速水龍一で始める『はじめの一歩』。   作:高任斎
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後半。


18:奔流。

 2R開始。

 

 俺もサニーも、仕掛けることなく静かな立ち上がり。

 

 ただ、俺はインファイターのように、距離を詰め始めた。

 ダッシュではなく、足元を確かめるような前進。

 それと同時に、右手を細かく動かしてけん制する。

 

 無意識の選択。

 無意識の傾向。

 

 サニーの情報を集めていく。

 まあ、向こうも俺の情報を集めているんだろうが。

 

 

 ジャッジ席に背中を向けているとき。

 そして、ジャッジ席が横にあるとき。

 

 リングのどの位置にいるかで、姿勢と、動きが変わる。

 それが、俺にもわかってきた。

 

 背中を見せているとき、ジャッジには距離感はわかりにくい。

 つまり、届かないパンチであっても、攻めているように見える。

 ジャッジが真横にいるとき、攻撃ではなく、高い技術の防御を見せつける。

 相手の攻撃をきちんとさばいているという印象を与えるためだろう。

 

 速度と高い技術。

 そして戦術。

 

 それを見せつけられると、倒しきれない結果の判定勝ちではなく、『敢えて』判定勝ちを狙っているような気さえしてくる。

 

 倒せる力を持っているのに、判定勝ちを狙う。

 このケースが、一番怖いな。

 

 

 

 2Rも1分を過ぎたが、この試合、サニーはまだ一度も右を見せていない。

 ビデオで見た限り、ここまで右を見せないパターンは皆無だ。

 

 俺は足を止め、大きく息を吐いた。

 身体の感覚は十分につかんだ。

 こっちから、仕掛けるしかないな。

 

 ただし、俺からは手を出さない。

 フットワークだけで、サニーを追う。

 

 左右に。

 ジグザグに、距離を詰めていく。

 手は出さないが、目線と、肩や手の小さな動きで仕掛け続ける。

 

 サニーも、俺から距離をとることに専念している。

 

 お互いに、手を出さない。

 パンチのギリギリ届く距離を保ちながら、リングを移動し続ける。

 

 奇妙な一体感。

 そして、不思議な緊張感。

 

 いつの間にか、野次がやんでいる。

 

 残り40秒。

 

 残り20秒。

 

 残り10秒。

 

 ……まだか。

 

 残り5秒。

 

 ふいに、サニーが足を止めた。

 

 サニーの左。

 俺の左。

 

 俺が速い。

 顔をはねあげたところで、2Rが終わった。

 

 サニーの背中を見送り、コーナーへ戻る。

 

 一番リスクの低い時間帯に、俺を確かめにきた。

 しかし、我慢すべきだったと思うがな。

 

 ポイントに色気を出したか。

 

 

「会長」

「なんだ?」

「右を打てないのか、右を打たないのか、賭けませんか?」

 

 会長が少し考え、言った。

 

「打たない、だな」

「……まあ、昨日の計量のときに、握手もしましたしね」

 

 ケガの線は無いだろう。

 だとすると、駆け引きのためだけの伏せ札。

 相手の情報を集めてから動く、俺の戦い方を見越して……だろうな。

 

 まあ、それはそれで順調、としておこう。

 認識が広がれば、手札に使える。

 

 

 逃げに徹した相手は時間がかかる。

 防御だけを考えた俺が、ヴォルグにほとんどパンチをもらわないのと同じだ。

 

 ただ、それだと判定勝ちに直接は結びつかない。

 

 何か材料がある。

 少なくとも、サニーの心の中には。

 

 

 ふたつ、思い当たることがある。

 

 ここ数戦、俺はアッパーとフックを多用している。

 その距離では戦いたくない。

 ストレート系の距離に、俺を置いておきたい。

 同時に、俺のリズムを崩し、色々考えさせて、か。

 

 そして、もうひとつは……。

 

 

 セコンドアウトの合図。

 

 椅子から立ち上がった。

 

 3Rか。

 

 

 ゆっくりと、リングの中央へ。

 

