「リュウの予想、当たったね」
「うん、まあ、そうだな……」
12月中旬、チャンピオンカーニバルの一部日程が、選手の所属するジムへと通達された。
フェザー級タイトルマッチ。
王者伊達英二と、同級1位ヴォルグ・ザンギエフが、カーニバルの始まりで1月の下旬。
俺が予想したように、やはり注目度の高いカードを初っぱなにもってきた。
鷹村さんの、ミドル級は2月中旬。
同じ注目カードでも、ミドル級の場合は、日本最強王者と称される鷹村守への個人的な注目が理由だろう。
挑戦者の玉木も、アマ出身で相応の評価はされているが、デビューから12試合連続1RでのKO勝利を続けている王者のそれにはかなわない。
最強の挑戦者を迎えて、この記録を伸ばすことができるのか……という注目のされ方だ。
王者の勝ちは堅いと見られているぶん、好カードとは言いがたい。
後は、ジュニアライト級……間柴の試合が、2月上旬。
とりあえず開幕から、フェザー級、フライ級、ジュニアライト級、バンタム級、そしてミドル級の5階級の日程が決定したということになる。
俺もそうだが、青木さんの試合もそれ以降にずれ込むようだ。
本音を言えば、初っぱなでも良かったんだが……少し残念だ。
チャンピオンカーニバルの主催はボクシング協会だが、俺と真田の試合は重要視されていない可能性が高いのかもしれない。
ちなみに、良く勘違いされるが、JBC(日本ボクシングコミッション)とボクシング協会は別物だ。
そして、アマチュアのほうは日本ボクシング連盟。
通称というか、よく使われるのが、コミッション、協会、そして連盟なんだが……一般人にとっては、受験生を時々悩ませる、国際連盟と国際連合のどちらが先か……程度にややこしいだろう。
というか、ボクサーである俺自身がよくわかっていない。
おおまかにだが、コミッションが日本のプロボクシングの最高統括機関。
日本各地のジムが主催するプロボクシングの試合を正式なものと認定し、日本ランキングを正式に認定するのもここだ。
ボクサーやレフェリーなどのライセンスを発行するのもそうだが、日本のプロボクシングジムと、ボクサーを管理する立場でもある。
そして協会は、ボクシングジムによる組織。
コミッションが、ライセンスやルールの業務を担当しているとすると、協会は興行面について担当しているともいえるが……まあ、色々ある。
一応、両者は独立した組織である……と言うことになっている。
そして連盟は、アマチュアボクシングを統括する団体だ。
日本オリンピック委員会と、国際ボクシング『協会』に加盟している。
アマチュアボクシングのニュースでは、『連盟』と『協会』の名前がどちらも出てくることが多いから、プロボクシング協会との混同が起こりやすい。
世間というか、一般人は、アマチュアとプロがあって、その上部にボクシング全体を統括する組織がある……みたいな認識だろう。
しかし残念ながら……アマチュアボクシングとプロボクシングの両者を統括する団体はない。
冴木がオリンピックを蹴る形でプロ転向する際に、揉めに揉めたという理由が察せられると思う。
連盟サイドからすれば『他人の米びつに手を突っ込んでただで済むと思ってるのか』であり、プロ側からすれば『本人が望んでるのにごちゃごちゃ言うな』である。
これに、オリンピックからみの……大学や企業の面子と金が絡んで、ドロドロである。
俺の場合は、高1でインターハイを勝った時点でプロ志望を表明し、アマ側の人間を諦めさせた。
だから、揉めてない……表面的には。(目逸らし)
「チャンピオンカーニバルは、本当にチャンピオンカーニバルだったんだよなあ……」
微妙な表情で、会長が呟いた。
「どういう意味です?」
「以前は、全階級のタイトルマッチを、2日に分けてやったんだよ」
「え、そうなんですか?」
全試合タイトルマッチとか、超見たい。
