速水龍一で始める『はじめの一歩』。   作:高任斎
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知 人:「……A級トーナメントって、全階級でやってなかった気がする」
 私 :「え?」
知 人:「うろ覚えだけど、年度によって開催される階級が違ったような……」
 私 :「こ、この物語はフィクションだから……(震え声)」

あとで原作を確認したら、しれっと『7階級』などと書かれていたりする。
日本はミドルまでだけど、ミニマム(ストロー)級からなら、ミドルまで13階級。
レギュラー階級なら7階級なんだけど……真実を知るのが怖いので、調べません。
ツッコミは、みなさんの心の中に。


15:A級トーナメントに向けて。

 ヴォルグとのスパーを始めてから、ヴォルグはもちろん、ラムダとも話をする機会が増えた。

 

 ……というか。

 旧ソ連、ロシアといっても、その地域は広いが、日本の食生活とは違う。

 当たり前と言えば当たり前だが、日本のそれは欧米とも違う。

 

 慣れない食生活に苦労しているのかと思ったが、もっと大事なことがあった。

 

 減量というか、体重制限のある競技での、栄養バランス。

 ヴォルグとラムダには、日本の食材の知識が乏しい。

 カタコトの日本語はしゃべれても、ヴォルグは漢字が読めない。

 通訳の人は、ボクシングというか、スポーツの専門知識がない。

 

 俺の部屋の資料からめぼしい物をコピーし、通訳の人にも頼んで訳していく。

 

 まさかとは思うが……原作において、ヴォルグのコンディションは来日してから悪くなっていたんじゃないだろうな。

 正直、笑えない。

 

 ちなみに、ヴォルグは日本食への適応が早かった。

 本人曰く。

 

『私の故郷、とても貧しい。それを思えば、きちんと食べられるだけで幸せ』

 

 ……強いというか、たくましい。

 そう思う。

 

 そしてラムダは。

 

『青年の頃、私は軍にいたんだよ』

 

 あ、はい。

 

 ……たぶん、触れないほうがいい。

 

 

 

 

 スパーも順調に消化している。

 というか、ラムダの指導は細かい。

 

 俺の経験でいうと、スパーが終わった後、あるいはRの合間。

 もしくは、スパーを続けながら注意点を指示として飛ばす指導者が多い。

 

 ラムダは、たびたびスパーを中断させ、指導と修正を行った。

 

『悪いことをしたら、その場で叱りなさい』という、子供のしつけと同じか。

 

 なんとなくではなく、その場で注意点を明らかにし、改善させる……そして、スパーを再開して、ヴォルグがそれに応える。

 

 それを見て、俺はなるほどなあと感じる。

 こうすれば良くなるというか、相手がどう感じるかを、実際に体験することになるのだ。

 ヴォルグへの指導が、そのまま俺への教科書になった。

 

 5月が過ぎ、6月に入ると……俺とヴォルグのスパーは、ほとんど中断されることは無くなった。

 

 すると、今度は逆に、俺への注文がつき始めた。

 といっても、スパーの前に『インファイト、ボディを攻めてくれ』などと、ヴォルグへの課題のための注文だが。

 

 注文がつく程度には、ラムダに認められている。

 

 ……そう思うことにしている。

 

 しかし、クレバーなボクサーとか、優秀なボクサーと言われるより、ただ一言、強いボクサーと言われてみたい。

 

 

 

 

 6月の半ば、ヴォルグにA級ライセンスがおりた。

 それと同時に、音羽ジムと世界アマ王者のヴォルグとの契約が、正式に発表された。

 ボクシング雑誌には大きく、新聞記事としては小さく。

 もちろん、記事として採用されなかった新聞もある。

 

 6月末が締め切りだったA級賞金トーナメントにも、正式にエントリー。

 もちろん、ヴォルグはフェザー級、俺はひとつ下のジュニアフェザー級。

 組み合わせの正式発表は、7月の中旬あたりになるだろう。

 

 噂では、フェザー級のランカーを抱えるジムは、阿鼻叫喚状態らしい。

 

