速水龍一で始める『はじめの一歩』。   作:高任斎

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ま、待たせたな……。(震え声)
そして、説明話だったり。


27:魔法使いに出来ること。

 かぼちゃの馬車が走り始めた。

 シンデレラ(ヴォルグ)を乗せて。

 

 馬車を用意した魔法使い(スポンサー)が、良い魔法使いなのか、悪い魔法使いなのかはここでは関係ない。

 重要なのは、お城の舞踏会(世界の舞台)へと連れていく……その能力の有無。

 まあ、ヴォルグにとって重要なのは、故郷の母親の生活を楽にするための金を稼ぐことだから、純粋に『世界を獲る』ことが目標なのではなく、それに付随するモノが真の目的ともいえる。

 とすると……生ける伝説である、リカルドへの挑戦はリスクの高い選択と言えるだろう。

 そういう意味では、ヴォルグの目標とスポンサーの目的は大きくは乖離しない。

 

 多少、斜に構えた見方ではあると思うが、リカルドとの再戦を熱望する伊達英二の姿勢は、スポンサーの意向から外れていた可能性はある。

 スポンサーが必要としていたのは、『世界王者』という肩書きで、伊達英二が必要としていたのは『リカルドを倒す(戦う)』ことだった。

 スポンサーとしては、伊達英二に世界王者になってもらいたいのであって……ルートが二つあるならば、リスクが低いほうを選ばせたいのは言うまでもないだろう。

 

 もしかすると……その両者の齟齬が、ヴォルグの割り込みを許した要因のひとつになったのかもしれない。

 

 まあ、いまさらそんなことを考えても仕方がない。

 とりあえず、走り始めたという実感こそがヴォルグにとって今は大事だろう。

 ただ、走り始めたからと言って安心はできない。

 様々な思惑によって、馬車が途中で立ち往生することもあるし、放り出されることもないとはいえないからだ。

 

 ……ソースは俺自身。(震え声)

 

 俺のプロデビューから始まった流れを、みもふたもない表現をすればこうなる。

 

 魔法使いに選ばれて馬車に乗り込んだと思ったら、別の馬車に割り込まれて順番待ちに。

 順番待ちをしていたら、別のシンデレラに馬車から蹴り出された。

 そして今は、灰をかぶりながら日々を過ごすシンデレラ予備軍に後戻り、と。

 なお、俺に順番待ちをさせていた伊達英二は、お城に向かう途中で別の馬車に体当たりされてリタイア。

 

 これだけを取り上げるとひどい話のように思える。

 しかし、本来、強いもの同士が争って王者への挑戦者の資格を得るべきなのは間違いない。

 ならば、同じ日本人同士で……『順番待ち』などという環境はぬるま湯と言われても仕方ないだろう。

 

 当事者としてひとつだけ反論させてほしいのは……この一連の動きに関して、俺や伊達英二、そしてヴォルグが関与できる部分がほぼ無かったというところ。

『だからどうした』と言われたらそれまでだが。

 

 何はともあれ、魔法使いによるシンデレラオーディションはひとまずの決着がついた。

 選ばれたのはヴォルグ。

 羨ましくないと言ったら嘘になるが……まあ、俺も人間だもの。

 そもそも世界を獲る力が無ければ、お城に運んでもらったところで王子様のダンスの相手を満足に務めることもできないわけだ。

 

 そう、今俺がやるべきことは、指をくわえてかぼちゃの馬車を見送ることではなく……。

 

 

『あ、あの……リュウ?私は、何を……?』

『なんというか……広報活動の一環かな?』

『広報……?』

『世界アマ王者になったあと、施設への慰問や、お偉いさん方とのパーティとかやらなかったか?この国の人間に、ヴォルグを紹介する活動と思ってくれ』

『……そう、なの?』

 

 

 ……やや戸惑い気味のシンデレラの付きそいをすることだ。(目逸らし)

 

 

 

 さて……戸惑い気味のヴォルグはともかく、俺はいろんな意味で経験者だ。

 前世では、ジャンルは違うが野球の世界において、学校およびチームメイトが世の中にどう売り出されていったかを経験したし、今世ではプロデビューに向けて売り出された。

 

 意外かもしれないが、俺は高校3年になるまでは、ボクシング関係者を除き、ほぼ無名の人間だった。

 基本的に、新聞やニュースでアマチュアボクシングの選手を取り上げることなどほとんどない。

 地元の、地方新聞のスポーツ欄で『速水、インターハイを制覇』などと写真つきの記事が掲載され、2年の時に『地元の注目スポーツ選手』の1人として、インタビューされたぐらいのもの。

 なので、学校では有名人だが……地元で時折『あ、あの人見たことあるかも』という反応をされるのがせいぜいで、良くも悪くも野球というメジャージャンルとの格差を感じていた。

 

 それが、正式に音羽ジムとの契約が内定し、プロデビューに向けて売り出し……情報の露出が始まってから、俺の周囲の環境が大きく変化した。

 テレビ局は、インターハイ3連覇のタイミングに合わせて番組の特集を組み、最後の国体では『高校6冠』『完全制覇』などとボクシング界の新しいスター誕生的な盛り上げを行った。

 そして、若い女性をターゲットにして雑誌などでも露出を増やし……俺を応援してくれる女性ファンの多くは、そのときに増えた。

 

 今だから言えるが、伊達英二の復活やら何やらでデビューが遅れて、露出の間延びというか、効果が薄れてグダグダになった感がある。

 正直、失敗したんだろうなと俺は思っている。

 あるいは、テレビ局のほうで『世間の反応がいまいち』だと判断したのかもしれない。

 

 

 

 ネットの有無、あるいは普及度合いによって、情報収集作業の手間は大きく変化するのは言うまでもない。

 ボクシングの日本王者を階級別で調べるとして、ネットがない場合……『ボクシングを知ってそうな人』に情報を求めるか、アドバイスを請うしかない。

 まず最初に、『どうやったら調べられるか?』を考える必要があるわけだ。

 何をやったら良いかわからない状態から、自分の人脈を通じてヒントを探していく……ネットの検索作業は、その部分を省略してくれる。

 まあ、ネットがあったとしても……日本ではなく、タイやフィリピンのボクシングの国内王者を調べろと言われたら、頭を抱える日本人は少なくないと思う。

 日本人にわかりやすい形で『情報』をネットに提供する人がいるかいないか……ネットもまた、情報を共有はしても、『人から人へと』情報が流れるという本質は変わらないのかもしれない。

