速水龍一で始める『はじめの一歩』。   作:高任斎

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A級賞金トーナメント開始。
一応、全部の階級で開催されていると思ってください。
なので、日程とかそのあたりは分散したということで。


16:異変。

 8月。

 

「今日も、暑いよなぁ」

「はは、そうっすね」

 

 独り言じみた会長のつぶやきに、相づちを返す。

 

 7月末から、太平洋高気圧が例年よりもせり出してきているそうだ。

 日本列島の各地は、猛暑に見舞われている。

 

「ヴォルグ、大丈夫か?」

「何、デスか?」

 

『日本の夏は、かなり特殊らしいからな。きつくないか?』

『私の故郷、冬は寒く、夏は暑い。大丈夫、と言いたいけど……やっぱり暑いよ』

 

 そう言って、ヴォルグが笑う。

 

 ヴォルグの故郷の村は、いわゆるシベリアと呼ばれる地域にある。

 まあ、シベリアといっても広いのだが、大陸内部の、1年の寒暖差が激しい地域だ。

 冬は、氷点下20~30度……気温が低すぎて、雪そのものはそれほど多くないそうだ。

 ただ、すべてが凍りつくような雪原を、風が強く吹きぬけていく、と。

 

 そして、夏は……時には、30度に達することもある、と。

 

 

 まあ、連日、30度を越えるのが当たり前の日本の夏だからな……一部地域を除く。

 前世も含めて、俺の感覚としては、都会は暑い。

 あと、湿度。

 

 しかし、ラムダは平然としている。

 70を越す鴨川会長ほどじゃないけど、ラムダも還暦が近い年齢なんだが。

 

 

 

 

 前日計量。

 

 明日の試合に出場する選手が集まって、計量を受ける。

 もちろん、全階級の試合を一度に行うことはできないから、おおまかに軽量級、中量級、重量級の3つにわけて日程が組まれている。

 基本的に、同じ階級の選手は、同じ日程だ。

 回復期間などの、不利が出ないようにする配慮だろう。

 なので、今日のジュニアフェザーの選手は、唯一の1回戦に出場する2人しか来ていない。

 

 バンタム級、ジュニアフェザー級、フェザー級、ジュニアライト級の4階級。

 近い階級のA級ボクサーが、20人近く集まる光景は壮観だ。

 そしてほぼ全員が、ランカー。

 

 見れば、鴨川ジムの木村さんもいる。

 軽く、右手をあげて挨拶しておく。

 そういや、ライト級の青木さんとは、別の日程になったんだな。

 

 東邦ジムの、間柴もいた。

 面識は無いから、見ないふりをした。

 ただ、身長が180近いから、さすがに目立つ。

 しかし、フェザーの頃より、肌の感じは良く見える、な。

 

 2人とも、ジュニアライト(スーパーフェザー)級のエントリー。

 

 そして、俺の戦場はジュニアフェザーだ。

 とはいえ、ヴォルグがエントリーするフェザー級の方に、知り合いは多い。

 

「よっ、速水」

「ああ、冴木さん……このたびは残念でしたね」

「おい」

 

 肩を小突かれる。

 そして、耳元で。

 

「一応、オリンピックを目指してたから、噂では聞いちゃいたが……ヴォルグってのは、そこまでなのか?」

「はは、俺が遊ばれる程度ですよ」

 

 冴木が顔色を変えた。

 

「12オンス、そしてヘッドギアで、何度かKOされてます」

「……マジかよ」

 

 まあ、高校時代からの古いなじみだ。

 脅かすだけってのも、あれか。

 

「足は冴木さんのほうが速いかな」

「……それ以外は、全部劣るってことか」

 

 冴木が、ヴォルグのいるほうを見つめ……目を閉じた。

 そして、開く。

 

「スリル、ありそうだな」

 

 この、切り替えはさすがだな。

 でもまあ、鈴木との試合に勝ってからだ。

 冴木がヴォルグとやるとしたら、その次の、決勝での話。

 

 

 音羽会長が、仲代会長と話をしていた。

 ということは、沖田もいる。

 ちょっと、声をかけづらい雰囲気だな……。

 

 しかし、仲代会長が俺を見た。

 

「よう、速水くん……どうだい、調子は?」

「ぼちぼちと言いたいですが、この暑さにまいってますよ」

「確かになぁ……」

 

 一応、沖田にも声をかけておいた。

 

