20人ぐらい報告があって、一瞬切腹を考えましたが……ほぼ同じ部分の指摘だったのでちょっとだけほっとしました。
いや、ほっとしちゃいけない……誤字がなくなるように精進します。
今年の冬は暖冬らしい。
エルニーニョ現象が……などと、テレビで呪文のように連呼しているが、冬には変わりない。
吹き付ける風は強く、冷たい。
ヴォルグは平然としている。
故郷では、0度を超えたらとても暖かい日らしいからな……まあ、桁が違うというやつだろう。
それでも、2年、3年と日本に滞在していれば、日本の温度に慣れていってしまうのだろうか。
原作では、A級トーナメントで幕之内、そして伊達が返上して空位となったフェザー級の日本王者決定戦において千堂に敗れ……ヴォルグは音羽ジムからマネジメント契約を切られて故郷に帰ることになった。
1回負けても平気、などと楽観はできない。
どうも俺の感覚では……原作の物語よりも、スポンサーやテレビ局の判断がドライだ。
伊達英二に『世界アマ王者を倒した』という肩書きをつけたならそこで用済み……みたいな展開が十分にありえるように思う。
ヴォルグとのマネジメント契約は音羽ジムとのものだが、契約金の出所は別だ。
ヴォルグが日本に来てから戦ったのは2試合で、A級トーナメントだから音羽ジムが主催したわけじゃない。
ヴォルグとラムダ2人分の住居、生活費を含めた給料に、通訳の人の費用など……現時点では大幅な持ち出しになっているのは言うまでもない。
金の切れ目が縁の切れ目と言うが……極端な話、勝敗に関係なく、ヴォルグの商品価値が下がれば切られる。
そのあたりは、音羽会長を交えてヴォルグとラムダには説明した。
たぶん、ヴォルグよりもラムダのほうが良く理解しているように思う。
『オール・オア・ナッシング……ボクシングとは、そういうものだろう?我々にできることは、勝つことだけだ』
ヴォルグは負けを知らない。
しかし、指導者のラムダは知っている。
今日は、1月の15日。
成人の日だ。
ヴォルグと伊達英二の試合まで、あと10日ほど。
今日は、音羽ジムに取材が入る。
タイトルマッチ前の、公開スパーリングだ。
スパーの開始予定時間は、午後の3時。
ただ、その前にヴォルグの練習の様子などを撮影すると聞いているから、2時ごろから記者連中が集まることになるだろう。
ほかのボクサーや練習生には事前に告知して、混乱が起こらないようにはしてある。
スパーリングパートナーの俺は、午前中はいつものように練習だ。
そして、記者連中が来る前に、ヴォルグとラムダを相手に打ち合わせをする。
『ラムダさん。今日のスパーはどうします?』
俺が聞くと、ラムダが音羽会長を見た。
『軽く流したほうがいいのかな?それとも、エイジ・ダテに圧力をかけるような内容がいいかな?』
『速水とヴォルグのスパーの初公開ってことで、かなり話題になってる。全力とは言わないが、少しサービスしてやって欲しい』
『なるほど……』
ラムダが両手を組み……呟いた。
『3Rか……アウトボクシングを1R、2Rはインファイト……最後のRはどうするかな』
会長が苦笑する。
「速水。贅沢な悩みだよなあ……何でもできるってのは」
「ですね」
『ふむ。ヴォルグ、速水……3Rは好きにしていい。ただし、7~8割の力で、全体的に防御的にいこう』
『はい、コーチ』
『わかりました』
ラムダが微笑み……。
『ヴォルグ。上下のコンビネーションは使ってもいいが、アレは、使わないように』
ヴォルグが頷く。
『速水。いつものように、華麗な防御を見せて欲しい』
……うん?
伊達英二に対する、何らかの仕掛け……なんだよな?
