速水龍一で始める『はじめの一歩』。   作:高任斎
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モデルはいません。(目逸らし)


17:19勝して2KOの男。

 9月。

 

 暑い夏は終わったが、暑い秋が訪れた。

 まあ、暑さ寒さも彼岸まで……だといいが。

 

 

 先月の試合の後。

 まずは、ラムダと音羽会長の話を聞いてプランを立てた。

 休養中の最初の3日の食事のケア。

 減量後のボクサーの身体は、乾いたスポンジに似ている。

 前世で一時流行った、カーボローディング……それの古典状況だが、試合前ならともかく、試合後のそれはいろんな意味であまり良くない。

 減量のダメージは、胃腸や消化器官系にまで及んでいるからだ。

 

 そして、減量状態での試合で傷ついた筋肉のリカバーに、たんぱく質というか、アミノ酸の補給。

 たんぱく質と言っても、身体に必要なアミノ酸は30種類あるとされ、市販のプロテインをぶっこめばいいという話でもない。

 

 とまあ、ここまでなら俺も知識としてはあった。

 ただ、あくまでもスポーツ選手としての知識。

 そして、ラムダはボクシング指導者としての専門家だ。

 

 3日を過ぎた後の、4~7日にかけての、体重の戻し方。

 炭水化物とたんぱく質のバランス。

 このあたりの細やかさは、ラムダの知識にはかなわない。

 当然個人差はあるが、経験がある程度それをカバーする。

 

 そうした知識やノウハウが積み上げるもの。

 ひとつひとつは小さいかもしれないが、積もれば大きな差となって現れるだろう。

 

 とりあえず今回は、完璧ではないが、ベターな減量ができたと思う。

 少なくとも、前回とは雲泥の差だ。

 

 

 しかし……前世での知識が、旧ソ連での1970~80年代のノウハウに余裕で遅れをとるって、どういうことですかね。(震え声)

 

 まあ、国家のバックアップがあってこそのノウハウもあるので、それら全てを実行することもできないぶん、ラムダとしてももどかしく感じる部分はあるんじゃないだろうか。

 最善ではなく、次善。

 現実の中で、ベターを選ばなければいけない状況。

 アスリートと指導者には、冷徹なリアリストの部分が必要なのが良くわかる。

 

 強さを求めるなら、金が全てとはいわないが、少なくとも、金をかけられるほうが良い。

 

 ボクシングはただでさえ体重制限のある競技だ。

 高額のファイトマネーが飛び交うようになると、タイトルマッチはビジネスになる。

 

 専門のスタッフが対戦相手を分析する。

 リスクが最小の戦術。

 それを可能にする肉体改造と、練習プラン。

 重ねて言うが、ボクシングには体重制限がある。

 対戦相手にフック系のパンチが有効だとしたら、速くて強いフックを打つための筋肉を増強する。

 その、増強した分は、どこからか削らなければいけない。

 肉体のバランスが変われば、能力というか戦力も変わる。

 そして、戦い方も。

 

 それを含めての分析で、専門スタッフの存在だ。

 

 つまり、勝てるプランがあり、肉体改造できる期間を確保してから、対戦相手を決定する。

 そして、勝てない、あるいはリスクが高い相手からは、対戦から逃げる。

 スタッフにとっては、スポーツではなく、ビジネスだから当然だろう。

 スタッフの要求に応えるため、選手個人にもきわめて高い能力が要求されるのは言うまでもない。

 

 そうすると、ビッグマッチが成立するためには……ファイトマネーで折り合うケースか、仮に負けても選手の商品価値が下がらないケースに限られてくるのかもしれない。

 ファンが熱望するビッグマッチがなかなか実現しないのも当然か。

 

 まず勝ってから臨むのは、戦略としては完璧に正しいのだが……ファンが求めるのは『勝負』だろう。

 どちらが勝つか、どちらが負けるかわからない。

 戦いの中に、勝ちと負けがある。

 そしてそれは、どちらに転ぶかわからない。

 それこそが勝負で、願わくは名勝負になることを……。

 

 ……正直、戦いに挑む人間としては、できるだけそういう戦いは避けたいと思うが。

 衣食足りて礼節を知る、と言うわけではないが……栄誉とか、満足のいく戦いを、などと言い出せるのは、ある程度満たされてからじゃないかとも思う。

 

 まあ、高額のファイトマネーが定期的に手に入る状況でない限り、専門スタッフを抱えて……なんてことは難しくなる。

 スポーツトレーナー、医療スタッフ、広報担当……複数の優秀な人間、そして必要な機材をそろえる企業を設立するようなものだ。

 しかも、選手としての寿命が、企業の寿命に直結するわけだ。

 