というか、塩展開のタイトルマッチはあるだろうが、1日に5試合?のタイトルマッチとか、それだけでも足を運ぶ価値はあるように思える。
「……確か、最初はコミッション設立25周年だか30周年だかの記念行事という名目だったが……実際は、大好評だったプロレスのチャンピオンカーニバルを真似た……という噂にしておこうな」
「……ああ、噂ですね、わかります」
まあ、プロレスファンならチャンピオンカーニバルと言えば、某団体の『春の祭典』であるチャンピオンカーニバルが真っ先に浮かぶだろう。
「そりゃあ、盛況で客が呼べた……だから、次の年からも続いて……なのに、もともと客が呼べるタイトルマッチを同じ日にやるのはもったいないって言いだして、10年ぐらい前から、1試合ずつ別の日程で開催されるようになったのさ」
会長の口調が、どこか苦い。
チャンピオンカーニバルという名前だけが生き残った……そんな意識をもっているんだろう。
「客を呼ぶには、いいカードを多く組まなきゃダメさ……もちろん、いいカードを組んでも客が呼べないこともある。それでもやっぱり、客を帰らせないためには……いい試合が複数必要だろうよ」
「じっくりと煮込んだスープを、水で薄めてしまったと……」
「まあ、そういうことだ……協会じゃ、俺なんかただの若造だからな、意見なんか通りゃしねえよ。世界チャンピオンの一人も育ててから口をきけってな」
……どのジャンルでも、人間は似たようなことをするんだなあ。
会長はボクサーとしての実績もないらしいから、余計になんだろう。
スポーツの世界は、実績を残した者の声が大きくなる傾向が強い。
すべてが間違いだとは思わないが、選手と指導者、そして経営者としての能力は別物だろう。
と、すると……強いボクサーとの試合を組む鴨川会長も、あまり協会内部では良い目では見られていないんだろうな。
強いボクサーは基本的に人気がある。
一人で客を呼べるボクサー同士を戦わせたらもったいないとか、せっかくの戦績に傷がつくとか……まあ、そういう考え方も理解できないわけではないが、それが主流になるのはちょっとな。
まあ、無敗神話を利用しようとしている俺が言うなって話になるかもしれない。
ただ俺は、世間がそういう認識なら、それを利用しようってだけだからな。
日本で一番強いボクサーが世界へと向かい、頂上を目指す……それが一番シンプルでわかりやすいと思う。
強いボクサー同士が戦って、負けたほうはいきなり弱くなるわけじゃない。
戦績ではなく、内容を……と思うのは俺のわがままなのか。
野球における大記録は、積み重ねの歴史だ。
記録を達成する直前よりも、その積み重ねの過程にこそ、選手の本質、プレイの偉大さがあると思うが……注目されるのは、記録が達成される前後であることが多い。
内容ではなく、その道のりを評価する癖がついてしまうと……ボクシングというジャンルは厳しい。
どんなにいい試合をしても、1勝はただの1勝で、負けは負けでしかない。
俺は、強さとは所詮相対的なものだと思っている。
強敵を相手にどう戦うか、どう対応するか……そういう部分で、強さの質が問われる。
まあ、弱い相手を倒せば、一見強くは見えてしまう。
自分の力を発揮し、やりたい放題になりやすいからな。
対戦相手の圧力を受け、不自由さを強いられて……それでも強さを見せられる。
そういうボクサーになれたなら。
……たぶん、世界が見えてくるんだろう。
世界を見て、どうするか。
頂を目指す。
手を伸ばす。
その過程で、またほかの人間を蹴落とし、殴り倒して先に進む。
逆に蹴落とされるかもしれない。
殴り倒されるかもしれない。
あるいは、もう少しで世界の頂に手が届く……そのときに、多くの戦いで傷つき、満足に動けなくなっているかもしれない。
まあ、今の俺は……世界を目指す以前の問題だ。
世界を見るための、見ることができるようになる場所。
