速水龍一で始める『はじめの一歩』。   作:高任斎

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速水の評価は、人によって違います。
本人、そして鴨川会長の評価との違いをお楽しみください。


裏道2:???がはじめる速水攻略。

『8月』

 

 

 夕方になっても、まだ暑い。

 この猛暑の時期に試合をするボクサーに少し同情してしまう。

 

 チケット売り場で状況を確認。

 指定席はほぼ全滅、か。

 まあ、時間の問題だろう。

 

 ……考えることは同じなのかな。

 

 A級賞金トーナメントではなく、1人のボクサーへの興味。

 

 旧ソ連からやってきた、世界アマ王者。

 ヴォルグ・ザンギエフ。

 

 おそらく、今日のホールの客は……ディープなファンと、ボクシング関係者の割合が高いだろう。

 

「はい、あるよあるよ、チケットあるよ……」

 

 かすかな驚きと、納得するような気持ち。

 

 大きな声ではない。

 しかし、不思議と通る声。

 

 指定席のチケットを手に入れ、高値で転売する『ダフ屋』行為は認められていない……ある種のアンダーな世界の住人だ。

 この声に反応して振り返っても、誰がしゃべっているのかわからない。

 ただ、売り場から離れると、そっと近づいてくる……らしい。

 

 そこから、金額の折り合いと言うか、交渉が始まるわけだ。

 本来、7千円や1万円の指定席が、いくらで売られるかは……その日の試合の注目度が決める。

 つまり、ホールが満員になるような試合が無ければ、ダフ屋は現れない。

 

 そして、ダフ屋が客を探す声は、この場所を離れると聞き取りにくくなる。

 

 口を動かさず、しかし声は届ける。

 指向性を持つ特殊な発声法。

 刑務所にお世話になった人間が、否応なしに覚えてしまうと聞いたことがある。

 

 声は空気の振動だ。

 音源から満遍なく広がっていく……と、理論ではそうなる。

 

 頭では納得できないからこそ、ひとつの技術なのだろう。

 

 

 今日は、『ライセンス』で入場できるんだけど……普通に立見席を購入した。

 金を払うだけの価値はある。

 

 

 

 

 

 2階席。

 目の前で見なければわからないことはあるが、遠くから見なければわからないこともある。

 

 ……まあ、これは立見席のひがみかな。

 

 

 ホールは満員。

 しかし、声援も、ヤジも、ほとんどない。

 試合後の拍手も、どこかおざなりだ。

 

 やはり、今日のホールの客の目当てはヴォルグ選手なのだろう。

 

 ……この雰囲気、ほかの選手はやりにくいだろうな。

 

 

「やあ、チャンピオン」

 

 振り返る。

 

「……ああ、サニーさん。こんにちは」

 

 サニー田村。

『元』王者。

 

 その『元』をつけさせた自分としては、少し反応しにくい相手だ。

 

 ベルトを奪い取った相手というだけではなく、あまりかかわりたくはないのが正直なところ。

 苦手というか、合わない。

 理屈ではなく感覚、そして感情に起因するものだろう。

 

 リングの上で戦い、その気持ちは強くなった。

 ボクサーとして向かい合いながらも、その視線が自分ではない別のものにむけられている気がしたからだ。

 何かがかみ合わない。

 

 そして、試合もかみ合うことなく終わり、勝ちはしたが……あの、なんとも表現しがたい、すっきりしない気分を思い出してしまう。

 

「今日は、偵察かな?」

「ええ、ヴォルグ・ザンギエフというボクサーを見に」

「……ふうん」

 

 うかがうような視線。

 

「速水君と佐島さんの試合はどうでもいいと?」

「目当てがヴォルグ選手というだけで、見ないとは言ってませんよ」

「……ふうん」

 

 小さく息を吐いた。

 ボクサーではなく、真田総合病院の跡取り息子としての意識を前面に出す。

 子供の頃から、いろんな大人に触れてきた。

 好ましい人間、嫌な人間。

 

 それを適度にあしらう……そういう技術。

 

「それに、2度目の防衛戦がありますからね。チャンピオンカーニバルのことを考えるのは、まだ早いかな、と」

「確かに」

 

 サニー田村が笑う。

 大人というより、社会人の表情。

 

 そして、当然のように……自分の隣を陣取られてしまった。

 