 さっきと同じ距離。

 動き出す。

 

 手を出さない追いかけっこ。

 我慢比べ。

 

 コーナーへ誘導する動きはかわされた。

 なら、こういうのはどうかな。

 

 レフェリーの存在。

 幕之内との試合の記憶。

 

 誘導。

 そして切り返し。

 

 サニーの進む先。

 

 サニーの視線が、レフェリーをとらえた。

 慌てたように、バックステップ。

 回りこんで、激突を避けた。

 

 

 ……それほど余裕も無い、と。

 

 そして。

 やはり、手は出してこない。

 

 

 サニーを追う。

 そして、目を見る。

 

 おそらく、だが……。

 

 こいつ、俺のスタミナ面の不安に気づいている。

 

 前半、中盤をイーブンで耐えて、後半勝負か。

 それまで、徹底的に自分の手札をさらさない。

 

 

 

 

 

 

 

 まあ、そこまで付き合うつもりはない。

 

 方向転換。

 フェイント。

 誘導。

 

 コーナー、そしてレフェリーの位置。

 俺たちの動きを追う、レフェリーの動きの癖。

 その予測。

 

 

 サニーを見る。

 サニーに残した2つのルート。

 

 コーナーか。

 レフェリーか。

 選べ。

 

 サニーの選択は、レフェリー。

 レフェリーを避けるために、軌道が歪む。

 

 その瞬間、俺はギアを上げた。

 

 左のボディアッパーをみぞおちに。

 一瞬、動きが止まる。

 

 もうひとつ……。

 

 俺の右手が押さえられた。

 抱きつかれる。

 

 近づきすぎた……。

 いや、呼吸を読まれた。

 逃げると読んだが、逆に踏み込まれた。

 

 左拳を握る。

 左ひざを意識。

 

 幕之内のアレには遠く及ばないが、左手でサニーのみぞおちを突いておく。

 パンチではなく、体当たり感覚で拳を突く。

 表面的なダメージは無くとも、瞬間的に息が詰まる。

 2度。

 3度。

 

 レフェリーが割って入る。

 力を抜くフリ。

 しかし、集中。

 

 離れ際。

 サニーのジャブにカウンター。

 

 距離が離れる。

 踏み込む。

 サニーの目。

 サニーの腕。

 

 永遠の一瞬。

 その駆け引き。

 

 逃げた。

 追う。

 しかし、最初の一歩だけ。

 

 すぐに退いた。

 

 俺のいた場所に、サニーが踏み込んでいる。

 俺に抱きつこうとしていたサニーの腕。

 

 左のアッパーの構えを見せた。

 

 サニーの、開いた腕が閉じる。

 ガード。

 その下へ。

 

 右のボディフック。

 胃に持っていった。

 みぞおちに。

 左のボディアッパー。

 

 ガードが下がった。

 

 右のフェイントを入れる。

 

 ようやく釣れた。

 サニーの右。

 

 それをすかして、左アッパー。

 このまま……。

 

 と。

 

 サニーが尻餅をついた。

 

 レフェリーに促されるより先に、ニュートラルコーナーへ歩いていく。

 そして、サニーを見た。

 

 1、2Rが互角だとしても、この3Rでダウン点も含めて2ポイントの差がつく。

 逆転を目指すなら、前に出てくるしかない。

 

 ……1~2Rは最低でも互角だよな?

 

 判定は、他人任せなのがやはり恐ろしい。

 

 そういう意味では、他人に全てを委ねられるサニーは強い。

 いや、自分の判断を信じている、か。

 

 

 そして、さっき見せてもらったサニーの右は悪くなかった。

 タイミングも、悪くはなかったが……。

 

 身長がある分、小回りが利かない、か。

 たぶん、連打の回転が悪い。

 幕之内とは真逆の、インファイトに適性がないタイプ。

 相手を誘い込み、一撃を加えて離脱。

 

 相手を前に出させるボクシング。

 逃げの特化。

 

 相手を戸惑わせる。

 考えさせる。

 疲労と、焦り。

 