 スタッフやプロモーターは、それに代わる選手の育成と『養殖』に余念が無いことだろう。

 

 

 光を求めれば影ができる。

 強い光を求めれば、影も濃くなる。

 

 ……難しいところだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 計量場所を見渡す。

 

 今日というか、明日はフェザー級の試合は無い。

 参加者が4人で、先月に準決勝を終わらせたから、次は決勝になる。

 なので、ヴォルグはお休みだ。

 

 今日ここに集まっているのは、バンタム級、ジュニアフェザー級、ジュニアライト級、そしてライト級の4階級の選手たち。

 どの階級も、明日は準決勝が行われる。

 

 この前はいなかった、ライト級の青木さんもいる。

 そして、木村さんも。

 

 まあ、間柴もいる。

 また少し、身体つきが変わった感じがするな。

 推測になるが、間柴は筋肉がつきにくい体質だろう。

 階級を上げたことによって、トレーニングに幅が出せたのかもしれない。

 

 

 前回は少しさびしかったジュニアフェザーだが、一回戦を勝った俺と、残りの3人の、合計4人。

 勢ぞろいしている。

 というか、俺への視線を感じる。

 

 高校のインターハイも、こんな感じだったな。

 あの頃は、興味や敵視、そして嫉妬など、さまざまな視線にさらされた。

 

 ジュニアフェザーは、良く言えば群雄割拠。

 そして、悪く言えばどんぐりの背比べと評されている。

 というのも、この数年、3度以上防衛を果たした王者がいなかったからだ。

 王座奪取から最高でも2度の防衛ということは、ほぼ1年未満でころころとベルトが人から人へと移り渡っていることを示している。

 関係者が苦笑しながら『ジュニアフェザーのベルトは移り気だ』と語るのも無理はない。

 現王者の真田にしても、原作では5度の防衛を果たしたが、今はまだ初めての防衛戦をクリアして、2度目の防衛戦が近づいている状況に過ぎない。

 初の防衛戦は難しいとされるが、真田もかなり苦戦した。

 それで、少し評価を落とした……現状はそんな感じだ。

 

 とまあ、ジュニアフェザーのカオス状態を示すように、この前の試合相手の佐島もそうだったが、俺以外の参加者全員が、タイトルマッチ経験者だったりする。

 

 ただし、ランキング4位の和田は、バンタム級のタイトルマッチで敗れて階級を上げてきたクチだ。

 バンタムのランキング1位としてタイトルマッチに挑んだことからも、実力はうかがえる。

 サウスポーで、やや変則のボクシングをする。

 

 そして、真田の初防衛戦の相手で、雪辱を期しているであろう後藤。

 ランキングは3位。

 インファイターよりの、右ボクサー。

 

 最後の1人が俺の相手になるんだが……ジュニアフェザーの、前王者だ。

 3度目の防衛戦となるチャンピオンカーニバルで、真田にベルトを奪われた。

 この人も、防衛戦3度目の壁に阻まれたことになる。

 

 ただし、この人はその前にも王座についていたことがある。

 そのときは、初めての防衛戦で敗れた。

 その後に、復権というか、奪い返したわけだ。

 実績で言うなら、この人が抜けている。

 

 ランキングは2位。

 珍しいタイプというか、生粋のアウトボクサーだ。

 戦績は、22戦19勝2敗1分で、KO勝ちは2つしかない。

 負けは2つとも、KO負けだが……ひとつは、最初の防衛戦のもので、相手のバッティングで目の上を切って視界がふさがれた状態での負けだ。

 あれを無いものと考えると、負けたのは現王者の真田にだけということになる。

 

 いくつか試合を見たが、まず思ったのは、足が速くて巧いというもの。

 ただ、ものすごく速くて巧いかと言うと、そうでもなく……こう、のらりくらりと試合が進み、終わってみるときっちり判定勝ちになっている。

 押されている様に見えても、ポイントは勝っている試合もいくつかあった。

 たぶん、審判の印象というか、とにかくポイントを取るのが巧いとしか言えない。

 無理に一言でまとめると、老獪な試合巧者。

 

 俺は、このタイプのボクサーとは戦ったことが無い。

 

 判定勝負に自信を持っている相手に、判定勝ちを収めるというのもなかなかそそるシチュエーションだが……まだジュニアフェザーに慣れていない身体で、長期戦のリスクは避けたい。

