速水龍一で始める『はじめの一歩』。   作:高任斎

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タイトルどおりです。
またちょっと嫌な感じにリアルを。


19:決勝に向けて。

 仕事が終わり、ジムへと向かう。

 

 時刻は夕方。

 日中の暑さも、幾分和らいでいる。

 

 まだ9月か、もう9月か。

 太陽が沈むのも、早くなった気がする。

 

 トーナメントの決勝が行われる11月の上旬なら、もっと早くなっているだろう。

 

 

「こんにちはー」

 

「ちゃーす」

「ちわっ」

「おー、お疲れさん」

 

 ジムが活気付く時間帯だ。

 

「もう、練習再開ですか?」

「いや、今日は病院の検査結果の報告だけな」

 

 そう言って、手に持っているかばんを示す。

 

 パンチをもらってなくとも、試合の後は検査をしなきゃならない。

 減量や、そこにいたるまでのトレーニングによるダメージ。

 試合前の簡易検査ではわからなかった何かが、試合後に現れるかもしれない。

 

 面倒くさがる選手もいると聞くが、長く現役でいたいなら……まあ、やるべきだ。

 

 とはいえ、試合だけでなく、病院の検査のために仕事を休むと……少々、周囲から痛い視線も向けられるけどな。

 ボクシングに対して理解のある職場(社長)。

 それが、どれだけありがたいことか。

 

 純粋にボクサーであり続けたいなら、力仕事も避けたいところだ。

 日常的な仕事で、ボクシング以外の余分な筋肉がついてしまう。

 

 ただ、そんな贅沢ができるボクサーがどれだけいるか。

 俺は、恵まれている。

 

 

 会長室。

 

 ……と、電話中か。

 

 電話が終わるのを待ち、ノックせずに、ガラス張りの部分でひらひらと手を振った。

 それに気づき、音羽会長が手招きする。

 

「おう、速水。順調か?問題ないか?」

「ええ、ぼちぼちです」

 

 大事にされているのがわかる。

 そんなやりとり。

 

 自然と、今後のこと……決勝についての話になった。

 

 

「決勝の相手は和田か……後藤が勝ってくれてれば、フリーパスだったのによ」

 

 フリーパスって……そこまで言いますか。

 

 苦笑しつつ、ツッコミを入れておく。

 

「もともと、和田さんが上がってくるって、予想してたじゃないですか」

「そりゃそうだがな……真田とやる前に、サウスポーの、しかも変則タイプの和田だぞ?そして、実力もある。あまりやりたい相手とはいえんだろ」

 

 現王者、真田一機は、右のボクサーファイター。

 これといった癖の無い、正統派タイプで、隙の無いイメージだ。

 

 原作だと、フック、そしてアッパー系……そして、軌道を変化させるジャブ『飛燕』を使いこなして、初の防衛戦の雰囲気にあてられた幕之内を敗戦寸前まで追い詰めたイメージが強い。

 

 だが、現状では……むしろ、ストレート系のパンチが強い。

 正確なジャブ。

 距離感を保ち、押しては退き、退いては押す。

 冷静に試合をコントロールし、基本のワン・ツー、そして、カウンターも含め、右ストレートがフィニッシュブローになることが多い。

 

 ジュニアフェザーという階級に縛られている以上、現状では大きな変身はないと見ていいだろう。

 

 

 まあ、サウスポーで少々変則の和田とは、色々違う。

 チャンピオンカーニバルでの真田との戦いを見据えていうなら、スタイルそのものは真田と似ていた後藤が相手であったほうが都合が良かったのも確かだ。

 

 和田を想定した練習をこなせばこなすほど、真田戦において大きな修正が必要になってくる。

 

 肉体改造および、スタイルの変更は1ヶ月や2ヶ月ではできないし、俺の身体のバランスはデビュー時にほぼ完成していた。

 力をつけるのではなく、技を磨く。

 あるいは、身体のバランスを崩さずにすむ新しい技を身につける。

 そして、今持っているもので作戦を考えるのが普通のボクサーのやり方だ。

 