 おそらくは、いろんな理由の複合だろう。

 勝つために選択し、たどり着いた戦法か。

 

 なら、勝ちに徹したボクサーだな。

 

 

 カウント8で立ち上がる。

 

 俺の、左アッパー1発でダウン。

 少し体勢を崩してはいたが、サニーは打たれ強くない。

 

 それも含めての、判定狙い。

 

 

 残り時間を確認する。

 

 もう、このRは終わりだ。

 

 

 

 

「体調は?」

「問題ないです」

 

 会長と俺との間に、特に言葉はない。

 

 サニーは、勝つことにこだわっているボクサーだ。

 野次を浴びながらも、勝つための最善の道を選択してきたのだろう。

 ならば、次のRからは前に出てくる。

 そうするしかない。

 

 逃げ一辺倒の相手は面倒だが、前に出てくるなら問題ない。

 慎重に、丁寧に、仕上げる。

 

 今日の試合が8R勝負でなかったのは幸運だったか。

 それならもう少し、なんとかする必要があっただろう。

 

 

 

 4R。

 

 

 サニーの左。

 届かない距離から。

 

 ……いや。

 

 ジャブを打ちながらの、細かい前進。

 そして、ワン・ツー。

 

 やはり、勝ちに来た。

 前に出てきた。

 

 そしてある意味では……サニーの負けパターン。

 

 その決意に、敬意を。

 

 

 サニーの速い左。

 かわしていく。

 あるいは、はじく。

 

 ジャブの合間に、左フックをねじ込む。

 浅い。

 

 左が返ってきた。

 ヘッドスリップでかわす。

 右ストレート。

 ガードで受ける。

 

 いったん距離をとる。

 

 近づきすぎると、クリンチが来る。

 地味なようだが、アレも相応の技術が必要だ。

 

 ボクサーに抱きつくのは、言うほど簡単じゃない。

 

 呼吸、フェイント、タイミング……そして間合い。

 接近戦に必要な要素が詰まっている技術だ。

 

 クリンチの練習をしていないボクサーは、両腕を広げてノーガードで飛び込んできたりする。

 

 

 サニーの左。

 まだ、速度は落ちてない。

 

 ……ひとつひとつのパンチは悪くない。

 しかし、コンビネーションが少し甘い。

 

 ……穴を掘ってみるか。

 

 

 左の連打でけん制。

 一呼吸。

 わずかに、左のガードを空けた。

 

 サニーの左。

 ヘッドスリップで避ける。

 ワン・ツーを打ちやすい位置。

 

 そのツーに合わせて、踏み込む。

 左で、肝臓を突き上げた。

 

 サニーの左フック。

 頭をかすめた。

 

 雑になった。

 集中。

 

 もう一度左を肝臓へ。

 返しの右を、胃に。

 

 抱きつこうとした手を払いのける。

 ショートフックを見せ、ガードを意識させた。

 

 肋骨の下。

 呼吸をつかさどる、横隔神経を突き上げる。

 

 足が止まれば、サニーはそこで終わる。

 

 サニーの右。

 外へ大きくはじいた。

 

 懐に入るとはっきりわかる。

 小回りが利かない。

 打たれ強くないサニーにとって、この距離は厳しい。

 

 逃げようとする。

 飛んでくる左をはじいて、またボディへ。

 

 サニーの右。

 それを空振りさせ、伸びた腹に一撃。

 

 ボディもタイミングしだいで威力が変わる。

 

 また逃げる。

 しかし、その先はコーナーだ。

 

 それを判断する余裕も無い、か。

 

 コーナーに詰めた。

 威嚇するように、右ストレートを逃げ道にめがけて打ち抜く。

 釘付けにする。

 

 左のジャブを上に。

 そして右。

 

 上を意識させて下へ。

 それでも、ガードはさがらない。

 それを承知で、上へ。

 ガードの上から。

 そして、ボディへ返す。

 

 アッパーをちらつかせると、顔を上げてガードを固める。

 容赦なく、ボディへ。

 我慢強い。

 