俺の疑問を読み取ったのか、ラムダがあらためて説明した。
『ここは日本だからね。君の防御に対する、周囲の反応を確かめたい』
ああ、なるほど……ね。
昼の1時前、気の早い記者が早々と……。
「やあ、速水君」
「ああ、藤井さん……まだ1時前ですよ?」
「そりゃあ、気も逸るさ。金が取れるスパーだぜ、これは」
まあ……一応俺は、アマで無敗、プロでも無敗のホープか。
でもこれって、日本のマスコミが試合前に『速水ならやってくれる。必ず勝つ』みたいな感じに煽ったはいいが、結局は惨敗するパターンだよな。
そして海外では、『日本の若者の、無謀な挑戦が妥当な結果に終わった』などと、さらりと流されるまでがお約束。
一応じゃなく、自分が十分に日本のホープと呼ばれる存在だとわかってはいるつもりだが……いまだに、ヴォルグから一度のダウンも奪えないのが現状だ。
防御に徹すれば、判定までは持ち込めるような気はするが……それで勝てるイメージはわかない。
と、いうか……そもそも、記者連中に見せるためのスパーなんだが。
「……先に言っておきますけど、お互い、全力のスパーじゃないですよ?」
「まあ、それはわかっているんだが……」
藤井さんが、俺を見る。
「沖田は1R、冴木は2R……随所にスーパーテクニックは見られたが、ヴォルグ・ザンギエフというボクサーの実力の底どころか、その一端すら拝ませてもらっていないってのが正直な感想なんだ」
「ああ、そういう……」
俺が目当てじゃなく、俺を当て馬に、ヴォルグの実力が見たいわけか。
「まあ、伊達さんとの試合でのお楽しみですかね」
「そんな頼りないこと言わないでくれよ、速水君……」
さて、練習練習と。
ヴォルグは地下のリングにいる。
そういや、1階のリングでのスパーは、今日が初めてになるのか。
2時。
記者連中が集まり始めた。
それにあわせて、ヴォルグとラムダが1階へと上がってくる。
俺はというと、練習にならないから身体を冷やさない程度に柔軟やストレッチでお茶を濁す。
……しかし、思っていたよりも人数が多いな。
記者連中だけじゃなく、ボクシング関係者も、か。
人数を制限して、これか。
と、仲代会長だ……挨拶しとくか。
「お久しぶりです、仲代会長」
「おお、速水くん」
ぽんと、二の腕のあたりを叩かれた。
「ジュニアフェザーで、ずいぶんと暴れたなあ」
「まあ、ぼちぼちです」
「はは、対戦者を全員引退させておいて、ぼちぼちか……英二のやつが笑ってたぜ」
「……笑う理由を聞くのが怖いんですが」
仲代会長が、楽しそうに言った。
「『速水はオレが育てた』ってさ」
「いやまあ、確かに育てられた部分があるのは認めますけど」
「まあ、勘弁してやってくれよ……速水くんが活躍して喜んでるのは確かなんだ。スポンサーの件が無けりゃ……と、いまさらだな。まあ、リカルドとやるときは約束どおり、スパーリングパートナーに指名するさ」
「……立場的にも、心情的にも、『はい』と返事はできないんですよ」
もう一度、腕を叩かれた。
「タイトル取ったら、マッチメイクが大変だぜ」
「さっさと国内に敵無し状態にしたいですね」
仲代会長が真面目な表情をして、俺の腕をひいた。
「〇△スポーツの記者に気をつけなよ。速水くんの悪い噂をばらまいてるみたいだ」
「……?」
苦々しい表情で、仲代会長が吐き捨てた。
「態度が悪いとか、素行が悪いとか、天狗になって練習もおろそかにしてるとか……速水くんと面識のある人間なら、信じるはずのない馬鹿馬鹿しい噂さ」
ん?