「……速水君の試合は見たかい?」

「千堂くんとの新人王戦だけは見ましたよ」

「あぁ……なるほど」

「何を、言いたいんです?」

「いやなに、チャンピオンは余裕でうらやましいなあと」

 

 サニー田村は、性格が悪い。

 外面は良くても、腹は黒い。

 それを確信した。

 

「はは、余裕なんてないですよ。初防衛戦でも苦戦しましたしね」

「ああ、そうだねえ。そのせいで後藤君も、次は勝てると思ったのかやる気満々でこのトーナメントに参加してるし」

「……次の防衛戦はもう少しマシな試合を見せられると思いますよ」

「だといいね」

 

 自分たちの周囲から、人が離れていくのがわかる。

 

 

 バンタム級の3試合が終わった。

 次は、ジュニアフェザー。

 

 2人のボクサーがリングに上がる。

 

 速水くんと佐島さん。

 順当なら、速水くんが勝つだろう。

 アマのエリート。

 千堂くんとの試合はレベルが高かった……が、隙はあった。

 前半と後半のスタイルの変化。

 相手を倒しにいくのはともかく、ムキになる部分がうかがえた。

 マスコミ受けを狙っているのか、発言だけでなく、ボクシングにも派手さを求めているのかもしれない。

 彼が勝てば次は……。

 

 サニー田村に視線を向けた。

 

 ああいうタイプは、こういうボクサーにころっと転がされたりする。

 

「……調整ミスかな」

 

 もう一度、サニー田村に視線を向けた。

 視線はリング。

 

 どうやら無意識の呟きらしい。

 

「速水くん……ですか?」

「……うん。いつもの活気がない。客へのアピールがどこかおざなりで……今も、自分の足元を確かめた」

「……詳しいですね」

 

 サニー田村が、こちらに視線を向けた。

 

「たまたまだけど、彼の2戦目を見てね……それから、可能な限り追いかけている」

「違う階級だったのに?」

「うん、それはわかっていたんだけどね」

 

 サニー田村がちょっと笑った。

 

「あの試合は、新人王戦の試合よりよっぽど見ごたえがあったなぁ……」

 

 自分が映像で見たのは、千堂との全日本の試合のみ。

 ダウンもしたし、最後は足が動いていなかった。

 

 正直なところ、チャンピオンカーニバルでのタイトル挑戦などが重なり、新人王戦のチェックなどはほとんどできていない。

 

「新人王戦は、彼本来の出来ではなかったと?」

 

 自分の問いかけに、サニー田村がまた少し笑った。

 からかわれている感じはない。

 

「千堂君との試合のあとの、彼の6戦目は……見ていてちょっと怖かったよ」

 

 そう言って、またリングに視線を投げる。

 

 答えのようで答えではない。

 どこか禅問答めいたやり取り。

 

「たぶん、あの時はもうヴォルグとの契約の話があって、階級変更や、スポンサーに切られるのも決まっていたんだろうね……彼は、もっと自由に戦うべきだと思ったよ」

 

 詳しい話はともかく、音羽ジムがヴォルグ選手と契約した結果、速水くんが階級変更を余儀なくされたということは聞いた。

 スポンサーの件も、面倒なことがあったんだろうな程度のことはわかる。

 

 しかし……。

 

「自由、ですか?」

「……千堂君との試合で成長したとは思わなかったな。彼にはもともと、それだけの力があった……僕はそう思っている」

 

 この、会話がギリギリ成り立つ受け答えが……いちいち癪に障る。

 

 知りたきゃ自分で調べろと突き放されたほうが、気が楽なんだけど。

 

 

 ゴングが鳴った。

 

 佐島さんが最初から仕掛ける……それを速水くんが連打で突き放した。

 

 ……速い。

 

 しかし、動かない。

 カウンター狙い?