 ガードにフックを叩きつけ、下へ返す。

 腹に力をこめるタイミング。

 それを殺していく。

 

 アッパー。

 ただし、ボディへ。

 

 ようやく、頭が下がった。

 左フックでガードをこじ開ける。

 右アッパーですくい上げた。

 

 ひざが揺れる。

 腰が落ちる。

 

 無防備なアゴ。

 無防備に見えるアゴ。

 

 反応。

 予測。

 計算。

 

 小さく。

 鋭く。

 

 左フックで打ち抜く。

 すでに、返しの右フックの体勢。

 

 狙うのは、予測の先。

 

 鋭く振りぬいた。

 

 

 サニーが、顔を傾けたまま、倒れていく。

    

 

 

 ……今のも、たぶん違うな。

 

 しかし、これをフィニッシュじゃなくて、普段からやらなきゃならない、と。

 

 まあ、少しずつだ。

 いきなりできるようなものじゃない。

 

 

 

 ニュートラルコーナーで時計を確認。

 

 

 サニーが、上体を起こした。

 しかし、そのままころんと転がってしまう。

 

 意識はある。

 だが、足が利かない。

 

 カウント7まで数えて、レフェリーが腕を交差した。

 

 

 女性ファンの歓声。

 そして、俺は控えめに右拳を突き上げた。

 

 そのままリングを一周する。

 

 ……ホールの客の反応。

 俺を見ている。

 退屈していたという感じではない。

 

 

 右手。

 左手。

 足。

 

 違和感は無い。

 動いたのは実質2Rと少し。

 少なくとも、前回とは違う。

 

 抑えていけば、いけるか?

 次の決勝は8R。

 タイトルマッチは10Rだ。

 

 それでもやはり、不安は残る。

 

 

 セコンドに肩を借りてリングを下りたサニーが振り返った。

 見ているのは、俺ではなく、リングか。

 

 それを見て、音羽会長が何かをつぶやいた。

 

「……なにか?」

「いや、なんでもないさ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 準決勝のもう1試合。

 

 俺の、決勝の相手が決まるのを見つめる。

 

 さっき控え室で俺から飴玉をもらったサウスポーの和田が、5Rで後藤を倒して勝った。

 後藤は、現王者の真田の初防衛戦で9Rで倒されている。

 初防衛戦という状況も含め、単純な比較はできない。

 

 予想どおりと言うか、やはり和田の方が来た。

 もともとバンタムではかなり評価の高い選手だった。

 アマチュア時代に、オリンピック(ソウル)にも出ている実力者だ。

 

 むしろ、今日の試合は手こずった印象だ。

 

 今日も含めて、階級を上げてからの2試合、どこか精彩を欠いている。

 階級変更でバランスを崩したのか、あるいは、タイトルマッチの負けを引きずっているのか。

 

 だとしても、調子を戻してくるイメージでいたほうがいい。

 

 動きが速く、サウスポーで、しかも少々変則。

 アマ出身で変則スタイルというのは珍しい。

 経験という意味では、該当するような相手はいない。

 

 その、独特のリズムと距離感に慣れるまでが、重要だな。

 

 

 

 

 帰ろうと思ったのだが、次の試合が木村さんだった。

 なんとなく、見てしまう。

 

 アウトボクサー同士の、緊張感あふれる接戦。

 

 最終6R。

 やや疲れを見せた相手を、木村さんが攻めたてる。

 

 結果、木村さんの判定勝ち。

 

 ジャッジは、1人がドローで、2人が1点差で、木村さんを支持。

 最終Rの攻防が、勝負を決めたと思う。

 

 え?

 飴玉のせい?

