そして、決着です。
立ち上がった伊達英二が、ヴォルグを見ている。
たぶん、レフェリーの話なんか聞いちゃいない。
試合再開。
大歓声。
声は、空気の振動だ。
ダイレクトに、衝撃として肌に伝わってくる。
ホールは満員。
空間内で、3千人に届こうかという人数が発する振動。
それは時に人を萎縮させ。
時に奮い立たせる。
……このカードに、後楽園ホールは少々狭い。
俺は、そう思う。
ラムダが、ヴォルグに向かってハンドサインを送る。
声援が大きいと、指示の声が聞こえないこともある。
そのためのサインだ。
王者がゆっくりと前に出てくる。
その、足の運びを凝視した。
『ダテのダメージをどう見るね、速水』
『効いてはいると思いますね、でも、誘いのようにも思えます』
『うむ……』
ヴォルグも、ゆっくりと距離を詰めていく。
あと一歩で、手の届く距離。
「えっ?」
伊達のスクリューブロー。
打っただけだ。
当たるはずはない。
威嚇か。
ダメージは無いことを示すためか。
それとも、何かの駆け引きか。
悩む俺とは裏腹に、ヴォルグが行く。
2人のパンチが交錯する。
ヴォルグのボディ。
王者の顔が歪む。
ラムダが右手を握りこんだのがわかった。
『ゴーだ、ヴォルグ!』
ラムダの後押しを受けて、ヴォルグがさらに踏み込んだ。
そこを左フック。
そして、回る。
いや、動きが鈍い。
距離がとりきれていない。
セコンドは、レフェリーを除けばもっともボクサーに近い。
なのに、これほど違うのか。
リングの上が遠い。
セコンドの視点と、ボクサーの視点。
見えるものと見えないもの。
さっきの、伊達英二をダウンさせたヴォルグの攻撃もそうだが……ダメージ判断も間違っている。
やはり、俺はセコンドとしては素人だ。
それを痛感する。
ヴォルグが追う。
伊達英二を攻め立てる。
ガードの隙間。
そして、ガードの上から。
アッパーの構え。
ガードを上げた伊達英二の腹を、ヴォルグのパンチが容赦なく襲う。
クリンチに逃げ込まれた。
腕を抱え込む。
頭を押さえるように抱える。
レフェリーには見えない角度で、ヴォルグの頭を叩いている。
いよいよ、なりふり構わなくなってきた。
レフェリーが2人を分ける。
ヴォルグが行く。
直線的だ。
『ヴォルグ!冷静に!』
何度も叫ぶ。
ラムダは、俺が叫ぶのを止めない。
たぶん、間違ってはいないのだろう。
こちらを見たヴォルグに、またラムダがハンドサインを送る。
左に、右に。
ステップを刻みながら、ヴォルグが詰めていく。
王者が応戦する。
ヴォルグが、ボディではなく顔を狙い始めた。
この試合では、変化。
しかし、これがいつものヴォルグだ。
はっきりと、優勢と劣勢に分かれた。
ヴォルグのパンチが、伊達英二の身体にダメージを積み重ねていく。
ホールを揺らす声援の質が変わっていく。
このRで決めたい。
ヴォルグのスタミナに不安があるわけじゃない。
それでも、決められるときに決めたい。
立っている限り、拳を握る力がある限り、何かが起こる可能性はある。
「残り30秒だ、英二!」
赤コーナーから、仲代会長。
声援の中でも通る声だ。
伊達英二がガードを固めた。
しかし、ただガードしているわけじゃない。
その隙間から見ているのがわかる。
ヴォルグの猛攻。
フックからアッパー。
何度も突き上げて、ガードを壊していく。
崩されたガードを修復しようとする。
その隙を突いて、ボディへ。
王者の背中が丸くなった。
『ヴォルグ!気を抜くな!』
ラムダの叫び。
前傾姿勢をとっていたヴォルグの身体が伸びた。
アッパーだ。
アッパーを返された。
動きが止まる。
ヴォルグの膝が揺れている。
『ヴォルグ!』
また、ラムダが叫んだ。
俺も叫ぶ。
何故だ?
なぜ、あんなアッパーをもらった?