 体重に余裕があり、筋肉をつけやすく、なおかつハードトレーニングに耐えられる……原作の幕之内のような存在は、例外中の例外と言える。

 

 

「まあ、和田も好きでジュニアフェザーに階級を上げてきたわけじゃないしな……文句を言っても始まらないか」

「……どういうことです?」

 

 バンタム級のタイトルマッチで負けたことを契機に、手ごろに見えるジュニアフェザーに階級を上げてきた。

 俺はてっきり、そう思っていたのだが。

 

 会長が俺を見た。

 

「和田がタイトルマッチで負けた相手、知ってるだろ?」

「石井さん、ですよね?世界を目指せる器だって評判の」

 

 ただし、『目指せる』であって、『獲れる』じゃないんだよな。

 これが、鴨川ジムの誰かさんだと『チャンスさえあれば世界が獲れる器』と言われる。

 そして伊達英二もまた『獲れる』と評価されていた。

 今は『狙える』になっているが。

 

 俺の場合は、『目指せる』だったな。

 

 無意識なのか、それとも意識的にか……マスコミというか、人の言葉は時に残酷だ。

 

 とはいえ、石井に実力があるのは確かだ。

 そして和田は、その石井とのタイトルマッチで接戦だった。

 去年……じゃなくて今年のチャンピオンカーニバルの中ではベストバウトだったとの評判の試合。

 俺の見た感じ、石井がやや有利、絶対とはいえない程度の差。

 

 まあ、すぐに再戦を挑めるはずもなく……次は勝てるとも言い切れない。

 だからこそ、ひとつ上の階級のベルトを狙いに来た……わけじゃないのか?

 

「和田は、タイトルマッチ以前にも、石井に負けてるんだ。つまり、2回負けた……暗黙の了解というか、国内での3度目のマッチメイクは無い。3度目をやるなら、上の舞台に行くしかないってな」

 

 それは初耳……というか。

 

 そういえば、原作でも幕之内と千堂がそんな感じだったか。

 同じ舞台、日本タイトルマッチでは戦わないというか……確かに、再戦そのものが珍しいって雰囲気はある。

 

 和田は、バンタムに石井がいる限り、タイトルは狙えない……そういう感じになるのか。

 まだまだ俺の知らないことが多いな、この業界。 

 

「じゃあ、日本をすっ飛ばして東洋へってのは……?」

「和田の所属するジムには単独でそれをやれる力が無い……そして、今のバンタムは国内は石井、そして東洋は塚田にスポンサーがついて、テレビ局がバックアップの体制をとってる」

「……うわぁ、どこかで聞いた話ですね、それ」

 

 不機嫌そうに、音羽会長が足を組み変えた。

 

「塚田の世界への話が進まないと、国内の石井には東洋への順番が回ってこないのさ。そして、石井が国内を卒業しないと、和田にタイトル挑戦の目は無い」

「……なるほど。あのタイトルマッチは、和田さんにとって、そういう試合だったんですか」

「接戦だったとはいえ、石井に負けちまったからな。もう和田が入り込む余地はない」

 

 ふと、前世で一時期よく使われたフレーズを思い出した。

 絶対に負けられない戦い、か。

 

「……じゃあ、ジュニアフェザーでなんとかってとこですか」

「どうかな……」

 

 そうつぶやいて、会長が苦笑を浮かべた。

 

「速水にはいまひとつピンとこないかもしれないが、ボクシングのオールドファンの世代には、『バンタム級』と『フライ級』ってのは特別なんだ。そのオールドファンの世代の経営者というか、スポンサーもつきやすいし、テレビ局のバックアップもつきやすい……それに」

「今の時代は、日本人が世界挑戦しやすい、ですか?」

「まあ、そういうことだ……」

 