 

 仕掛けて来る佐島さんをいなすというか……これは。

 

「僕はね、今日、ヴォルグではなく彼を見にきたんだ……自由という翼を手に入れただろう彼の姿をね」

 

 独り言か、会話か、微妙な音量で、サニー田村が呟く。

 

「でも……今日は無理かな。身をもって味わうことになりそうだね、これは」

 

 

 

 

 

 

 正直、速水くんと佐島さんとの試合は残酷なショーとしか思えなかった。

 

 速水くんが本気を出したと見えるのは、最初の連打だけ。

 あとは、ひとつひとつ、確認するように佐島さんのやることをつぶしていった。

 

 佐島さんのパンチは一発も当たらない。

 

 1Rの終了間際、速水くんのノーガードに対し、逃げてしまった。

 もう、この試合は終わりだ。

 

 そしておそらくは、試合だけじゃなく……。

 

 1Rの終了。

 しかし、佐島さんのセコンドに動きはない。

 

「馬鹿な、まだ続けるつもりなのか……」

 

 思わずそんな言葉が漏れる。

 もう、棄権するしかないだろう。

 

「……佐島さんのことを知らないから、そんなことが言える」

 

 皮肉ではなく、非難。

 珍しい物言い。

 

 サニー田村を見た。

 いや、リングから目を背けたかった。

 

 リングを見つめたまま、サニー田村が語りだす。

 

 

 

 王者から逃げられ続けた。

 ならばチャンピオンへの優先挑戦権が与えられるA級トーナメントに参加して……と思ったところで、突然王者サイドからタイトルマッチの打診。

 話を進めている途中で、いきなり話を無かったことにされ……そのときはもう、トーナメントへの参加申し込みは終わっていた。

 それが5年前。

 

 A級トーナメントを制し、チャンピオンカーニバルに臨んだ4年前。

 最初から猛烈に攻め立て、4Rにダウンを奪ったが……このときに右拳を骨折。

 左手一本でアウトボクシングに移行。

 判定は1対0。

 ジャッジ1人が9点差で佐島を支持し、残りの2人はドロー。

 判定勝ちのためには、2人以上の支持が必要となるため、引き分け。

 

「おそらく、前半の攻勢の印象が強すぎたんだろうね……佐島さんのアウトボクシングを、『逃げ』と判断した、ということかな。まあ、あの時はホール全体が大騒ぎだった……記事にはならなかったけど」

 

 サニー田村は、どこか遠い目をしてリングを見つめている。

 

「結局、このときの右拳の骨折が……佐島さんの、ボクサーとしての何かを奪った。怪我から復帰はしたが、復活はできなかった」

 

 右拳、か。

 拳というか、指の部分は複雑に神経が絡み合い、ただの骨折で終わらないことが多い。

 日常生活への復帰ではなく、指先の繊細な感覚を取り戻す治療となると厄介になる。

 医学の世界では、『ノーマンズランド』……人が立ち入るべき領域ではないとまで言われるぐらい、手術による治療の難度が高いことで知られている。

 

 かすかな違和感。

 それが、バランスを狂わせることも多い。

 違和感をごまかしているうちに、決定的に何かを狂わせてしまう。

 

 治療とリハビリの過程で、それまで積み上げてきたものをぶち壊しにしてしまうこともある。

 怪我をしていない部分をいつも以上に動かさないと、肉体はもちろん、脳も身体の動かし方を忘れてしまう。

 しかし、怪我が治ったとき、怪我をした部分と怪我をしていない部分の身体のバランスが崩れている。

 

 本当に時間をかけなければいけないのは、怪我が治ったあと……身体のバランスを戻すまでの時期。

 バランスが崩れたまま、以前の練習を再開すると……肉体が、技が、心が、全て崩れていってしまう。

 

 

 2R開始のゴングが鳴る。

 

 佐島さんが倒れた。

 立ち上がらない。

 身体よりも、心が折れた……それがはっきりとわかる。

 

 

 一部の女性ファンを除き、ホールは静かにそれを見守っていた。

 佐島というボクサーの死。

 

 それを確認するための儀式のようにも思えた。

 

 

「チャンピオン……お先に失礼するよ」

「ヴォルグ選手の試合は見ないんですか?」

「……僕は、佐島さんに憧れていたんだよ」

 

 ニコリともせず呟いたサニー田村に、初めて好意のようなモノを覚えた。

 

 

 

 

 

『11月』

 

 

「やあ、チャンピオン」

 

 振り返り、少し迷ってから声をかけた。

 

「……引退するそうですね」

「うん」

 

 口調も、表情も明るい。

 

 自分も防衛戦が控えていたから、直接試合は見ることはできなかった。

 完全に押さえ込まれたと聞いたが、満足できる内容だったのだろうか?