わからないこと。
見えないもの。
それを振り切るように、ただヴォルグに向かって叫ぶ。
幸い、伊達英二の追撃はない。
ヴォルグが立て直したところで、ゴングが鳴った。
ピンチをしのいだのか。
チャンスを逃したのか。
よくわからないが……俺は、大きく息を吐いた。
やはり、自分で試合をするほうが楽だ。
コーナーに戻ってきたヴォルグの汗を拭く。
ラムダは、確認するようにヴォルグの太ももをマッサージし、何かを問いかけた。
ヴォルグが頷く。
見れば、王者のコーナーも動きがあわただしい。
仲代会長が、伊達英二のふくらはぎをマッサージしているのがわかる。
それを隠す余裕もない。
セコンドアウトの合図。
1分が短い。
5R。
『あのアッパーは……ボディを狙ったヴォルグの腕を押さえてから打った』
『……ボディが効いて丸くなったのではなく、抱えた?』
ラムダが小さく頷く。
『押さえるのは一瞬でいい。不意をつかれた上に、思い切り振り切られた……さすがに、色んな技を持ってるね』
……俺とのスパーでは見せなかった技か。
ヴォルグの左。
距離をとって、また左で突く。
それを、王者は追わない。
回復しているのかいないのか。
動かないことで、その情報を与えない。
そして、ヴォルグは……。
ヴォルグの足。
ステップ。
……回復した。
ヴォルグが足を止める。
深い、呼吸。
ジグザグに距離をつめ、倒しにいった。
ガードの上。
そして、ガードの隙間。
ラフさと正確さ。
それを、上下に打ち分ける。
ショートアッパーの連発。
伊達英二の顔が、はね上がった。
腰が落ちる。
上下のコンビネーションへのつなぎ。
がら空きのボディへ。
王者の右手のガードが下がった。
違和感。
そして、予感。
『来るぞ、ヴォルグ!』
わずかな溜め。
王者の右。
伊達英二のコークスクリュー……。
『ヴォルグ!ヴォルグ!ヴォルグ!』
叫ぶ。
呼びかける。
リングに両手を何度も打ち付ける。
3千人の大歓声。
対抗するのは、俺とラムダを含めたセコンドの3人。
リングに両手を叩きつけながら、ただ呼びかける。
『ヴォルグには、オレのコークスクリューでも、心臓打ちでも、好きに伝えていいぜ』
あの日、あの時の、伊達英二の言葉を思い出す。
当然、俺は2人に伝えた。
そして、伊達英二は防衛戦でも、心臓打ちを使って勝負を決めた。
手玉に取られた。
4R、ダウン直後の、あの無意味なスクリューブローの意味を、ようやく悟る。
あれは。
『ヴォルグの認識レベルを確認した』
そして今。
心臓打ちを。
コークスクリューを。
心臓ではなく、顔めがけて打ってきた。
本来心臓打ちは、顔をガードする相手に対して有効だ。
逆に、心臓をガードしようとすれば、顔の防御の意識が甘くなる。
知っていることが、裏目に出た。
知っているから、丁寧にガードして反撃しようとした。
遅い。
何もかもが遅い。
俺が、ヴォルグの足を引っ張った。
『ヴォルグ!ヴォルグ!ヴォルグ!』
叫ぶ。
両手を叩きつける。
カウントが進む。
ヴォルグが動かない。
『ヴォルグ!ヴォルグ!ヴォルグ!』
『ヴォルグ!ヴォルグ!ヴォルグ!』
俺とラムダ。
日本語も英語もロシア語も関係ない。
ただ、名前を叫ぶ。
反応。
上体が起きる。
頭が、右へ、左へ。
状況がわかってないのか?
『ヴォルグ!試合中だ!ヴォルグ!タイトルマッチだ!』
ヴォルグが、こちらを見た。
ヴォルグの身体に、力がこもったのがわかる。
暗闇に、明かりがついた。
立て!
そして、勝ってくれ!