 ミニマム級から、ジュニアフライ(ライトフライ。ただし、呼び名は統一されていない)、フライ、ジュニアバンタム(スーパーフライ)、バンタムと、いわゆる軽量級が、日本人ボクサーが世界へと挑戦する主戦場だ。

 

 これが、ジュニアフェザー以上の中量級になってくると、中南米勢が強くなってくる。

 WBCの本部がメキシコ、WBAの本部がパナマにあることからもわかるように、根強い人気があり、競技人口も多く、総じてレベルも高い。

 昔はこの階級でもそこそこやれたが……今は世界全体の競技人口が増えて、逆に層が薄くなったとされる日本人には厳しい戦場になっている。

 

 そして重量級は……鷹村さんの境遇からもわかるように、アジア人にはほぼノーチャンスだ。

 重量級で最も軽いミドル級においても、これまでにアジア系の国から生まれた世界王者はたった一人だけ。

 それも、第二次世界大戦前のことになる。

 高額のファイトマネーが飛び交うようになってからは、ますますその傾向が強くなった。

 

 前世でも、90年代に日本人のミドル級の世界挑戦が決まったと聞いて、多くのボクシングファンが『え、なんで?』と首を傾げたぐらいに厳しい。

 挑戦権が回ってきたことが、そもそもの奇跡。

 

 

 軽量級は、世界で見れば不人気といえる階級だ。

 タイトルマッチというビジネスを成功させられる経済力というか国のひとつが日本だ。

 物価の高い日本に王者を招いて、日本人ボクサーが挑戦を繰り返す。

 それが、現状。

 

 つまり、今の時代はバンタムから階級を上げると……いきなり、世界挑戦への難易度がはね上がる。

 チャンスを手に入れるという意味でもそうだが、実力の面でもだ。

 競技人口を見ても、この時代は軽量級の人数が少ない。

 そして、日本人は軽量級の層が厚い方だ。

 

 この時代、日本人で、運動能力が優れていて、体格のいい子供はボクシングには目を向けないことがほとんどだ。

 周囲がそうさせないというべきか。

 野球や相撲、柔道、バレー、サッカー……など、周囲の大人が自然とそちらへ誘導する。

 

 その国で、ボクシングの人気があるかないかというのは、そのまま競技人口に直結する。

 重量級は、体格的に日本人に不利と言われるが、正確には重量級で戦える可能性のある素質を持った子供は、ほかの競技に流れると言うべきだろう。

 

 たとえば、プロ野球選手の平均身長は、日本人男性の平均身長と比べて10センチ近い差がある。

『背は低くとも関係ない』などと本気で口にする指導者は、現実が見えていないといえる。

 

 運動能力で金を稼ぎたいと夢見る子供たちにとって、ボクシングは魅力的な競技ではない。

 少なくとも、体格的に優れた子供たちにとってはそう思うのだろう。

 

 身体が小さく、運動神経が優れている……そういう子供たちの受け皿のひとつとしてボクシングがある。

 それが、この国での現状だ。

 

 

 

 気がつくと、音羽会長が俺を見つめていた。

 

「どうしました?」

「いや、結局……和田というボクサーには運がないってことさ。オリンピック(ソウル)を目指して大学にいって、その後も次のオリンピック(バルセロナ)を目指すかどうかで揉めて……デビューが遅れた」

「……」

「バンタムには、塚田がいた、そして石井がいた……ジュニアフェザーに階級を上げたら、ちょうど同じ時期に、速水、お前がフェザーから階級を下げてやってきた」

「いや、会長。それ、俺が負けたら、俺に運がないって言われるパターンじゃ……?」

「はは、そりゃそうだ」

 

 会長が少し笑い……視線を落とした。

 

「……覚えておけよ、速水。バンタムとジュニアフェザーは1階級しか違わないが、世界挑戦のためにかかる費用と手間は大きく変わってくる。そして、フェザーより上は、また大きく変わる」