 ……ヴォルグしか見てねえな。

 

 

 

「計量を始めます。最初に、バンタム級の選手から。名前を呼ばれたら……」

 

 ジュニアフェザーは、バンタムの次か。 

 少し近づいておく。

 

 

 フェザー級の契約体重は、122~126ポンド。(約55.3~57.1キロ)

 ジュニアフェザーでは、 118~122ポンド。(約53.5~55.3キロ)

 

 俺は大体、125ポンド前後で試合に臨んでいた。

 つまり、いつもより3ポンド……1.4キロほど、絞る必要があるわけだ。

 

 ダイエットと減量は異なる。

 ダイエットは、健康を目指し、健康的に体重を減らしていく。

 しかし減量は、健康な身体から『何か』を失う作業だ。

 その期間が長くなれば長くなるほど、消耗も激しくなる。

 

 俺は、普段から節制を心がけていた。

 それゆえに、少し甘く見ていたかもしれない。

 

 わずか、1.4キロという現実を。

 

 

 前世では、選手の健康のためにと提唱された前日計量は、新たな技術を生み出し、新しいゆがみを生んだ。

 前日の体重と、試合当日の体重とで、5~6キロの違いは当たり前という状況をまねいたのだ。

 ルールが変わると、それに対応する『技術』が生まれる。

 わかりきっていたことだ。

 これはボクシングに限らない。

 目に余るというので、前日計量との差異がリミットの5%を越えたらダメという方針を打ち出した競技もある。

 

 後追いの対応などと言うが、基本、対応とは後を追うものだろう。

 

 その技術の一つに、『水抜き』というものがある。

 

 PH7.4。(あくまでも基準値)

 人間の身体は、血液のそれを保とうとする。

 塩分を取ると、酸性に傾く。

 水が欲しくなる。

 カリウムを摂取すると、アルカリに傾く。

 水が欲しくなる。

 

 つまり、身体から水分を抜く場合、重要なのはバランスだ。

 これは、数値を測定しながら適切な栄養素を摂取する必要がある。

 汗を流し、尿を出し、数値を測定。

 バランスをとるための栄養素を摂取し、また水分を搾り出す。

 その繰り返しだ。

 しかし、バランスを保ったからといって、その状態でいられるのは3日ほど。

 それを過ぎると、むくみというか、身体が水分を出さなくなる。

 汗が出ない、尿が出ない、本来は出さなきゃいけないものを出さないのだから、身体のバランスは崩れ、体調は悪化していく。

 

 水抜きと呼ばれる減量法の基本は、短期間で一気に減らすこと。

 そして、すぐに回復させること。

 もちろん、消耗の度合いが少なくなるという意味だ。

 消耗せずに減量できるという意味ではない。

 

 当然だが、失敗すると……消耗どころか、会話の受け答えさえ満足にできない状態に陥る。

 身体の生命活動の基本である、電荷物質のやり取りそのものが阻害されるからだ。

 

 そして、この方法は知識だけではできない。

 適切な栄養タブレットや、医薬品、そして専門知識を持つ健康管理者の存在が必須。

 この時代は、『まだ』そこまで技術が発展していない。

 やれたとしても、非常にコストがかかるだろう。

 ノウハウの蓄積も無く、一般レベルまでその情報や技術が降りてくるのは、ずっと先のことだろう。

 ただ、遠い未来ではない。

 それは確かだ。

 

 

 

 

 さて、顔には出していないつもりだが、調子が悪い。

 最悪とまではいかないが。

 

 ぶっつけでの、ジュニアフェザーへの減量。

 減量の時期を、タイミングを間違った。

 理想は、計量日の、その瞬間に、タイミングを合わせること。

 仮に、体重を早めに落とすと、計量日まで維持しなきゃならなくなる。

 それも、体力を消耗する原因となる。

 

 ダイエットでも、摂取カロリーを減らすと風邪をひきやすくなったりする。

 さまざまな形で、身体の抵抗力が落ちるからだ。

 なので、ビタミンやミネラルなどのタブレットを併用する手法がとられるのだが、これは普段めちゃくちゃな栄養バランスの食事をしている人間にも成り立つ。

 普段から、ビタミンやミネラルが不足がちなのになんともない。

 しかし、ダイエットを始めると、急に風邪を引いたり、体調を崩したりすることがある。

 

 これは、三大栄養素が生み出すカロリーが、サポートしてくれているからだ。

 ある意味、生命力みたいなもの。

 もちろん、限度はあるが。

 

