速水龍一で始める『はじめの一歩』。   作:高任斎

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謎の老人が登場します。(目逸らし)


28:メキシコからの旅人、前編。

 公開スパーリング当日の朝。

 

 肝臓撃ちで動きを止められて顔面へ……がよくあるパターンだが、今日は動きが止まってから同じ場所(レバー)を丁寧に4回えぐられた。

 これは、油断するなという警告か、あるいは、さっさとバージョンアップさせろという催促なのか。

 

 痛みはないが、なんとなく肝臓のあたりを手で押さえながら身体を起こす。

 暦の上では春だが、肌に感じる冷気はまだ冬のものだ。

 

 俺のスパーリングは午後の3時の予定。

 そして、真田の公開練習は夕方の6時からの予定になっており……記者連中は大変だろう。

 まあ、平日だと俺は仕事があるから夜じゃないとダメだし、真田は真田で、今は試験期間中。

 そのあたりの事情が重なって、休日にスケジュールを詰め込む感じになった。

 

 朝食をとり、短めのロードワークを終えてからジムに向かう。

 

 

 

「おう、速水」

「おはようございます、会長」

 

 少し驚きながら、挨拶を返した。

 俺の試合のこともあるが、ヴォルグの世界挑戦に向けて、会長もなかなか忙しい日が続いている。

 

「なんか久しぶりですね、会長」

「……まったくだ」

 

 と、会長が苦笑した。

 

「今日はヴォルグの海外視察の案内を務めてもらう人が来日するんだ。これから空港に迎えに行ってくる……一応スパーまでには戻ってくるつもりだが、飛行機が遅れたりしたらどうなるかわからんぞ」

「わかりました。案内って現地のボクシング関係者ですか?」

「ああ、そうだ。お前のデビュー2戦目のメキシカン、あれを呼ぶのを仲介してくれた人だよ」

 

 なるほど。

 選手を呼ぶにも、情報はもちろん、伝手や交渉の仲介なんかが必要なわけで。

 

 今思うと、いきなりメキシカンとやりたいなんていわれても困っただろうなと苦笑する。

 

「先代、俺の伯父さんがまだ若くて……まだボクシングが拳闘って呼ばれてた頃から付き合いがあった人でな。まあ、あの人が世界のボクシングを学ぶために海外に渡って、伯父さんが死んだ後は……」

 

 ん?

 んん?

 

 ど、どこかで聞いたエピソードだぞ。(震え声)

 

 そういや、鴨川会長が入院したときに、お見舞いを渡されたよな。

 それは、以前から鴨川ジムと音羽ジムとの間にある程度の関係があったってことで。

 

 音羽ジムの先代会長……今の会長の伯父さんが、鴨川会長より少し上の世代だったはずだから、戦後の拳闘時代からがっつりと面識があっても……。

 

 音羽会長が時計を見た。

 

「と、遅れたら何を言われるかわからねえからな。俺がハナ垂れ小僧だった頃を知ってるからか、電話ならともかく、面と向かうと頭が上がらない相手なんだよ」

 

 そう言って、会長が出かけていく。

 空港まで、『誰か』を迎えに。

 

『誰か』かぁ……。

 

 うん、心構えだけはしておこう。

 驚かないように。

 

 ただ、俺は今まで一度も聞いたことがないんだよなあ、『浜団吉』というトレーナーの名前を。

 鴨川会長が話してくれた昔話でも、『知人』としか言わなかったし。

 

 原作では、手がけたボクサーはみんな世界王者や世界ランカーになってるとか、中量級の本場であるメキシコでも引っ張りだこの名伯楽……だったか。

 さて、そういうトレーナーの存在が……単純に日本に情報が回ってこない可能性は高い。

 

 ……あるいは、『ダン』と呼ばれたりしていて、現地ではそもそも日本人と認識されていない可能性もあるか。

 

 原作で語られたように、手がけたボクサーが全員世界王者や世界ランカーになっているトレーナーがいるとすれば、『良い素材』を見極めたうえで『自分と合う相手』を選んで指導したと考えたほうが無難だ。