 

 あるいは、諦めるしかない試合だったのか。

 

「プロで23戦……初めてボクシングができた。負けただけじゃなく、勝てないことを教えてもらった……グローブを壁にかけるには十分な理由さ」

「……『初めて』、ですか?」

 

 サニー田村……いや、田村が笑った。

 

「僕のボクシングを認めてくれただけじゃなく、リングの上でそれを学ぼうとしていた。ボクサーとしての能力の差を持ち出すとキリが無いけどね……判定に持ち込んでも、僕は速水君には勝てない。それがよくわかったし、どこかで満足してしまった……もう戦えないよ」

 

 判定狙いの彼を相手に、4RでKOか。

 強い、な。

 

 ようやくそれを実感した。

 

 しかし、ずいぶんと評価がばらついている。

 ボクシングにムラがあるタイプなのかと思ったが、そうでもないようだ。

 

 デビュー戦と2戦目、そして6戦目と、海外から呼んだ選手との試合……このあたりかな、評価が分かれている原因は。

 

 業界の噂は、人から人へと伝わる。

 ある意味、人間関係で噂の方向性が定まってしまう。

 

 

「23戦19勝3敗1分……2つのKO勝利。新人王を獲り、ベルトも2度巻いた……まあ、心残りはあるけど、おおむね満足さ」

「そうですか……」

 

 下からすくい上げるように顔をのぞきこまれた。

 

「……心残りが何かと聞いてくれないのかな?」

 

 ……うっとうしい人だ。

 引退を決めても、そのあたりは変わらないらしい。

 

「聞いて欲しいなら、そう言ってください」

 

 笑みを浮かべたまま、田村がホールを見渡した。

 

「KO勝利じゃなく、判定勝利で歓声を浴びたかったかな」

 

 倒して勝つ。

 ボクシングに対するその認識は根強い。

 

「そういえば、真田君とのタイトルマッチは、客席が寂しかったよね」

「はは、当時のチャンピオンに人気が無かったですからね」

「いやいや、チャンピオンに人気がなくても、挑戦者に人気があれば客は呼べるものだよ」

 

 お互いに微笑み合う。

 

 口調は穏やかだが、また、周囲から人が離れていく。

 

 どうやら、自分はとことんこの人と相性が悪いらしい。

 

「でも、チャンピオンは……ここ数試合はほぼKO勝ちだよね。普通は、上に行くにつれてKO率が下がっていくものだけど」

「ええ……最近、ようやく自分のボクシングをつかみ始めた気がします」

 

 相手をコントロールする。

 それがわかってきた。

 

「僕と違って、これから人気は出てくるはずさ……倒して勝てば、周囲の評価も上がる」

 

 疑問。

 それを口に出していた。

 

「何故サニーさんは、判定勝ちにこだわったんですか?」

 

 リスクは理解できる。

 しかし、倒して勝ちにいくこともできたはずだ。

 この人のKO勝利は、全日本新人王と、最初のタイトル挑戦における2つ。

 弱い相手を倒して勝ったわけじゃない。

 

 見つめられた。

 そして静かに。

 

「勝つためさ。ボクサーにとって、勝つこと以外に何かあるのかい?」

 

 言葉に詰まる。

 

 自分が、ボクサーとして異質である自覚はある。

 

 医者である父を尊敬し、医者という職業に憧れを持っている。

 まだ、医学生でしかないが……誇りのようなものもある。

 人生というスパンで考えれば、最終的な目的は医者であること。

 患者に信頼される、良き医者でありたい。

 

 ただ、ボクサーである自分を、ボクサーとしての自分を否定するつもりもない。

 

 ボクサーとしての強さ。

 それが、勝つことだけとは思わない。

 

 医者としての強さは?

 人としての強さは?