 

 会長の手。

 握りこまれた拳。

 

「ジュニアフェザーは、中量級では不人気の階級とも言える……それでも、バンタムよりは厳しい。世界を目指せるチャンスは、いろんな意味で少ない」

「はい」

「チャンスをつかんだら、絶対に逃すなよ。和田じゃないが、2度目はあっても、3度目のチャンスは絶対に無いと思え」

「……何か、あったんですか?」

 

 一瞬の間。

 

「千堂戦のあと、タイから呼んだサウスポーと()らせただろ?」

「ええ……それが?」

「……あの時、お前を国内でもたもたさせられないと思ったのさ」

「そんな強い相手でしたか?現地のプロモーターからの情報にだまされてません?」

 

 会長がちょっと笑った。

 

「ま、お前はそれでいいさ……そもそも、初めて会ったときから目線の位置が違ったもんなぁ」

「千堂や宮田、そして幕之内のほうが、よっぽど手ごわかったですよ?」

「そこで、その3人を比較対象に……まあ、いいか」

 

 また会長が笑い、ガラス張りの壁……ジムへと目を向けた。

 

「ヴォルグとのスパーで成長するお前を見て……東洋は確実に獲れると思った」

「……まあ、勝ち続けるつもりです」

「ああ、勝てよ速水。和田も、真田も、ぶっ飛ばしてやれ」

 

 和田、そして、王者の真田。

 

 あと2つ勝てば、とりあえず日本王者。

 速水龍一の、途切れた道。

 その先。

 

 

 どんな景色が……見えるんだろうな。

 あるいは、ただ道が続いているだけか。

 

 

 

 

 

 

 

 10月上旬。

 

 ヴォルグとのスパー。

 なんとか、4Rを終わらせた。

 

 少し変則だったから、ヴォルグは本気じゃない。

 

「アリガトウ、リュウ」

「いや、ちょいと新鮮だったからな」

「シンセン?新シイ?」

 

 ヴォルグが、首をひねる。

 

『いつもと違うスタイルだったから、楽しめたよ』

『ああ、うん。リュウは、器用だよね』

 

 A級賞金トーナメントの決勝。

 俺は和田と。

 そして、ヴォルグは冴木とだ。

 

 フリッカーはともかく、フットワークだけなら俺も冴木の真似事ぐらいはできる。

 多少、速度は落ちるが。

 まあ、ヴォルグのスパー相手として……そういうことだ。

 

『ありがとう、速水』

『お役に立てましたか、ラムダさん』

『具体的なイメージをつかむには十分だった。君は、他人の特徴をつかむのが実に巧みだ』

『知り合いですからね。昔、アマの大会で試合をしましたし、プロになってからスパーをしたこともあります』

『なるほど』

 

 ラムダが小さく頷く。

 

『……君の友人には、厳しい結果になるよ』

 

 何が起こるかわからないのが勝負とはいえ、な。

 

 心の中で、冴木にがんばれと呟いておくことにした。(目逸らし)

 

 

 

 ヴォルグは帰ったが、俺は練習を続ける。

 休養も大事だが、ヴォルグと違って俺は平日に時間が取れない。

 

 きちんと、追い込むべきところは追い込まなければならない。

 自分で自分を追い込む方法は、どこかに甘えが出やすい。

 

 よく、『吐くまで追い込め』と言うが、あれは一般的な認識とは別の、重要な意味がある。

 ハードトレーニングそのものではなく、自分の力を搾り出す訓練。

 意識の切り替え。

 神経のトレーニング。

 

 いわゆる、火事場の馬鹿力を利用するためのスイッチと言うか、メンタルトレーニングにも分類されるべきものだ。

 一部で『もがき』と呼ばれる練習法。 

 

 自覚はあるが、俺は間違いなくそこが弱い。

 