 

 ネットの情報は、蓄積されていく。

 しかし、ネットのない時代は……情報を蓄積するのは人だ。

『ある部族の長老が死ぬと、小さな図書館の蔵書に匹敵する知識が失われる』という言葉を前世で耳にしたことがあったが、人間ひとりひとりが蓄積する情報量は決してバカにできるものではない。

 まあ、知識や経験から来る知恵がそのまま生存術に直結した時代の名残と言われたらそれまでだが……個人的には、簡単に調べられるようになると、人の知識の蓄積能力は減少するように思う。

 大事だから覚えようとする。

 興味があるから調べようとする。

 テレビは有力な情報源ではあるが、流される情報は、ただ流れていくことが多く……ビデオなどの媒体に記録しようとする人間は、最初から『それを残そう』と考えている人でなければならない。 

 ネットもまた、『情報を残そう』とする人がいなければ同じことになる。

 

 

 とはいえ、ネットのない時代の情報の拡散というか、テレビの影響はやはり大きい。

 テレビの普及という下地があってこそだが、情報を一度に拡散できるからだ。

 どんな情報を出すかを選択できるのも重要だ。

 

 知名度を上げるということは、多くの人に知ってもらうこと。

 多くの人に情報を手渡すこと。

 人から人への流れ、ラインをできるだけ切らないこと。

 

 そうすると、だ。

『人から人へ』の部分を考えて情報を流さないと、効果は薄れる。

 

 日本の核家族モデルにおいて、人と人のつながり、情報のラインの中心となるのは母親であることが多い。

 家の外で働く父親が、息子や娘と情報をやり取りする機会は少ない。

 少なくとも、母親との会話より多いということはほとんどない。

 父親は、仕事というコミュニティで人とかかわり、子供は学校や塾など、同年代のコミュニティで人と関わる。

 その両者を取り持つのは、母親になることが多い。

 つまり、母親……あるいは、家庭におけるそういう存在を押さえれば、家族が持つコミュニティ同士の情報のラインがつながっていく。

 

 と、まあ……こんな風に、メインターゲット層はもちろん、社会情勢やら構造やらを分析した上で計画を立てるのも広報のお仕事になる。

 流すべき情報を『作る』のは、分析と計画の後だ。

 ある程度興味をあおらなければ、テレビで流した情報はただ流れておしまいになる。

 

 なので、今はその前段階。

 テレビで情報を流す前に、『ヴォルグ・ザンギエフ』という名前というか、固有名詞を拡散させるための手を打ち始めたところ。

 

 ……などと、俺としては普通に理解できる流れなんだが、ヴォルグに説明するのは難しい。

 

 

 

「コニチワ。今日は、ヨロシクお願いします」

 

 体重制限や階級の違いはあるが、日本のボクシングの選手はわりと小柄な部類に入りやすい。

 日本において、『スポーツ選手は身体が大きい』という思い込みがかなりあるようで、実際に俺を見て『小柄』なことに驚く人は少なくない。

 俺の身長は170センチに届かず、同年代の日本人男性の平均以下だから、思い込みの分だけ『あれっ?』と思ってしまうのだろう。

 ヴォルグもちょうど170センチと、俺の身長とほとんど変わらない。

 ただ、『外国人……西洋人は身体が大きい』という、間違いではないが思い込みの一種がありがちなので、日本人が『海外のトップアスリート』のイメージを抱いて、実際にヴォルグに会うと……。

 

「あーうん、なるほどねー……こう、守ってあげたい感じがするわね、彼」

 

 俺のプロデビューに向けての露出でお世話になった女性編集者の1人が、ヴォルグを見て何度も何度も頷く。

 

 ちなみに彼女は、3年前はティーン向けの女性ファッション誌に所属していた。

 今は、20代後半の女性をターゲットにしたファッション誌に所属している。

 ヴォルグにどういうメディア露出をさせるかはテレビ局の意向であり……企画スタッフというより、おそらくは外注の専門家の指示だろう。

 

 ファッション誌に限らず、雑誌において時々不思議な企画がページを使ったりするが、雑誌の編集の企画ではなく、外部からページを買われたケースが多い。

 当然、直接の金でのやりとりではなく、その取引として雑誌に広告を入れるなどの手段で代価を支払ったりする。

 今回は、テレビ局と雑誌社だから、余計にわかりやすい関係と言える。

 

 ただ、上はそれで納得するだろうが、現場は別だ。

 ねじ込まれた企画を作成することになる現場のモチベーションが、地を這いかねない。

 ここで、『こんなのボクサーのやることじゃない』などとふてくされてことに臨むと、出来はひどいものになるだろう。

 思うことがあっても、現場が仕事をやりやすいように振舞ったほうがいい。

 

 もう一度言う。

 

 俺がやるべきことは、指をくわえてかぼちゃの馬車を見送ることではなく……戸惑い気味のシンデレラの付きそいをすることだ。

 

 幸い、あの時俺に関わった人たちからの、俺への評価は悪くない……はず。

 当時は何度か『いやぁ、速水君が大人で助かるわぁ』的な言葉をかけてもらった記憶がある。

 逆に考えると、持ち込まれた企画において、『大人じゃない』対象が少なくなかったのだろう。

 

「あ、紹介しておくわ。こちら、〇〇誌の〇△さん。こっちは……」

「はじめまして、今日はお世話になります……」

 

 頭を下げながら、芸能人のマネージャーって、こんな感じなんだろうかと考える。

 

 上に政策あれば下に対策ありというが、今ここには2つのファッション誌と、ライトファンのためのスポーツ誌の関係者が集まっていた。

 ねじ込まれた企画は、別の形で代価が支払われるために、現場での予算が渋いケースが多い。

 やっつけ企画なら、2誌合同でスタジオを借り、衣装と演出は別にしても短期間で撮影して費用を圧縮したりとか……あるんだろう。

 それに便乗して、待ち時間やセッティングの合間に取材なんかも済ませてしまう、と。

 