 ヴォルグの来日そのものは知っていても、日本タイトルではなく、最初から東洋、あるいは世界を狙うと思っていた関係者も少なくなかったのだろう。

 伊達英二のいる仲代ジムは、スポンサーがらみで先の展望を知っていたからこその反応だ。

 

 冴木から俺の家にも電話がかかってきたが、『はは、がんばれよ』とだけ伝えて切った。

 A級トーナメントにエントリー済みだったらしい。

 

 冷たいようだが、それ以外に何を言えと。

 

 まあ運がよければ、冴木はスリルをおなかいっぱい味わえるはずだ。

 うん、ヤツも本望だろう。

 

 ……たぶん、食べすぎておなかを壊すことになるだろうが。

 

 そしてひっそりと。

 俺、速水龍一の階級変更の記事が、月刊ボクシングファンに掲載された。

 専門誌はともかく、新聞記事にはならなかった。

 

 これまでの記事の大半が、スポンサーの影響だったということかもしれない。

 

 まあ、勝ち続けるだけだ。

 前に向かって、歩き続ける。

 

 今は、俺にできることだけを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 数ヶ月前に、同じことをやった気がする。

 

 ……来ちゃったか。(白目)

 

「ワレ、階級を下げるってどういうことや!」

 

 ……ふむ、何事も主導権は大事、と。

 

 とりあえず、勢いをとめるために腹パン。

 もちろん、軽くだ。

 

「貴様、何を……」

 

 そして追撃を。

 千堂の顔の前に、すっと手のひらを出す。

 

「大阪からわざわざ、新幹線代を返しにきてくれたのか、悪いね千堂くん」

「……」

 

 千堂が、目を逸らした。

 

 これで、勝ちを確信する。

 ボクシングでも、これぐらい簡単だったらなと思わなくもない。

 

 千堂が気まずさを感じたところでぽんと肩を叩いて親しさを示し、流れるように世間話へ移行。

 そして、『階級を変更すると聞いて、俺を心配してわざわざ大阪から来てくれたのか。ありがとう』と頭を下げることで、止めを刺しておいた。

 

 基本、千堂のようなタイプは面倒見がいい。

 そして、一度冷静になれば、それなりに空気も読める。

 俺に文句を言いに来たんだろうが、『心配してくれてありがとう』と礼を言われてしまった以上、黙るしかない。

 

 スポンサーの関係とか、意向とか、それらを説明したところで腹を立てるだけだろう。

 まあ、千堂も上を目指すことになれば、面倒を抱え込むことになる。

 

「というか千堂くん。君、仕事とかしてないのか?」

「あ?なんやそれ?」

 

 聞けば、ファンというか、結構な人数の後援会が発足しているらしい。

 実家暮らしでもあり、ボクシングに打ち込める環境は揃っているようだ。

 

「なんや……ワレ、ボクシングだけやのうて、仕事もしとるんか?」

「別に、俺だけじゃないぜ?幕之内くんだって、家の仕事を手伝っている……ボクシングだけに打ち込めるのは、ごく一部さ」

「……面倒な話やのう」

 

 幕之内といえば、5月末に試合をして勝っていた。

 2Rで倒したものの、鴨川会長に怒鳴られていた。

 間柴はやはり階級をジュニアライト(スーパーフェザー)にあげ、8回戦に昇格した。

 おそらくA級トーナメントには、出てくるだろう。

 宮田の復帰戦については、何も聞こえてこない。

 

 そして千堂は……。

 

「7月にようやく復帰戦や。誰かさんのせいで、強制的に3ヶ月休養させられたからな」

「じゃあ、A級トーナメントには間に合わないのか?」

「ワイは基本的に、関東では試合はせんよ」

 

 ああ、そういう方針なのか……。

 千堂ならキャパが後楽園ホールの倍の大阪府立体育会館を満員にできるだろうしな。

 遠征なんかしなくても、関西で独自路線を歩めるか。

 

「ん?7月って、7月のいつだ?」

「7月の頭や」

 

 とりあえずもう一度腹パン。(やや強め)

 

 東京に来てる場合か?