 

 

 気になったので、さらに見てしまう。

 

 

 間柴が、3Rで片付けた。

 片付けられたのは、俺が飴玉を渡した選手。

 

 

 そしてライト級。

 パンチパーマの青木さんの登場。

 

 激しい乱打戦。

 3Rに青木さんがダウンを奪われる。

 しかし、4Rに青木さんがダウンを奪い返す。

 

 手に汗を握る試合展開に、ホールが盛り上がる。

 

 5Rでは、お互いにダウンを奪い合う展開。

 盛り上がりは最高潮。

 

 しかし、ダメージと疲労で、5Rの終盤から、2人の動きが目に見えて鈍った。

 6Rは、ぺちぺちと、泥仕合の模様。

 

 観客からの野次を浴びながらも、青木さんが魂の右フック。

 相手も、ロープをつかみながら立ち上がる……が、判定へ。

 

 ジャッジは、1点差が2人、2点差が1人で、3人が青木さんを支持。

 最終Rで、ダウンを含めて2ポイントだから、勝利を引き寄せた、か。

 

 

 ……原作って、飴玉でブレイクできるらしい。

 

 まあ、それは冗談だが。

 接戦は、ほんのちょっとしたことで勝敗が分かれる。

 同じ条件でやっても、同じ結果になるとは限らない。

 

 今日は、木村さんと青木さんに、何かが傾いた。

 そういうことだろう。

 

 

 ただ……木村さんの次の相手は間柴なんだよなぁ。

 

 今日の間柴の出来なら、木村さんにも目はありそうな感じだが。

 間柴は、階級も上げたしまだ成長期。

 そして、木村さんはある程度完成されたボクサーだ。

 

 決勝ではなく、1回戦で戦っていたなら……勝率は現状より高かっただろう。

 

 そして、青木さんもそうだが、今日の熱戦。

 疲労とダメージ。

 おそらく、次の決勝では2人ともコンディションが落ちる。

 

 倒すのは目の前の相手だが、次の戦いへとつながっている。

 これも、トーナメントの厳しさだ。

 

 

 

 

 

 ホールから駅への道。

 声をかけられた。

 

「速水さん」

「ん?おお、幕之内くん」

 

 ホールで、存在に気づいてはいた。

 ただ、鷹村さんがいたから近寄りたくなかっただけで。

 

「木村さんも青木さんも勝ったな」

「はいっ」

 

 本当にうれしそうに返事をする。

 

「……あ、速水さんも。おめでとうございます」

「うん、まあ、ぼちぼち、かな」

 

 幕之内が俺を見る。

 

「どうした?」

「……僕と、宮田君の試合が決まりました」

 

 その言葉。

 心に届くまで、少しかかった。

 

「勝ったほうが、8回戦昇格です」

「そいつは……いや、待てよ」

 

 宮田が俺に負けたのは12月。

 そして、今は9月、だ。

 

 長い、長い休養。

 その、理由は……このためか。

 

「速水さんの言うとおり、宮田君、背が伸びてました」

 

 嘘つきにならずにすんだか。

 

「もともとジュニアライトでも厳しかった、今はライト級でも厳しい……そう、宮田君のお父さんが言ってました」

「そう、か」

 

 幕之内の視線が、足元へと。

 

「僕、まだ減量ってしたこと無いんです」

「よし。ほかのボクサーには絶対言うなよ」

「あ、わかってます……そのつもりです」

 

 幕之内が語る。

 

 デビュー戦は124ポンドだったと。

 練習を重ねると、自分に力がついているのがわかる。

 サンドバッグの感触。

 ロードワーク。

 先輩とのスパー。

 

 贅肉が減ったのがわかる。

 それでも、オズマさんとの試合は124ポンドだった。

 

 贅肉の代わりに、筋肉がついた。

 

「強くなるって、こういうことかなって思いました」

 

 新人王戦で俺に負けて。

 鴨川会長の課す練習メニューをこなして。

 5月の復帰戦。

 

「124と2分の1ポンドだったんです……2分の1ポンド、200グラムちょっとですよね。僕の身体に、力がついた」

「それ以上かもな」

「え?」

「減量はしなくても、普段から食事とか気にするだろ?無意識に、それまでの生活よりも、食事の量が、摂取する栄養素が減るもんさ」

 

 細かく検査をすれば、骨密度が落ちているかもしれない。

 見えない部分が、弱くなっている可能性はある。

 