 それでいて、スタミナは万全だと、周囲の人間には思わせたい。

 

 それが理想だが……まあ、いつだって、理想の横面を張り飛ばしてくるのが現実だ。

 

 一見地味だが、確かな技術と戦略性を持っている相手は怖い。

 飛躍の場を与えられていないだけの可能性がある。

 22戦して19勝2敗1分……東洋、あるいはその先への話があってもおかしくない戦績だ。

『倒さずに勝つ』ボクシングが、彼に翼を与えずにいるのか。

 それとも、実力以上に勝ち方がうまいのか。

 

 前者なら要注意。

 後者なら、その手管に注意。

 

 実際にリングの上で手を合わせればわかるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

「速水選手、122ポンド、OKです」

「ありがとうございます」

 

 計量係の人に礼を言い、ズボンをはいた。

 

「サニー田村選手、121と2分の1ポンド、OKです」

 

 サニー田村は、リングネームだ。

 田村が苗字で、名前が『太陽』と書いて『あきら』と読むらしい。

 読みにくいとか、わかりにくいと言われて、『サニー』というリングネームにしたと聞いた記憶がある。

 

 計量には何の不安も無かったんだろう、Tシャツを着たまま、秤に乗っていた。

 

 

 今日は、ヴォルグがいないせいなのか。

 記者が数人、集まってきた。

 藤井さんもいる。

 

「明日はよろしく、速水君」

「いえ、こちらこそ……田村さんと、サニーさんのどちらで呼んだほうがいいんですか?」

「うーん、サニーで呼ばれるほうが多いかな」

「じゃあ、サニーさんと呼ばせてもらいます」

 

 まずは、握手の写真。

 次は、目線の変更。

 

 手馴れた感じで撮影をこなし、記者への質問に答えている。

 王者だった経験だろうか。

 

「何とか判定に持ち込みたい、かな」

 

 試合の抱負に対しての答えがこれだった。

 記者連中が笑っているあたり、定番なのかもしれない。

 

「速水君は、やっぱりKO狙いだよね?」

「サニーさんに、判定勝ちの秘訣を教えてもらいたい気持ちもあるんですけどね……まあ、倒すつもりでいきますよ」

 

 おっと、藤井さんが動いた。

 

「速水君に、いいかな?対戦相手のサニー君をどう思う?」

「え?本人がいる前で、それを聞くんですか?」

 

 小さな笑いが起こる。

 

「でもまあ……きわめて危険な相手だと思ってますよ」

「ほう?」

 

 俺の答えが意外だったのか、藤井さんはもちろん、記者たち、そしてサニーもまた俺を見つめる。

 なので、少し言葉を足した。

 

 判定のジャッジを下すのは3人。

 そして、3人が3人なりの、判定の基準を持ち、Rの優劣を決めていく。

 その、3つの価値観をコントロールし、勝利に持っていく技術。

 人を知ること。

 人の考えを読むこと。

 人の印象を操作すること。

 

 それは、対戦相手にまで及ぶと考えておくべきだ、と。

 

「……結婚相手の機嫌をとるのに四苦八苦してる記者さんもいるんじゃないですか?奥さんが3人いたら、逃げ出したくもなるでしょう?」

 

 最後は、笑いで落としておく。

 

 ただ、サニーだけは笑っていなかったが。

 

 

 

 記者たちがいなくなり、サニーが口を開いた。

 

「こっちも言わせてもらうよ、速水君」

 

 伸びてくる右手。

 それを握った俺の手が、ぎゅっと強く握られた。

 

「君は、きわめて危険な相手だ」

 

 もう一度強く俺の手を握ってから、サニーは俺に背を向けた。

 歩いて、去っていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カラコロ、カラコロ……。

 

 下駄の音ではなく、口の中で飴玉を転がしている音だ。

 ダイレクトな、糖分補給。

 

 計量は昨日だったとはいえ、強烈な甘みに脳がしびれる感じがする。

 

「よう、速水。この前はおっかねえ試合をしたんだってな。一歩のやつがビビッてたぜ」

「ああ、木村さん。青木さんはしばらくぶりですね」

 

 自分とは関係ない階級の2人だが、直接の観戦はともかく、試合の結果はなんとなく程度に追いかけている。

 関係者の評価は、総じて木村さんのほうが高い。

 青木さんは、変則のイメージが、評価に響いている気がする。

 

 とはいえランキングに差は無く、A級トーナメント開始前の時点で、2人とも3位にランクされていた。

 

