なので、決してリアルそのままではありません。
というか、作品の時代は1992年前後の想定だから約30年前で、謎の老人が語っているのは70~80年代の事情なので、さらに昔です。
ただ……細かい部分は、調べようがなかったので今後の展開の都合の良い感じにしてます。
える、知っているか?
アメリカのハワイ州は、東洋太平洋の管轄なんだぜ。(なので、有力選手はアメリカの本土へ行く)
老人の目を見つめ、俺は静かに答えた。
「器が足りない分は、入り口を広げることで補おうと思ってます」
「……ほう」
やや回りくどい表現で『人のアドバイスは大事にしますよ』と答えてみたものの、可もなく不可もなくって反応だな。
それでも、考え無しの馬鹿は相手にしたくないって気配は感じる。
「人の話を聞いて、自分で試して、ダメだったら、それがダメってわかる分、無駄なことでもないかなと」
「時間は、無駄ではないのかの?」
「自分ひとりで考えて工夫する方が、よっぽど時間がかかりますよ……少なくとも、ヒントなり、何かの糸口程度のものは、他人に任せたいですね。大事なのは、そこから自分のものにするまでの過程ですし」
老人の、目尻のしわが深くなった。
なんとなく理解した。
たぶん、ちょっと面倒くさい感じの人だと思う。
なんせ、表情の変化を『わざと』見せてる。
老人が、俺に見せるようにため息をつき……呟くように言った。
『……英語が話せると聞いたが?』
『時々怪しくなりますが、日常会話程度なら。あ、メキシコってスペイン語ですよね?それはわかりません』
『……ふむ。ワシの知る日本人ボクサーとは、随分と毛色が違うな』
……先に、礼を言っておくか。
『間違いで無ければ、御礼を言わせてください』
『何の、かな?』
『俺がデビュー2戦目に戦ったメキシコ人のボクサーを呼ぶのに、力を貸してくれたと聞きました』
老人が、じっと俺を見つめる。
『……彼は、どうだったかね?』
『俺の知らないボクシングをしていて、ワクワクしましたね。あとは、左を一発綺麗にもらいました』
それを聞いて、わずかに老人の目が開く。
『左を一発……それだけか?』
『ええ。アマ時代は、ほぼパンチをもらったことが無かったので』
『ふむ……』
老人が少し目を伏せた。
息を吐く。
『……ヌシに負けた後、彼がどうなったか話しておこうか』
『?』
老人が、ラムダとヴォルグに視線を向けた。
『ちょうどいい機会でもあるし、メキシコのボクシング事情というか、背景について説明するとしよう』
『それはありがたいね』
微笑を浮かべたままラムダが軽く受け、ヴォルグが顔を上げた。
『ごめんね、リュウ。しばらく黙ってろと言われたから』
『いいよ。すぐわかったから』
老人が、メキシコのボクシング事情を語り始める。
ボクシングは、『貧者のスポーツ』とも呼ばれる。
その地域の経済事情が、ボクシングの競技人口に大きく反映されることが多い。
1970年代のはじめに起こった石油ショック。
石油資源のあるメキシコでは、それを契機に経済成長が始まった。
開発や工場誘致も含めて、金利の安いアメリカから、金利の高いメキシコへと資金が流れ込み、好景気が続く。
その中で、金持ちが生まれ、しかし貧しいままの者もいて……それでもやはり、この時期、メキシコのボクシング人口は減少へと向かった。
しかし、アメリカの金利引き上げ政策が開始されると、状況は一変。
これにより、資金の流れが逆流して景気が後退し……メキシコは膨れ上がった対外債務の利子払いができなくなり、80年代に入って一度破綻した。
ここからの経済立て直しの是非を判断するのは難しいが、結果として金持ちはより金持ちになり、貧しいものはより貧しくなったと言われている。
ここからまた、メキシコのボクシング人口は増加へと向かった……。
前世の、バブル経済以後の雰囲気というか気配というか……確かにカオスだった記憶がある。
あれと同じで、生まれた時から貧しいのと、貧しくなっていく過程を知っているのとでは、全然違ってくるのだろう。
上昇を味わったからこそ、全てが失われ、奪われていくような感覚は強烈であるに違いない。
道徳や社会通念、誇りといったものは、大人から子供へと……言葉に出来ない、気配や空気のように伝わっていくものが多い。