 とはいえ、それなりにコツのようなものはつかんではいるが。

 たとえば千堂戦のあの時。

 余力とか、ペース配分とか、そういうものを全部取っ払うしかなかった精神状況。

 あれをイメージする。

 自分を出し切り、全部搾り出す感覚。

 

 まあ……選手が吐くぐらいのハードトレーニングをさせるだけが目的になっている指導者は多いが。

 これは、きちんと選手を管理して行わないと『吐かない様に、無意識に流してしまう』癖がつく。

 苦痛を避けるための、自己防衛だ。

 

 倒れないように、怪我をしないように、ペース配分をつける。

 もちろん、本人はそれを自覚していない。

 全力を振り絞ったつもりなのに、余裕を残している。

 そして、『俺もずいぶん体力がついたな』などと仲間と笑いあったりするのだ。

 

 ……野球部員には、意外と多い。

 

 吐けるまで練習できるのも、ひとつの才能だ。

 ただ、その場合は怪我には注意だが。

 余力を残さず振り絞るということは、やはりそれなりのリスクを伴う。

 

 

 

 荒い呼吸のまま、鏡に映る自分と向かい合う。

 

 和田のイメージ。

 それを動かす。

 俺も動く。

 

 右のジャブでなく、右のフックから入ってくることが多い。

 実際に見てみないとなんともいえないが、対戦する相手はみんなそれを避けにくそうにしていた。

 

 俺の左手の外。

 視界の外から飛んでくるフック、か。

 映像で見る限り……俺の右手のほうに上体を傾けて、無造作に打っているように見えるのだが。

 

 たぶん、独特のリズムがあるのだろう。

 

 千堂戦の後にやった、あのサウスポーとの対戦が参考になるだろうか。

 

 

 練習生に断りをいれ、スペースを確保。

 

 反復横とび。

 横の動きを意識。

 縦の動きからの連打ではなく、横の動きからの連打。

 

 低く。

 速く。

 連打。

 ギアチェンジ。

 動作の中断。

 そこからのラッシュ。

 

 技術と思考を支える体力。

 そして、酸素。

 

 これをそのままリングの上に持っていけたらと思う。

 誰もがそう願う。

 しかし、無いものねだりだ。

 

 

 床を拭き、スペースを空けた。

 練習生に礼を言う。

 

 休憩。

 いや、今日はもう上がりか……あんまり待たせてもな。

 

 近づいてくる人影。

 

「速水君。ちょっといいかな?」

「藤井さんじゃないですか。ヴォルグなら帰りましたよ」

 

 わかっていてそう言うと、藤井さんが困ったように頭をかいた。

 

「そういじめないでくれよ……雑誌的には、ほら、君ならわかるだろ?」

「はは、理性と感情は別ですよ」

「まいったなあ……」

「冗談ですよ……それで、今日はなんです?トーナメント決勝についてですか?」

「まあ、そんなところさ」

 

 A級賞金トーナメント決勝について少し話をした。

 

 

「なあ、速水君」

「はい?」

「伊達と……伊達英二と、ヴォルグ・ザンギエフ。どちらが強い?」

「ヴォルグが冴木さんに勝ってからの話ですね」

「まあ、そうなんだがな……」

 

 口ごもると、藤井さんは間を取るように窓の外に視線を向けた。

 なんとなく、俺もそれを追う。

 外はもう真っ暗だ。

 

「……2人とスパーをした君の意見は貴重だろ?」

「じゃあ、1人のボクサーとして……当然オフレコですよ?」

「ああ……少し残念な気もするがな」

 

 俺は、思うところをそのまま言葉にした。

 

「強いのはヴォルグです」

「……断言できるのかい?」

「ええ。相性も絡んできますが、強いのはヴォルグだと思います……ただ」

「ただ……なんだい?」

 

 藤井さんを見て、言葉を続けた。

 