「おっかないって……俺よりも、ヴォルグでしょう?」

「……まあな。同じ階級の一歩が、気の毒に思えたぜ」

 

 木村さんの同意。

 そして、青木さんが口を開く。

 

「あれとリングの上で向かい合うのは勘弁だよな」

「はは。そんなヴォルグのスパーリングパートナーが、俺なんですけどね……」

 

 俺の言葉に、2人揃って表情を歪めた。

 幕之内の相手をさせられているであろう2人も、俺のことは言えないと思うが。

 

 

 そういえば、原作では2人とも、この準決勝で負けるんだったか。

 特に、木村さんは判定で引き分けに持ち込んだけど、トーナメントルールの延長戦で敗れたぐらいの接戦で。

 実力は相手が上。

 その差を埋めるために、スタミナを使い果たした。

 

 原作どおりかはわからないが、今日の2人の相手もなかなかの評判だ。

 

 

 ……スタミナ、か。

 

 なんとなく、2人に飴玉を手渡した。

 

「食います?」

「……ガキのお使いじゃないんだからよ」

「いや、俺もそう思ってたんですけどね……ボクシングとかやってると、普段から甘いものとか控えるようになるでしょ?」

 

 俺の言葉に、2人が頷く。

 

「正直……美味いですよ。この糖分が、最後のギリギリで、力になるかもしれませんし、おひとつどうぞ」

 

 俺に押し切られた感じに、2人が飴玉を口の中に放り込む。

 表情が変わる。

 

「……やべえ」

「この甘さは……くるな」

「噛んじゃダメですよ。ゆっくりと、口の中で最後まで転がしてください」

 

 カラコロ、カラコロ。

 

「ヴォルグのトレーナーが言ってたんですけどね。甘みを感じ、口の中に固形物を入れておくことで、心拍数の余計な上昇が抑えられる効果があるそうです。試合前にエネルギーを補給しながら、余計な消耗をせずにすむ、と」

「ほう」

「なるほど、ね」

 

 二十歳を超えた男三人が、真面目な表情で飴玉を転がす。

 この場違い感がなんとも。

 

 そう思ってたら、声をかけられた。

 

「な、なあ、速水。俺にもひとつ、いいかな?」

 

 同じ階級の和田だ。

 まあ、今日戦うわけじゃない。

 

「……どうぞ、和田さん」

「あ、俺もひとつ」

 

 と、別の手が伸びてくる。

 

 この『ヴォルグのトレーナーが言ってた』という説得力ときたら。

 

 いや、むしろ試合前のボクサーの不安感か。

 心のよりどころになるものを探してしまう……そんな気持ちが、飴玉ひとつに手を伸ばさせる。

 

 

 

 

「はや……え?し、失礼しました。速水選手、準備をしてください」

 

 まあ、控え室の選手が、そろって飴玉を口の中で転がしてたら、驚きもするか。

 気持ちはわかる。

 

 ちなみに、間柴は別の控え室。

 

 

 さて、口の中の甘みを忘れて、切り替えるか。

 

 

 

 

 

 

 リングの上。

 サニーは、昨日と同じで、穏やかな表情を浮かべている。

 この階級としては、かなり長身の部類だろう。

 プロフィールでは、173センチ。

 俺とは、4センチほどの違い。

 当然、身体の線は細く見える。

 

「また、判定狙いかサニー!」

「倒されたら、全部パーだぞ!」

 

 野次が飛ぶ。

 

 確かに、倒せば判定は意味が無いし、見た目もすっきりわかりやすい。

 しかし、それで切り捨てるのはもったいない。

 思考停止でもある。

 

 技術にまで昇華するのは難しくとも、知識として知っているだけでも違う。

 次からは想定ができる。

 対応策を思いつくかもしれない。

 

 ……知識は力。

 しかし、溺れるな、と。

 

 知識を手に入れるごとに、判断力と決断力のハードルが上がる。

 

 

1:有効打撃の数。

2:ダメージを多く与えたかどうか。

3:攻勢をかけていたかどうか。(手数)

4:技術全般。

5:印象。

 

 ジャッジの基準として示されるのは、こんなところか。

 まあ、細かいところを言いだすと、キリが無い。

 

 というか、『5』に関しては、ツッコミどころが満載だが。

 前世では、『ボクサーの顔じゃない』という名言というか、迷言を残したジャッジもいたっけな。

『優勢だったかもしれないが、血を流していたからダメだ』という迷言を残したジャッジも。

 