そこを奪い取るための、日本タイトルマッチだ。
日本ランカーから、挑戦状が一枚も届かない……そういう勝ち方をして、ようやく東洋へと一歩が踏み出せる。
年末、俺は実家には帰らなかった。
ヴォルグと伊達英二との試合まで残り1ヶ月を切っている状況で、スパーリングパートナーの俺が離れるわけにもいかない。
仕事が休みの年末年始は、ヴォルグの追い込みに付き合った。
そして年が明けて、チャンピオンカーニバルの全日程が発表された。
13階級26人の選手を集め、スポーツ記者も呼んでの発表会。
といっても、場所はホールの近くの料理店だが。
対戦相手との2人の写真。
そして、試合に向けての抱負というかコメントを、全選手に聞いて回るのだが……どうしても、注目の選手とそうでない選手との間の差が出てきてしまうのは仕方がない。
試合が近いということもあって、これに勝てばそのまま世界へという話がある伊達英二とヴォルグに集まるのはある意味当然だ。
そして、鷹村さんと、対戦相手の玉木……バンタム級の石井に、世界戦の話が浮上しているフライ級の三石など。
あの間柴でさえ、後回しの状態だ。
というか、あとで選手全員の集合写真を撮るから残っていてくれって……先に撮影して、取材とは関係ない人間は帰っていいことにしてくれないだろうか。
取材が無ければ、はっきり言って手持ち無沙汰だ。
そして、それは俺だけじゃない。
「いやあ、お互い蚊帳の外ですね、青木さん」
「……」
「青木さん?」
「お、おお……速水。俺は大丈夫だ、緊張なんかしてないぞ」
あ、これアカンやつだ。
原作のあれはオーバーだとしても、痩せたり太ったりするんだろうか?
「青木さん、まだ1月です。青木さんの試合は、3月の頭ですよね?まだ2ヶ月も先です」
「お、おお、わかってる。俺、この試合にかけてるからな、やるぜ、俺は」
そう言って、ぎこちなく笑う。
まあ……今のうちに緊張しておくのもいいのか。
せっかくだし、色々と話しかけてみるか。
アマ時代の知り合いを除けば、俺ってあまり知り合いがいないんだよな。
デビュー前は、会長がスパーの相手を呼んでくれたけど……デビューしてからは、それもほとんどなくなった。
特に、新人王を獲ってからは……スパーをしたのは伊達英二とヴォルグだけだ。
伊達英二とはあの一回だけだし、正直、俺はボクサーとしてかなりスパーが少ない部類に入るだろう。
とりあえず、暇そうというか手持ち無沙汰な感じの人間に、挨拶をして回る。
間柴には無視されたが、そういうタイプなのはわかっていたし仕方がない。
と、いうか……俺の存在があまりよく思われていないっぽい。
間柴だけじゃなく、ほかのボクサーも。
ベテランはさらりと対応してくれるのだが、若手はわりと塩対応。
挨拶しても、『ああ』とか『どうも』とか返されて、『お前、どこか行けよ』みたいな雰囲気がある。
タイトルマッチを控えて、みんなピリピリしているからと思いたいが……もしかすると、俺って嫌われ者なんだろうか。
まあ、それでも挨拶をしておくかと気を取り直して……。
「速水くん」
「あっと、チャンピオンから声をかけさせて申し訳なかったですね」
少し頭を下げ。
「さっきは自己紹介もできませんでしたし。あらためてよろしく、速水です」
「こちらこそ。ボクは真田……って、なんか変な感じだね、こういうのは」
真田が苦笑する。
スーツ姿が似合っているのは慣れのせいか。
わりと、スーツに着られている感じのボクサーが多いんだが。
好青年、そしてイケメン。
真田総合病院の跡取り息子。
……うらやましいよりも、大変だろうなと思ってしまう。
「なにやら、話し相手を探しているように見えたから声をかけたんだけど……迷惑じゃなかったかな?」
「いや、助かりますよ。せっかくの機会だからと、挨拶して回ってたんですが……どうも、お呼びじゃない感じでして」