急激な変化は、それを破壊する。
ふと、思う。
そんな中での、英雄リカルド・マルチネスか、と。
80年代の半ばに、リカルドは世界王者になった。
原作では 自分の試合に子供たちを招待して『子供たちよ、誇りを忘れないで欲しい』とか言ったんだったか……背景を考えると、かなり重いセリフだ。
リカルドの年齢を考えると、生まれたのが60年代の半ばぐらい……子供時代に国全体が上昇気流に乗って、少年から青年期にかけての多感な時期に、色んなものが壊れていくのを見つめてきた世代になる。
考えすぎかもしれないが、子供たちに向かって『誇りを忘れないで欲しい』などと発言するからには、『誇りが奪われていく』あるいは『誇りを失う、忘れていく』光景を嫌になるほど見てきた、見せ付けられてきたと考えるほうが自然だ。
試合のほとんどをメキシコでやるのも、挑戦者に戦う価値を求めるのも……自分の国の子供たちに誇りを見せるためと考えれば、納得はいく。
無論、それが全てではないにしても……そういう部分があってもおかしくはない。
ただ、英雄であり、希望でもあるんだろうが……残酷な希望だよな、きっと。
『0』ではないというだけの希望の道。
いや、『誇り』とは本来そういうものか。
……まあ、これはあくまでも原作の話であって、この世界ではどうなのかはわからない。
とはいえ、メキシコの社会情勢というか背景が、ボクシング強者を生み出す理由のひとつなのは間違いない。
日本の男の子が、自分の意思で、あるいは周囲の意思によって、野球のバットとグローブを手に取るのに対し、メキシコでは、多くの男の子たちが、ボクシングのグローブを手に取らざるを得ない。
自分の身体だけが財産という状況なら……そうなる。
日本人は意外に思うだろうが、メキシコにはプロボクサーのライセンスがない。
いや、ないというと語弊があるんだが、プロの定義と言うか、概念が違うと言った方がいいのか。
これは、日本ではおなじみのタイも、メキシコと同じだ。
極端な話、プロモーターと契約さえ出来れば試合に出られる。
日本人が反射的に考える『プロボクサー』の概念と、海外における『職業がボクサー』、あるいは『ボクシングで金を稼ぐ』という概念の間には、大きな溝がある。
まあ、日本人で『プロライセンス』ではなく『職業』がボクサーといえる人間はそれほどいない。
バイトで年に150~200万を稼ぐことは不可能ではないが、ボクシングで年にそれだけ稼ぐのは、本当に数えるほどだろう。
ちなみに、去年の俺は『ボクシング』ではそれだけ稼げていない。
去年、全日本新人王戦の千堂に始まり、A級トーナメント決勝の和田との試合まで、5試合戦った。
新人王のMVPの賞金と、トーナメントの賞金の合計額の方が、5試合のファイトマネーより多い。
A級トーナメント優勝の賞金50万円が、ボクサーにとって大金であることがわかるだろう。
日本の一般人の考える『プロスポーツ選手』の概念は、良くも悪くも『普通に働くより大金を稼いでいる選手』というイメージだろうか。
だとすると、俺は『プロスポーツ選手になろうとしている人間』に過ぎず、『プロライセンス』は、日本のコミッションが許可する試合に出場する資格でしかない。
……自分で言ってて、泣きそう。
日本のジム制度に対し、海外では基本的にマネージャー制度なので、背景が違う。
なので、システムが違ってくるのも当然だ。
プロモーター、ジム(練習場)、マネージャー、選手の4つに分けると、日本のジムは前者3つが融合したようなイメージで、そこに選手が入門するという形式を取る。
もちろん、プロモーターライセンスを持っていないジムもあるというか、そっちの方が数が多かったりする。
そのジムは、自主興行ができず、他のジムの興行に所属のプロボクサーを参加させることになる。
さて、これが海外(地域によっても違うが)だと、4つはバラバラだ。
選手(トレーナー)と練習場が契約、そしてマネージャーと契約、最後にプロモーターと契約して試合を行う。
この関係は、日本に比べるとかなり流動的で、条件がいい話が出ると、別の存在と契約するのが普通。
もちろん、トレーナー無し、マネージャー無しで、選手個人でプロモーターと交渉するのも、できなくはない。
海外のジムは練習場でしかないが、そこには多くの人間が出入りする。