 そして、減量は……その生命力を減らすことだ。

 その状態を維持することも、身体の消耗をまねく。

 減量が、健康な身体から『何か』を失う作業というのは、そういう意味だ。

 

 いきなり暑くなったのも災いした。

 結果として、消耗する時間が増えてしまった。

 

 5月か6月に、一度試合を想定して、減量を経験しておくべきだった。

 ヴォルグとのスパーに夢中になって、何とかなるだろうですませてしまった。

 

 ボクシングを甘く見た、俺の罪。

 そして、罰だ。

 

 まあ、スポーツの世界で、相手に弱みを見せるなんてもってのほかだ。

 いつもどおりの、俺を装う。

 ただし、会長には言ってあるが。

 

 そして、いつもの会長だ。

『お前なら、なんとかなるさ』と。

 俺がナーバスになれば、楽観的に。

 俺が調子に乗れば、注意してくれる。

 

 ニュートラルであること、普通であること。

 普通であれば、俺は勝てると……会長なりの、俺への信頼。

 

 

「ジュニアフェザー級に移ります。速水選手、佐島選手、お願いします」

 

 返事をして、服を脱ぐ。

 

 周囲からの視線を感じた。

 見られている。

 肌艶の悪さは隠せない……と言いたいが、薄くクリームを塗ってある。

 

「122ポンド。速水選手、OKです」

「どうも」

 

 計量係の人に頭を下げ、退く。

 服を着る。

 

「やあ、速水君。明日はよろしく」

「こちらこそ、ですよ。佐島さん」

 

 明日の俺の対戦相手。

 ジュニアフェザーの参加者の5人の中では、俺とこの佐島がランキングが低いってことだ。

 

 佐島……ランキング7位だが、5人の中で最年長。

 2年前、そして4年前にタイトルマッチを経験している。

 特に、4年前のタイトルマッチは判定で、引き分けだ。

 戦績は、28戦して19勝8敗1分。

 力はある。

 ただ、所属するジムの力が弱かった。

 うまくやれば、もうひとつ上にいけたんだろうが……もたもたしているうちに、ボクサーとしてのピークが過ぎたと見られている。

 年齢的にも、これが、ラストチャンスだろう。

 

 まあ、チャンスを与えるつもりも無いが。

 

 

「しかし、何故速水君はジュニアフェザーに階級を落としたのかな?」

 

 そう言って、佐島がわざとらしく首をひねる。

 

「雑誌の記事には、その辺の事情が書かれていなかったからね」

「おい。うちのジムの事情に……」

 

 音羽会長の言葉を手で制した。

 そして、にこりと笑う。

 

「テレビ局から要請されたんですよ。ジュニアフェザーでやってくれと」

 

 絶句という言葉がふさわしい表情。

 佐島も、そして周囲も。

 

「お、おい、速水……」

「あ、これって、内緒でしたっけ?」

 

 音羽会長を見て、しまったという表情を作る。

 まあ、内緒もなにも、嘘なんだが。

 そして、すべてが嘘というわけでもない。

 

「すみません佐島さん。詳しい話はテレビ局に聞いてください」

 

 その、伝手があればな……とまでは言わないでおく。

 

 ……いい表情だ。

 

 安い挑発は、俺の力を認めてくれた証拠だ。

 とはいえ、俺も木石ってワケじゃないんでね。

 

 先に挑発してきたのは、そっちだ。

 文句は言うなよ。

 

 

 ……誤解の可能性も、わずかだがあるかもしれない。

 単に空気が読めない人だった、とか。

 

 

 

 

 しかし、これまでなら計量後は記者が集まってきたものだが……。

 スポンサーを失うというのは、こういうことなのかね。

 

 記者の目当ては、まずヴォルグだ。

 通訳の人を介してのやり取りだから、普通よりも時間がかかる。

 ヴォルグの日本語は、簡単な挨拶や日常会話程度ならともかく、踏み込んだ取材に応じられるようなレベルじゃない。

 俺の体調が万全なら、サポートしてもいいんだが……さすがに、な。

 

 そして、対戦相手の沖田は、握手の写真を撮られただけで、後は放置状態。

 

 沖田も、新人王を獲った無敗のホープだ。

 注目を受けるのが当たり前だっただろうに。

 あれもなかなかきつそうだ。

 

