくれた。
「お前がA級トーナメントへの参加を表明すれば、参加者が激減するってことだ」
……その発想は無かった。
8月から11月にかけて、A級トーナメントは行われる。
決勝は8R、それまでは6Rの試合形式だが、参加者が4人と8人だと、優勝するまでの道のりが2試合と3試合の違いになって現れる。
組み合わせでシードを受けるのは、基本的にランキング上位の選手。
俺は、参加者の中では間違いなく下位扱いだから、5人以上になるとほぼ強制的に3試合。
考えたくないが、9人以上なら4試合だ。
階級にもよるが、6~8人の参加数というパターンが多い。
基本はランカーと、ランク外の昇り調子の者が参加する。
そして、王者とのタイトルマッチを控えている者や体調が良くない者は不参加になるため、ランクが2~8位の選手プラスアルファというところに落ち着くからだろう。
なので、トーナメント優勝者は、たいてい4ヶ月で3試合をこなし、ランキング1位を手に、王者との対戦へと挑むことになる。
それぞれの階級の王者と1位の選手の対戦が、1月から4月にかけて次々と行われる……それが、チャンピオンカーニバルだ。
A級トーナメントに参加する以上、これが最終目的になる。
ただ、参加者が全員A級ボクサー、しかもランカーであることを考えれば、新人王戦よりも厳しく、ダメージと疲労の残る状態で王者と戦わなければいけない。
つまり、参加者が減って4人で収まってくれれば……タイトルマッチにいい状態で臨める可能性が高くなる。
「……って、会長。世界アマのヴォルグが相手じゃあるまいし、俺との対戦を断るのと、俺から逃げるってのは、全然別でしょう」
ランキング上位の選手は、無理に俺と戦うメリットが無い。
そりゃあ、普通の試合を申し込んでも断られる。
でも、A級トーナメントは別だ。
優勝すれば、賞金(50万)と、王者への挑戦権が得られる。
そこに意味があれば、俺との戦いを避ける必要は無い。
「速水……お前って、妙に自己評価が低いよな?」
「そうですかね?」
「フェザー級で、6戦6勝6KO……まあ、幕之内や千堂のあれは別格として、普通は攻撃力の高いボクサーとして評価されるんだよ。それが、今度は階級を落としてくる……逃げてもおかしくないだろ?」
……いまひとつ、ピンとこない。
俺は対戦相手を再起不能にしたりはしてないし、大きな怪我もさせていないはず。
……千堂は失神しただけだから、平気。
「とりあえず、俺の今後の予定はA級トーナメントに参加ってことですね?」
「ああ、そのつもりでいてくれ……お前なら勝てるさ」
まあ、出場するからには勝たないとな。
うん。
とりあえずの予定は決定と。
「それで会長」
「ん?」
「悪い話が、あるんですよね?」
ついっと、目を逸らされた。
人の善さは、スポーツ選手としてはマイナスに働くことが少なくない。
音羽会長がボクサーとして大成しなかったのは、そういう部分もあるんじゃないだろうか。
「その、あれだ……ちょっと、言いにくいんだが、な」
後楽園ホール。
前世では、格闘技の聖地として名高い場所だったが、この世界でも似たイメージだ。
わりと勘違いしている人が多いが、この『後楽園ホール』はひとつの独立した建物というわけではなく、ある建物のひとつのフロアを指して言う。
いわゆる、多目的スペース。
何かのイベントを企画する人間がこのフロアを借りて、それを行うわけだ。
なので、当然普段はリングなんか設置されていない。
フロアを借りた企画者が、リングの一式も借りて、試合前に設置している。
照明なんかもそうだ。
ボクシングだけでなく、プロレス団体や、いろんな格闘技の団体が、この後楽園ホールを借りて、イベントを行っているため、わりと予約は詰まっていることが多い。
ボクシングの場合は、興行主というか、主催者は規模の大きなジムであることが多い。
海外でいうところの、プロモーターをジムが兼任しているイメージ。
メインおよび、客の呼べそうな目玉となるカードの予定を立ててから、詳細を詰めていき、ホールの日程を押さえ、リングの設置から会場のセッティングを行い、試合を進行させていく。
当然、主宰するジムに所属するプロボクサーを中心としたマッチメイクになる。
逆に、プロボクサーの数が少ない、いわゆる弱小ジムと呼ばれる存在や、地方のジムなどでは、自らが主催して興行することは難しい。
この場合、興行を主宰するような他のジムの打診を受けて、自分のジムのボクサーの試合を組ませる。