人あたりが良いというか、柔らかい。
俺としては、かなり話しやすいタイプに思える。
「わかる、と言ったら失礼かな。どうもボクも、こういう集まりでは周囲から浮くタイプらしくてね。速水くんが話しやすそうで助かるよ」
「ああ、去年も……」
「そう、去年は挑戦者として参加させてもらった……けど、話し相手がいなくてね。可哀想に思ったのか、伊達さんがちょっと話しかけてくれたぐらいかな」
周囲を見渡し、苦笑を浮かべた。
「こうやって見ると……ボクサー同士の交流って、あんまり無いんですかね?」
取材を受けていないボクサーは1人で立っているだけだ。
あるいは、2人でぼそぼそと会話を交わしているだけ。
まあ、ただの日程の発表会だから……飲食物もない。
場所こそ料理店だが、団体客用のスペースを借りているだけ。
「結局、所属するジムの上が親しいかどうかで、交流が決まる感じなのかな。試合を主催するにしても、わりと関わりの深いジムとの協賛になりやすいし」
「ああ、そりゃそうですね……今日のような催しがないと、まず接触することがない」
試合会場の観客同士、あるいは選手として試合前の控え室、付き添い。
その場合、顔見知り、知人どまりか。
ああ、スパーを通じての交流もあるか。
しかし、スパーにしても、ジムの交流があるという前提で交渉するものが多いだろうしな。
幕之内はともかく、千堂は例外で……宮田と俺みたいな関係が普通と言えば普通なんだろう。
真田が俺を見て、少し笑った。
「なんです?」
「いや、こうして話していると……速水くんは、あまりボクサーらしくないなあと思ってね。まあ、これはボクも良く言われるんだけど」
あらためて真田を見た。
ああ、うん……ボクサーには見えない。
「そういや、チャンピオンは……2月って、大学の試験期間じゃないんですか?」
俺と真田との試合の日程は、2月の26日。
ついつい、歴史的な事件を連想してしまう日だから……あまり良いイメージはない。
「そうなんだよ……」
どこか困った感じの表情を浮かべ、真田が呟いた。
「試合の日はもう試験が終わっているけどね……問題は試合までの時期だよ」
試験にレポート、医学部生だから、実習なんかもあるのか?
タイトルマッチ前に、それは厳しいだろうな。
「……ご愁傷様です」
「ははは」
真田が朗らかに笑う。
……好青年だよなあ。
「まあ、ボク自身が選んだ道だからね……なんとかするし、言い訳もしないさ」
確か、俺のひとつ上だから今は4年、そして来年度は5年、か。
実家が真田総合病院だから、バイト云々はさておき……医学部生はそれまで以上に大忙しになる時期のはずだ。
「俺としては、人間の身体についての論文や、実物に触れる機会があってうらやましいなと思うこともあるんですけどね」
「……医学に興味が?」
「医学というより、人間の身体そのものというか、トレーニング理論ですかね。強いて言うならスポーツ医学ってことになるのかも」
「……」
「どうしました?」
真田が、口元に手をあてた。
「いや、失礼かもしれないが、少し意外だと思ってね……たぶん実感してるとは思うけど、日本のボクシングで理論云々を表立って口にする人は少ないから」
「ああ、まあ……そうですね」
たぶん、真田も自分で色々考えてやってきたクチだろうな。
真田はこれまでに1回だけ敗戦を経験しているが、それはデビュー戦のものだ。
引き分けひとつをはさんだが、そのあとは全て勝ってきた。
そして最近は、連続KO勝利と……まだそれほど目立ってはいないが、成長し続けているように見える。
「スポーツ医学は、この国だとこれからの分野って感じかな……トレーニング理論だと、H大のたんぱく質研究が絡んでくると思う」
「脳たんぱく質の寿命が最短で4日って発表したとこですよね?」
「……詳しいね」
「筋肉たんぱく質の寿命とか、調べたんですよ」