 前半は守勢、後半は攻勢でも、どちらを優先するかは、ジャッジ次第。

 R終了前の印象が強く残るという人もいるが、それを逆に考える人もいるだろう。

 レフェリーと3人のジャッジが完全に一致するような試合はほぼない。

 それぞれの価値観を持って判定を下す複数の人間の印象を、コントロールするのは至難の技だ。

 

 ただ、忘れてはいけないのは……ジャッジの人間が座っている場所から見える試合と、テレビカメラが映す試合は別物であるということ。

 まあ、このホールもそうだが、ジャッジ席の方角と、テレビカメラを設置する方角は同じにすることが多い。

 ただし、角度が変わってくる。

 角度が違えば印象も変わる。

 

 方角まで変わる観客席ならなおさらだ。

 

 観客や視聴者と、ジャッジの判断が異なるのは、ある意味当たり前だと言える。

 それは、きわどい試合であるならなおさらだ。

 

 判定勝ちに必要なのは、観客ではなく、ジャッジへのアピール。

 そして、ジャッジの情報を集めることだ。

 選手ではなくジャッジを追いかけて試合を見れば、ある程度傾向は見えてくる。

 

 

 まあ、この程度のことは、ボクシングに限らず、スポーツをやってるものなら誰でも考えることだ。

 高校野球でも、主審によってストライクゾーンの傾向は異なるし、捕手の後ろのどの位置に立っているかも含めて、バッテリーは配球を考え、計算しながら試合を進める。

 

 試合中に何度もストライクのコールをもらった、外角低めのストレート。

 大事な場面、それがわずかに外れると判断したら、捕手はとっさに審判の視界の邪魔をする。

 視界を完全にふさげなくても、主審は球筋を確認するために、『見る位置』や『姿勢』を変えなければならなくなる。

 あるいは、ボール半分ずらしたコースを要求したうえで、審判がそれまでと同じ位置をキープできないように仕向ける。

 それがもたらす、わずかな感覚の狂い。

 そうなると、それまでの印象がものをいう。

 今までストライクだった球筋だったように思える……これも、ストライクかな?

 

 主審のストライクのコールに、捕手はほくそ笑むわけだ。

 

 もちろん、自然な動きでなければ逆効果になるし、練習試合も含めてめったに使えない技術だが……そういう小さな積み重ねが、強さにつながる。

 

 ほんのちょっとしたこと。

 それが、全てにつながる。

 

 俺の知らない努力。

 俺の想像の外にある何か。

 

 サニーには、サニー田村というボクサーには、そういう何かがあるのかもしれない。

 わからないことから目を背けると、死角から、意識の外から、一撃をもらう。

 

 まあ、そうやって相手に色々と考えさせることから、サニーの戦いは始まっているのかもな。

 

 

 

 

 試合前の、レフェリーの注意。

 サニーは、きちんとレフェリーを見てその言葉を聞いている。

 これも、小さな印象につながるのだろうか。

 

 

 

 

 

 試合開始。

 リングの中央で、軽くグローブをあわせる。

 

 軽快なステップ。

 動きは軽い。

 速度で相手を引っかき回すタイプではないが、アウトボクサーらしく動きは速い。

 

 左を伸ばしてくる。

 ほんの少し、届かない距離。

 

 これに反応して俺が頭を振ると、サニーが攻めているように見えるだろう。

 

 なら……。

 

 すっと、距離をとられた。

 気配、あるいは呼吸を読まれた。

 

 また近づいてくる。

 届かないジャブ。

 そして、一発だけ届かせ、距離をとる。

 

 けん制と、焦らしか。

 同時に、ジャッジへのアピールにもなっている。

 

 

 ふと、名手のファインプレーは目に見えないという言葉を思い出した。

 最初の一歩。

 それにつながる判断。

 危険になる前に処理してしまう。

 傍から見れば、なんでもない動き。

 名手のファインプレーは、その中にこそ潜むという意味だ。

 

 

 じわりと、距離を詰めた。

 右に、左に、サニーがステップを刻む。

 動きは軽く、速い。

 

 レベルの高さはうかがえる。

 そして、調子も良さそうだ。

 真田戦のときより、良く見える。

 

 

 距離をとる、というか、間を取るのが巧い。

 きちんと、左を突きながら逃げるから、人によっては足を使って翻弄しているようにも見えるか。

 

 ここまで徹底できるのなら、たいしたものだ。

 

 

 まあ、俺は俺で……罠を張る、か。

 

 

 その場で、ステップを踏む。

 リズムを刻む。

 

 届かないジャブ。

 それを、パンチではじく。

 

 タン、タン、タンと、その場から動かず、サニーのジャブを待つ。

 

 また、はじいてやる。

 サニーが、距離をとった。

 

 踏み込まれるのを警戒したんだろう。

 しかし、俺は踏み込まない。

 

 ただ、ジャッジから見える印象はどうかな?