プロ、アマ、練習生、フィットネス目的……そして、プロモーターが訪れるようなジムも存在するからだ。
そこでがんばれば、可能性がないとは言えない。
世界基準でいえば、日本のあり方が特殊といえる……とはいえ、フィリピンの一部では日本のジム制度に近いところもなくはない。
もちろん、海外といってもメキシコとタイは違うし、同じ国でも形態が違ったりするので、大まかなイメージでしか説明できない。
日本とは違うと、それだけ理解していればいい。
ちなみに、アジアでは国内にコミッションが存在する国のほうが少なく、国内のランキングや王者の認定を、東洋太平洋ボクシング団体がやっている状態。
つまり、それらの国では最初からプロボクサーライセンスなど管理のしようがないし、日本のようなプロテストなんて不可能だといえる。
日本と違って、言語が違ったりするのは当たり前で、統一した規格による管理など、どれだけの手間がかかるか想像するだけでも面倒だ。
日本の管理システムの特殊さは、日本という国の特殊さから来ていると考えるのが無難だろう。
メキシコに話を戻すが……ライセンスがなくとも、プロボクサーはいる。
職業というより、ボクシングで金を稼ぐ人間。
もちろん、それだけで食っている人間は、日本と同じでごくわずか。
なら、ボクシングをやる上で、日本のプロのライセンスって何なのって話になる。
これは、さっき述べたとおり、日本のコミッションが許可を与えた興行に参加する資格だ。
現状、日本のコミッションが認めている世界ボクシング団体はWBAとWBCの2つ。
WBOやIBFは認めていないし、日本のプロボクサーがそれに挑戦することも許可しない。
前世で、それらがまだ認められていない時期に、これに挑戦するため、結局はコミッションに引退届を提出したボクサーもいた。
まあ、コミッションとしては……ルールを守らせるのが仕事なので、それに沿って許可を与えるし、認めていない団体の試合に参加させるわけにはいかないのも理解は出来る。
ただ、引退届けを提出し、ライセンスを返上してタイトルマッチに挑戦したということは、日本のプロボクサーライセンスの有無は、海外で試合を行う場合、何の意味もないということがわかるだろう。
事実、プロモーターと契約し、現地の基準……健康診断などを満たせば、日本のライセンスなど必要ない。
だからといって……俺が日本を飛び出して、海外のプロモーターとすんなり契約が出来るかといわれたら、答えはノーだろう。
実力の問題ではなく、契約であり、システムであり、人のしがらみの問題だ。
ここで、『記録に残さない』試合ではなく、『記録に残らない』試合を考えてみよう。
興行主が、コミッションに金を払って興行の許可をもらうから、その試合は『正式なもの』とされ、そのコミッションの公式試合としての記録が残る。
では、コミッションの許可が下りない、あるいは許可をもらわずに興行を行ったらどうなるか?
会場を借りる、宣伝もする、ボクサー、レフェリー、ジャッジを集めて、客を呼ぶ。
会場が、どこかの空き地でも、学校の体育館でも、規模と見栄えが違うだけで、本質は変わらない。
この興行、ボクシングを見にきた客にとっては、許可の有無は何の影響もない。
プロモーターも、大事なのは収支。
そしてボクサーは……試合をして、ファイトマネーをもらう。
一見、普通の興行と何も変わらない。
ただ、試合の記録が残らないだけだ。
もちろん、日本でこれをやろうとすると、参加したボクサーはコミッションから処分される。
日本のプロボクサーは、他の格闘技の興行試合への参加は認められないし、演劇などでもコミッションに許可をもらわないと参加できない。
これは、プロモーターも同様で、ボクシング以外の興行をするのは……まず許可がおりない。
そのあたりの事情は、ちょっと霧の深い闇の話になるので省略するが、無許可でボクシング興行を行った興行主も、たぶん無事ではすまない可能性が高い。
あと、アメリカだと政府管理下のアスレティックコミッション(プロレスなども含む徒手格闘技系の興行管理組織)の管轄になり、法律的に処罰の対象になるから、興行としては無理。
じゃあ、これが問題にならないか……あるいは、バレない地域はどうなるか?