「……以前、木村さんに言われたことがあるんです。『俺たちは、体重を落とすためのトレーニングだが、お前は肉をつけるトレーニングだよな。うらやましいぜ』って」

 

 体重制限のある競技の宿命。

 ボクサーとしての成長期、ボクサーとしての身体ができた後は……純粋に力をつけることはできなくなる。

 何かを得るために筋肉をつけると、その分、別の筋肉を削り落とさなければならない。

 もとから、余分なものは無いのだ。

 何かを手に入れ、別の何かを失う。

 対戦相手に合わせて、細かなモデルチェンジを繰り返す……それが、プロのボクサーだ。

 

 そして、階級を上げるなら……筋肉をつけられる。

 これまで削っていたものを、失わずにリングに持っていける。

 

 

 幕之内が、顔を上げた。

 俺ではなく、空を見上げる。

 

「宮田君は……宮田君が、力をつける機会を、奪いたくはないと思いました」

「憧れ、だよな」

「はい」

 

 強くあってほしい。

 輝いていて欲しい。

 そういう存在。

 

 もしかすると、それは約束よりも重いもの、か。

 

「……次が、宮田君の、フェザー級の最後の試合です」

 

 つぶやくような声。

 そして、幕之内が俺を見た。

 

「この後、僕と宮田君が戦うことはありません……その試合を、速水さんに見てもらいたいです。速水さんの言葉がつないでくれた約束の試合ですから」

「日程は?」

 

 俺の問いに、幕之内の視線がかすかに泳いだ。

 やがて、その視線を落とす。

 

「本当は……8月にやる予定でした」

「……ケガか?」

「復帰戦の後にちょっと、僕の家の事情で……1ヶ月近く練習ができなかった時期があって……」

 

 家の事情……?

 

 思い出す。

 いや、それが正しいかどうかはわからない。

 原作で語られた『家の事情』。

 

 幕之内の母親が、確か入院したとか、そんな感じの……。

 

 幕之内の家は、釣り船屋をしている。

 母親と、子供の頃からそれを手伝ってきた幕之内……その2人による家族経営。

 その片割れともいえる幕之内が、ボクシングに熱中したらどうなるか。

 

 原作では、確か母親が倒れたのが、A級トーナメントの組み合わせが決まった頃。

 

 幕之内の復帰戦は5月末だったな……少し時期が違うのか。

 

「あ、いや、今は大丈夫です。ちゃんと、練習もできてますから」

「……そうか」

 

 訳知り顔で、踏み込むわけにもいかない。

 原作通りかどうかはともかく、母親との二人暮らしで、家の事情ときたら……母親の健康状態の問題である可能性は高い。

 

「僕の個人的な事情で、これ以上宮田君を待たせるわけにはいかないとも思いました……それでも、宮田君は『待つ』と言ってくれました」

 

 幕之内が、ぐっと右拳を握る。

 そして、空を見上げた。

 

「……僕のわがままで、宮田君の時間を、貴重な時間を奪ってしまいました」

 

 新人王戦の敗退が去年の12月。

 最初の予定でも、8月。

 新人としちゃあ、復帰戦までが長い。

 

 宮田の父親の言葉から察するに、フェザーにとどまる意思はあったのだろう。

 でもそれは……約束のためか。

 

 宮田は、復帰戦を勝てば8回戦に昇格だった。

 幕之内は、2つ勝たないと8回戦にはあがれなかった。

 

 幕之内がもうひとつ勝っていたら。

 あるいは、俺に負けた後の復帰が早かったら。

 

 もしかすると、宮田はA級トーナメントに、約束の地を求めていたのかもしれないな。

 

 

「試合は10月、来月の下旬です……メインは鷹村さんですけど」

 

 トーナメントの決勝が11月の上旬。

 その直前か。

 

 青木さんに木村さんの2人も決勝に出る……鴨川ジムも大変だな。

 

「わかった。見に行くよ」

「あ、速水さんにはチケットも送りますから」

「ちゃんと買うよ……ただ、プロとして値段に見合う試合を見せてくれ。それが条件だ」

「が、がんばります……」

 