「じゃ、速水君も準備してね」

「はい」

 

 ファッション系の露出だと、モデルの身や体格をそろえなければいけないケースも多い。

 もちろん、その逆もあるが。

 とりあえず、今回は『無料』で、『体格の似た』モデルが使えるのは、雑誌にとっても都合が良かったのだろう。

 ヴォルグに付き添うことで、俺の露出が増える……役得だ。

 

 そう……思おう。

 

 ケースバイケースだが、俺はもちろん、ヴォルグにもモデル料は出ない。

 良くも悪くも、文字通り、売り出しのための露出は『ボクサーの仕事ではない』のだ。

 たとえば世界王者になり、『請われての』出演は、出演料が出るが、これは『商品価値を高めるための必要宣伝費』であり、『商品』は黙ってそれに従うしかない。

 俺も、ヴォルグも、『契約』で縛られているから、そうなる。

 

 ヴォルグの肩に手を置いた。

 

 さあ、ヴォルグ……がんばろう。

 俺もがんばるから。

 

 

 有名になり始めたスポーツ選手が、ジャンル違いの雑誌などに登場しているのを見かけても『なんやこいつ、こんなもんに出て。調子に乗ってるんちゃうか?』などと単純に思ってはいけない。

 

 本人が望んでいるとは限らないし、ギャラがもらえるとも限らないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 撮影はサクサク進み、取材も、両者のボクシング知識の齟齬を俺がフォローする感じで終了。

 解放されて、俺とヴォルグはちょっと休憩。

 

『……日本に来て色々と刺激的な経験をしたけど、今日は格別だよ、リュウ』

『うん、まあ……そうだろうなあ』

 

 旧ソ連で、母親を守るためにボクシングをはじめたヴォルグ。

 ボクサーとして日本にやってきて……取材はともかく、モデル撮影か。

 

 俺も同じ経験をしたけど……俺の場合は、その意味を理解していたからなあ。

 自分が何のためにこれをしているかを理解しているのとしていないのとでは大きく違う。

 まあ、ヴォルグにもそこは割り切ってもらうしかない。

 

 だって、今日で終わりじゃないからな。

 

 今日の撮影も含めて、それらが世間に出回るのは2月下旬から3月にかけてのことになる。

 もちろん、計算された情報量なのだろう。

 それらがある程度浸透してから、『ヴォルグ・ザンギエフ』の物語がテレビで語られる。

 たぶんこれは、4月になってからか。

 

『……ごめんね、リュウ』

『ん、どうした?』

『スパーの相手が出来ないだけじゃなく、リュウの試合の応援も出来ない』

 

 俺の、真田とのタイトルマッチは2月26日。

 それに先駆けて、ヴォルグとラムダは、世界に向けての視察旅行のスケジュールが組まれている。

 

 俺の試合の前日、2月25日にメキシコで絶対王者リカルドのノンタイトル戦がある。

 文字通り、タイトルのかかっていない……おそらくリカルドにとっては試合感覚を空けないための調整試合だろうが、時差を考えると、俺の試合と数時間違いじゃなかろうか。

 

 そして3月上旬には、アメリカでフェザー級のタイトルマッチ。

 WBAの世界王者がリカルド・マルチネス。

 つまり、WBCの世界タイトルマッチ。

 この2つの試合を、ヴォルグとラムダに生観戦させるのが主な目的。

 

 露出とは関係なく、この視察旅行だけでヴォルグの世界挑戦の話が現実味を帯びてくる。

 

 ヴォルグとラムダへの、『どちらのベルトを目指す?』という問いかけであると同時に、『リカルドに勝てるか?』という疑問だろう。

 その上で、道を選ばせる。

 かなりの好条件といっていい。

 

 上り坂に下り坂。

 どちらも苦しく、危うい道だ。

 しかし、前に進むしかない道。

 人生を変えるのは、分かれ道だ。

 

 どちらの道を選ぶか……それで、ヴォルグの人生が変わる。

 勝負の結果ではなく、選択で変わる。

 

 まあ、そのために……ヴォルグとラムダは、現地の案内人とともに、2月下旬から日本を離れることになる。

 帰って来るのは、3月の中旬以降。

 当然、俺の試合は終わった後だ。

 

 ヴォルグとしては……タイトルマッチに挑む俺の役に立てないことが申し訳なく思えるのだろう。

 だから俺は笑って答えた。

 

『ヴォルグの目で見た世界のレベル、その土産話を楽しみに待ってるよ……日本王者としてな』

 

 

 

 

 

 

 

 

 ヴォルグと別れ、音羽ジムに戻る電車に乗り、色々と考える。

 

 ノンタイトルとはいえ、リカルドの試合の生観戦か。

 メキシコのアステカスタジアム。

 本来はサッカー競技場で、メキシコオリンピックにあわせて作られた世界最大級の競技場。

 前世においては、改修とかで座席数が減ったらしいが、本来の座席数は13万を超える規模。

 ボクシングにあわせてステージを作るなら、入場できる人数はもっと増えるかもしれない。

 

 ……というか、スタジアムの最上段からリングの上のボクサーが見えるのかね?

 

 後楽園ホールが、座席数は一応2千人ほど。

 大阪府立体育館が6千人ぐらいで……新人王戦の頃、そこを客で埋めていた千堂は、たぶん日本では屈指の集客力を誇るボクサーの1人だろう。

 借りる費用が高いらしい日本武道館に、時期によっては絶対に借りられない両国国技館は1万1~2千人ぐらいだったか。

 日本のボクシングだと、例外はあるがこのあたりが頂点だろう。

 

 伊達英二は、敵地(アウェー)とはいえ10万人以上に見つめられて世界タイトルマッチを行った。

 負けはしたが、その規模に羨ましさを感じてしまう。

 

 露出、か。

 

 ヴォルグは、日本よりも世界のほうで知られているだろう。

 仮に知らなくても『世界アマ王者』という看板で、ある程度は注目を集められるはず。

 欧米において、ボクシングの世界アマ王者の名は日本人が考えている以上に重いものだ。

 