「ああ、なるほど……ドーピング問題が話題になってから、いろいろと情報だけは飛び交ったからね」
「『超回復』って、日本でしか通じませんよね?」
「……少なくとも、論文で語られる内容は別物だよ」
ふと、言葉が途切れ……お互いを見詰め合う。
そして、笑った。
「うん、ボクサー同士の会話じゃないな、これは」
「確かに」
特に、申し合わせたわけでもないが、お互いに手を出して握り合った。
「いい試合をしよう」
「俺は、チャンピオンを引退させるつもりですよ」
「……へえ」
俺の手を握る力が、瞬間、強くなった。
「5年になると、医学部生は半端じゃなく忙しくなるでしょう。医者の道に専念してください」
俺を見る目。
「キミからは、ボクが中途半端に見えるのかな?」
「それは、チャンピオンが決めることですよ……ただ、チャンピオンがボクシングだけに打ち込んだなら、どこまでいけるのかってのは興味がありますけどね」
真田の手を、強く握り返す。
そして、放した。
「……と、いう方向で盛り上げませんか?」
「ん、ん?」
真田が、困惑の表情を浮かべた。
「いや、俺がトーナメントで戦った人、みんな引退するってことになったじゃないですか。たぶん、試合前のマスコミは、そこをクローズアップしてくると思うので」
「……こちらから、話題を提供しようと?」
「どうせなら、注目されて盛り上がったほうがいいじゃないですか」
そう言って、俺は記者の集まっている方向を示した。
そして、それ以外のボクサーを。
「わざわざ集められて、ほとんど放置って……この状況、あんまりだと思いません?」
「あはは、なるほどね」
真田が小さく頷いた。
「うん。速水くんが、ビッグマウス扱いされていたわけがわかった気がするよ……キミは、プロのボクサーで、エンターテイナーなんだね」
「多少、不本意なんですけどね……」
いったん言葉を切り、苦笑する。
納得できる理由が与えられたら受け入れる、と。
……やはり、冷静というか理知的な性格だな。
原作知識がある分、機会を見つけて確かめないとファイトプランに狂いが生じる。
挑発とか、そういうのは意味がないだろう。
ごく自然に、自分を見つめ、理解し、できることをやるタイプ。
こういうタイプは、不利な状況でも、戦略、戦術面でひっくり返してくるから気が抜けない。
「本音を言えば、ボクシングのことだけやっていたいですよ……ただ、ボクシングの現状を考えると、ちょっと」
「いいよ、協力しよう。ただ、この方向だと、キミがヒールで、ボクがベビーフェイスってことになるね」
「まあ、そこは仕方ないです……言いだしっぺは俺ですし」
「うん、なんだろう……子供の頃できなかった、悪戯を大人になってからやるような気分だね」
「……楽しそうですね」
「楽しいね……ボクシングとは別の部分で自分を演じるというのかな、少しワクワクしている。誰に迷惑をかけるわけでもないというのがいいね、うん」
真田が、軽く右手を振った。
言葉通り、それを楽しんでいるように思える。
真田総合病院の跡取り息子、か。
周囲のプレッシャーと言うか、視線を浴びせられ続けたら……まあ、子供の頃から優等生を演じるケースは多いよな。
その上でまっすぐに成長した感じだろうか。
前世では、いいとこのお坊ちゃんである苦労や、医学部生の苦労なんかは、数多く見聞きした。
しかし、そういう立場の人間は……誰かに与えられたものではなく、自分で選び、掴み取ったものに執着することはしばしばある。
真田にとってのボクシング。
娯楽や逃避の側面もあったかもしれないが……医学部生との両立で苦労を背負い込むことを受け入れている。
練習時間をひねり出すだけでも、大変なはずだ。
原作とは関係なく、この王者の心は……そう簡単には折れないだろうことは推測できる。
真田を、二兎を追うものは……とは言うまい。