 

 さて、会長が迎えに行ったのが本当に『浜団吉』だとしたら……俺というボクサーは、その目にどう映るんだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「速水さん、お先です」

「ああ、悪いな」

 

 午前中にトレーニングを終えた練習生が、そそくさと帰っていく。

 午後の俺の公開スパーに備えてだ。

 ヴォルグの時ほどではないだろうが、ボクシング関係者や記者連中が集まれば練習にならなくなる。

 

『リュウ。調子はどう?』

「ああ……」

 

 おっと。

 

『まあ、悪くない』

 

 そう答えたら、ヴォルグが笑った。

 

「そのぐらいナラ、日本語で問題ないよ」

『……英語で話しかけられたら、英語で返したほうがいいのかなって思っちゃうんだよ』

 

 俺の返答にまたヴォルグが笑って……まあ、苦笑するしかない。

 そんな俺たちのやり取りを、ラムダが微笑みを浮かべて静かに見つめているのがまた少し照れくさい。

 

 ヴォルグとラムダ。

 今日ジムに来たのは、会長が迎えに行った『誰か』との顔合わせのためだろう。

 ヴォルグたちが日本を発つのは、明後日の予定だ。

 

 後々のために、試合観戦および、現地のジムで汗を流す映像を確保するなどと言ってたから、後1人か2人、付いて行くことになるんだろうか。

 あるいは、テレビ局の伝手を使って、現地で確保するのか。

 

 それらを含めて今日と明日は、スケジュール確認を含めた打ち合わせが必要だろう。

 

 

 

 

 

 

「よぉ、速水君」

「……相変わらず早いですね、藤井さん。まだ、1時半ですよ?」

「人が多いと、落ち着いて取材も出来ないからね」

 

 そう言って、藤井さんがちらりとヴォルグのいる方に視線を向けた。

 

「できれば、ヴォルグにも、試合の展開予想を聞いてみたいね」

「……ヴォルグとラムダさんは、たぶん打ち合わせがあるんですよ」

「ほう?」

 

 一応、周囲を確認。

 

「今月末、リカルドのノンタイトル戦がありますよね?」

「あぁ、確か契約ウエイトで……」

「それを見に行くんです」

 

 藤井さんが目を見開き、ヴォルグのいる方に顔を向け、すぐに俺を見た。

 

「決まったのかい!?」

「いや、戦るかどうか、生で見て判断するって感じですね……それ以上は、俺の口からは言えません」

「……こういう時の君は、絶対口を割らないからな。まあ、だからこそ、スポンサーというか、テレビ局がらみなんだってことがわかるんだけど」

「なので、ヴォルグにも聞かないでくださいね」

「わかってるさ……今の情報も、君のサービスなんだろう?」

「何のことです?俺は、ヴォルグとラムダさんが、ちょっと里帰りするのかなって言っただけですよ」

「わかったよ。俺は、君の取材に来た……それだけさ」

 

 ……うむ。

 

 声を潜めて、話しかけた。

 

「あの、藤井さん」

「なんだい?」

「正直なところ、俺と真田さんとの試合、盛り上がってます?」

「……チケットは結構売れてると聞いてるよ」

 

 藤井さんの優しさがツライ。

 というか、『結構売れてる』って表現がもう……盛り上がってないってことじゃないか。

 

 黙りこんだ俺のことをどう思ったのか、藤井さんが少し慌てたように口を開いた。

 

「試合前の予想が、『速水君有利』を越えて、『確勝』ムードになっているからだろうな……俺の周りじゃあ9対1か8対2で、速水君って感じだよ」

「俺が有利っていわれてるのは知ってましたが、そこまで偏ってるんですか?」

 

 藤井さんが、正面から俺を見つめた。

 

「……いいかい。真田は初防衛戦で後藤を9Rで倒して勝ち、和田はトーナメントで後藤を5Rで倒して勝った。どちらも危なげない内容だったが、和田が流して戦っていたのが、君との試合で明らかになったからね。その時点で、真田よりも和田のほうがやや上と見る。速水君は、その和田を5Rで完勝というか、圧勝したと言えるだろう?なら、君のスタミナの不安を入れて、やっと8対2……そういう評価に落ち着くと、俺も思うね」