 と、藤井さんが単独でいったか。

 あの人、わりと判官びいきのところがあるような気がする。

 まあ、それがあるからこそ、ボクサーに対する親身の取材というか、記事が書けるという部分があるんだろう。

 

 

 まあ、ヴォルグへの取材が終わるまで待って、一緒に帰るか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 軽く、身体を動かす。

 なんともいえない、気持ちの悪さ。

 

 昨日より大分ましだが、俺は、調子が悪いと感じている。

 

 それなのに。

 身体が、いつもより動いているように思える。

 

 俺の中のイメージと、現実のずれ。

 

 冴木とのスパーで、わざとフォームを崩して予測をずらし、パンチを当てたこと。

 今、俺は自分の身体にそれを仕掛けられているようなものだ。

 

 試合が始まったら、まずは細かい修正から、か。

 しかし、長い試合にはしたくない。 

 

 

「速水選手、準備をしてください」

 

 ヴォルグに向かって手を振っておく。

 

 今日は、ジュニアフェザーの試合は、1試合だけだ。

 俺の試合の後に、ヴォルグと沖田の試合になる。

 

「リュウ。ファイト」

 

 うなずきを返し、俺は控え室を出た。

 

 

 

 

 

 リングに上がる。

 観客に向かって、手を振る。

 いつもの俺を演じる。

 

 足の運び。

 手を上げる動作。

 俺のイメージと、現実をすり合わせていく。

 

 集中。

 いつもより、観客の声が遠い。

 

 

 リングの中央。

 レフェリーの注意。

 佐島の、俺を見る目。

 

 コーナーに戻る。

 

「楽に行け、速水」

「ええ」

 

 ……どうかな。

 

 相手の目が、笑ってないんだよなぁ。

 まあ、昨日のこともある。

 

 

 ゴング。

 

 

 リングの中央。

 俺が伸ばした右手に、相手の左手が伸びる。

 

 ……わかりやすい。

 そして、雑だ。

 俺の右手に、利き腕をのばしてこない理由。

 

 ポン、と。

 佐島の左手が、俺の右手を外へと強くはじく。

 

 そして、利き腕の右で……。

 

 細かく狙わず、相手の鼻をめがけて左を繰り出した。

 全部で5発。

 突き放した。

 

 ラムダの言葉を思い出す。

 

『圧力を感じない』

 

 つまり、なめられやすいってことだろう。

 

 アマのエリート。

 苦労知らずの、若造。

 それが、スポンサーに切り捨てられた。

 階級変更。

 挫折。

 

 佐島から見た俺は、そんなところか。

 まあ、精神面で揺さぶろうとするってことは、ボクシングは評価してくれてるのだろう。

 そこは、素直に受け取っておく。

 

 

 追撃はせず、俺は肩をすくめて観客にアピールしておく。

 この試合は、見られている。

 ジュニアフェザーのランカーたちに。

 余計な情報は与えないつもりでやる。

 

 ……弱みは見せない。

 

 相手が立て直したのを見て、俺も再び構えを取った。

 

 確かめるように、左を打つ。

 軽いステップ。

 

 左の修正が最優先。

 そして、フットワーク。

 

 

 佐島の動きが大きい。

 上体を大きく振り、時折、足でドンと音を立てる。

 

 ……まあ、パンチの届く距離に入らない限り、相手にはしない。

 

 顔を突き出し、すぐに引っ込める。

 けん制と幻惑、そして俺の距離を探るためだろう。

 あるいは、挑発。

 

 俺は、手を出さずにじっと待つ。

 

 前、後ろ、前、後ろ。

 そろそろ、はずしてくるか。

 

 佐島の大きな踏み込み。

 

 左で、はねあげた。

 踏み込んでもうひとつ。

 

 

 上体を揺らす。

 トリッキーな動きがあまりなじんでいない。

 隙が大きい。

 

 ひきつけて、左。

 丁寧に。

 確かめるように。

 相手の出鼻をくじき続ける。

 

 左の感覚。

 それをつかむ。

 

 ヴォルグに学んだタイミング。

 前足に重心を移動する瞬間。

 拳に返ってくる、感触が違う。

 

 もちろん、そのタイミングに固執すると単調になる。

 

 

 佐島の動きが、オーソドックスに戻った。

 と思ったら、ラフにきた。

 

 半身になって、身体ごと突っ込んでくる。

 

 横に回り、佐島の横顔に右を叩きつけた。

 イメージとずれる。

 左を2発。

 距離をとる。

 

 また、半身で肩から突っ込んでくる。

 ただし、左手を広げて。

 

 敢えて、左手のほうに回り、その手を下に叩き落した。

 振り返った顔に、右。

 右。

 右。

 

 パンチが伸びる。

 

 これは、減量のせいか?