 

 パンチをはじかれ、踏み込まれるのを恐れて距離をとる。

 それは、『逃げ』と思われないか?

 

 そして、『この』パンチは見えているという俺からの挑発。

 

 まあ実際は、今日の感覚に慣れようとして、時間を稼いでいるんだけどね。

 調整そのものは、前回とは雲泥の差。

 でもやっぱり、自分のイメージと現実の動きが、少しピンボケ気味かな。

 前回よりはましだけど。

 

 

 サニーのパンチが変わった。

 さっきまでの気の抜けたジャブじゃない。

 速い、本当のジャブだ。

 俺の中で、ひとつピースが埋まる。

 

 ようやく、ひとつ手札をさらしてくれたか。

 相手の速さを知らないまま飛び込むほど、俺は勇敢じゃない。

 まあ、まだ上のギアを残している可能性もあるが。

 

 

 また、パンチの速度を落とそうとしてきたので、それをはじいてやった。

 

 サニーが、俺の周囲を回りだす。

 徹底している。

 俺の距離には入ってこない。

 気の抜けたパンチを、いくつかはじいた。

 

 速いジャブ。

 大きくはじき、踏み込む。

 ……逃げ足が速い。

 

 最初から逃げを考えている。

 打ち合うつもりはなさそうだ。

 それは、アウトボクサーだからというわけじゃなく……。

 

 サニーには速度もある。

 情報不足のまま、それに付き合うと……。

 

 そろそろ、右を見てみたいな。

 

 

 ステップを止め、肩をすくめる。

 ただし、警戒したまま。

 

 速いジャブ。

 踏みこみながら、俺も左を返す。

 肩を入れて、鼻先にわずかに届かせた。

 

 すぐに、速いジャブが何発も返ってくる。

 俺のパンチが当たったこと、それの印象消し、か。

 

 一歩踏み込み、黙らせた。

 

 本当に徹底している。

 ここまでくると、逆の意味で興味がわく。

 俺もリスクを回避する性質だが、サニーは度を越しているように思える。

 

 

 残り時間を確認。

 

 いつもは残り10秒で動く。

 敢えて、20秒で仕掛けた。

 

 距離を詰めていく。

 あわてずに。

 サニーの逃げ道を狭めて、詰めていく。

 

 伸びてきた左を上にはじいた。

 サイドステップ。

 それについていく。

 

 手の届く距離。

 それでも、右がこない。

 ただ、逃げていく。

 

 

 そのまま、1Rが終わった。

 

 野次が飛ぶ。

 逃げるサニーに対して。

 

 あ、俺に対しての野次も少しあるな。

 消極的に見えるからだろう。

 

 しかし、この野次を浴びながら、判定勝ちを収めてきたボクサー、か。

 見た感じ、応援団のようなものも見当たらない。

 王者にまでなったボクサーで、それは珍しいと言える。

 

 それでも、勝ち続けてきた。

 

 俺の知らない強さだ。

 

 

 

 

 

 

 

「巧いのはわかるんだが、イライラするな」

「俺はそうでもないです」

「……我慢強いなあ、速水は」

 

 会長の言葉に、少し笑いたくなる。 

 

「……スタミナは?」

「ほとんど動いてませんからね……6Rなら、問題ないと思います」

「そうか……それで、いつ仕掛ける?」

「……右を見たいんですよね」

 

 19勝して、KO勝ちは2つ。

 ひとつは、全日本新人王の決勝。

 もうひとつは、最初のタイトルマッチ。

 両方とも、大事な試合で、大舞台でのものだ。

 

 いずれも終盤。

 ポイントをリードされ、焦りと疲労の見える相手に、右のカウンター狙い。

 それでも、相手は攻めなければいけない状況。

 そうして、コツコツとカウンターを積み重ねてのKO劇。

 

 一発の怖さはない。

 それでも、甘く見ると、かみ殺される。

 そんな気がする。

 

 拳に不安を抱えている……そんな理由があれば納得はできるんだが。

 

 

 セコンドアウトの合図。

 

 また、餌をまくか。

 

 そして、奇襲に注意、と。

 




次の話の都合上、試合の途中で切りました。
次(明日)で決着です。

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