 テレビ局がヴォルグの露出を画策しているのは、あくまでも『日本での』認知度を高めるためだ。

 それは、日本での利益を上げるためであり、日本で利益を上げることを目的とすれば、ヴォルグを世界で露出させる意味はない。

 

 つまり……テレビ局は、ヴォルグの世界挑戦の日本開催に固執するだろう。

 そのための投資。

 

 興行面で突き詰めて考えれば、どれだけ客を呼べるかという点においてボクサーは芸能人と変わらない。

 ライブやコンサートで、集客予想をして、そのキャパに見合う会場を探して費用計算を始める流れは、そのままボクシングの興行にあてはまる。

 実際は、ボクサー個人の集客力に、『ボクシング』という競技そのものの集客力を加えたものとなるのだろうが、現状はこのボクシングの集客力が落ちていく最中なわけだ。

 だからこそ、こうして認知度を高める手間隙をかけなきゃならなくなってるわけで。

 

 ……前世において、『ボクサーはただの商品』という言葉が色々と物議をかもしたが、何よりもボクサー自身が口にした言葉として、別の角度で評価されるべきなんだろう。

 

 前世で野球をやって、今世で野球から離れたからこそ身にしみることがある。

 野球選手が野球だけをやっていれば良かったのは、その影で、その裏で、『野球』というコンテンツで利益を得るシステム作りに尽力してくれた存在があるからだ。

 そして、野球選手が野球だけでいられるように、ファンがファンのままでいられるシステムも必要だ。

『ファンによるファン活動』が『利益』を生むのは、そういうシステムを構築したからであり、『ファン』が『お手軽』に『ファン活動』を楽しむための便宜を図るのがシステムだ。

 

 まあ、規模と競技形態が違うから、どうあがいても野球のシステムをそのままボクシングに取り入れることは不可能なのはわかっている。

 

 システムとは言いがたいが、俺の女性ファンの多くは『日曜祝日は、俺がほぼ一日中音羽ジムで練習している』ことを知っている。

 日曜祝日の、俺の練習の休憩時間にジムを訪れれば、俺に会える可能性が高いことを知っている。

 なので、その時間帯に『俺の試合のチケットを購入しに来る』ことが多い。

 そして俺も、休憩時間だから女性ファンにチケットを直に手渡したり、お礼の言葉をかけたりする。

 

 俺やジムは、『チケット販売の手間が軽減』できて、女性ファンは『ジムに直接出向く』という手間が増えるが、『俺の姿を見る』『チケットを手渡してもらう』『言葉をやり取りする』という利益が与えられる。

 これもまあ、ファンサービスの一環といえなくもないだろう。

 

 

 車窓から、流れていく景色を眺める。

 

 仮に……俺が、スポンサー抜きに世界に挑戦するならば。

 世界での認知度を高める必要がある。

 スタイルはおろか、名前も知らない相手を、対戦相手としてリストアップするのはハードルが高い。

 少なくとも、『日本には、〇〇と言うボクサーがいるらしいぞ』という程度には、知られている必要があるだろう。

 日本で戦う限り、日本でしか知られない。

 

 海外で名を売るためには……海外で試合をする必要がある。

 海外で試合をするためには、海外に呼ばれるだけのきっかけというか、やはり知名度が必要か。

 

 ……スポンサーに、テレビ局に依存する限り、世界には知られないというジレンマだな。

 

 4回戦、6回戦あたりならともかく、国内王者クラスになると、海外遠征や修行は、ファイトマネーが絡んでくる分だけハードルが高くなる。

 

 4回戦でメキシコの選手を呼んだ際、200万ほどの費用がかかった。

 まあ、たぶんアレは交渉で足元を見られたんだろう。

 選手とセコンド2人分の費用負担は、世界戦の扱いだ。

 交渉次第だが、東洋レベルなら、主催者が負担するのは選手とセコンド1人分の費用負担が普通らしい。

 万全の体制で……などと、日本からセコンドやスタッフを連れて行くなら、その分は自腹になる。

 

 後楽園ホールで、俺とヴォルグが、お互いに海外からレベルに見合う選手を呼べば……費用だけでなくファイトマネーも含め、それだけで興行は赤字になりかねない。

 金を積む交渉は、そういうリスクがある。

 

 勝利は、現実(リアル)の向こうにある。

 

 前世でもそうだったが、ある一定レベル以上のスポーツ選手にとっての圧倒的現実は、大抵が金なんだよなあ。

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 2月11日、貴重な祝日だ。

 1日中、練習が出来るという意味で。

 

 例によって、ヴォルグは忙しい。

 そして俺も、ヴォルグに付き添ってばかりはいられない。

 もちろん平日は無理で、休日は午前中に付き添いをして、午後からは練習だ。

 ヴォルグの絡みだろう、音羽会長も忙しそうで、ジムにいないことが多い。

 

 スパーリングパートナーは、色々悩んだが、選択肢が無かったと言うか、木村さんと冴木を指定した。

 冴木はともかく、木村さんは身長やリーチ、そしてファイトスタイルなど、真田との類似点は多い。

 

 木村さんに関しては、最初は鴨川会長に断られたが、タイトルマッチを控えた青木さんのスパー相手を何回かこなすことと、条件付で許可をもらった。

 

 今日のスパーは夜の7時からの予定。

 タイトルマッチが夜の8時過ぎになるだろうから、公開スパーはともかく、時間は合わせておきたい。

 

 汗を流し、夕食代わりの栄養補給を兼ねた休憩中に、冴木が現れた。

 

「よう、速水」

「ああ、冴木さん、今日もお世話になります……あれ、木村さんも一緒に来たんですか?」

「いや、ちょうどそこでかち合ったんだ」

 

 と、冴木の後ろから木村さん。

 

「まあ、今日も勉強させてもらうぜ」

 

 2人がアップを始めてからしばらくして、最後の1人が現れた。

 

「ちわーす」

 

 バンタム級の細野。

 冴木の伝手で連れてきてもらった。

 

 