逆に、医学部生として十分な練習時間が取れない状況でありながら、日本タイトルを取った事実を俺は恐れる。
ボクシングだけに打ち込めば、どこまでいけるのか……それは俺の本音だ。
原作でも、鴨川会長への対抗心はあったかもしれないが、あの浜団吉が『選んだ』ボクサーであることを忘れてはなるまい。
雇われたのではなく、浜トレーナーが真田を選んだ。
世界ランカーを何人も手がけたトレーナーが選ぶだけの何か。
幕之内、宮田、千堂の時と一緒だ。
この時期に戦える俺は、運がいい。
「それで、ボクはどうしたらいい?握手拒否とか?」
「表面上はにこやかに、ですかね……右手で握手、左手で殴り合いって感じの」
「ああ、わかるわかる……そういうのは得意だよ」
そう言って、真田が俺の耳元で囁いた。
「ボクを引退させるってのは、キミの本音だろう?」
「……ええ。日本ランカーから挑戦状が届かないような、ベルトの奪い方をしたいですね」
「目指すは世界、かな?」
「まだそこまでは……その手前を」
真田が離れる。
「正直、ボクのほうが分が悪い試合だと思っているけどね……まあ、もう一度言うよ」
『いい試合をしよう』
その言葉を残して、真田が背を向けた。
記者たちのお目当ての取材が終わり、ぽつぽつと、間柴や俺へと流れ始める。
それが終われば、集合写真だ。
王者サイドと挑戦者サイドに別れて、1枚。
……王者は全員ベルトを肩にかけるはずだったのだが、鷹村さんがベルトを忘れてきたのはご愛嬌だ。
「リュウ」
「ああ、ヴォルグ……お疲れ」
ヴォルグが笑う。
そして、英語でしゃべりだした。
『うん、本当に疲れたよ』
『何か、あったのか?』
『……あの人たちの多くが、僕の勝利を望んでいないことがわかった』
『……』
『まあ、覚悟はしてたことだから……地元の選手に声援が飛ぶのは当然だね』
言葉はわからなくても、気持ちは通じる。
特に悪意は、言葉を越える。
とはいえ、明確な悪意ではないだろう……見て興奮する試合をして、その上で伊達が勝てばいい。
その程度の認識。
音羽会長も、ヴォルグよりも俺を見ている。
それはそれで俺としてはありがたいが、契約したジムの会長が自分以外を見ていることに……そこはかとない疎外感程度は覚えてしまうだろう。
俺を見て、またヴォルグが笑った。
『僕の手は2本しかない……右手にコーチ、左手にリュウ、そして心に母さんを……僕が試合に勝って、ジムのみんなが笑ってくれれば、それだけで十分』
言葉に詰まる。
しかし、なんとか絞り出す。
『勝つしかない。勝つしかないんだ、ヴォルグ』
『うん、わかってる……勝つよ』
今日の日程発表に参加した王者の中には、6度7度と防衛を重ねている者もいる。
間柴の挑戦するジュニアライトの王者も、これが6度目の防衛戦だ。
タイトルを返上することもなく、世界どころか、東洋への話もなさそうだ。
ただ、淡々と防衛を重ねて……チャンスを待っている。
軽量級とは違う、中量級の現実がそこにある。
実力か、あるいは資金か。
ヴォルグは、伊達英二に勝てばベルトと世界ランクを奪うことができる。
道は開けるはずだ。
そう、信じたい。
あらためて実感する。
本当に……ボクサーは勝つことしかできないよなぁ、と。
俺も含めて、多くのボクサーにとって、勝つことは救いであり……地獄に垂らされたクモの糸のようなものだろう。
勝つこと以外は、前に向かって歩いている実感が持てない。
あるいは……その場にとどまる権利を死守するための勝利。
チャンピオンカーニバルに臨む、13人の王者と、13人の挑戦者。
いくつの王座が移動するかはわからないが、何人かの道が閉ざされることになるんだろう。
ここはもう、ボクサーとしての生き残りをかけて戦う場所だ。
日程発表に使われた飲食店……わかる人はわかるでしょうけど、名前は出さないようにお願いします。
えっと、あくまでも架空の世界のお話なので。(笑)