「……そういう比較論は、あんまり意味がないと思うんですけどね。10Rのタイトルマッチと、6Rや8Rの試合じゃ、条件がぜんぜん違いますし」

 

 ボクシングスタイルの相性、当日のコンディション、作戦、試合条件など。

 優劣ならまだしも、勝敗はそんな単純なものじゃ……と、俺が言っても仕方ないことか。

 

 正直なところ、優劣で語るなら現時点で俺は真田に勝っていると思っている。

 同じ条件で何回も戦ってのトータル勝負なら間違いなく勝ちこせるだろうが、試合はあくまでも一発勝負。

 一発勝負の怖さは、主に情報不足による不確定要素が絡み合って勝負の綾を生み出すところにある。

 

「俺よりも、速水君の方が真田の評価は高そうだな。ビッグマウスを演じているが、君は油断するタイプじゃないし」

「まず、距離の認識力が高いですね。それが緻密なボクシングを可能にしています……が、王者のボクシングを語る上で重要なのは、身体のスペックよりも、ここでしょう」

 

 そう言って、俺は自分の指先でこめかみの辺りを2回突いた。

 

 この前青木さんが弱気になってたから言ったのだが、スペックの優劣なんて『ダメージ』と『疲労』がない状態での比較に過ぎない。

 奇襲でも何でもいい、先にダメージを与えてしまえば……スペックの優劣はすぐにひっくり返る。

 相手を迷わせれば、反応が遅れ……スペックが落ちる。

 スタミナを失えば、足が止まる、判断力が鈍る……そうなれば、当初のスペックの優劣は無意味になる。

 

 つまり、試合の中で1秒か2秒、決定的な状況を作り出せば……ある程度のスペックの差は覆せる。

 10R30分、1800秒の中の1秒か2秒。

 その1秒か2秒が、試合に勝つチャンスを生み、隙を作れば敗北につながる。

 

 俺が思うに、その1秒か2秒を『作り出す能力』が高いからこそ、真田は強い。

 ただ、それを具体的に説明するのが難しい。

 

 俺は、藤井さんの前で、構えを取った。

 

「真田さん、試合でふっと攻撃の手を止めて、相手を観察するように動きを止めることがありますよね」

「うん、良く言えばクレバー、悪く言えば積極性に欠けるとも……」

「そこで、いきなり右の大砲を持ってくるケースがあるでしょう」

「ああ、確かに。そして、そのときに限って、相手がそのパンチをまともに食らうのが不思議なんだが……」

 

 藤井さんが、俺を見た。

 

「……わかるのかい?」

「あれ、相手の瞬きのタイミングを見てるんだと思います」

「えっ?」

「理屈では、人間の視界が完全に失われるわけじゃないですけどね……反応は遅れます」

 

 中心視と周辺視のときに少し触れたが、人の目の網膜の光受容体は、中央に多く、周縁部には少ない。

 簡単にいえば、自分が見ている中心は詳しく、その外側に行くほどぼんやりとした情報になる。

 なので、人間は無意識にその眼球というか視線を動かして情報量を増やし、脳で処理して、『光景』を合成する。

 

 ならば、視線を動かさないように誘導すれば、『情報量』は減る。

 たとえば、相手に自分の左を警戒させる。

 相手の視線をそこに集中させると……眼球運動が減り、結果的に、全体の情報量は減少する。

 

 中心視において、『意識して集中する』と、一時的に瞬きの回数が減る。

 それは眼球の乾燥を招き、高い確率で反動を呼ぶ。

 つまり、時間が経過すると、瞬きの回数が増える。

 連続した瞬きを待ち、そのタイミングで右のパンチを放てば、相手の視界情報の処理の遅れによって、対応が遅れる。

 

 とまあ、これはあくまでも理屈というか、理論上の話だ。

 試行錯誤を重ねるにしても、相手に『今、どう見えた?』と確認したところで、無意識の分野だから意味がない。

 タイミングや視界の角度など、独断と偏見で、自分の技術としていくしかない。

 その上で、相手によって細かい違いはあるはずで……試合の中でそれを探る必要がある。

 