待てよ……。
「もしかして、新人王戦の取材で妙に突っかかってきた記者って……」
「それは知らないが……速水くんのことが気にくわないとか、そんなしょうもない理由だぜ、きっと」
ああ、でも……あの時は、挑発するような物言いもしたしなあ。
あるいは、自分が望む言葉を口にしてくれない生意気なガキが……ってのもあるか。
どうしよう……頭痛が痛いって、こういうときに使うんだろうか。
「俺のところには、また聞きぐらいで噂が回ってきたんだ……たぶん、普段音羽ジムと交流のないボクシング関係者にばらまいてるんだと思うよ」
「……チャンピオンにカーニバルの日程発表会で、ほかの選手に挨拶して回ったんですが……その噂、影響してるんですかね?」
「そこまではわからないけど……噂ってのは怖いぜ。ボクシング業界は、狭い上に閉鎖的だから余計に、さ」
……人の恨み、妬みは恐ろしい、か。
前世の、高校球児への大げさとも言える指導の意味をあらためて痛感する。
公共の乗り物では、座席が空いていても絶対に座るな、とか……色々言われたよなあ。
ただ座席に座っている……それだけで、高野連に苦情の電話が届くのが高校球児という存在だと。
まあ、座らずに立っていれば立っていたで、『周囲を威圧する姿だ。球児にどんな教育をしているんだ』とか抗議の電話が届くらしいが。
駄菓子屋で買い食いすれば、高校球児にあるまじき行為、とかもあったか。
高校球児に夢を持ちすぎてこじらせたのか、あるいは高校球児そのものが気に入らないのか。
世の中にはいろんな人間がいるとしかいえない。
まあ、良くも悪くも……俺も、ボクサーとしてそういう悪意にさらされる立場になったことを喜ぶべきか。
というか、精神衛生上、そう思ったほうがましだな。
「スパー前に、変な話をして悪かったね」
「いえ、知らないよりは知っていたほうがいいですから。ありがとうございます」
「一応、音羽会長にも教えておくよ」
「……お手数をおかけします」
気を取り直して……と。
3時前。
リングの周囲に人が集まる。
かなり多いな。
テレビカメラまで、か。
ジムが狭く感じるほどだ。
ヴォルグと伊達英二の一戦が、世界への切符をかけたものということも含めて……最注目のカードということがわかる。
今日の俺の立場は、刺身のツマだが……注目されるのは悪くない。
1R。
絵に描いたようなアウトボクシング。
左の差し合い。
足を使いながら、高速のやりとり。
周囲の人間から、ため息のようなものがこぼれる。
2R。
一転して、インファイト。
しかし、防御的に。
接近戦でパンチをかわしながら、お互いにクリーンヒットはない。
感嘆のため息ではなく、『おっ』とか『ああ』とか、言葉にならない声がこぼれだす。
そして3R。
出入りの激しいボクシング。
中距離から近距離へ。
かと思えば、距離をとって、けん制しあう。
ラスト30秒。
コーナーで、俺はヴォルグの攻撃をさばき続ける。
スウェイ。
ダッキング。
ブロッキングに細かなポジショニング。
そして、パーリング。
ラスト5秒で、俺はヴォルグのパンチを受け流し、コーナーを脱出した。
リングの中央。
突き出したグローブに、ヴォルグがちょんとグローブをあわせて、終了。
……反応は様々、か。
俺の防御に感心する人もいれば、ヴォルグの調子が悪いのかと首を傾げる人もいる。
ただ、殴り合いを期待していた人間にとっては、拍子抜けの内容だったのか。
そんな彼らの反応を、ラムダがじっと観察している。
「……やれやれ。覚悟はしていたが、きつい試合になりそうだ」
と、これは仲代会長。
藤井さんの言葉は面白かった。
「……和田君が強かったのがよくわかるよ。速水君に、何度もパンチを当てたんだからな」
まあ、この2人は……スパーの内容に肯定的な方だろう。
……極端に否定的なのは、『ヴォルグも大したこと無いな』という感じで、某スポーツの記者が聞こえよがしに言っていたもの。
どちらにせよ、3R分の材料は与えた。
それをどう判断するかは、個人の自由だ。
当然好みは分かれる。
ただ、その個人の判断を……政治力学を加えたうえで、絶対的に正しいものとして世間に発表するのがマスコミなんだよなぁ。
明日のスポーツ新聞は……記事になればだが、意見が分かれるのが当然だが。
もし、どの紙面の意見も一致していたとすれば……スポンサーやテレビ局の意向が働いていると見たほうがいい。
あるいは、記事にしないことで……また別の関係性が見えてくる。