 

 減量による、消耗期間が長かった。

 そして、いつもより体重が少ない。

 

 少なくとも、身体全体のエネルギーは少ないはずだ。

 調子も良くない。

 なのに、身体は動いているように思える。

 

 ……いい気になると、ガス欠コースだな。

 

 抑えていく。

 余裕で流しているように見せかける。

 

 

 

 何度も仕掛けてくる。

 それを、丁寧にあしらう。

 

 佐島の表情が歪みだす。

 馬鹿にしているわけじゃないんだがな。

 俺は俺で、必死なんだ。

 

 次は、フックを確かめる。

 

 左のフェイント。

 相手を踏み込ませる。

 遅い。

 ガードも甘い。

 

 左フックを打ち込む。

 追撃はせず、回り込んだ。

 

 

 ん……む?

 ずっと、ヴォルグとスパーしてたから、基準が狂ったか?

 いくらなんでも、手ごたえが無さ過ぎる感じが……。

 

 まあ、今日の俺としては都合がいい。

 

 今度は、左フックをガードの上に叩きつけた。

 そして、右フックでアゴを打ち抜いてやる。

 少し、狙いがずれた。

 

 相手の動き。

 相手の反応。

 癖。

 

 ずれは、自分だけじゃない。

 予測を、読みを、修正していく。

 

 イメージと現実を重ねていく。

 作業を積み重ねていく。

 

 

 

 大分ピントが合ってきた。

 なのに、佐島が仕掛けてこなくなった。

 

 疲労か?

 あるいは、作戦を考えているのか?

 

 残り10秒。

 

 両手を広げて相手を誘ったが、近づいてこなかった。

 

 

 

 コーナーに戻ると、音羽会長が肩に手を置いてきた。

 

「……速水、次で終わらせてやれ」

「え?俺がいじめてるみたいじゃないですか」

「みたいじゃねえよ……佐島のやつ、まともなパンチを一発も打ててないじゃないか」

 

 あぁ、まあ……丁寧に、全部潰していったからなあ。

 

「客も、女性ファン以外は静かになっちまって……」

 

 音羽会長に言われて、観客席に目をやった。

 

 ……ん。

 

 2階に幕之内を発見。

 木村さんの応援か。

 

 ちょっと遠いが気づくか?

 

 なぜか、目を逸らされた。

 

 

 

 2R。

 

 

 警戒しながら、コーナーを出た。

 

 佐島は来ない。

 

 終わらせろと言われても……。

 倒すには、相応のダメージを与えなきゃならない。

 そして。

 

 ……近づいてこないから、俺から近づくしかない、か。

 

 身体が動く分、気持ちはのんびりいこうか。

 急がず、慌てず。

 左右にフェイントを仕掛けながら、近づいていく。

 

 佐島の距離。

 左。 

 

 手を出そうとした瞬間に殴る。

 俺の、いつものやり方。

 小さいパンチには細かく。

 大振りには強く。

 

 ホールの客なら、俺がこれを始めると終わりが近いことを知っているはずだ。

 当然、佐島も。

 

 突っ込んでくる。

 

 ガードの隙間から、アッパーで突き上げた。

 右フックでアゴを狙う。

 狙いがずれた。

 左フックを返す。

 これも、狙いが甘い。

 

 やりなおし。

 

 右のアッパーで突き上げ、左のフック。

 右でボディを。

 頭が下がったところを、左のアッパーで。

 そこを、右フック。

 

 ん?