 ケースバイケースだが、スパーリングは両者、あるいは所属するジムの会長が『お互いの練習になる』と同意するなら無償で行う。

 それはつまり、『謝礼金を払って』相手をしてもらうこともあるということだ。

 ボクサーの時間を、金で買って自分の練習相手にするわけだ。

 これは当然、相手のレベルによって価値が変わってくる。

 

 なので、俺がデビュー前にA級ボクサーを呼んでスパーしてたのは、スポンサーからの費用負担があったわけで……まあ、うん。

 あと、俺にとっては、ヴォルグとのスパーリングは『金を払ってでも頼みたい』ものだったが、『金をもらってもごめんだ』と思う人もいるだろう。

 

 だから、まあ、その、なんだ。

 

 ……冴木先輩(パイセン)、ありがとうございます。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さて、ちょいと早いが……やるかい?」

 

 冴木の言葉を受けて、木村さんと細野がリングに上がる。

 もちろん、3人一緒にやるわけじゃない。

 

 12オンスのグローブ。

 ヘッドギア。

 そして俺は、呼吸を制限するためにマスクをつける。

 

 

 

 まずは細野から。

 

 リングの中央。

 最初から全開のラッシュ。

 それをさばききって、一撃を返す。

 

 10秒。

 細野から木村さんにチェンジ。

 

 木村さんも、全開で俺に襲い掛かる。

 わずかな隙を突いて、左フックをねじ込んだ。

 立て直し、またラッシュをかけてくる。

 

 10秒。

 木村さんから冴木へ。

 

 フリッカーの連打。

 さばいていく。

 押せば退く。

 反撃できないまま、10秒が過ぎた。

 

 細野ではなく、木村さんが来た。

 

 

 速度、スタイル、リーチ、すべてが違う3人に、次々と襲い掛かってもらう。

 人工的な、チェンジオブペースへの対応。

 ただ、どうしてもパートナーがチェンジするのがわかるだけに、本当の意味では練習になってない。

 ある程度慣れてしまうと、なおさら効果は低くなる。

 

 ラムダは、このスパーを見て苦笑し……『速水。君もまた、ヴォルグの貴重なパートナーなんだよ』と肩を叩かれた。

 

 今回の件でヴォルグというスパーリングパートナーの価値を強く実感した。

『何でも出来る』、『何でも対応できる』相手は確かに貴重だ。

 

 鴨川会長に『速水よ、貴様の相手をまともにやったら、木村がつぶれる』と断られたときは、いまひとつ理由がわからなかったが、今なら、まあわかる。

 なので、俺の反撃は1発のみだ。

 防御に徹すると、逆に相手が雑になるのでそうした。

 

 当然だが、こんな屈辱的な条件を受けてくれる相手は……なおさらいるはずもない。

 

 

 

 1Rが終わり、冴木が舌打ちする。

 

「くそっ、当たらねえ」

「……冴木さんが言いますか、それ」

 

 細野の突っ込みは届かない。

 というか、この形式だと冴木のノリが良くない。

 ある意味力の発揮できない設定なのは申し訳なく思う。

 

 

 次のRは、ロープ際。

 

 後ろに下がれないからこそ、ロープを利用する技術が必要になる。

 そして、細かいポジショニングで相手の攻撃を制限する。

 ある意味では、リングの中央よりも守りやすい部分もある。

 

「速水。そもそもお前、ロープ際に追い込まれるのか?」

「だから練習するんですよ」

 

 

 最後にコーナー。

 

 位置的にパートナーのチェンジが難しく、本当の意味で追い込めないのが厳しい。

 相手のパンチをはじいたり、ガードすることに重点をおいて防御する。

 

 

「よし、ここから本番な」

 

 続いて冴木への報酬。

 俺とのスパー。

 これを2R。

 

 たぶん、わずかな違いなんだろう。

 俺の基礎的能力が上がったというより、無駄な動きが減って、バランスが良くなった。

 そのわずかな差が生んだ余裕が、次の動作の余裕につながり、全てに余裕を持たせていく。

 ヴォルグとのスパーでは感じられない余裕が、俺のボクシングを楽にする。

 

 とりあえず、冴木のボディを執拗に攻めて終わらせる。

 正直、冴木との比較が、自分の成長を一番強く実感できた。

 

 

 

 

「……あー、チクショウ。話にならねえ」

 

 冴木の性格は『陽』だ。

 暗いところがない。

 それを見せないだけかもしれないが、どこかラテンっぽい。

 

「まあ、しゃーねえ」

 

 と、切り替わるところは特に。

 

「しかし、速水。お前、構えが少し変わったよな?」

「わかりますか?」

「右も、左も、拳ひとつ……いや、半分ぐらいか。身体から離して……気持ち、指一本ぐらい位置も低くなったな」

 

 相手の攻撃を前でさばくためというか、前でさばけるようになった分だ。

 ある意味、防御的な構え。

 

「……なあ、冴木」

「なんだよ木村」

「お前のジャブって、フリッカーだよな?何をやられたら嫌だ?」

「……ああ、間柴対策か」

 

 2人が、構えを取りながら色々と意見を交わし始める。

 

 冴木も、体育会系で揉まれているので基本的に面倒見がいい。

 体育会系は結束が強いと言われるが、逆に言えば異分子は排除される傾向がある。

 まあ、そういう世界でやってきたなら……自然と面倒見は良くなるのかもな。

 

 しかし、間柴か。

 

 先日のジュニアライト級のタイトルマッチで、間柴が新しい王者となった。

 新人王戦の同期で、タイトルホルダーの一番乗り。

 

 新聞などの試合前の予想では5分……こういう場合、たいていは王者側に対して少々採点が甘くなることが多い。

 序盤は、リーチの長い間柴がフリッカーで試合を優位に進めた。

 中盤で王者が勝負に出て、目の離せない展開に。

 しかし6R、間柴の打ちおろしの右が王者を捕らえ、一気に試合の流れを持っていき、粘る王者を7Rで押し切った。

 

 

 チャンピオンカーニバルの流れは、今のところこんな感じか。

 

 まず、オープニングで挑戦者のヴォルグが、王者の伊達英二を倒した。

 

 カーニバル2戦目であるフライ級。

 世界戦の話が浮上していた王者三石が、7Rまで攻勢を積み重ねながら、8Rの後半、逆転を目指した挑戦者のパンチで歯車が狂った。

 ダウンから立ち上がったものの、9Rで再びのダウン……そのままリングに沈んだ。

 