 

「……と、まあ、ほとんどの人間は、これに時間を費やすぐらいならほかの練習をするでしょうね」

 

 推測混じりの説明を終わらせて、藤井さんに視線を向けた。

 

 ……その表情は、困惑、か。

 それでも、理解しようとするだけ、視野と言うか受け皿は広い。

 

 原因がわかれば、対処法を考えることが出来る。

 原因が、理由がわからなければ、人は対処法が考えられない。

 対処法を考え付いても、それが実行可能かどうかは別だが……勝負の上で本当に怖いのは、『相手の強さの理由がわからない』ことだ。

 次に怖いのは、『相手の強さの理由を間違える』こと。

 

 間違った考えでも、方針があれば人は動ける。

 方針が決まらないと、人は動けず、無防備になる。

 

 しかし現実では、『理由がわからない』から軽んじる、甘く見る……そういう人間が少なくない。

 

「医者の卵らしいアプローチだと思いますよ。人間が人間である限り逃れられない身体の反射と言うか、ちょっとしたことを積み重ねて、ボクシングに活かしているんだと」

 

 藤井さんが、ぽつりと呟いた。

 

「評価されるためには……わかりやすさってのも、必要なんだろう、な」

 

 そのまま言葉を続けていく。

 

「俺も、記事を書く際に悩むことがあるよ……良くも悪くも、『月刊ボクシングファン』って雑誌は、ボクシングの『専門誌』なんだ。読み手は基本的に、ボクシングに興味を持ち、一定の知識を持っている」

「……記事内容の、幅ってヤツですか?」

「ああ、そうさ。入門者用から、ディープなファンまで……トレーニングの仕方も含めてだが、必ず『こんなレベルの記事は不要だ』っていうお叱りの言葉を、一定数いただく羽目になるんだ」

「……全員を満足させるのは困難ですよね」

「……ボクシングの試合もそうなんだが」

 

 珍しく、藤井さんがファイティングポーズをとった。

 

「ごく稀に、その場にいる全員が熱狂するような試合に出会うことがある……その熱狂を、文字で、写真で読者に伝えたいと思う。しかし、文字にした瞬間、写真にした瞬間……その熱狂が、自分の指の隙間からすり抜けていく……あれが、悔しくてね」

 

 藤井さんの、熱を感じた。

 

 色んな見方があるだろうが、この人はボクシングが大好きなんだろう。

 たぶん、俺よりも純粋に。

 

「でも、藤井さん」

「ん?」

「俺たちボクサーが『いい試合』をするための努力をするなら、藤井さんたちは『いい記事』を書く努力をすべきですよね?」

 

 にっこりと笑って、言葉を続ける。

 

「『ボクサーの仕事じゃないぜ』って言われたこと、俺は忘れてませんからね」

「……結構根に持つんだな、速水君は」

 

 困ったように頭をかく藤井さんに代わって、俺は軽くステップを踏みながら、シャドーボクシングを始める。

 

「『いい試合』とか『いい記事』を定義するのは難しいですが、野球の世界では、『試合が壊れる』っていう言葉がありますよ」

 

 ピンと張り詰めた空気が、球場を支配している……一体感とも言いがたい、なんともいえない感覚。

 それは、接戦に限らず、大差がついていても起こりうる。

 そして、上手く言葉には出来ないが、『あ、今何かが切れた』とわかってしまう経験をした人間は多い。

 

 投手の失投。

 不用意なエラー。

 審判のミス。

 控えの選手が、ボールを受け損なって試合を中断させる。

 観客のピントはずれの応援や、携帯電話の着信音。

 球場の外から聞こえてきた、パトカーのサイレン。

 

 選手の、審判の、あるいは観客の集中力が、何かのきっかけでよそを向く。

 なんでもないことのはずなのに、その試合においてそういう感覚は戻ってこないのだ。

 