 

 俺の目の前で、すとんと、佐島が膝から落ちた。

 そのまま、前のめりに倒れる。

 

 レフェリーが近寄り、両手を交差。

 試合を終わらせた。

 

 そして俺は、右手を見つめる。

 

 ……最後の右フック。

 なんか、手ごたえが違った。

 いや、キレイに抜けた感じ、か。

 

 それが、正しいのか間違っているのかわからないのがもどかしいな。

 正しかったとしても、今のは、偶然でしかない。

 

 

 

 勝ち名乗りを受ける。

 

 いつもの女性ファン。

 そして、いつもより静かな観客席。

 

 なんだろね。

 静まりかえっちゃって。

 どんな相手でも、倒せばそれなりに盛り上がるものなのに。

 

 

 まあ、そんなことよりも大事なことがある。

 

 リングを後にしながら、会長に話しかけた。

 

「会長、ヴォルグの試合を見た後、ジムでちょっといいですか?」

「何をするんだ?」

 

 声を潜めて。

 

「たぶん、スタミナが続きません。この状態で、どのぐらい保つかを確かめたいんです」

 

 会長の表情が、変わった。

 

「……そうなのか?」

「たぶん……フェザーの感覚で動き回ると、8Rは無理な気がします」

「調整を失敗したからじゃなく、か?」

「今日を基準にすれば、それはそれで見えるものもありますし……俺の次の相手は、あの人ですよ」

「……それもそうか」

 

 おそらく、瞬間最大風速でいうなら、この階級の方がいい。

 しかし、8R、10R、あるいは12Rの戦いを想定すると……ベストとはいえない。

 それは、戦略の幅が減少することを意味する。

 

 相手に知られたら、長期戦に持ち込まれる。

 それは当然、余計な焦りを生む。

 

 自分の限界を知らなければ、焦りは加速するだろう。

 知らないことは、怖いことだからな。

 

 俺は、自分を……ジュニアフェザーの自分の身体を、知るべきだ。

 

 

 

 通路の途中で、ヴォルグとすれ違う。

 まずい、次の試合だから、もたもたしてると終わってしまう。

 

『ヴォルグ、ラムダさん。幸運を』

『ありがとう、リュウ』

『ノー。幸運が必要な展開には、ならない』

 

 ラムダが、かすかに微笑む。

 本音なのか、ジョークなのか……判断が難しい。

 

 

 

 

 

 

 ヴォルグが登場した瞬間、会場の空気が変わった。

 ああ、やはりな。

 

 今日のホールの客の目当てはヴォルグだ。

 

 旧ソ連のボクサーは、ペレストロイカが始まるまで、アマチュアで実績を残しながらも、プロの世界へと飛び込んでくることは……まあ、その手段は、亡命するしかなかった。

 日本人のボクシングファンにとっては、ベールに包まれた実力者。

 その、お目見えだ。

 

 沖田には悪いが……ホールの客の期待は、裏切られないだろう。

 

 試合開始直後から、沖田が仕掛けた。

 猛烈にラッシュをかける。

 

 10秒。

 20秒。

 

 そろそろか。

 

 俺も、ヴォルグも、相手を観察する。

 俺は、観察に1~2分、時には丸々1Rかける。

 しかし、ヴォルグはそれが早い。

 経験か、あるいは俺に見えないものが見えているのか。

 俺とのスパーのときは、30秒ぐらいだったな。

 それが、相手とのレベル差によるものだったら、ちょっとツライものがある。

 

 沖田の猛攻の最後。

 コークスクリューブロー。

 

 ……悪手だ。

 

 最後の最後まで、隠しておくべきだった。

 通用するかしないかは別として。

 

 たぶん、焦りだろう。

 ヴォルグという圧力に屈して、札を切らざるを得なかったか。

 

 

 ヴォルグの細かいパンチ。

 それを機に、連打が始まった。

 まずは、ガードの上から。

 ラフに見えるが、あれで反撃のパンチを封じる。

 そして次は、ガードの隙間を狙う。

 

 ヴォルグのアッパーが、沖田の顔を突き上げた。

 流れるように、右ストレートで突き放す。

 あっという間に、ロープ際。

 

 チャンスだが、まっすぐは行かない。

 狼の狩り。

 一匹狼という言葉があるが、狼は集団で狩をする。

 左右へのフェイントのステップ。

 クイックシフトをはさみながら、至近距離に。

 

 左右、上下から、狼の牙が襲い掛かる。

 

 

 最初のダウンから立ち上がったのは、せめてもの沖田の意地だろう。

 しかしそれも、10秒もしないうちに叩き折られた。

 

 一瞬静まり返ったホールが、大歓声に包まれる。

 

 歓声。

 空気の振動。

 それを味わいながら、俺は目を閉じた。

 

 俺の試合の後とは違う。

 これが、ヴォルグと今の俺との差だな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ジムに戻って、マスクをつけてのミット打ち。

 音羽会長と、村山さんの2人を相手に、コーナーからコーナーへと移動しながら、パンチを放ち続ける。

 