 そしてカーニバル3戦目が、間柴のジュニアライト級。

 

 と、ここまでが政権交代3連発である。

 

 この、王者サイドにとって嫌な流れを食い止めたのが、バンタム級の石井だ。

 危なげなく、6Rで挑戦者を倒したようだ。

 

 次に控えているのはミドル級のあの人。

 3度目の防衛戦になるのだが、木村さんや青木さんから話を聞く限り、原作とは違って、減量を失敗するということも無さそうだ。

 たぶん、あっさりと勝つだろう。

 なんせ、世間での注目が『1RKO勝利が継続するかどうか』だ。

 コンディションさえ普通なら、まず問題はあるまい。

 

 ミドル級が終われば、その次がライトフライ級……そして、2月26日に、ジュニアフェザー級。

 

 ……ん?

 

 考え事をしている間に、冴木と木村さんの雰囲気が怪しくなっていた。

 何か、あったのか。

 

「木村……ちょいとキツイ事言っていいか?」

「……言ってくれ」

 

 冴木が口を開く。

 

「お前、ボクシングの取り組みが雑だよ」

「雑?」

「間柴のフリッカー対策の前に、分析が足りねえわ。お前、間柴とのリーチ差がいくらか理解してるか?」

「……間柴のリーチは187センチ。俺が173センチだから14センチ。この差をどうにかしなきゃならねえってんだろ」

 

 え?

 

 俺は首をかしげ、冴木が手で顔を覆った。

 

「……せめて、2で割れよ」

「は?」

「木村さん。リーチって、両手を広げて計測しますよね?胴体の幅はともかく、右手と左手の差の合計です」

 

 まあ、指の長い人間は拳を握りこむと、差が縮まるなんて事もある。

 なので、両手を広げるにしても、拳を握りこんで測定するのが正しいという地域もあるんだが……基本的に、この国では指を伸ばした状態で計測する。

 

「……あ」

 

 今気づいたという木村さんの反応に、冴木が息を吐く。

 

「まだまだあるぜ。間柴の構えはこんな感じで、ねじこむように肩を入れてくるからその分射程が伸びる……回転は悪くなるがな。あと、身長差も考慮しなきゃな」

 

 そう言って、冴木が左手を伸ばした。

 

「もっともリーチが長く使えるのは、肩の高さでパンチを出すときだ。間柴の構えで、肩の高さで突き出せば、木村、お前のアゴの位置だよな?」

「……?」

「それに対して、木村が間柴のアゴを狙うと……肩の位置より高く突き出さなきゃならない。斜めになる分だけ、遠くなる……これもリーチ差になる」

「……」

「フリッカーをかいくぐるとか、そういうことの前に……縮めなきゃいけない距離を把握しなきゃ、対策も何もないだろ。雑ってのはそういう意味だぜ。適当な分析は、曖昧なボクシングを生み……まあ、それで勝てるなら何も言わないけどな」

 

 冴木がズバズバと切り込んでいくのに感心する。

 普段『陽』の性格の冴木が、あんなふうに真面目に言えば相手は真剣に受け入れざるを得ない。

 誰かに教える、指導するって行為は、いろんな意味で難しい。

 俺の場合、ほどほどを心がけてはいたが……高校時代は、いい先輩とはいえなかったと思う。

 

「木村が低く構えれば、間柴は斜めにパンチを出さなきゃならない。高低、左右、構えやポジショニングに注意すれば、10センチなんてすぐだぜ。そもそも、間柴よりも木村のほうが速いんだから、前後じゃなく、斜めに動くんだよ」

「お、おう……」

 

 間柴はアウトボクサースタイルだが、フットワークで距離をとって戦うアウトボクサーじゃなくて、ジャブで突き放して、相手を待ち構えるタイプ。

 アウトボクサーでありながら、フットワークは速くない。

 だからこそ、待ち構えるスタイルなんだろう。

 

 アウトボクサーは基本的に自分より速い相手に苦戦しやすい。

 新人王戦で、間柴が宮田に綺麗にやられたのも……結局は、手ではなく足の速度の差が大きい。

 

 たぶん、冴木は……間柴に対して相性がいいだろう。

 冴木の速さというか特徴は、トップスピードに入るまでが早いことだ。

 なので、冴木のフリッカーは、短い距離で最高速度に入る。

 近距離でも、突き放すようにジャブの連打が放てる。

 逆に間柴のフリッカーは、腕を揺らす予備動作に加えて、長い距離を使って加速する。

 冴木から見れば、間柴は隙だらけに見えるのだろう。

 

 ただ、冴木の言う戦法は、木村さんの速度だと……ちょっと厳しいかもしれない。

 

 

「俺が言ってるのは、全部ほんのちょっとしたことさ。でも、そのちょっとしたことが、1センチ、あるいは1ミリ、自分の拳を伸ばしてくれるし、相手の拳を遠ざける」

 

 冴木が、木村さんに向かって拳を振るった。

 もちろん、鼻先でぴたりと止まる。

 

「だからよ、木村。お前が、間柴に対して縮めなきゃいけない距離は何センチだ?わかるか?全部、そこからなんだよ。そこからようやく、自分が積み重ねるべき距離を考えられるんだ、違うか?」

「……アマのエリートってのはすげえな。そこまで細かく考えるのか」

「階級は違うが、俺もお前もランキングは同じ3位だからな。エリートなんてモンじゃないさ」

 

 冴木が、ちょいと笑って俺の方を見た。

 

「まだ、こいつのほうがエリートっぽいぜ」

「ははは、冴木さん。元オリンピック候補が何を……」

「お前がアマでやってたら、俺の出番はねえよ……言いたかないが、高校時代、お偉いさんに『速水には勝てないから階級変えろ』って言われたんだぜ、俺は」

 

 ……はい?