 

 会長に頼んで、なにわ拳闘会にも連絡を入れてもらった。

 一応、試合前のクールダウン……疲労を抜く時期と聞き、少し安心する。

 

 まあ、仕方ないので俺のアパートに泊めたが。

 仕方ないので、また新たに帰りの新幹線代を俺が立て替えたが。

 

 ……たぶん、次に会ったときもこのネタで何とかなる。

 そう考えれば安い、か。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 7月の頭。

 

「森田クミコ……ああ、なんか聞き覚えはあるな」

 

 俺がそう言うと、練習生たちが、うわぁという感じの表情を浮かべた。

 

 たぶん、アイドルの名前。

 前世もそうだったが、芸能人には疎い。

 

 学生時代は、学校と、ボクシング(野球)と、ボクシング(野球)。

 そして今は、仕事と、ボクシングと、生活。

 

 逆にたずねたくなる。

 芸能人を知る時間なんて、どこにあるんだと。

 

 そう言ったところで反論されるのはわかっているから、黙っておく。

 

「それで、その森田さんがどうした?」

「いや、うちのジムに取材に来るらしいですよ」

「雑誌じゃなくてテレビですよ……俺も、テレビに映りますかね?」

 

 ああ、と納得する。

 ヴォルグの売り出しか。

 A級トーナメントに向けて、ヴォルグをマスコミを通じて露出していく。

 つまり、あのスポンサーというか、テレビ局の番組だろう。

 そして、ボクシングが絡むとなると……。

 

 

 

 ……こうなる。

 

 テレビ局というか、番組作成のクルーが、気まずそうな表情を浮かべていた。

 そりゃ、俺とは顔見知りだし。

 引越しの様子やら、伊達英二とのスパーやら、撮影してくれた仲だ。

 

 そして、空気を読めないのか、あるいは敢えて読まないのか、森田クミコというアイドルが、ものめずらしそうに、ジムの内部を見渡していた。

 

 浮き足立つ、練習生たち。

 

 心の中で、『自分に縁のある女性に目を向けるほうが現実的だぞ』と呟いておく。

 

 まだ、カメラは回っていない。

 たとえ5分しか放送しない内容だとしても、撮影そのものはその何倍もかかる。

 あとで編集して、その時間に収めるわけだ。

 

 そして、撮影の前にきちんとうちあわせというか、細かい取り決めをする。

 それにまた時間がかかる。

 

 おそらく、ヴォルグの練習の撮影を含めて、3時間ほどはつぶれるだろう。

 

「この人にしましょう。顔もいいし、画面映えすると思います。私と並んでも背が高すぎることも無いですし、画面バランスも悪くないと思います」

 

 ジムの紹介、あるいはボクシングの説明のために、質問に答える役。

 ジムの、ボクサーからそれを選ぶ。

 

 彼女、森田クミコが選んだのが俺だった。

 

 クルーの顔が引きつる。

 カメラマンの人は、俺に頭まで下げた。

 

 とりあえず、気にしないでいいですと声をかけておく。

 

 しかし、このアイドルの希望が通るってことは……まあ、番組制作上、強い立場からの推しがあるってことか。

 まあ、俺にはこれっぽっちも関係ないが。

 

 そして当然だが、ジムにいる人間は、普段どおり、真面目に練習するフリをする。

 画面のバランスもあり、位置なんかも細かく指定される。

 編集ではどうしようもない部分を、こうして打ち合わせで調整していく。

 

 

 コンセプトは、栄光をつかむために旧ソ連からはるばる日本にやってきた、アレクサンドル・ヴォルグ・ザンギエフという一人の青年の紹介だ。

 インタビューはこんな感じ。

 

 世界アマチュアボクシングの大会、オリンピック、そして世界選手権の、ほぼ全ての階級の優勝者を輩出した歴史を持つ旧ソ連。

 その、今は亡き祖国の実力と栄光を証明するために、日本へやってきた。

 世界王者になることは、自分の使命。

 

 世界へ向けてのステップとして、まずは伊達英二のベルトをいただく。

 

 

 もちろん、台本を元に、ヴォルグが語り、通訳の人が訳すわけだが。

 