1月下旬。
その日、都内では昼過ぎから雪が降り始めた。
都内では、この冬初めての雪。
『この国では……こういう雪の降り方をするんですね』
『まあ、地域によって違うはずだ……たしか、気温が低い地域だと、もっとさらさらした感じの雪が降るらしいが』
『……僕の故郷は、冬は手袋が必須です。素手で金属に触れると、取れなくなるから』
……冷凍庫みたいなもんか。
マイナス20度、30度が当たり前の地域じゃ、そうもなるよな。
『ん?ヴォルグの村って、電気が通ってなかったっけ?』
『ええ……長い冬は、夜も長いです』
空を見上げる。
そして、呟く。
『だから、春の訪れは……美しいです』
故郷に残してきた母親、か。
交流は、手紙のやり取りのみ。
日本人の感覚からすると、手紙が届けられ、返事が来るのも遅い。
ソ連崩壊の影響か、あるいは外国だからか。
母親からの手紙を開くヴォルグの顔……あれが、ボクサーではなく、アレクサンドル・ヴォルグ・ザンギエフという青年の素顔。
『リュウ、今日は、ありがとう』
『なにがだ?』
『僕のセコンド、ついてもらって』
『ああ、そのことか……』
セコンドのライセンスとか、大丈夫なのかと思ったが……そのあたりは、ジムの会長にある程度権限があるらしい。
会長が認め、それを申請すれば……まあ、たいていはOKらしい。
ただ、当然だがメインはラムダだ。
セコンドは3人まで認められるが、Rの合間、リングの中に入ることができるセコンドは一人だけ。
俺は、リングの外から声をかけ、見守るだけだ。
また、ヴォルグが空を見上げた。
『雪、積もるかな?』
『どうだろうな……予報じゃあ、都内では積もっても精々1~2センチらしいが』
ぽつりと。
『この雪を、母の応援と思って戦います』
『そうか……止まないといいな。試合の間中、ずっと』
『……勝つよ』
『ああ』
空ではなく、前を見る。
後楽園ホール。
話が終わったと判断したのか、ラムダが近づいてきた。
『ヴォルグ、……』
『……、コーチ』
……俺のロシア語は、ほとんど上達していない。
ある程度英語で意思のやり取りができるから、甘えが出てるんだろうな。
タイトルマッチだからなのか。
ヴォルグには、専用の控え室が用意されていた。
集中できるともいえるし、どこかさびしいとも思える。
ちらりと覗いたが、ホールは満員だ。
冬なのに、熱気がすごい。
その熱気にあおられたのか、前座からわりと派手な試合展開になっているようだ。
雪は、まだ降っているだろうか。
『……落ち着いてないね、リュウ』
『自分で試合する方がマシかもな』
俺がそう言うと、ラムダが笑った。
『試合が始まると、もっとだよ』
『……ですか』
『コーチとリュウが、安心してみていられる試合にしたいです』
『ノー、ヴォルグ。そんな甘い相手ではない……虚勢も、過信も、過小評価も必要ない。相手と自分の現実を見つめ、対処するために全力を尽くす……そうすれば、自然と勝利をつかむことができるだろう』
『はい、コーチ』
セミファイナルが終わった。
ここで、会場設定というか演出のために少し時間が空く。
「ヴォルグ選手、入場の準備をしてください」
ヴォルグが立ち上がる。
……もう、ボクサーの顔だ。
ホールの光量が絞られる。
スタッフの合図。
青コーナーサイドの通路を、ライトが照らした。
先頭をラムダ。
後ろにヴォルグ、左右をセコンド2人で囲む。
馬鹿なことをするヤツはいないとは思うが、観客に注意だ。
「おいおい、セコンドやるのか速水ぃ!?」
「タイトルマッチはどうした!?」
「グローブ忘れてるぞ!?」
……観客に注意だ。
でも、聞こえない。
聞こえないったら聞こえない。
なんだろう。
この、ボクサーとしてリングへ向かうときとは違う、恥ずかしい気分は。
ヴォルグがリングに上がり、ゆっくりと一周する。
そしてまた、ホール全体の光量が絞られた。
光の帯。
日本フェザー級王者、伊達英二の登場だ。
ホールが歓声に包まれる。
やはり、伊達への声援は多い。
日本人のボクサーとしては、最も知名度の高いうちの1人。
先日は、『伊達英二、挫折からカムバックへの道』みたいな特集番組も組まれたしな。
スポンサーというか、テレビ局も本気だ。
だからこそ、世界戦の話は具体性がある。
試合前だというのに、コールが始まる。
『ダーテ!』と『エ・イ・ジ』の2種類。
統一されてないところに、むしろファン集団の広がりを感じた。
もしヴォルグじゃなくて、俺が挑戦者の立場だったなら。