「やりにくいのは伊達さんなんですよ」

「それは……どういうことだい?」

「ボクシングに限ったことじゃないですが、よく『経験がものをいう』って言葉が使われますよね?」

「いや、それはそうだが……ヴォルグは、アマで200戦以上……」

 

 首を振る。

 そして、一言。

 

「経験って、何ですかね?」

「それは……いろんな相手と戦って、いろんな戦い方や、場面を知ることだろう?」

「俺もうまく説明できる自信が無いんですがね……戦い方とか技とかって、自分とは別の『価値観』であって、経験ってのはそれらとの接触を意味してるんじゃないかって思います」

 

 スポーツは、どこまでいっても人と人との戦いだ。

 記録と向かい合う競技にしても、最初に良い記録を出すなど、相手に精神的重圧をかける駆け引きは随所に見られる。

 

 人との戦い。

 異なる価値観との接触、ぶつかり合い。

 自分の知らない価値観を知る。

 それが、経験。

 

「俺、ボクシングを始める前は野球をやってたって話しましたよね?」

「ああ」

「……俺はボクサーだけど、野球選手としての価値観も持ってるんですよ。その価値観が、時折ボクサーとしての俺を救ってくれたりします」

 

 ヴォルグは、生粋のボクサーだ。

 田舎の村で育ち、人との出会いは少なかった。

 

 子供の頃からボクシング。

 指導するラムダも、ボクシングの専門家。

 

 それに対して伊達英二は……。

 ボクシングを始めたのが、高校2年になってから。

 1度引退し、社会人となって3年ほど働き、さまざまな価値観に触れて生きていた。

 そして復活。

 しかし、ボクシングの戦歴そのものは、ようやく20戦に届いたぐらい。

 引退前の強さとは違う、別の強さ。

 

 何を持って、経験と語るか?

 

「……多くの価値観に触れてきた、人生そのものだと思うんですよ、俺は」

「なる、ほど……いや、興味深い話だと思う。オフレコにするのが惜しいね」

「ヴォルグは、ボクシングについては深く知っている大人です……しかし、それ以外については、むしろ素朴な少年を思わせます」

「そして伊達は……どちらも、大人か」

 

 ボクシング以外の価値観を、ボクシングの技術でヴォルグにぶつけるとき……意外なもろさを見せるかもしれない。

 残念ながら、今の俺にはそれをスパーで指摘することができなかった。

 

 心臓打ちではないが……完全に無防備な状態での、一発。

 それで、ボクシングの勝負は決まってしまう。

 

「強いのはヴォルグです……勝敗については、俺からはなんとも言えませんね」

「いや、参考になったよ……去年、東日本新人王の取材に来たことを思い出したね」

「ああ、あれですか……」

 

 強いのは宮田。

 怖いのは幕之内。

 戦りたくないのは間柴。

 

 

 その、強い宮田と、怖い幕之内の試合、か。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 土手の道を歩く。

 

 春、以来か。

 

 いいランニングコースだよな。

 ここが近所なら、ロードワークに使うのに。

 

 景色を眺めながら、鴨川ジムへと歩いていく。

 

 

「チケット、2枚で良かったんですよね?」

「ああ。ヴォルグと見に行く予定なんだ」

「ヴォルグって……ヴォルグさんですか!?」

「ああ、たぶん、そのヴォルグさんだよ」

 

 笑いをこらえつつ、チケット代金を幕之内に手渡した。

 

 メインは鷹村さんだからな。

 なんだかんだいっても、あの人の試合はホールを客で埋める。

 幕之内に話を通してなかったら、いい席のチケットが手に入らなかったかもしれない。

 

「それで……順調かい?」

「え?ええ、まあ……順調だと思います」

「そのわりには、冴えない表情だな」

 

 約束。

 特別な試合。

 

 一度交わった道が、そこから遠く離れていく。

 そんな試合か。

 

「……今持ってるものを、全部ぶつけるつもりです」

 

 幕之内がはじかれたように顔をあげ、俺を見た。

 