「いい試合には、いい対戦相手がいて、いい審判がいて、いい観客がいて、試合に関わるいいスタッフがいて、試合が終わった後の、いい記事が必要で……」

 

 一旦言葉を切り、俺は動きを止めた。

 

「……ってのは、さすがに欲張りすぎですかね?」

「それは……完璧主義にもほどがあるだろう」

「です、ね……」

 

 笑って、終わりにする。

 

 人間が考えること、信じることは、ひとりひとり違うものだ。

 むしろ違っていることが、正しい。

 

 ただ、あれは……『完璧』というのとは少し違う気がする。

 盛り上がるとか、熱狂とも違う……たぶん、ボクシングで言う『いい試合』とは別のものなんだろう。

 そして、前世でも一時流行った『ゾーン』と呼ばれるものとも違う。

 

 

 まあ、それはそれとして。

 

 A級トーナメントの決勝で、俺は和田の右フックを何発か無防備にもらった。

 同じ右フックなのに、防いだり避けたりすることの出来た右フックと、『反応できなかった』右フックとの違い。

 

 俺の姿勢。

 視線の方向。

 右フックの角度。

 タイミング。

 

 俺のディフェンス力が評判になりつつあるからこそ、真田は徹底的に分析しただろうな。

 大人と子供ほどに差があるならともかく、俺と真田との差なら、いくらでもやりようはある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 午後の2時半を過ぎて、人が集まりだした。

 ざっと見た感じ……記者連中はヴォルグの時の半分ぐらいか。

 というか、記者じゃない関係者がそこそこ集まっている。

 

 

 

 ……音羽会長、帰ってこないんですけど。

 

 まあ、時間が来ればやるしかない。

 トレーナーの村山さんと俺とで、記者連中に声をかけていく。

 

 冴木と2R。

 そして、木村さんとも2R。

 

 木村さんから『始まってすぐに倒されたらまずくないか?』と言われ、冴木が『じゃあ、俺も混ぜろ』と……なので、相手を2人用意した形になった。

 

 しかし、木村さんの付き添いは篠田さんか。

 音羽会長が迎えに行った『誰か』を考えると、鴨川会長でなくて良かったのかもしれない。

 

 さて、と。

 切り替えるか。

 

「よっし、やろうぜ、速水」

「そうですね」

 

 冴木の言葉に頷き、リングに上がり……中央で向かい合う。

 

 

 手を合わせ、離れた。

 

 周囲を回りだす冴木。

 それを見る俺。

 

 呼吸。

 気配。

 ふくらはぎの緊張。

 

 空気が、動く。

 

 冴木の、遠距離のジャブ。

 そのまま踏み込んできた。

 至近距離。

 そこで、ジャブの連打がくる。

 

 速いが、軽い。

 両手でさばいていく。

 

 連打の速度がわずかに緩む。

 そのひとつを選んで、大きくはじいた。

 

 冴木の顔面に向かう、俺の右。

 当たる寸前に、顔が遠ざかっていった。

 

 バックステップの速度。

 俺のフットワークが、冴木のそれに一歩譲る部分。

 重心の位置をほとんど動かさず、蹴り脚がそのまま身体を動かすような一体感。

 あれを真似するのは難しい。

 真似をしても、俺にとっては失うものの方が大きい。

 

 息を吐き、俺は一歩前に出る。

 

 細かいステップ。

 速度は鈍るが、ワンステップで進むところを、ツーステップで進む。

 冴木の動きは速い。

 動きは大きくなりがちだ。

 反応速度を逆手にとって、一度動かしてから、選択肢を削ってやる。

 

 しかし今、冴木は動かず、俺をじっと見ている。

 

 

 スパーリングの回数を重ねるうちに、少し冴木のボクシングが変わってきた。

 俺の基礎能力がそれほど変化していないのに、以前よりも軽くあしらわれるようになったのは理由があると思ったのだろう。

 わずかなフォームの変化を見抜いたように、俺を観察し始めた。

 俺が、伊達英二とヴォルグから学んだように、冴木もまた、俺から何かを学びだした。

 