 宮田と幕之内か。

 下手をすればあっけなく決着がつくだろう。

 

 願わくば、名勝負を。

 

 ボクサーではなく、ファンとしての願い、か。

 人間って生き物は、勝手なものだな。

 

「それで、勝てそうかい?」

「え、あ、いや……そのですね。宮田君との試合は、勝ち負けよりも約束とか、そういう……」

「勝てるのかい?」

 

 幕之内が俺から目を逸らし、両手の指先を突き合わせ始めた。

 

「……シャドーはもちろん、想像の中では全部負けてます。最近は、夢の中でもですね……」

 

 ははは。

 お前が言うな。

 俺の目覚まし時計の、幕之内(おまえ)が言うな。

 

 とは、口にはできない。

 

 

 

 

「この前のような試合だと、危ないぜ……宮田くんも、復帰戦でブランクがあるとはいえな」

「え?見てたんですか?」

「ああ、鴨川会長に怒鳴られてたのも、な」

 

 幕之内も半年振りの復帰戦で、試合勘もへったくれもなかったんだろうが。

 最初に出鼻をくじかれて、リズムが狂って、ようやく身体が動き出したのが1Rの終盤だ。

 

 その後は……お察しだ。

 

 幕之内のパンチにガードをぶっ壊されて、ビビって逃げたところをボディブロー。

 2R開始早々、またボディに連打をもらって足が止まり……南無。

 

 最初からそれができれば、ほとんどパンチももらわず1Rでけりがついている。

 まあ、鴨川会長も怒鳴りたくなるだろう。

 

 たぶん、もどかしく思ってるんだろうな。

 

「速水さんは、ほとんどパンチをもらいませんよね。何かコツでもあるんですか?」

「俺と幕之内くんとじゃ、条件が違いすぎるからなあ……」

 

 目のよさと、反射速度。

 この2つに関しては、おそらく俺のほうがかなり優れている。

 

 俺は、予測と距離感、そして連打を使って避ける。

 幕之内は、小刻みに身体を動かして、当てさせない、だ。

 

 防御の意味というか、定義が違う。

 

「じ、自分が不器用な自覚はあります」

 

 不器用と言うより……持ち味を活かせてない感じだが。

 

 素直で愚直。

 ある意味で、職人タイプ。

 

 攻撃に60、防御に40とか、意識を配分して戦えるタイプじゃない。

 

 今は攻撃100、次は防御100、みたいなイメージ。

 そうすると、重要なのは攻撃と防御の切り替えのタイミング。

 その切り替えを、どうしのぐか。

 

 結局、相手の攻撃を一番もらいやすいのは、自分が攻撃するときだ。

 カウンターパンチャーの宮田が相手なら、なおさらだろう。

 

 

 原作では、避ける動きを攻撃の予備動作につなげた、デンプシーにたどり着いた。

 あれは、攻防一体ではなく、攻撃のみを考えた技だ。

 その動きが、結果として『当てさせない』という防御の意味を持っただけ……俺はそう思っている。

 

 本来、『デンプシーロール』は技のひとつでしかない。

 しかし、結局その技が、幕之内のボクシングスタイルそのものを変えさせた。

 いつでもデンプシーが出せる戦闘スタイルへと。

 

 攻撃と防御の切り替えが苦手な幕之内にとって、『デンプシー』をメインに考えられたスタイルは、やりやすかったんだと思う。

 そこにいたるまでの努力を否定するわけじゃないが、ある意味で、ボクサーとしては『楽』をした。

 

 純粋なインファイターなのはいい。

 それは、適性の問題だ。

 

 ただ、一口にインファイターと言っても色々ある。

 なのに、インファイターとしての幅を広げることをやめてしまった……俺はそう思う。

 

 とまあ、これは原作でのお話だ。

 

 この先、どうなるかわからないけど……俺が何か言っていいのかね。

 ちょっとしたアドバイスならともかく。

 