拳をつく。
片膝を立てる。
コークスクリューとはいえ、単発のダメージだ。
立ってしまえば。
立ちさえすれば。
カウント9。
ヴォルグが、ファイティングポーズをとる。
俺の視線は、ニュートラルコーナーの伊達英二へ。
呼吸。
目線。
足。
腕。
大歓声に飲み込まれる前に、叫ぶ。
『ヴォルグ!チャンピオンが寄ってくるまで休むんだ!』
ヴォルグが、小さく頷いたのが見えた。
試合続行。
王者が、ニュートラルコーナーを離れた。
大声援に押されるように、そろそろと前に。
明らかに、鈍い。
相手のダメージを確認する。
それで、力が出るのがボクサーだ。
ヴォルグが、スタンスを広く取った。
そうして、伊達英二が近づいてくるのを待つ。
王者のKO勝利を期待する大声援。
高校野球なら、地方の決勝でも1万人近く集まる。
たかだか相手は3千人。
負けてたまるか。
俺は、セコンドとしては素人。
だから、声を出す。
いつだって、どこだって、同じだ。
やれることをやる。
2人の距離が縮まる。
手の届く距離。
先に手を出したのは王者。
ヴォルグのガード。
足元が怪しい。
しかし、伊達英二の上体が流れている。
やはり、ダメージはある。
ヴォルグのボディ。
浅い。
それでも、王者の動きが止まる。
余裕はない。
ヴォルグにも、まだ余裕はない。
しかし、ヴォルグのダメージは回復が見込めるダメージだ。
「残り30秒!」
「あと30秒だ、英二!」
俺の声と、仲代会長の声が重なった。
行くのか。
しのぐのか。
王者は、打ち合いを選んだ。
そして、ヴォルグは耐えることを選択した。
クリンチ。
振りほどこうとする王者。
しがみつきながら、ヴォルグが横腹を叩く。
レフェリーが2人を分けた。
またクリンチ。
そして地道に、腹を叩く。
そして、ゴングが鳴った。
5Rの終了。
ラムダが足のマッサージを。
俺は、タオルで汗を拭く。
『……ヴォルグ、わかっているね?』
『はい、コーチ』
『ダテは衰えている、そして君も、それなりに消耗している』
セコンドアウト。
そして、ラムダが声をかける。
『冷静に、確実に、しとめてきなさい』
6R。
コーナーを出るヴォルグを見送りながら、ラムダが呟いた。
『……ダテは、作戦ではなく、序盤の対応を間違ったね』
油断ではない。
慢心でもない。
ただ静かに……終わりを予感させる言葉。
そして俺は、汗を拭いたタオルを絞る……。
「……ッ」
痛み。
自分の手を見た。
手のひらからわずかに血がにじんでいる。
大した傷ではない。
少し、皮がめくれた程度。
……ああ。
リングを叩き続けたからか。
納得した俺は、リングに視線を向けた。
ヴォルグの攻撃。
そして、伊達英二の反撃。
大声援。
反撃をやり過ごし、ヴォルグがボディを叩いた。
動きが止まる。
その背中が丸くなる。
もう一発。
表情が歪む。
もう、それを隠せない。
誰の目にも明らかなぐらい、王者が失速した。
ヴォルグが、丁寧に攻撃をまとめていく。
大振りはしない。
あくまでも、細かく、鋭い連打。
きちんと、防御の意識も残っている。
原作で、幕之内と戦った時のヴォルグとは違う。
一筋の希望も残さない、押しつぶすような攻め。
伊達英二への声援は途切れない。
しかしそれは、もはや勝利を期待する声援ではない。
王者の手数が減っていく。
単発の攻撃。
それをきちんと防御し、2発3発と返す。
クリーンヒットは逃れているが、ガード越しでもダメージが蓄積されている。
『……粘るね』
『たぶん、ヴォルグのホワイトファングを狙ってるんだと思います』
それが、最後の希望だろう。
ラムダは少し考え……。
『リスクはあるが、アレを使うよ、速水』
『……俺に断らなくてもいいですよ』
『アレは、元々君への対策だからね』
ラムダが声を出す。
『ヴォルグ!』
そして、ハンドサイン。
ヴォルグが決めにいく。
そういう雰囲気が支配する。
ボディで動きを止めた。
伊達英二が、わずかに前傾姿勢になる。
そこを、すくい上げるような左のアッパー。
王者の反応が速い。
アッパーを右手で受ける。
間髪いれず、左のショートフックの体勢。
ボロボロになりながらも、やはり狙っていた。
それがわかる。
上下のコンビネーションの間に割り込む攻撃。
うまくいけば、ノーガード状態のヴォルグからカウンターが取れる。
でもそれは……ヴォルグとのスパーで、俺が何度も何度もしつこく狙った攻撃だ。
王者のショートフックが空を切った。
……ヴォルグがダウンを喫したスクリューブローと同じだ。
知らないことは怖い。