 台本も含めて、ヴォルグは手馴れた感じだった。

 まあ、旧ソ連のスポーツエリートであったことを考えると、納得だが。

 若くとも、国の威信をかけて戦っていた立場の人間だからな。

 

 

 病気の母の治療費のために……という事情が語られることは無い。

 日本人には、その方が受けがいいだろうが……おそらくテレビ局の、伊達英二との決戦として盛り上げたい意向が透けて見える。

 そのために、敢えてヴォルグの精悍さや決意をクローズアップさせる構成にしたのだろう。

 

 ヴォルグ単体を推すなら、病気の母のためにという部分はカットしないだろう。

 練習風景を流し、インタビューに答え、そして最後にニコッと微笑ませて『ヴォルグ・ザンギエフです。応援してください』などと言わせるはずだ。

 真剣な表情と、人懐っこさのギャップ。

 俺ならそうする。

 

 まあ、テレビ局だって、遊びでやっているわけじゃない。

 

 ヴォルグが伊達英二に勝利したならば、おそらくは『狼と称されたボクサーの素顔』みたいな感じに、視聴者に対して親しみを感じさせる構成の露出を始める。

 

 そこで受け入れられることを信じて、ヴォルグもまた勝ち続けるしかない。

 

 

 

 撮影は進み、今はヴォルグのミット打ちの様子を追っている。

 

 ラムダが構えるミットは、ボールというか球状のミット。

 大きさは、ハンドボール以上、バレーボール未満ぐらいか。

 それを、ラムダが自分の左の拳にはめる感じで、ヴォルグを指導している。

 

「なんだか、不思議な形の……ミットって言うんですか?ボールみたいですね」

 

 カメラの前だと森田嬢の口調が違う。

 アイドルもまた、プロだ。

 

 そんな森田嬢の質問に、俺が答えていく。

 

「ちなみに、普通のミットはこんな形です」

 

 ここで言うミットは、野球のグローブとは違う。

 革と綿でできた、長方形の板のような形をしている。

 

「これをどう使うかと言うと……」

 

 ジムの中を見渡し……目線でアピールしてくる練習生を無視して、トレーナーの村山さんを呼んだ。

 カメラに向かって、軽く紹介してから、ミットを構えてもらった。

 

「構えたところに、テンポ良く、パンチを打ち込んでいきます」

 

 ただ、このミットは板のような形をしている。

 この、板に対して垂直にパンチを打ち込まなければいけない。

 つまり、ミットをどの位置に構えるかだけではなく、どの角度で構えるか。

 それを見て、ボクサーは、どのパンチを、どの角度で打つかを判断して実行しなければいけない。

 

 もちろん、角度がずれると、いい音は出ないし、パンチの手ごたえも失う。

 

 最初はゆっくりと、基本のパンチから。

 少しずつ少しずつ、子供の手を引くように、『次はこのパンチを打てばいい』と教え込んでいくのが、ミットを持つ指導者の腕の見せ所といえよう。

 

 まあ、へたくそな人がミットを持つと……本当にひどいのだが。

 

「すごーい。ミットを構える人って、ボクサーにとっては母親みたいな存在なんですね」

「はは、まあそんな感じかもしれないかな」

 

 既婚者の村山さんが照れながら、森田嬢に答える。

 

 俺の反応が、枯れすぎなんだろうか……?

 

 まあ、今は撮影への協力に集中しよう。

 長引いたら、練習時間が削られるだけだからな。

 

「じゃあ、あのボールみたいなミット?は、変なんですか?」

「うーん、変と言うか……上級者向けですね」

 

 普通のミットは、いわば板だ。

 角度さえ合えば、有効な面積は広い。

 しかし、今ラムダが構えている球状のミットは、球状なだけに有効な面積、芯が極めて狭い。

 

 クルーの一人から、スケッチブックとマジックペンを借りて、円を描いた。

 それを、カメラに見せながら、説明していく。

 

 球状のミットの中心に向けて、まっすぐ打ち込むパンチ。

 円に向かって矢印を描く。

 この、矢印の向きが、少しでもずれると……球状のミットの表面にはじかれる、あるいは滑っていく。

 