日本でも、興行の資格やら許可やら、書類提出云々……そんなことを全然知らない人間の方が多い。
なので、海外では、これが何の問題にもならないし、調べようがない地域は当然存在する。
ギャンブルの対象としてボクシングの試合をさせるという形態も……当然ある。
ボクサーは、試合をして、ファイトマネーをもらうだけだから、違いはない。
繰り返すが、試合の記録が公式に残らないだけだ。
前世の21世紀以降とは状況が違うし、70年代に比べると数が減ったとはいえ、メキシコではこういう公式に記録に残らない試合がたくさんある。
金額の多寡はあれど、この試合に出た選手はファイトマネーを手に入れる。
金を稼ぐという意味ではこの時点でプロボクサーだが、国際ボクシング団体に連なる下部組織も含めたコミッションに認可されているわけではないので、この試合の記録は残らない。
そういう試合を見て、あるいは噂を聞いて、プロモーターがこれはと思う選手と契約し、日本で言うところのコミッションの許可を取った興行に参加させて試合を行うと……公式記録が残る。
たぶん『記録が残る試合』と『記録が残らない試合』の区別を考えていないボクサーもいるだろう。
こういうボクサーに『戦績』を聞いて『60試合ぐらい戦ったかな?負けたのは、5~6試合だったと思う』などと返ってきたとしても、『記録に残っている試合』は全然別物になる。
日本の一般人の感覚でいうなら、公式記録が残っているボクサーが『プロ』で、記録の残らない試合はアマ活動という認識になるかもしれない。
しかし、メキシコにおいて『2戦2勝』の公式記録を持つボクサーは、『記録に残らない』キャリアが見えてこない。
見えないキャリアがその10倍以上あるとしても、日本人にはわからない。
ただ、公式記録が残っている時点で、少なくとも、ボクサーたちの集団から、マネージャー、あるいはプロモーターに見出された存在だ。
なので、『2戦2敗』という戦績のボクサーを、『海外からかませ犬を連れてきた』と判断するのは危うい。
もちろん、そういう『出稼ぎ専門』のボクサーもいるのは否定はできない。
金を稼ぐのが目的なら、勝つか負けるか、金になるほうを選ぶのは自然ともいえる。
プロモーターの目的は興行の成功なので、その目的に沿ったボクサーを探して契約するが、基本的には『強い』ボクサーほど、見出される可能性は高いのは間違いない。
だから……メキシコの『プロ』ボクサーのレベルは、高い。
実際のボクシングのピラミッドの上位部分が凝縮されているといえるだろうから。
よく耳にする『日本王者クラスが、メキシコでは6回戦程度』という言葉は……そもそも、日本の背景とメキシコの背景が別物であるという前提が抜けている。
日本のプロボクサーは4回戦からデビューするが、メキシコのボクサーは4回戦に公式デビューする前、少年時代からキャリアを積み重ねてきているから、同じ4回戦、6回戦で比較するのは意味がない。
無理やり日本でイメージすれば、野球の規模でアマチュアボクシングが行われていて、そこで結果を残した人間だけが、プロという『公式記録が残る』ステージでデビューする感じだろうか。
もちろん、本気で図抜けた存在は最初から、あるいはすぐに公式試合デビューをする。
しかし、多くの子供はジムにも通えず、試合をのぞき見て、ボクサーの真似をして……『俺も試合に出してくれ』と頼み込み、わずかなファイトマネーをつかもうとするところからスタートだ。
当然、記録に残らない試合にも、格の上下みたいなものはある。
最底辺は、ギャンブルの対象としての、喧嘩の延長戦上……だろう。
ボクシング人口の多さによる全体のレベルアップがメキシコという国の背景だとすれば、公式デビューにいたるまでの道のりが、強者と弱者を篩い分けるシステムといえる。
『……まあ、メキシコのボクシングを支える事情はこんなとこじゃよ』
そう言って、老人が一旦口を閉じる。
『……メキシコの、アマチュアボクシングはどうなっているんですか?』
ヴォルグの質問が飛ぶ。
『……基本的に、裕福な人間がそれをやる。いや、生活に余裕のない人間には出来ないとも言える。金持ちに支援されて、それをやる人間がいなくもないが、な』
日本でも、大会に出るためには、ボクシング用具はともかく、選手登録料、大会参加費、旅費に宿泊費など……全国大会にいけば、優勝するまで1週間の宿泊料金が必要になる。
学校が負担してくれるケースもあるが、そのレベルになるまでは自腹だ。