まあ……正直、俺はヒール役が嫌いじゃないんだよな。
客の視線を奪うというか……千堂との試合の時は、良くも悪くも客は千堂しか見てなかったからムカついたが。
この大声援が静かになって……悲鳴じみた声援に変わったら気持ちいいだろうなと思う。
もちろん、日常生活ではごめんだが。
まあ、戦うのは俺じゃなくヴォルグだ……声援はもちろんだが、2人が気づかない何かを探すことに専念しよう。
普段の試合よりも、前置きが長い。
タイトルマッチだからといえばそれまでだが……観客は、どう感じているんだろうな。
テレビは、生中継でない限りは編集されるけど。
『落ち着きがないね、速水』
『え、ああ、すみません……集中しないと』
ラムダが微笑む。
『変に構えなくていい……君のそういう姿が、ヴォルグの力になる。ありがたいことだよ』
『……そういうものですか?』
『勝利を願ってくれる、心配してくれる……周囲の人間のそういう当たり前のことが、技術を超えた先の、一押しになってくれる』
ヴォルグがコーナーへ戻ってきた。
そして、ラムダと俺……もう1人のセコンドを見る。
『プランに変更はない』
『はい』
最終確認。
今、ゴングが鳴った。
中央、グローブをあわせて、離れる。
大歓声。
王者だからではない、日本人だからでもなく、伊達英二への応援。
それがよくわかる。
2人がゆっくりと回る。
ちょうど一周。
先にヴォルグが手を出した。
そして、伊達が。
ボクサーとしての、無言の挨拶のようなもの。
あらためて距離が離れて……。
ゆっくりと、ヴォルグから行く。
王者がそれを迎え撃つ……そんな構図だ。
『……』
ラムダの呟き。
『何か?』
リングから目を離さず、ラムダが言う。
『君の言うように、エイジ・ダテは誇り高い王者だ』
『ええ……』
『……そこに隙がある』
ヴォルグのインファイト。
それに応じる王者。
原作とは相手が違うが、構図は同じだ。
世界を目指すがゆえに。
世界の頂を経験したがゆえに。
『国内の対戦相手を、力でねじ伏せられずに世界を語ることはできない……そういう考えを持っているんだろうね。それにふさわしい力もある』
リングの上の激しい攻防とは裏腹に、ラムダはただ静かだ。
『誇りと過信は、コインの裏表だよ』
日本国内の試合。
しかし、ヴォルグは……世界レベルだ。
舞台は既に、世界の前哨戦。
『今のままなら速水、勝ちに徹する君の方がよほど強敵だ』
まだ1R。
まだ1分半。
ヴォルグが、接近戦で伊達英二を押し始めている。
なのに、王者が退かない。
正面から、ヴォルグの圧力を受け止めようとする。
ヴォルグの拳が、伊達英二の腹を叩いた。
反撃をかわし、もう一発。
瞬間、動きが止まる。
右。
フェイントを入れてから、丁寧にもう一度腹を叩く。
またボディへ。
『ヴォルグを……いや、勝負を甘く見ている間に、足と体力を奪わせてもらう』
ヴォルグの執拗なボディ狙い。
逆に、伊達英二の攻撃は顔狙いだが、空転し……1Rが終わった。
まだ、それほど汗は出ていない。
うがい水を用意し、うがいさせた。
ラムダから特に指示は出ていない。
確認とその返事だけ。
想定どおりなのだろう。
『気をつけろよ、ヴォルグ。次のR、王者は怒って出てくるぜ』
『うん、わかっているよ』
……判定は考えない方がいい。
そんな言葉は、口にするまでもない。
俺よりも、2人のほうがよくわかっている。
2R。
ヴォルグがコーナーからゆっくりと離れる。
『速水、君の予想は?』
『早いRならヴォルグ、後半にもつれ込むようなら……面倒ですね』
『うむ……王者の動きが変わってきたね』
ラムダの視線が鋭い。
『学習能力が高い。試合の最中でも修正してくる……セコンドではなく、本人がクレバーだ』
『……それでも、打ち合いを望むと思います』
『この国では、横綱相撲、というのだったかな?』
横綱らしい相撲を。
王者らしい振る舞いを。
挑戦者らしく。
そういう考えを全ては否定しない。
だがそれは、勝てるから言えることだろう。
次があるから言える。
勝つために、ルールの範囲内で全てをやりつくす。
話はそれからだ。
ヴォルグを真正面から受け止める王者。
この構図は、2Rも変わらない。
押しているのはヴォルグだ。
しかし、押し切れてはいない。
もちろん、伊達英二の力がある、技術がある、上手さがある。
ただ、この試合で……ヴォルグがまだ一発もアッパーを打っていないことに気づいている人間はどれぐらいいるかな?