 何よりも、正確性が求められる形状。

 

「そして、もうひとつの利点……あらゆる方向からのコンビネーションに、対応できることです」

 

 板状のミットは、パンチに対して垂直に構えなければいけない。

 しかし、ラムダの構える球状のミットなら、狙わせる場所に置くだけで、上下左右からのパンチに対応できる。

 

「さあ、そろそろヴォルグに注目してください……」

 

 ミット打ちのフィニッシュに向かって。

 ラムダから指示が飛ぶ。

 

 左右のフック。

 

 こじ開けられたガードを、俺は幻視した。

 

 そして、高速の上下のコンビネーション。

 ホワイト・ファング。

 

「え、え、今の?」

 

 良くわかっていない森田嬢に、そしてテレビカメラに向けて説明した。

 まず、右の打ちおろしから入り、左のアッパーで突き上げた。

 ゆっくりと、その動きをトレースしてやる。

 

 ボディで相手の顔を下げさせてからあれにつなげると、防ぐのは難しいだろうな。

 コンビネーションが全て死角から飛んでくる。

 そして、どちらもクリーンヒットすれば単独でダウンが奪えるパンチだ。

 

 

 

 取材が終わると、練習生が何人も森田嬢にサインをねだりにいったが……その姿がどこかほほえましい。

 

 とりあえず俺は、クルーのひとりひとりに、『お疲れ様です』と声をかけておいた。

 また、一緒に仕事をすることもあるかもしれないし。

 現場の人間を敵に回すとろくなことがない。

 少なくとも、悪い印象はもたれないようにしたい。

 

 

 余談だが、番組での俺の解説がわかりやすいと好評だったそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 7月中旬。

 A級トーナメントの組み合わせが発表された。

 日程は、各階級をおおまかに『軽量級』『中量級』『重量級』の3つにわけ、それぞれのカテゴリーで試合を消化していく。

 ジュニアフェザーの俺と、フェザーのヴォルグは『中量級』の同じカテゴリーなので、試合日程も同じになるのだが……。

 

 フェザー級のエントリーは4人。

 そして、ジュニアフェザー級のエントリーは『5』人。

 

 ……チクショウ。

 

 3月から試合をしていない俺は、当然ランキング外へと落ちている。

 そんな俺と、参加者の中でもっともランキングが低い選手との組み合わせが1回戦。

 それを勝って、準決勝だ。

 

 優勝するつもりなら、俺は3試合やらなきゃいけない。

 

 しかし、フェザー級のエントリーで、興味深い名前があった。

 組み合わせはこうなる。

 

『ヴォルグ対沖田』と『冴木対鈴木』。

 

 沖田圭吾は、伊達英二と同じジムに所属しているから、優勝してもタイトルマッチには挑めない。

 というか、スポンサーの想定は、『伊達英二対ヴォルグ』だ。

 

 たぶん、伊達英二のために……自分が闘ってヴォルグの情報を引き出したいとか、そんなとこだろう。

 おそらく、仲代会長も、沖田に押し切られた、か。

 

 冴木の相手の鈴木は、5月のタイトルマッチで伊達英二に負けた、インファイターだ。

 ベテランで、駆け引きも含めてわりと荒っぽいこともできる。

 技術と速度で勝る冴木が、それをどうさばくか。

 わりと面白い試合になりそうな気がする。

 

 

 

 

 7月下旬。

 

 最終調整段階の、ヴォルグとのスパー。

 4Rを、無事に終わらせた。

 

 最近は、ダウンはもらわない。

 ラムダの指示で防御に徹したときは、ほぼパンチをもらわなかった。

 ただ、防御だけでは勝てないからな。

 

 もちろん、ダウンを奪ったことは一度もない。

 

 経験というか、やはり慣れというものはある。

 そしてその分、ヴォルグの、ボクサーとしての奥を知る。

 

 ヴォルグというボクサーを語るのに、その上下のコンビネーションだけを取り上げても意味は無いが……とにかく、バリエーションというか、組み合わせが豊富だ。

 