 俺も、冴木も、速度と反射神経で相手に対応してきたところがある。

 それで『避けられた』から。

 しかし、速く動けば、止まるのにも力が要る。

 

 俺のボクシングを変化させたきっかけは、次の3つ。

 

 フェザーからジュニアフェザーに階級を変えたことで減量に失敗し、体力の消耗を抑える動きを考え始めたこと。

 ヴォルグのスパー相手を務めたこと。

 そして、ラムダの助言。

 

 相手のレベルが上がれば、ジャブが届くかどうかの距離で、アッパーや、フックを打ってくることはない。

 フェイントや牽制はともかく、基本的に、相手に届く距離で、有効的な種類のパンチを放つ。

 肩が触れ合うような接近状態なら、フルスイングの右ストレートを打つより、フックやアッパーなどの、近距離用の攻撃をするだろう。

 

 つまり、距離で相手の攻撃の選択肢を減らせる。

 

 相手の正面ではなく、右に立つ、左に立つ。

 位置取りでも、相手の攻撃の選択肢を減らせる。

 

 相手の攻撃の選択肢を減らせば、こちらは限定的な予測が可能になる。

 予測ができれば、小さな動きで避けられる。

 結果、無駄な動きが減っていく。

 

 言葉にするのは簡単だが、それを実行するのは難しい。

 相手のレベルが高ければなおさらだ。

 

 以前、ラムダが助言してくれたこと。

 

『相手の姿をイメージするだけでなく、相手の目に映る自分の姿をイメージする』

 

 相手の動きの予測。

 どちらが先手を取るかにもよるが、相手の動きは、俺の動きによってもたらされる。

 だからこそ、相手の視界をイメージする。

 

『俺の動きが、相手にとってどう見えて、どういう反応をするか、どういう対処をしようとするかをイメージする』

 

 誘導とか、先読みなどの難しい言葉を使う必要はない。

 一言で言える。

 

 コミュニケーションのレベルを上げろってことだ。

 

 誰かと話をする。

 相手の言葉に、行為に自分が何を思うか……それはただ、反応しているだけだ。

 

 自分の視線が、表情が、口調が、言葉が、身振りが、態度が……相手にどう受け取られるか。

 相手の対応を予測して、その上で動く。

 友好的に、あるいは敵対的に。

 

 

 反射神経や速度というスペックが優れていたから、ボクサーとしてのコミュニケーションのレベルが低かった。

 

 俺は、ラムダの助言をそう解釈している。

 まだまだラムダが思う水準には届いていないだろうけどな。

 

 ボクサーの、スポーツ選手の試合におけるコミュニケーションは、『相手を正しく理解』し、自分を『間違って』理解させることに尽きると思う。

 

 ……千堂あたりからは異論が出るかもしれないが。

 

 

 

 動かない冴木を見る。

 自分から動きたいタイプなのに、よく我慢している。

 

 俺は、わずかに左拳を動かした。

 冴木の視線が動く瞬間。

 踏み込む。

 

 冴木の、わずかな遅れ。

 伸びてくる左。

 俺の右に回ろうとする動き。

 

 その全てが想定内に収まった。

 冴木の腹を、右のボディフックで捕らえる。

 

 あえて一呼吸待ち、冴木に選択肢を与えた。

 

 冴木が跳び退くのと同時に踏み込む。

 また右のボディフック。

 冴木の重心が、後ろ足にかかっている。

 そのまま冴木の腹を押して、棒立ちにさせた。

 

 動きを限定させる。

 後は、タイミング。

 

 回避と踏み込みが、ほぼ同時。

 また、右でボディを狙う。

 

 反応された。

 冴木の右。

 相打ち狙い。

 

 ガードしながら、右。

 

 浅い。

 逃げられる。

 

 踏み込んで、ボディストレート……は届かなかった。

 

 冴木の表情が、緊張感に包まれる。

 足のステップ。

 たぶん、冴木は今何かを試そうとしている。

 生みの苦しみ。

 試行錯誤。

 

 おそらく、傍目には冴木の調子が悪いと思われているだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 俺に腹をしこたま殴られて、2Rの途中で冴木が両手を上げた。