 

 高校時代、俺と冴木が大会で戦ったのは一度だけだ。

 俺が1年、冴木が2年のインターハイ。

 当時はお互いにバンタム級(この頃は51~54キロ)だった。

 

「……お前は1年のインターハイを制した時点で、高校を卒業したらプロ入りするって表明したからな。アマチュアのお偉いさんとしては、速水にアマチュアの予算を使いたくなかったのさ。だから、俺と違って強化選手指定もされなかったし、合宿にも呼ばれなかったし、専属指導者の斡旋も無かっただろ?」

 

 え、何それ?

 

「俺は、1年のインターハイで準優勝した時点で専属コーチが派遣されたよ。決勝で負けたのは調整ミスだったしな。そして国体で優勝して、強化選手に指定された。気がつけば進学する大学まで決められて……まあ、正直あの頃はボクシングを舐めきってたからな。2年に上がって、優勝間違い無しと言われて臨んだインターハイの1回戦でなぁ」

 

 冴木が木村さんを見ながら、俺を指差した。

 

「相手が、地方の、聞いたこともない学校の選手でよぉ、当時は無名のコイツ」

 

 俺は笑いながら答えた。

 

「ははは、いきなりジャブを2発もらって、さすが全国に来るとレベルが違う、って焦ってました」

「よく言うぜ。本当に最初だけだったじゃねえか……2Rで圧倒されて、3Rまで引き伸ばされた挙句に、ガードの上から、隙間から、『ショットガン』でなぶり殺しだぜ」

 

 木村さん、そして細野が『うわぁ』という表情を浮かべる。

 

 ……まあ、全国レベルの選手を心行くまで観察しようと思ったら、1回戦の相手が最強でしたとかいうオチ。

 冴木がぶっちぎりの優勝候補などと知ったのは、インターハイを制した後だ。

 ボクシング強豪校でもなければ、全国に行くと顧問の人脈もほとんどなく、そういう情報すら回ってこない。

 俺は俺で、高校1年のインターハイなんて、自分のことだけで精一杯だったし。

 

「そういや、俺の『ショットガン』って、冴木さんが名付け親でしたね」

「……名付け親って言うか、1回戦で負けた俺のコメントが一人歩きしたってとこだな」

 

 冴木が、速い左を打ちながら呟いた。

 

「俺は、速水の連打の『速さ』を見て『ショットガン』に例えたわけじゃなかったんだけどな」

 

 細野が、首をかしげた。

 

「……違うんですか?」

「じゃあ、逆に聞くが『ショットガン』って、どういうイメージよ?」

「散弾銃だよな?速いって言うより、手数……か?」

 

 と、これは木村さん。

 

「まあ、当時の速水の戦い方を知らないとピンとこねえか。1Rは観察、2Rで圧倒、ポイント差が開いたら距離をとって観察。そして3Rで……」

「冴木さん、ちょっと」

 

 制止する。

 あれは、1年の時だけで……。

 

「最後は、破れかぶれの特攻か、心が折れてガード固めて逃げるしかないのよ。で、ガードを固めると、観察しながら近寄ってきて、容赦なく、ズドン!もう、目の前に拳の弾幕が見えるのよ。だから『ショットガン』ってコメントしたんだ。俺としては、速さじゃなくて、パンチの種類とか変化を表現したつもりだったんだけどな」

 

 あぁ、木村さんと細野の俺を見る目が……。

 

「高校6冠で41試合とか、本当ならもっと試合数は多かったはずなのになあ、速水?」

「……都会と違って、地方は予選の試合数が少なかったのもありますけどね」

 

 まあ、俺が2年のときは……全国も含めて、棄権者が多かったのは事実だ。  

 

「……さっきも言ったが、俺はボクシングを舐めてたからな。負けっぱなしじゃいられねえと思って、練習に打ち込んだつもりだった。それが、国体前に『階級変えろ』って言われたわけだ」

 

 冴木の言葉が……腑に落ちた。

 そういうことか。

 本人の意向を、指導者や学校が、あるいはその上の意向がねじ曲げることは、少なくない。

 

「……アマのお偉いさんにとっちゃ、俺は次のオリンピック候補だったのさ。企業の協賛を見据えて、プッシュする選手にそれなりの肩書きが必要だったんだろうな。速水と別の階級なら、勝てるからってな……まあ実際に、その後は全部勝ったよ。高校3年間で、国体3連覇に、インターハイ優勝1回に、準優勝1回」

 

 そして、冴木が笑う。

 

「新聞の記事でも、俺がメインになって……速水は結果だけなのさ。強化選手の合宿に参加しても、速水がいない。ここまで贔屓されたら、嫌でもわかるさ」

「そいつは……」

 

 木村さんが、言葉を失ったようにうつむいた。

 

 メジャー競技とマイナー競技なら、扱いが大きいのはメジャー競技だ。

 これは、読者を意識した選択と言える。

 潜在的読者が多いほうを記事にするわけだ。

 じゃあ、同じぐらいならどうなる?

 階級が別とはいえ、同じ競技の同じ優勝者ならどうなる?

 テレビのニュースなら時間に限りがあり、新聞なら紙面に限りがある。

 どちらを大きく扱うかは、そのメディア自身が選択する。

 たとえば、地方新聞なら、俺の地元でそうだったように、その地域出身の選手をメインで扱うだろう。

 

 じゃあ、全国紙で扱いが変わるのは……広告収入を占める企業の意向が働いたりする。

 

 でもまあ、卒業してプロ入りする選手なら、予算を使いたくないと言う気持ちはわかる。

 俺に予算をつぎ込んでも無駄金になるからな。

 記事で扱われるのは、結局宣伝につながるわけで……アマチュアを続ける選手をメインに据えるのは、むしろ正しい選択だ。

 

 俺が全国区で有名になったのは、プロデビューに向けての露出の一連の動きが始まってからだが……。

 このからくりは、プロボクシングを良く記事にするメディアと、アマチュアボクシングを良く記事にするメディアが別ってところにある。

 インターハイ3連覇をテレビで取り上げたのは、プロと関わりの深いテレビ局の方。

 アマチュアと関わりの深いほうは、当然のようにスルー。

 一種の住み分けであり、縄張り争いともいう。

 当然だが、アマチュアボクシングを支援する企業と、プロボクサーのスポンサーに名乗りをあげる企業もまた、スポーツ用品メーカーを除けばほとんど一致しない。

 