 これはあくまでも、変化の一種なのだが。

 

 ヴォルグのアッパーをブロックする。

 こちらは、返しの打ち下ろしに意識を向けている。

 あるいは、空いている手でカウンターを狙う。

 そこで、ヴォルグの手がブロックしている俺の手をほんの少し押すのだ。

 

 人の身体は、押されたらバランスをとろうと反応してしまう。

 ある意味、無意識の反応。

 

 無意識に、それを押し返そうとする。

 わずかに、姿勢が前かがみになるというか、重心が移動する。

 

 正確に言うと、その、押し返そうとする俺の動きに合わせて、打ち下ろしをもってくる。

 

 人間の身体を熟知したラムダの指導、そしてヴォルグというボクサーの稀有な才能。

 その二つが可能にした、高度なテクニック。

 それを、さり気なくやる。

 

 傍から見れば、ホワイトファングの一言で片付けられてしまうだろうが、実際にそれをもらう俺に言わせれば、別種のコンビネーションだ。

 タイミング、角度、威力……多くのコンビネーションの中からひとつを選択して繰り出してくる。

 

 俺の連打は、細かく早く正確に……を目指していたが、瞬きするような時間の中の駆け引きの存在を知ると、安っぽく思える。

 自分がパンチを打ちやすいタイミングではなく、相手にパンチを当てやすいタイミング。

 

 まだ、できることがある。

 山は高く、海は深い。

 そして、世界は広い、か。

 

 

 

 ……まあ、ヴォルグが相手だと、そもそも連打の段階にもっていくのが困難なのだが。

 

 防御に関してはレベルが上がった気はするが、攻撃面では停滞している感じがする。

 というか、レベルアップした実感が持てない。

 そりゃあ、慣れもあってか、ヴォルグにパンチを当てることはできる。

 ただ、追撃を許してくれるような相手じゃない。

 

 

『ヘイ、速水』

『ああ、ラムダさん。どうしました?』

 

 ラムダの手には、球状のミットボール。

 

『ルールというか、マナー違反なんだがね……少し、見てあげよう』

 

 

 

 

 ラムダの構えるミットボールに、打ち込んでいく。

 

『速く、正確に。続けて』

 

 ミットの位置は、アゴの位置。

 距離は近い。

 

 左右のフック。

 そしてアッパー。

 

『連打だ。左右のフック』

 

 芯をはずしてしまう。

 それでもラムダは、俺に接近状態における高速の連打というか、コンビネーションを強要する。

 そして、ボディは打たせない。

 アゴの位置だけを狙わされる。

 

 3分という時間を越えて、ひたすら打ち込む。

 

 最初の一発目はいい。

 しかし、後続のパンチが芯をはずす。

 

 ミットボールを構えるラムダの手が、パンチを受けて細かくぶれる。

 その分、狙いが……。

 

 あ。

 

『……気づいたかね?』

 

 パンチを当てる。

 衝撃が、相手に伝わる。

 反動が、自分に来る。

 

『速水。君の連打は、速くて正確だ……しかし、間違った正確さだよ』

 

 ラムダが、俺の目の前でミットボールを左右にゆらゆらと揺らした。

 

『パンチを当てれば、相手の身体は動く。そして、元に戻ろうと反応する』

『俺は……俺が狙っているのは……同じ場所です』

『楽をしてはいけないよ、速水。考えることをやめてはいけない。なにより、クレバーさは君の武器だろう?パンチの衝撃でどう動くか、そして相手の反応を予測して、次のパンチを打つ』

『もっと、相手を見る?』

『ノー。大事なのはイメージだ。パンチを当てたあと、相手がどう動くか。反撃する余力があるかどうか、戦う意思が残っているかどうか。姿勢、バランス、そして自分の体勢。そして、相手の視界をもイメージすることだ』

『視界……ですか』

『シャドーボクシングでは、戦う相手を想像しておこなうね?それは君の視界だ。相手の視界を想像する。相手から見える自分をイメージする。君もそれをやっている……が、まだ浅い』

 

 