「ああ、図星だったか……からかうつもりじゃなかったんだが」

「い、いえ……でも、それしかないと思います。宮田君に、全部見せようと思います。あれから、あの日から、僕が身につけたもの全部を」

 

 呟くように言いながら、幕之内が何気なく右の拳を振った。

 

 ちょっとした動き。

 それでも、体調の良さは伝わってくる。

 

『目標は高く持て』

『優勝を目指せばベスト4どまりになる』

 

 前世でも、良く聞かされた心構え。

 

 人は……なかなか全てを出し切れない生き物だ。

 その悲しさが伝わってくる言葉。

 

 ボクシングに置き換えれば、『世界を目標にすると、東洋、国内どまりになる』……そんなところか。

 

 

 負けて悔いなしという言葉を俺は認めない。

 いや、認めたくない。

 勝つか負けるかわからないから『勝負』。

 負けて悔いが無いなら……それは『勝負』ではなかったことを認めてしまったことになる。

 

 

「幕之内くん、ひとついいか?」

「な、なんですか?」

「たとえば、俺がA級トーナメントの決勝に負けたとする」

「強いらしいですね、速水さんの決勝の相手……」

「たとえ負けても、運がよければ引退せずにすむ」

 

 幕之内が驚いたような目で俺を見ていた。

 無視して続ける。

 

「ボクサーを続けられれば、そして運がよければ、もう一度A級トーナメントに挑戦できる」

「ま、待ってくださいよ速水さん。運がよければとか、引退とか……何かあったんですか?」

「何も無いさ……でも、何があるかわからないだろ?」

「……」

「スポーツ選手は……ボクサーは、無事にリングを降りられるかどうかわからない。試合に勝ったとしても、現役を続けられる保障は無いんだ、そうだろ?」

 

 ボクシングに限らず、スポーツ選手もまた……ちょっとした日常の出来事で、選手生命を失うことだってある。

 まあ、試合のたびに遺書をしたためる格闘家の心境には至れないが、な。

 

「俺の次の試合……A級トーナメントの決勝は、やり直しができるかもしれない試合だ」

 

 やや芝居がかっているなという気恥ずかしさを感じつつ、右の拳でとんと、幕之内の胸……心臓の部分を突いた。

 

「君の次の試合……宮田くんとの試合は、絶対にやり直しができない試合じゃないのか?約束ってのは、勝負だろう?決着をつけるってことだろう?」

 

 もう一度、胸を突く。

 そして、一言。

 

「勝てよ……勝って、宮田くんを悔しがらせてやれ」

 

 悔いを残すなとは言わない。

 それでも、悔いは少ないほうがいい。

 

 俺の、わがままだ。

 

 2人の試合を見たかった俺の、な。

 

 

 

 軽く手をあげ、幕之内に別れを告げた。

 

 俺は、歩き出す。

 幕之内の視線を背中に感じながら。

 

 

 ラムダの言葉。

 

『君はあと1~2年でジュニアフェザーを卒業すべきだと思う』

 

 あれを音羽会長も聞いていた。

 たぶん、焦っている。

 

 フェザーにはヴォルグがいる。

 

 もちろん、あの時は調整を失敗した状態だった。

 ラムダの判断も、それを見てのことだ。

 

 スポーツの世界では、上に行けば行くほど道が狭くなる。

 その狭くなった道を、切り開き、こじ開け……邪魔者を殴り倒していく。

 そうして歩いていく。

 

 ……足踏みしている余裕は、ないだろうな。

 




ごめんなさい、トーナメント終了まで書けると思ったんですが、ラストまで仕上がりませんでした。
連日更新はここまでです。

しばらく、ネットカフェに寄る時間が作りにくい感じです。
たぶん、週末……8月の10~11日ぐらいに投稿できるかも?(その場合、更新は11日か12日です)

あと、感想返しもちょっと後回しにします……ごめんなさい。

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