だが、知るということは視野が狭くなることも意味する。
白い牙……ホワイトファングは、上下のコンビネーションに過ぎない。
下の次は上。
それを意識した人間には……上しか見えない。
ショートフックを、ダッキングでかわしたヴォルグ。
右アッパーの体勢。
伸び上がるように、突き上げた。
伊達英二の顔がのけぞる。
俺の位置からも、そののどが見えた。
返しの左フック。
それを、無防備にもらい……地面に立てた棒が倒れるように、王者の身体が倒れていった。
ダウンした伊達英二に駆け寄り、レフェリーは……両手を交差させた。
拳を握る。
「よしっ」
ラムダと目が合い、握手した。
違和感。
見れば、ラムダの手にも、血がにじんでいる。
笑みがこぼれた。
そして、もう1人のセコンドと、握手する。
レフェリーが、ヴォルグの手を上げる。
試合終了と、勝利者のアナウンス。
ラムダが、俺が、そしてもう1人が、リングの上へ。
ヴォルグとラムダが抱き合う。
そして、俺と抱き合う。
『……、リュウ、……』
興奮しているのか、たぶん、ロシア語だ。
かまわない。
おめでとう、ヴォルグ。
道は、続くはずだ。
きっと……。
「……ありがとう、リュウ」
「よう、王者が王者らしくしないと、観客が戸惑うぜ」
伊達英二。
ヴォルグが首を傾げる。
『王者は王者らしく、胸を張れってさ』
ちょっと意訳。
しかしヴォルグは、少し困ったような表情で、視線をめぐらせた。
「私が勝って、みんな、喜べない」
「……ったく」
伊達英二が、ヴォルグの右腕をつかんだ。
リングの中央へ。
「こうするんだよ」
高く上げる。
最初はどこかで。
そして、まばらな拍手。
それが、広がっていく。
ホール全体に。
「堂々としてろ、いいな」
そう言って、ヴォルグの背中を叩く。
そして。
「速水ぃ!」
頭を抱えられた。
ヘッドロック……未満?
「な、何ですか伊達さん、俺は何もしてませんよ」
「うるせえよ。あんな、オレの神経を逆なでするような作戦に、お前が関わってないわけないだろうが……2対1で戦ってる気分だったぜ」
締め付けられる。
しかし、力は強くなく……数秒で解放された。
じっと、見つめられる。
「速水、お前がオレの立場なら、ヴォルグとはどう戦った?」
「……カウンター狙いですかね。とりあえず、自分からは攻めません」
伊達英二は、何でもできるタイプのボクサーだ。
ただ、攻めっ気が強い。
今日は、能力ではなく性格を攻めた。
俺は、伊達英二の全盛期を知らない。
現時点において、俺の判断ではヴォルグの地力が上だ。
今日の試合も、展開次第でどう転ぶかわからなかったが……全体的にはヴォルグが押していたように思う。
それが正しいかどうかはわからないが、地力が上の相手に真正面から戦うことを俺は選択しない。
俺は、自分の力を過信するぐらいなら、敵を過大評価したい。
敵の方が強いと思えば、常に最大限の努力を尽くせる。
「……そうか。お前の見立てでは、オレよりヴォルグが上か」
そう呟いて、リングの上の、照明を見つめる。
「……鷹村の言葉じゃねえが、ただのオッサンになっちまったか」
そんな伊達英二の姿に、ホールが静かになっていく。
ボクサーのデビューを見守る後楽園ホールは、ボクサーを見送ってきた場所でもある。
それは、ここの常連客も同じだ。
客席から、声が飛び始めた。
「やめるなよ、伊達!」
「まだやれるぞ!」
それらの声は、聞こえている。
しかし、届かないだろう。
この敗戦からやり直すには……時間が足りない。
リカルドと戦えないなら意味がない。
そういう考え方をする男だ。
伊達英二の視線が足元へと落ち……ヴォルグを、そして俺を見る。
「速水、約束を守れなくて悪かったな」
「え?」
俺に背を向けて、歩き出す。
「……いろんなヤツとスパーしたが、お前は本当にムカツクパートナーだったよ」
何も言わず、黙って見送る。
おそらく、返事は求められていない。
仲代会長と目が合った。
俺がちょっと頭を下げると、微笑んでくれた。
そして、戻ってきた伊達英二の肩を抱き、背を向けた。
手を上げて観客に応えながら……伊達英二が、リングを降りていく。
ホールの客が、拍手でそれを見送る。
通路を歩く。
リングから遠ざかっていく。
その姿が、通路から消えても……そのボクサーへの拍手は鳴り止まなかった。
試合よりも、取材の時間のほうが倍以上かかった。
それら全てから解放されたときには、もう夜の10時を過ぎていた。
とはいえ、解放されたのは俺たちだけだ。
音羽会長は、取材ではない連中に捕まっている。