 原作のデンプシーロールは、幕之内自身がたどり着いた答えだ。

 だからこそ、鴨川会長もそれを尊重した。

 選手の自主性、やる気を重視する……その判断は、正解不正解ではなく、指導者として尊い。

 

 たった1人で考え、努力し、掴み取ったものを否定する指導者に、人はついていかないだろう。

 

 しかし、鴨川会長は……それとは別の成長というか、違うスタイルを思い描いていたはず。

 

 打たせずに打つ。

 打たれる前に打つ。

 

 その、鴨川会長が描いていた未来に、興味がある。

 

 

 

「じゃあ、ちょっとだけアドバイスだ」

「はい」

「反撃をもらわないタイミングでパンチを出すんだ」

 

 じとっとした目つきで見られた。

 その気持ちはわかる。

 でもな。

 

「基本中の基本だろ?」

「それはそう……ですけど」

「相手の懐にもぐりこむのと同じだよな、相手を空振りさせて踏み込む。相手を空振りさせてパンチを打つ」

 

 身体を振り、右、左と、小さくパンチを打つ。

 

「相手が右を空振りしたら左を打つ。左なら右を。パンチを打たせることで空いたガードをめがけて、パンチを打つ」

「理想、ですよね」

「理想だよなあ」

 

 なんとなく、2人して笑ってしまう。

 

「自分がどういうときに一番パンチをもらうか……それをきっちり理解するってのも大事だな」

 

 統計。

 分析。

 原因の除去。

 あるいは、緩和。

 

「……フックは大きく振り切れ。それが防御になるって言葉もあるしな」

「え、隙が大きいんじゃ?」

「ある意味正しいんだ……こうやって、振り切ると」

 

 二の腕、そして肩が、自分のあごを守ってくれる。

 まあ、ボディはがら空きになるが。

 

「パンチをもらいにくい攻撃手段を考える。相手が攻撃しにくくなる状況を考える……考えて考えて、自分に何ができるか、何が可能か……そうやって、積み重ねていくしかないよな」

「そうです、ね」

 

 自分が動けば、相手も動く。

 自分のパンチが届くと思った距離は、次の瞬間にはそうじゃなくなる。

 

 相手あっての勝負。

 

 自分のパンチがガードされたら、相手の攻撃手段を奪ったともいえる。

 相手に攻撃させない。

 手を出させない。

 それも、立派な防御だ。

 

 

「まあ、鴨川会長とも相談してみな……あの人なら、色々考えてるはずだ」

 

 話を切り上げる。

 今は夜で、試合の後だ。

 

 軽く、手を振った。

 

「じゃあな。試合、楽しみにしてるよ」

「あ、はい、速水さんも。トーナメント、勝ってください」

「ああ。木村さんと青木さんにもよろしく言っておいてくれ」

 

 背を向ける。

 歩き出す。

 

 

 ……というか、ヴォルグの話題が出なかったな。

 今は、宮田との試合のことで頭がいっぱいか。

 

 

 ふと、夜空を見上げた。

 日中は暑いが、夜になるとそうでもない。

 

 残暑は厳しいが、夏は終わった。

 季節は移る。

 時は流れていく。

 

 幕之内対宮田、か。

 

 原作とは違う、時が流れている。

 

 その違う時の流れを、俺は、歩いている。 

 

 それを、強く意識した。

 




たぶん、後半でサニーの印象が飛んでる人が続出したのではと。(目逸らし)

先に言っておきます。
一歩と宮田の試合描写は、本編ではやりません。
まずは第二部を終わらせること、そして本編の第三部を優先します。

これは、と思えるものが書けたら裏道で出したいなとは思います。
私自身も含めてハードルが高いので、確約はできませんが……いい試合が書けたら、書けたらいいな、書けるかなあ……どうだろう。
というか、半端な出来だと自分で自分を恨みそうな気がします。
……書けなかったならごめんなさい。


そしてこっそりと勝っている、青木さんと木村さん。
つまり、10月下旬から11月上旬にかけて、鴨川ジムの4人は全員試合に臨む、と。

露骨な伏線とか言わないで。




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