 目で見て、パンチを避ける事はできない。

 予測して避ける。

 なら、攻撃も同じか。

 予測して攻撃する。

 パンチを打とうと思ったときと、パンチを当てるときとでは、相手の身体、急所の位置はずれている。

 俺が良く狙うアゴは、なおさらだ。

 

 

 人間の脳は、頭蓋骨という器に満たされた液体の中に浮かんでいるようなものだ。

 頭部に衝撃を与えると、慣性の法則で脳が揺れる。

 その、人間の頭を支えているのは首だ。

 

 てこの原理。

 

 アゴの先を狙う。

 首から遠く、負担のかかる場所。

 左右のフックで狙えば、人の頭は瞬間的に回転する感じで大きく揺れる。

 

 それ故に、ピンポイントで狙わなければ、効果は薄い。

 少しのずれが、台無しにする。

 

 正確さ。

 間違った正確さ、か。

 

 

『ありがとうございます、ラムダさん』

『……別の指導者がついている選手への指導は、マナー違反だ。口外しないでくれ』

 

 え?

 ああ、そういう……。

 

『この国では、こうするのだったか?』

 

 ラムダが、一本指を立てて、唇の前にあてた。

 

『内緒だ』

 

 い、意外と、お茶目なところもあるんだ……。

 

『スパシーバ、ラムダさん』

『速水。君が、このジムにいた幸運に感謝する。おかげで、ヴォルグをいい状態でリングへと上げられそうだ』

 

 ミットボールをはずし、ラムダが俺に背を向けた。

 そして、立ち止まる。

 

『……ヴォルグはアマで200戦以上戦ってきたが、ここ2年の成績を知ってるかね?』

『いえ、詳しくは知りません』

 

 振り返り、ラムダが微笑んだ。

 

『国内、欧州、そして世界選手権。その全ての試合を、2R以内にRSC(レフェリーストップコンテスト……まあ、KO勝ちみたいなもの)だよ。それが、ヴォルグ……『私の』ボクサーだ』

 

 

 ラムダが歩き去り、しばらくしてから気づいた。

 

 もしかしてほめられたのか、俺?

 初めてのスパーも、一応2Rは耐えたし。

 

 

 考えることをやめるな、楽をしてはいけない、か。

 確かに……そうか。

 防御に比べたら、細かく正確にとか、フェイントも含めて、自分のやりたいことをやっていただけかもな。

 どんな状況でも、相手あってのボクシングだ。

 

 ……練習生相手に、『頭を使え』ってドヤってたのは誰だよ。

 

 

 

 しかし、私の(マイ)ボクサーか。

 本当に、海外のトレーナーはそういう表現を使うんだなあ。

 

 選手をモノ扱いした表現と言う人間もいるだろうが、もっと、こう……温かみを感じる言葉だよな。

 家族、あるいは一心同体という感じの。

 

 ふと、考える。

 俺は、誰のボクサーなんだろう?

 

 最初に門を叩いた、故郷のジム。

 高校の、ボクシング部の顧問。

 そして、音羽ジムの……まあ、村山さんになるのか。

 会長は、結構忙しいしな。

 

 あんまり、マンツーマンで鍛えてもらった記憶は無いんだよなあ。

 基本はともかく、自分で調べて、考えて、工夫して……練習スケジュールも、自分で決めてやってるし。

 俺のやり方は、ちょっと極端かもしれないけど、ある程度自由にやるのはボクサーとして珍しくはない。

 

 幕之内と鴨川会長のように、絆のようなつながりを持つ師弟は……たぶん、少数派。

 まあ、ほかに指導しなきゃいけないボクサーがいるのが普通。

 マンツーマンに近い指導は、どうしても専属トレーナー状態じゃないと、厳しい部分がある。

 

 

 ラムダの構えたミットボール。

 そして、次々と飛ばされる指示。

 

 ちょっと憧れる、かな。

 

 まあ……人は人、自分は自分、だな。

 

 

 それよりも、月が変われば、A級賞金トーナメントが始まる。

 暑い夏になりそうだ。

 




さあ、次からトーナメント開幕よ。

とりあえず、明日も更新。(予約)




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