伊達英二のために敷かれていたレール。
そこに、ヴォルグが乗る……そのはずだが、どうだろうな。
仮に、世界を目指すのが伊達英二なら……挑戦する王者はリカルドでいい。
敗北からの復活、そして再挑戦という
これが、ヴォルグならどうかだ。
あくまでも、俺の推測だが……。
テレビ局は、確実性を求めるだろうと思う。
伊達英二なら、負けてもスポンサーは納得する。
ヴォルグなら、浪花節ではなく、結果を求める。
世界に挑戦して、散ってもらっては困る。
勝てる可能性が高い相手。
獲れる可能性が高い世界。
おそらく、リカルドではなく、別の路線を選ぶ。
そんな気がする。
音羽会長が捕まったのは、そういう話をするためだろう。
まあ、話し合いのための下準備の段階だろうが。
そんなことを考えながら後楽園ホールの建物から外へ出ると、雪がまだ降っていた。
あれからずっと、降り続けていたのだろう。
人の通らない場所には、うっすらと雪化粧が施されている。
『……』
空を見上げて、ヴォルグが呟く。
ロシア語だが、俺にもわかる単語だ。
邪魔をしないほうがいい。
俺も、ラムダも、ただ見守る。
そういえば、日本タイトルを獲って、次の試合までは少し時間が空くはずだ。
一度、里帰りとかできるんじゃないだろうか。
いや、冬という季節的に厳しいのか。
ソ連解体から1年ほど。
前世で、その頃のソ連、そしてロシア事情に詳しい大学教授から聞いた話が頭をよぎる。
情報は金……それを知って、仕事の引継ぎで後任に情報を渡さないなど、社会システム的混乱が相次いだらしい。
ヴォルグの故郷は田舎である分、混乱が少ないとも思えるし、別の意味で混乱が多いとも思える。
俺が思うほど、里帰りは簡単ではない……か。
強い風が吹いた。
そして、風が止んだと思ったら……雪も止んでしまった。
母親の応援と思って……か。
異国で戦う息子への思いが、雪を降らせた。
そんな話があってもいいじゃないか。
そういう夜があってもいいだろう。
ヴォルグが、振り返る。
あまり腫れない体質のようだが、今日は結構打たれたからな。
少々、痛々しい。
『ごめんね、リュウ』
『何が?』
『4R、相手の届かないパンチに反応してしまった……あのミスが、5Rのピンチを呼んだ』
『いや、俺は気づくのが遅すぎた……まあ、勝ったからよしとしよう』
『ノー、違う』
ヴォルグが首を振る。
『僕は今日、かなり打たれたから……しばらく、リュウのスパーリングの相手ができないよ』
俺は、苦笑した。
『……無傷で勝つってのは、ちょっとムシが良すぎるだろ』
とはいえ、だ。
俺と真田との試合まで、約1ヶ月。
ヴォルグには、あまり無理はさせられない。
なんせ、今日はダウンまでしてるからな。
1週間は安静に、ロードワーク再開まで……早くても2週間かな。
うん、無理だな。
というか、俺って本気でスパーの相手とかいないな。
間柴とかなら、スパーを断らないと思うけど……タイトルマッチは2月の上旬で、目前だ。
時期が合わない。
時期だけでいうなら、青木さんはちょうどいいのか。
ただ、お互いの思惑が一致するかどうかは別だ。
タイトルマッチに向けて、意味のあるスパーを求めるのが普通だ。
ある程度は、俺があわせることもできるが……どうだろうな。
暗黙の了解というか、取材のための、タイトルマッチ前の公開スパーはやらなきゃいけないだろうし。
まあ、明日考えよう。
今日は、ヴォルグが勝った。
それだけでいい。
『ゆっくりしてると、電車がなくなっちまう。ヴォルグ、ラムダさん、帰りましょう』
『うん』
『ああ、そうだね……』
俺とヴォルグは、肩を並べて歩き出す。
ラムダはその後ろに。
止んでいた雪が、また降り始めた……。
さっきまでの応援ではなく、ヴォルグの母親の祝福。
そう思おう。
伊達さんのファンには申し訳ない結果になりました。
書いてる私が言うのもなんですが、好きなキャラを負けさせるのって心が痛みます。
ややあっさり風味だったかもしれませんが、この組み合わせ、終盤までもつれ込むイメージができませんでした。
例のドリームマッチを書くための試行錯誤で、いろんな視点、観戦位置を試したのですが、ヴォルグと伊達の試合を書くのに、このセコンド視点が一番しっくりきたので選択しましたがどうだったでしょうか。
いろんな発見があるので、これからも試行錯誤していきたいと思います。
なお、連続更新はここでひとまず終了です。
速水と真田の試合展開を考えるのにちょっと時間をもらいます。
しばらくお待ちください。(1週間ぐらいの予定?)