 

「すまん、ここまでだ速水」

「……はい」

「というか、何で全部ボディなんだよ……」

「だって冴木さん、顔を意識してたじゃないですか」

「まあ、そうだけどよ……」

 

 冴木がリングから下り、木村さんと交代……。

 

 俺の視線が止まる。

 目が合う。

 

 音羽会長。

 その隣に立つ老人。

 

 頭にニットの茶色い帽子、下は洗いざらしのジーンズ、上は灰色のトレーナー、そしてジャケットというか、くすんだ緑色のジャンパーを羽織っている。

 色彩はともかく、老人としては、いささかカジュアルな感じが強い。

 帽子とあごひげによって顔の半分以上が隠れているが、あごひげの白さとは対照的に、肌は浅黒い。

 

 日本人と言われても、ちょっと首を傾げてしまいそうな感じだが……うん。

 ただ、『知っている』のは不自然だから、そこは気をつけようか。

 

 手招きされた。

 素直に近づく。

 

「……なんでしょうか?」

「ヌシの攻撃には、テーマがないの」

 

 聞き慣れない単語。

 つい、聞き返す。

 

「テーマ、ですか?」

「ワン・ツー・スリーの3連打で1セットの攻撃を意識してみるがいい。ただし、『ツー』を相手に避けさせた上で、『スリー』を必ず当てるという制限つきでな」

「……当てない、ではなく、避けさせる?」

 

 小さく頷かれる。

 

 ……これ、公開スパーリングなんだよなあ。

 

 でもまあ、いいか。

 

 3連打。

 そして、2発目を避けさせる、か。

 

 ……避けさせる、ねぇ。

 

 和田との試合でやった、右ボディ、左アッパー、右フック……が、それに相当するのか。

 しかし、あれは和田が俺のアッパーを警戒していたから、避けさせることで身体を起こし、アゴをピンポイントで狙って……。

 

 ん?

 それが『テーマ』ってことか?

 

 要するに、当たるから攻撃してるだけって言われてるわけか。

 いや、当てるまでじゃなく、当ててからの工夫がないってことか?

 

「……おい、速水」

「あ、すみません、木村さん。やりましょう」

 

 とはいえ……。

 

 と。

 

 木村さんのジャブを受け止め、気持ちを切り替える。

 

 

 ……切り替えたつもりだったが、1Rはグダグダになった。

 集中できていない。

 記者連中が騒がしいが、インターバルの1分を使って、考えをまとめていく。

 

 ワン・ツー・スリーの3連打は、コンビネーションとして流れが出来ている。

 たとえば、左ジャブ、右ストレート、左アッパーのコンビネーションは、右ストレートをかいくぐって懐に飛び込んできた相手を迎撃して身体を起こすことを想定したものだ。

 しかし、ツーの右ストレートをガードされたり、後ろに下がることで避けられたら、スリーの左アッパーは宙に浮いてしまう。

 

 ツーを避けさせて、スリーを必ず当てるということは……スリーを当てる位置に、相手を誘導しなきゃいけないってことになる。

 たぶん、それが『テーマ』ってことなんだろう。

 攻撃の狙いであり、目標。

 一連の攻撃に区切りをつけるための……それをきちんと当てるための、流れ。

 

 ふむ。

 木村さんは、ヤバイと感じたら一旦距離をとって落ち着こうとするタイプ。

 つまり、『ツー』をストレート系にすると、後ろに退く選択肢を選ぶ確率が高くなる……。

 避けさせるにしても、後ろに退く余裕を与えずに選択させる?