 とまあ、そういう関係だからこそ、冴木のプロ入りの件で揉めまくったわけだ。

 

 

 ボクシングに限らず、金が絡めばどの競技も変わらない。

 学校の部活動でさえ、1学年10人として、3学年30人の部員にそれぞれ試合用ユニフォームや、バッグなどの小物を購入させればすぐに100万からの金が動く。

 メーカー、あるいはスポーツ用品店の営業が、学校をめぐって担当になろうと画策するのも当然だ。

 もちろん、部員が多い競技や学校が優先されるのは言うまでもない。

 スポーツをやるということは、多かれ少なかれ、こういう現実と接することを意味する。

 とはいえ、こんな現実(リアル)は嫌だと投げ出してしまえばおしまいだが。

 

 プロ入りの件で冴木が失ったものは大きい。

 アマのトップ選手として関係各所に迷惑をかけたという『悪評』は、プロになってもついて回る。

 

 つまり、テレビ局というか、スポンサーは……関係者への配慮も含めて、冴木に手を差し伸べることはないだろう。

 そして、冴木もそれを承知して……その上で投げ出した。

 

 そういえば、原作でも冴木は……千堂との日本タイトルマッチをやっただけだったか。

 幕之内が新人王を獲った直後から、トーナメントで板垣と戦うまでの数年間。

 実力者でありながら、舞台に恵まれていないのが明らかだ。

 もしかすると、この手の裏の事情が影響していたのかもしれない。

 

 勘繰りすぎかもしれないが、この『世界』も、世知辛くて残酷なことに変わりはない。

 だからこそ、『魔法使い』は絶大な権力を持つ。

 

 そして俺は……どうやらその『魔法使い』にとって都合の悪い存在になりつつあるらしい。

 

 つい先日、俺の悪い噂を流している記者について……情報が入った。

 まあ、それをやってるのがテレビ局と同系列のスポーツ新聞の記者ってところに、悪い予感はしてたんだ。

 情報源は、例のテレビ局の番組作成クルーの1人と、ヴォルグの付き添いで知り合ったスポーツ雑誌の記者の2つのルート。

 

 根本にあるのは、出世争いと言うか、派閥争い。

 俺がA級トーナメントで派手に勝ちあがったのが、きっかけと言えばきっかけになる。

 つまり、テレビ局のスポーツ枠の『魔法使い』の足を引っ張るために、『日本人』の俺を切ってヴォルグを招いたのが失敗だと責め立てる連中の存在。

 ちなみにこの連中、『魔法使い』を蹴り落としたとしても、俺を取り上げるつもりはない。

 そもそも、『ボクシング』というコンテンツを重要視していないらしく……この連中が『魔法使い』になったら、ボクシング業界が、テレビで取り上げられる機会が確実に減少する。

 ボクサーである俺としては、この連中が台頭するのはお断りしたい。

 

 というか、俺としてはヴォルグをお城へと連れて行く『魔法使い』を、全力で擁護したい。

 ヴォルグを日本に、音羽ジムにつれてきてくれたことは、心から感謝しているしな。

 

 ……感謝はしている。

 

 人は、自分の立場を守るために戦う。

 誰かを傷つけてでも。

 

 それがわかっているから、理解はできる……できるんだが……なぁ。

 

 どちらも虚偽であるとして、悪い噂とよい噂で、広がりやすいのは悪い噂。

 そして、噂を否定するのは付き合いが深い人間だけ。

 噂が広まった後で、対象者と付き合いのない、あるいは浅い人間を取材し、記事を作れば悪評まみれの人物像が出来上がる。

 情報操作の、基本的なテクニック。

 

 とはいえ、『魔法使い』は、俺の『悪評』を記事にするつもりはない。

 ただ、『俺を切った理由』が『実力ではなく素行の問題』という言い訳に、真実味を持たせたいだけだろう。

 出世争いの相手が、裏を取ろうと動いたとしても……出てくるのは俺の『悪評』だ。

 それを否定するのは、俺との付き合いが深い人物ばかり。

 その否定は『身内をかばう発言』だと指摘すればそれでいい。

 

 ゲームの選択肢には『正解』があるが、現実の選択肢には『現状維持』と『悪化』と『最悪』しかないことがほとんどだ。

 そして時折、こんな風に『最悪』と『最悪よりマシ』の二択が現れたりする。

 ヴォルグのことを考えると……俺としては『沈黙』して、『魔法使い』を守る立場にいるしかない。

 

 禍福はあざなえる縄の如し、というが……『魔法使い』が俺を見切ったからヴォルグがこの国にやってきた。

 世界を目指す道のりは厳しくなったが、ボクサーとしての実力的にはプラスになった。

 そのプラスが、またマイナスとして俺に降りかかるわけか。

 

 まあ、『魔法使い』は魔法使いで、ボタンを掛け違えたかのような思いをしてるんだろうな。

 状況が状況だけに、自分を守るためにヴォルグを全力でプッシュして、成功させるしかない。

 そうしないと、自分の立場が危なくなる。

 ただ、これはヴォルグにとって追い風になっているだろう。

 

 自分の周囲だけでなく、人はあらゆる場所で、今をもがくように生きている。

 そんな色んな人間の思いがめぐりめぐって、運と言うか、風のようなものがヴォルグに吹いた。

 もちろん、ヴォルグが伊達英二に勝ったことでつかみ取った運だ。

 

 今は、ヴォルグの幸運を喜ぼう。

 そうやって、飲み込むしかない。

 

 いつか、俺に風が吹くとき。

 運をつかみ取れるチャンスが来たときのために。

 冴木の言葉じゃないが、ほんのちょっとしたこと。

 1センチ、1ミリを積み重ねながら、歩き続けるしかない。

 




魔法使いは、アマにもいるよと。
その対比のための、冴木の登場です。

病院で、昭和40年ごろボクサーだった老人から話を聞く機会がありました。
話半分どころか、4分の1ぐらいで聞かないと、内容がやばかったですが。
まあ、昔ボクシングジムを経営していたという老人の話よりはマシでしたが。

……聞くんじゃなかった。(白目)

やっぱ、闇が深いのは野球に限ったことじゃない。

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