 

 医者は、怪我や病気を通して患者と向き合う。

 

 何を持って勝ちとするかは曖昧だが……医者は、勝てない勝負に挑まなければいけないこともある。

 患者を支えること。

 患者の心を救うこと。

 ミスをせず、最善を尽くすこと。

 

 強い相手、か。

 勝てないと思えるような相手。

 心の強さ。

 

 強大な相手を前に、ミスをせず、最善を尽くす。

 そしてやり遂げる。

 

 そんな自分の強さを、実感したい。

 

 そう思う自分は、やはりボクサーとしては異質なんだろう。

 

 

 試合が進む。

 ジュニアフェザーの決勝。

 

 しかし戦うのは、バンタムから上げてきた和田さんと、フェザーから落としてきた速水くんだ。

 

 

「……速水君と和田さんのどっちと戦りたい?」

 

 田村の問いかけに、何の気負いも無く答えていた。

 

「強いほうですね」

「じゃあ、速水君か」

 

 田村を見つめる。

 

「好カードと言われているけど、勝つのは速水君だよ」

「それは、希望を込めて?」

「いや、ただの予想さ……でも、和田さんが相手なら、僕は勝つ自信があるね」

「判定で?」

「もちろん判定で」

 

 苦笑する。

 しかし、その言葉に何の根拠もないとは思えなかった。

 

「……速水君は、相手を見るというか、どこかで相手と合わせてしまうところがある。僕のボクシングに付き合ってくれたのがいい例さ……もしかすると、相手の土俵で勝つことを意識しているのかな」

「千堂くんとの試合は、むしろかみ合ってないように見えましたが?」

「前半はともかく、後半はバチバチの殴り合いだっただろう?盛り上がりはしたけど、僕としては評価できない試合だった」

 

 相手に合わせる、か。

 

「……それって、対戦相手の心が折れませんか?」

「折れる折れる、ポキポキ折れちゃうよ……自分の経験というか、ボクサー人生を、塗りつぶされていくんだもの」

 

 明るい笑顔で、ひどいことを言う。

 

 それを見て、彼の引退を実感した。

 

「結局……彼には、強い相手が必要なんだと思うよ」

「……」

「僕の中ではね、速水君のベストバウトはデビュー2戦目の試合なんだ。あの試合、速水君は明らかに楽しんでいた……いろんな意味でね、彼には強い相手が必要なんだ。僕は、そう思う」

 

 

 ゴングが鳴る。

 速水くんと和田さんの試合。

 

 フェザーから。

 バンタムから。

 

 それぞれの事情を抱えて、ボクのベルトを奪いに来た。

 あるいは、ただの通過点。

 

 

 速水くんが、パンチをもらう。

 ただ、それだけのことでホールが沸く。

 

 防御が巧い。

 勘がいい。

 

 千堂くんとの試合、それは忘れたほうが良さそうだ。

 

 

 ラウンドが進む。

 いい試合だ。

 

 ……しかし。

 

 和田さんが押されていく。

 速水くんが勝つ。

 勝負に絶対はないが、それがわかる。

 

 和田さんは全開で、後は落ちていくだけ。

 そして、速水くんがまだ余裕を残しているのがわかる。

 

 千堂くんとの試合では、ストレート系のパンチにこだわっているイメージがあった。

 それが消えている。

 

 大振りがない。

 むしろ、ここぞという場面で、振りが小さく、鋭くなる。

 

 ひとつ。

 またひとつ。

 和田さんのやることがつぶされる。

 行動が制限されていく。

 

 ラッキーパンチを許さない雰囲気。

 それがわかるから、和田さんも、投げ出すことができない。

 自分の全てを振り絞らされていく。

 

 

 そして5R。

 

「ん」

「……今のは、完全に狙ったね」

 

 3Rのそれとは違う。

 

 誘導し、ピンポイントで振りぬいた。

 

 ダウンを奪ったのは左だったが、その前の右フックで勝負がついていた。

 

 

 リングの真ん中で、和田さんが自分の太ももを叩く。

 完全に足にきている。

 

「立てない、な」

「うん……終わったね」

 

 10カウント。

 

「お、珍しいな」

「何がですか?」

「いや、速水君が笑っている……彼にとってもいい試合だったのかな」

「……笑わないんですか、彼?」

「ファンにアピールするときは別だけどね……あまり笑っている印象はないよ」

「……そうですか」

 

 

 

「さて、チャンピオン」

「何です?」

「速水君に負けたあと、どうするんだい?」

 

 さすがにカチンときた。

 

 しかし、抑える。

 表情で、からかわれているのがわかったからだ。

 

「……強い、ですね」

「認識が遅いよ。だから『チャンピオンは余裕でうらやましいなあ』って言ったのさ」

 

 そう言って、田村が笑う。

 