 リングの外では、ヴォルグとラムダが見守ってくれている。

 

 2R。

 3R。

 

 5Rの途中に、それはきた。

 

 全身の重み。

 出足が鈍る。

 パンチが鈍る。

 

 はは、こんなに早く……か。

 フェザーのウエイトなら10Rこなして、まだ動けたんだが。

 

 相手の攻撃はない。

 ダメージもない。

 マスクはつけているが、試合よりもぬるい負荷だ。

 もちろん、試合ならずっと動きっぱなしにはならないけどな。

 

 良く考えて、試合の2Rも含めて6~7R。

 悪く考えて、全力で4R。

 

 まあ、調整失敗の分もあるだろう。

 しかし、最悪とまではいかずとも、悪いほうに考えておくべきだ。

 

 しかし、これは本当にガス欠か?

 呼吸は、それほど苦しくない。

  

 

 脳の血管は、極めて細い。

 血管の中の、大きな分子量のエネルギー源は、脳には届かないというか、不適切とされている。

 単純な分子構造の、グルコースのみが、脳へのエネルギー源。

 グルコースは、炭水化物が体内で加水分解されて生成される。

 

 炭水化物をカット、あるいは計算せずに極端に減らしたダイエットを実行すると、頭がボーっとするのはそのせいだ。

 

 もちろん、グルコースは身体を動かすエネルギー源でもある。

 ただし、グルコースが不足すると……人の身体は、脂肪とたんぱく質……主に、筋肉たんぱくを分解して、エネルギー源を作り出す。

 その比率は1対1と言われ、炭水化物をカットしたダイエットは、脂肪だけでなく、筋肉も減らす。

 

 そうして作り出したエネルギー源は、分子量が大きく、脳へのエネルギーにはならない。

 身体を動かすエネルギーとして使われる。

 

 今、俺の思考が鈍っているという自覚はない。

 つまり、脳の栄養素、糖分は供給されている。

 

 ならば、ガス欠ではなく、疲労か。

 この程度で、か?

 

『……おそらく、減量が原因だよ、速水』

『ラムダさん……』

 

 俺と、会長がラムダを見た。

 もちろん、音羽会長も英語は話せる。

 

『君の過去の試合は見せてもらった……豊富な手数を支えるスタミナも十分うかがえた』

 

 ラムダが、指を二本立てた。

 

『体力、スタミナには、2つの柱がある……ひとつは、肺活量。そしてもうひとつは、回復力』

 

 ラムダが語る。

 

 減量は、身体の機能そのものを低下させる。

 推測だが、減量、あるいは調整ミスによる消耗によって、俺の身体の回復力が低下した。

 これまで、疲労と回復がつりあっていたバランスが、崩れたのかもしれない、と。

 

『人の筋力は、40歳近くまで成長力をキープする。しかし、ダメージからの回復などは、20歳を過ぎれば衰えていく……怪我の治りが遅くなったと聞いたことがあるだろう?』

 

 スポーツ選手にとっての、3つの時期。

 20歳、23歳、28歳。

 

 20歳から、回復力が衰え始める。

 23歳から、成長力が衰え始める。

 28歳から、目の働きが衰え始める。

 

 もちろん、個人差はある。

 

『速水。君はあと1年か2年で、ジュニアフェザーを卒業すべきだと思う。ヴォルグも、あと3年経てば、ベストウエイトはジュニアライトになるはずだ……人の身体は、年齢とともに変化していくからね』

 

 そして、最後にラムダは言った。

 

 アスリートは、過去ではなく、今の自分に向き合うべきだ、と。

 変化を受け入れ、対処していこう、と。

 

 

 

 なるほど。

 高校のときから、ほとんどナチュラルウエイトでやってきた分……認識が甘くなっていたか。

 忘れていたわけではなかったが、どこかで甘く見ていた。

 

 俺の、次の試合は約1ヵ月後。

 まずは、体重をどこまで戻すか。

 そして、体重を戻すペースをどうするか。

 その上で、いつ、減量を始めるか。

 

 減量が消耗期なら、増量は回復期にあたる。

 大きく回復させたら、減量で大きく消耗する。

 バランス、だな。

 

 今の自分と向き合う、か。

 




オリキャラと言うか、独自路線に入ったのでやや心配。
残りの2試合は、対戦相手の存在感みたいなものを表現できたらいいなと思います。

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