ヴォルグのボディ。
王者の反応が、わずかに遅い。
ボディではなく、アッパーが頭の中にあるからだろう。
伊達英二の頭から、まだアッパーは消えていない。
そしてヴォルグも、アッパーを封じた戦いを自ら課している。
楽ではない。
この試合、ヴォルグが初めてのクリーンヒットをもらった。
しかし、ひるまない。
ラムダも、騒がない。
良くも悪くも、もう2人は覚悟を決めている。
やはり、セコンドではなく、自分が試合をやる方が楽だ。
そう思うのは、逃げなんだろうか。
2Rの後半。
王者が、ヴォルグのボディを嫌がりだしたのがわかる。
しかし、距離をとらない。
攻撃で、押し返そうとしている。
『誇りが獅子を殺すか』
ラムダの呟き。
それが正しいのか、間違っているのか。
まだ、わからない。
「あっ」
声が出た。
ヴォルグの右フック。
そこに、伊達英二の左がカウンター気味に入った。
ホールが揺れる。
思わずラムダを見てしまう。
しかしラムダは、小揺るぎもせず、ヴォルグを見ている。
ヴォルグが立て直した。
そしてまた、王者の腹にパンチを叩き込む。
試合の展開が速い。
後半勝負とかじゃなく、2Rにして既に中盤を思わせる。
2Rが終わった。
うがい水。
タオルで汗を拭く。
『次のRで、リズムを変える……いいね?』
『はい、コーチ』
……正念場だ。
事前のファイトプランでは、ここをキーのRと定めていた。
このR次第で、あとの作戦が変化する。
3Rの、開始だ。
中間距離と、近距離。
前後の出入り。
近づいてボディ。
離れて、ジャブ。
ヴォルグは、さっきまでとは別のボクシングを展開している。
『……苛立っているね』
『はぐらかされた……そう感じているんだと思います』
おそらく、このRも打ち合う覚悟を決めていたのだろう。
退けば、圧力に屈することになる。
そう考えていたはずだ。
それが、押していたヴォルグのほうから退いた。
そこに、達成感はない。
クレバーだが、ムキになりやすいタイプだ。
スパーでもその傾向は強かった。
『さて……前に出てくるか、それとも、このまま付き合うか』
ラムダの呟き。
王者が威嚇するように大きく右を振り……距離をとった。
一瞬だが、俺のほうを見た気がした。
あるいは、ラムダを見たのか。
王者が、ヴォルグのボクシングに合わせた。
傍目から見ればそうだ。
しかし今、伊達英二はひとつ、心に何かを飲み込んだ。
中間距離。
やや攻撃主体の王者。
そして、防御主体でカウンター狙いのヴォルグ。
1、2Rに比べ、速い動きの攻防。
目が離せない。
パンチを振り切れる距離。
一瞬の油断が、ミスが、アクシデントが、戦況を大きく動かしかねない。
集中力が削られる。
そして、めまぐるしい動きは体力を削る。
ヴォルグが打ち込んだボディの影響は、まだ目に見えない。
このRも……ヴォルグは、アッパーを打っていない。
うがいとタオル。
むしろ、さっきよりも汗は少ない。
呼吸も穏やかだ。
『問題はないかね?』
『はい』
ヴォルグの表情。
次のRが、最初の山場だ。
あるいは、試合そのものが決まるR。
セコンドアウトの合図。
『行ってくるよ、リュウ』
『ああ』
4R。
ヴォルグが、コーナーを飛び出す。
向かう先は、赤コーナー。
伊達英二の対応は遅くない。
しかし、早くもなかった。
迫ってくるヴォルグを突き放す、左ジャブ。
反射的な動き。
誘導された攻撃。
冴木戦で見せた、相手の
王者の上体が大きく泳いだ。
「よしっ!」
俺は拳を握り、突き上げた。
この試合、ヴォルグが初めて見せるアッパー。
上下のコンビネーション。
白い牙。
伊達英二が倒れ、ホールは悲鳴に近い叫びで埋まった。
『……まだだよ、速水』
「えっ?」
つい、日本語で返したが、ラムダの視線は、ニュートラルコーナーのヴォルグへ。
『ヴォルグ!まだ終わっていない!』
ヴォルグが小さく頷く。
ヴォルグとラムダ。
そして、俺が見つめる先で……王者がゆっくりと、身体を起こしていく。
ホールを揺らしていた悲鳴が、歓声に変わる。
そして、巻き起こる大コール。
『……最初のアッパーがわずかに浅かったし、返しのパンチは、自ら首をねじって威力を殺されたね。ダメージをまとめたダウンとはいえない』
ラムダの呟き。
その正しさを示すように、カウント6で、伊達英二が立ち上がった。
レフェリーではなく、ヴォルグを見ている。
俺は、時計を確認した。
4Rはまだ始まったばかり……。
観客目線で書くとちょっとあれだったので、速水にはセコンドに入ってもらいました。
ライセンス云々は、ちょっとご都合主義ですが……スルーしてください。(懇願)
今、後編を書いてます。
始発までに間に合うかな……。