 あまり、悪い気はしない口調と笑顔だった。

 だから素直に言えた。

 

「面目ない」

「まあ、僕も個人的には速水君を応援したいんだけどね……」

 

 ちょっと言葉を切り、田村がホールを見渡した。

 

「生え抜きのジュニアフェザーの人間としては、別の階級からやってきた連中にベルトを奪われるのは少々癪でね」

「ああ、その気持ち……少しわかりますよ」

 

 それぞれ事情はあるにしても、『ジュニアフェザー』が軽く見られたという意識は持ってしまう。

 

 バンタム、そしてフェザーに挟まれて……『群雄割拠ではなく、どんぐりの背比べ』などと評されるのは気に食わない。

 理性ではなく、感情。

 意地のようなもの。

 

「なら、ジュニアフェザーのベルトを巻いた仲間として、少しアドバイスだ」

「謹んで承りましょう」

「速水君は、スタミナに不安を抱えているよ」

「……そうなんですか?」

「確信はないけどね……ジュニアフェザーに階級を落としてから3試合、彼の試合運びは省エネを心がけているように思える。たぶん、間違いない」

 

 なんとなく、リングに目を向けた。

 今日の試合は、5Rか。

 

「今日は彼にとって初めての5Rだよ」

「……あまりこだわるのも危険ですね。それに、逃げ回っても追いかけてこなければ意味がない」

「聞いた話だけどね。僕との試合から、控え室で飴をなめ始めたそうだよ」

 

 ため息をついた。

 

「……どこで、そういう情報を集めてくるんです?」

「人とは仲良くするものさ」

 

 もう一度、ため息をついた。

 

「判定勝ちのコツ、教えようか?」

「いや、結構です。付け焼刃でどうにかなる技術でもないでしょう」

「んー、じゃあひとつだけ」

 

 ……素直に聞かせたいと言えばいいのに。

 

「ジャッジは、大体2種類に分かれる」

「……というと?」

「ラウンド後の採点でね、『優勢だと思ったほうから点をつける』か、『赤コーナーの選手から点をつける』かの2タイプだよ」

 

 田村が笑う。

 

「ジャッジというか、人は不思議なものでね……判断が難しいラウンドほど、『自分が採点しようとする選手のコーナーを目で確かめる』んだよ」

「……」

「覚えておいて損はないよ……僕は、ジャッジの点数予測をはずした事はほとんどない。そうじゃなきゃ、判定勝ちなんて狙えないさ」

「言われてみれば納得はできるし、すごいとは思うんですが……努力の方向が少し間違っているような気が」

「はは。他人がやらないことをする……それで差がつくと言って欲しいね」

 

 ぽんと、肩を叩かれた。

 

「まあ、僕の予想では……判定にならないんだけどね」

「正直、ボクもそう思いますよ」

「じゃあチャンピオン。僕はこれで……」

 

 そう言って、背を向けた。

 しかし、立ち止まる。

 嫌な予感。

 

「そういえば、チャンピオンは次が『3度目』の防衛戦だったっけ?」

「ええ」

「ここ数年の、ジュニアフェザーのベルトのジンクス、知ってるよね?」

 

 3度目の防衛戦の壁。

 当然知ってはいる。

 そもそも、自分のタイトル挑戦は、サニーにとって3度目の防衛戦だった。

 

「いやあ、あの時はなぜか調整がうまくいかなくてねえ……まるで呪いだ」

「……ボクが負けることを期待しているとしか思えないんですが」

「はは」

 

 右手をあげて。

 

「僕は、速水君のファンだからね……どっちが勝っても悔しいし、楽しめる。引退した人間ならではの楽しみ方さ」

 

 ため息をついた。

 やはり、あの人は好きになれない。

 

 その背中を見送り、リングに目を向ける。

 

 既に、次の試合が始まっている。

 

 目で見てはいても、心が見ていない。

 

 

 3度目の防衛戦。

 チャンピオンカーニバル。

 自分がタイトルに挑戦し、ベルトを奪った舞台。

 

 対戦相手は、速水龍一、か。

 

 まだ、日程も決まってはいない。

 それでも、試合は既に始まっている。

 




ドリームマッチって、本当にドリームマッチですね。(遠い目)

とりあえず、本編再開に向けて、しばらく一歩と宮田との試合の執筆は棚上げしようと思います。

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