当然、主催する側は自分のジムのボクサーが勝てるような相手を選んで打診する。
逆に、弱小ジムは……断る自由はあるが、思うようにマッチメイクできない状況に置かれる。
もちろん、ボクシングの興行はホールだけで行われるわけではなく、全国各地で行われている。
ただ、どうしても人口の違いからくる集客の問題と、興行に必要な選手の数をそろえることが、地方ほど難しくなるのが現状だ。
ちなみに、新人王戦やA級トーナメントは日本ボクシング協会の主催で行われる。
原作での『ボクサーはライセンスでホールの試合が見れる』というのは、間違ってはいないが無条件というわけではない。
他のジムの主宰の試合だとその限りではない。
さて、立ち見客も詰め込んで、3千人を収容できるとされるホール。
逆に言えば、3千人が限界。
立ち見客は2500円だが、指定席Cで5千円、Bで7千円、Aで1万。
座席数は2千に届かないぐらいだが、仮に、一律5千円で計算すると……最大で1500万の入場料収入となる。
そこからホールのレンタル料。
会場の設置費用や、資材のレンタル費用。
選手のファイトマネー。
人件費。
マッチメイクにいたるまでの雑費など。
具体例を挙げると、たとえば、俺の2戦目の相手のメキシカン。
選手とセコンド2人の、合わせて3人の渡航費に、宿泊費、そしてファイトマネーに、事前交渉にかかった費用。
当時4回戦ボーイの俺のために、おそらくは200万かそれ以上かけている。
これはあくまでも、俺の対戦相手にかけた費用だ。
その費用だけで、ホールが限界の超満員だったとしても入場収入の約7分の1が吹き飛ぶ。
夢も希望も無い話だが、主催するほうも色々と大変で、人が集まらずにホールがガラガラ状態になると……当然赤字になる。
どのジムも、客が呼べるボクサーは貴重だ。
そして、今日は……客の入りは座席3割以上4割未満で、立ち見を含めて800人ぐらいか。
まあ、この時代のタイトルマッチやトーナメントが絡まない興行としては、平均的な客数といえる。
ボクシングに限ったことではないが、イベントの本質は客が少ないときにこそはっきりと現れる。
盛り上がるのは、試合の関係者のみ。
ある試合では会場の一部で応援が始まり、別の試合では違う場所から声援が飛ぶ。
おそらくは、選手の関係者が固まって座っていて……それは、ファイトマネーとして選手に支給されたチケットが元であることは想像に難くない。
ホールにおけるボクシング興行の目安は、全部で50R。
たとえば、4回戦の試合が6試合で24R、6回戦が3試合で18R、メインの8回戦が1試合で8Rなら、全部で50Rということになる。
これは、ホールを借りられる時間帯の問題で、たいていは夕方の6時から始まり、終わるのは夜の9時から10時の間になるように調整されている。
タイトルマッチや新人王戦の決勝なんかは別だが、基本的に選手の入場は同時に行われる。
選手入場と簡単な紹介に2分。
1Rは、インターバルを合わせて4分……判定が続けば長引き、KOが多ければ進行が早まる。
ただ、良くも悪くも……ボクシングの試合の生観戦は、選手の入場と紹介、試合、そしてまた入場と、休憩を挟みながら、淡々とそれが繰り返される。
原作ではよく、鴨川ジムの青木さんと木村さんの泥仕合が描かれていたが……ああいうときの、会場の冷め具合はちょっと言葉にしにくいものがある。
もちろん、選手は必死なのだが……観客には関係ない。
俺は、通訳の人に声をかけた。
「生で見るボクシングの試合はどうですか?」
「え、あ、いや……なんというか」
どこか困ったように、言葉を濁された。
まあ、ボクシングファンでもない人間の正直な感想だろう。
幕之内、宮田、千堂、間柴など……原作での彼らは例外だ。
昔と違って、この時代、ホールが純粋に客で埋まることなどめったに無い。
ホールの客を沸かせる試合も、珍しいからこそ話題になる。
選手のファイトマネーであるチケットの客の割合が多いと、会場には身内感が強く漂う。
関係者の試合にしか注目しないからだ。
試合が終わると、エレベータ前の灰皿置き場に、喫煙者が殺到する。
誰が悪いわけでもないが、タバコのにおいが嫌いな人はひるむだろう。
エレベータではなく階段に目を向けると、壁いっぱいに落書きがなされている。
お世辞にも、上品なものとはいえない。
そもそも、落書きは禁止されている。
もちろん、それがいいという人もいるし、こうでなきゃと感じる人もいるだろう。
ただ、選手ではなく、ファンとしての目線でもなく、一般人としての感覚。