 

 ……『避けさせる』だから、ガードもありか。

 

 基本のワン・ツーで、ツーの右をガードさせて、踏み込んでボディ。

 いや、踏み込むと連打と判断されないか。

 なら、中距離じゃなく近距離からのワン・ツーで、ガードさせてボディにもっていく。

 

 ここからやってみるか。

 

 

 2Rの始めはともかく、半ばから形が出来始めた。

 というか、俺の攻撃が3連打で一旦途切れると、木村さんが認識したので、誘導しやすくなった。

 

 冴木と同じく、顔面への攻撃を警戒しているので、『スリー』をボディにもっていくとほぼ無警戒。

 2度、3度と続いたところで、木村さんの意識がボディへと向いたのを感じた。

 

 あえて、『ツー』を大振りにする。

 

 木村さんのヘッドスリップ。

 その避けた先に、左フックを置く感じで……。

 

 木村さんが大きくぐらついたところで、2Rが終わった。

 

 左拳に残る感触。

 半分、向こうからぶつかってきた感じだけど、そういうカウンターも、ありか。

 

 自分の攻撃を、相手に避けさせて誘導する。

 

 相手の目に見える、自分の攻撃。

 何が出来るか、どう反応できるか。

 そして、どう対処させるか。

 

 ああ、これって……ラムダの助言と同じことを言われてるんだな。

 

 ふっと、リングの外に視線を向けたら、なにやらラムダと熱心に話し込んでいた。

 

 ……。

 

 ちょっとイラッとしたが、とりあえず取材を受けよう。

 この後真田の公開練習も控えているし、サクサク終わらせて、俺は俺で練習を再開したい。

 

 でも、まあ……盛り上がっていないなら、燃料を投下するしかないよな。

 

『真田さんは俺なんかより才能あると思いますよ』

『帝大医学部を目指しても入学できる者はごくわずか』

『ボクサーで、日本王者になれる者はごくわずか』

『文武両道といえば格好いいですけど、片方に集中すれば、どこまでいけるんですかね?』

 

 などと話をつなげて、にこりと笑いながら。

 

『もったいないから、このタイトルマッチの結果で、片方に集中してもらおうと思ってますよ』

 

 一瞬遅れて、記者連中が沸いた。

 

「速水君、それって……真田を、引退させるってことかい?」

「え?ひとまず、ボクシングに専念する選択だってあるじゃないですか?」

 

 俺はやんわりと否定しておく。

 こういうのは、いきなり過激な発言をしても上滑りする。

 誤解やすれ違いも含めて、少しずつエキサイトしていくのが、周囲にとっては楽しく思えるからな。

 

 この後、真田の公開練習に移動した記者連中は、俺の発言を真田に投げかけるだろう。

 そして真田が、笑顔を崩さず、少しだけ毒をにじませてコメントするだろう。

 

 ……真田なら、やってくれるはずだ。

 真田は宮田とは違うと、俺は信じている。

 

 スポーツ紙の記事になれば良し。

 その上で、前日計量で両者が顔を合わせる、と。

 

 うまくいけば、周囲が勝手に盛り上げてくれる。

 

 ……藤井さんが、なぜか疑いの視線を俺に向けている。(目逸らし)

 

 

 

 

 取材を終え、記者連中は真田の公開練習に向けて移動を始める。

 俺は、木村さんと冴木に礼を言ってから、練習を再開。

 そして、会長たちは、ラムダやヴォルグも含めて会長室へ。

 

 気にならないと言えば嘘になるが、練習に打ち込む。

 

 

 

 

 一息つき、ちらりと時計を見る。

 夕方の6時を過ぎていた。

 木下ジムでは、真田の公開練習が始まっているだろう。

 

 夜に向けて、休憩と栄養補給……のタイミングで、音羽会長に呼ばれた。

 

 会長室には、会長と、ヴォルグとラムダの2人。

 そして……まだ名前を教えてもらってないから、どう呼べばいいのかわからない老人が1人。

 

「ヌシは……」

 

 老人が口を開く。

 

「見知らぬ人間の言葉を鵜呑みにして、タイトルマッチ前の公開スパーを棒に振るとは考えなかったのかな?」

 

 表情と口調に、どこか揶揄するような気配がある。

 ヴォルグは下を向いていて、ラムダは、日本語がわからないはずなのに微笑を浮かべているだけだ。

 そして、会長はそっぽを向いている。

 たぶん、言い含められている、か。

 

 ……どう答えるのが正解なのかね。

 あるいは、正解なんてものはない、か。

 




一体、何者なんだ……。

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