この、格闘技の聖地は……閉鎖的な雰囲気に満ちている。
それは、女性ならなおさら強く感じるだろう。
俺は、試合を見に来てくれるファンに感謝したくなる。
女性ファンについては、特に強く感じる。
俺の試合が終わると、そそくさと帰ってしまうのを引き止めようとは思えない。
『速水龍一』は、この光景を知っていたはずだ。
かつての、ボクシングに熱狂していた時代を、言葉でしか知らない世代。
世界戦の視聴率が50%を超えるのは当たり前、日本タイトルや、人気選手のノンタイトル戦にテレビ中継が入った時代。
ボクサーとして、ボクシングに関わる者として……それを取り戻したいと思うのは自然だ。
価値観の分散ともいえる時代の流れを知っている『俺』でさえ、どうにかしたいと思う。
今は、力が無い。
発言力が足りない。
二十歳の若造の言うことに耳を傾けてくれる人は少ない。
同じスポーツジャンルの、野球や大相撲、サッカーなどに勝る利点を示さねば、企業人は興味を持たない。
利益でつるには、ファンを増やさねばならない。
この、目の前の光景を見せて……利益を語ればむしろ滑稽だろう。
ボクサー個人ではなく、ボクシングというジャンルを盛り上げなければ意味がない。
ジムが主宰の興行であっても、業界間の取り決めのようなものは存在する。
音羽ジムが勝手をすれば、確実に圧力はかかるだろう。
味方を増やせば、敵も増えるのはお約束だ。
現実は、なかなかに厳しい。
まあ、最初からわかっていたことだ。
リングを見つめる、ヴォルグとラムダコーチ。
2人には、そこそこ英語が通じる。
というか、ラムダは俺よりも英語が上手だった。
通訳の人はボクシングがわからない……ということで、今日は俺が案内役としてこの場にいる。
これが、音羽会長の頼み事のひとつ。
世界アマ王者のヴォルグ。
そして、旧ソ連のトップ指導者のひとりであるラムダ。
彼らが夢想していたのは、世界トップレベルの選手や、その関係者が話す、華やかな世界戦の光景ではなかっただろうか?
ヴォルグとは、ジムで自己紹介し、ここに来るまでにも話をした。
原作を思わせる、人懐っこい感じがする好青年。
あるいは、何とかしてこの日本になじもうとする意欲がそうさせるのか。
病気の母のため、母に楽な生活をさせるために、この国にやってきたと。
求めるのは名誉でもなく、強い相手でもなく、母を楽にさせるためのお金だ、と。
金が目的ならば、現実を見てもらうしかない。
資本主義の基本は、『人はみんな、払った金額に応じたリターンを求める』ことだろう。
この、後楽園ホールを客で埋められるか?
ホールを埋めた客を満足させ、また来たいと思わせることができるか?
その上で、勝ち続けることができるか?
ヴォルグは、輸入ボクサーとして毎月の手当てが出る。
給料と言っていい。
仕事は、年に3試合か4試合、そして24時間全てをボクシングに打ち込み、給料に見合うリターンを、音羽ジムとスポンサーに与えること。
『ヘイ、速水』
『なんですか、ラムダさん?』
『この国では、駆け引きや、細かい技術戦は好まれないのか?』
『その傾向は、あります。欧州とは別物と思ってください』
少し考え込み、ラムダがヴォルグに話しかけた。
ロシア語だろう。
時々、聞き覚えのある単語が耳をかすめるが、それだけだ。
某ヘビー級ボクサーの、日本での防衛戦。
あれが、予想以上に受け入れられた。
ファンではなく、一般人に。
おそらく……テレビ局の基準は、あれになっている。
一度成功したモデルへの固執。
『ラムダさん、そしてヴォルグ』
2人が俺を見る。
『ファイトスタイルよりも大事なことがあります……それは負けないこと』
日本人には、『無敗信仰』みたいなものがある。
負けたことが無い。
全勝。
知らないジャンルでも、興味の無い競技でも、『負けたことが無い』という言葉に、気を惹かれる。
もちろん、それは世界でもそうだろうが……日本人は、その傾向が強いと俺は思う。
俺が、勝ちにこだわる大きな理由のひとつ。
無敗は、アマ時代からの、俺の財産だ。
それは、ある種の魔法。
ひとつ負けるとたちまち消える。
魔法が消えるまでに、知名度をどれだけ高められるか。
落ちた犬というか、幻想を叩きまくるのも、日本人の特色だ。
挫折からの復活話がお約束なのも、ある意味、そういうカバーストーリーが必要になるぐらい『常勝』や『無敗』への信仰が強いからだと思う。
『200戦以上戦って負けたことが無い。それはヴォルグ、君の大きな利点だ。この国では、世界アマ王者よりも負けたことがないということが大事かもしれない』
ヴォルグが負けるところを見たい人。
日本人がヴォルグを倒すのを期待する人。
ある種のアンチを巻き込んで勝ち続けた先に……より広い道が開けるかもしれない。
俺は、2人を利用する。
だから。
俺は、2人に対してできる限り手を貸す。
俺とヴォルグ。
日本と世界で、負けたことが無い2人。
耳目を集める、ウリになるはずだ。
『勝つことだ。何よりも勝ち続けることが大切だと俺は思う』
自分自身に言い聞かせるように。
俺はそう言った。
帰りの電車の中で、頭をよぎったのは、前世の記憶。
ソ連崩壊よりも前に、やってきた輸入ボクサーの6人。
3人はすぐに帰国させられた。
残った3人のうち2人は、世界王者になった。
2人の世界王者。
1人は、ボクシングファンでなくとも名前を知っている程度に有名になり、人気も出た。
しかしもう1人は……勝ち続けても、世界王者として防衛を重ねても、客が集まらなかった。
テレビ放送はなし。
後楽園ホールですら、客で埋まることは無かった。
勝ち続けても、だめなことはある。
それでも、勝ち続けなければ話にならない。
『リュウ』
『ん、どうした、ヴォルグ』
原作のイメージでつい『ヴォルグ』と呼んでしまったのだが、笑顔で『それなら、私はリュウと呼んでいいですか?』と返された。
どうも、『速水』の『み』も、『龍一』の『い』の発音も、ヴォルグには難しいらしい。
なので、『リュウ』だ。
『今日は……』
少し言いよどみ……口を開く。
「キョウハ、アリガトー」
素朴さを感じさせる、穏やかな微笑み。
幕之内とはまた少し違う、放っておけないというか、手助けしてやりたくなる印象がある。
「気にすることは無いよ。同じジムの仲間だしな」
「……?」
英語で、言い直す。
『ジムメイトだ。俺がヴォルグに世話になることもある……そのときは頼むよ』
『……自信が無いです』
『俺も自信はないが、ちゃんと『スパシィヴァ』って言うからさ』
『ノー。リュウ、『スパシーバ』です』
ヴォルグが笑う。
つられて、俺も笑う。
それを見る、ラムダの表情が少し柔らかい。
明日からは3連休。
音羽会長の頼みごとの2つめ。
ヴォルグの、スパーリングパートナー。
ヴォルグとのスパーなんて、こっちから頼みたかったぐらいだ。
スポンサーとか関係ないというか……ヴォルグ個人には、何も含むところは無いのにな。
まあ、問題は……俺がちゃんと、ヴォルグの練習相手になれるかどうか、だな。
世界アマ王者の実力を発揮できるなら、それは世界ランカー相当と思っていいだろう。
ただ、少し話をした感じでは……やはり、ブランクがあるらしい。
3年前の世界選手権。
そして、去年の世界選手権。
旧ソ連のナショナルチームでメダルを取った仲間の多くは、ペレストロイカの名の下に、ヨーロッパでプロへの転向を果たしたらしい。
しかしヴォルグには、故郷に病気の母親がいた。
病気の悪化と、その治療費捻出のために……母親の世話を人に頼み、はるばる日本までやってきた、か。
おそらく、日本行きを世話してくれた関係者や、音羽会長にも話したことなのだろう。
だから、初対面の俺にも個人の事情を話してくれたのだと思う。
というか、去年の世界選手権の前後からヴォルグへの働きかけがあったとか。
つまり、俺が幕之内と戦う前から、俺を切り捨てる準備をしていた。
結局、宮田や千堂と戦う際に感じていた俺の悩みは、ほぼ意味が無かったってことだ。
とはいえ、だ。
……少なくとも、テレビ局の連中は、世界への挑戦を失敗した日本人ボクサーを見続けてきた。
やはり、今の俺には『何か』が足りないように見えたのだろう。
世界を獲るための何か。
あるいは、世界挑戦に失敗する日本人ボクサーと同じ何かを感じた。
スポンサーに腹を立てるのは簡単だが、俺は俺で、きちんと現実を見なければいけない。
利益には聡い連中が、俺を切った。
そこを、忘れてはならない。
ふっと、伊達英二の姿が浮かんだ。
ブランクを取り戻すために、強敵を求める姿を。
俺もまた、足りない何かを手に入れなければいけない。
あるいは、足りないものを埋めてなお余るぐらいの何かつかまなければならない。
ヴォルグとのスパーで……何か、つかめるだろうか。
ヴォルグとのスパーまでいけなかった……。(目逸らし)
なお、今は、立ち見が大人3500円になってます……指定席は秘密。
ボクシング業界の状況も、個人的には悪化してるように感じます。