試合に出ても金が手に入るわけでもなく、費用ばかりかかる。
同じ戦うなら、わずかでも金が手に入るほうを選ぶか。
アマチュアで結果を残してプロデビューというのは、恵まれたものに許される道なんだろう。
……ふむ。
俺は、老人の目を見て問いかけた。
『それで、俺と戦ったボクサーがどうなったか……と言う話は?』
『……誤解はしないで欲しいが、メキシコ人のボクシング関係者の多くは、メキシコ人を通じて情報を得る』
『?』
『強いメキシコ人ボクサーの相手から、日本人を見なくなった。しかも、メキシコ人ボクサーとの対戦の話があっても避ける……だから、彼らはこう思う。日本人は、ボクシングが弱いし、勇敢でもない、と』
70年代までは、日本人も敵地で挑戦とか、ノンタイトル戦とかやっていた。
以前は日本人の名前を聞いていたのに、それを聞かなくなったら……そういう解釈もあるか。
『……伊達英二は、勇敢なボクサーだったと評価されておるよ。ただ、かの地において、伊達英二は例外扱いじゃな』
老人が、深く息を吐く。
『1人だけでは、個人としてしか評価されん。日本人ボクサーが、何人も、続けて……その勇姿を見せ付けねば、日本人の評価は変わらん。あるいは……ただ1人のボクサーが、強烈な印象を植え付けることが出来れば、もしかするやもしれんの』
まあ、早い話……昔はともかく、今の日本人ボクサーはメキシコでは評価されていない、と。
……あぁ、つまり『弱い』日本人に負けて戻ってきたボクサーが、どういう扱いを受けるかってことか。
メキシコでは、プロモーターが選手を見出して契約するわけだから……。
『俺に負けて、干されましたか?』
『うむ。契約を切られた』
そう言って老人が目を閉じ……また開いた。
俺を見る。
『正直、ワシも彼が負けて戻ってくるとは思っていなかったよ』
『ちょっ!?』
音羽会長が、腰を浮かした。
『俺、言いましたよね?説明しましたよね?大事な金の卵だって!ちょうど良さそうな相手をお願いしますって、頼みましたよね!?』
『うむ』
老人が、目を細めて笑った。
『新人王戦の参加資格である1勝はすでにクリアしていると聞いたからの。アマで無敗のエリート。早いうちに負けを教えてやるための、強すぎない、ちょうどいい相手を紹介したつもりだったよ』
『だからですか!?だからあんなっ……勝ったからいいものの、俺がどれだけ肝を冷やしたと思ってるんです!』
会長と老人の言い合いを、ヴォルグは少し慌てたように俺を見て、ラムダは微笑みを浮かべて傍観している。
会長と老人……両者の言い分はわかる。
老人のそれは、多少皮肉っぽい悪意が混ざってはいるが、いわゆる俺を成長させてやろうという親切だ。
そして会長のそれも、うん。
ただ、あの試合で俺が負けてたら……スポンサーとか、テレビ局の予定がぶち壊しだったんだよな。
会長、そのあたりは説明したんだろうか?
まあ、結局は壊れたから関係ないが。
すれ違いって怖い。
俺としては、本気で『ちょうどいい』調整相手だったんだけど。
まあ、話が進まないし……止めるか。
『まあまあ会長、ここは結果オーライってことで』
『いや、速水。こういうのはきちんと言っておかないと、この人はまた同じことをやる』
『本人がいいと言っているぞ、
『……俺はもう、40を過ぎたんですよ。その呼び方は、勘弁してくださいよ、本気で……』
……和坊って、会長のことか。
まあ、子ども扱いされた時点で、勝ち目はないよな、こういう時って。
とりあえず、流れを変えてあげるとするか。
『……ところで、干されて話はおしまいなんですか?』
『……いや、続きは、ある』
屈辱をバネにしての復活か?
メキシコの地で、俺を倒すために牙を研いでいるとかなら、燃える展開だが。
『干されていた彼に、1年ほど過ぎてから別のプロモーターが目をつけた』
『……ほとぼりが冷めた感じですか?』
『……だと良かったんじゃがな』
ん?
『復帰しての2戦、彼は鬱憤を晴らすかのように快勝した……『弱い日本人に負けた』はずの彼が、強い勝ち方をした』
老人が、一旦言葉を切った。
『それで、周囲の見る目が変わってきた……彼が負けた日本人は弱くなくて、強かったんじゃないのか、と。正直、ワシは悪い気分ではなかったよ。日本を離れて20年余り、自分のルーツが日本にあると、再確認したような気分だった』
老人の口調、そして話の流れに……俺は、悪い予感を覚えながら先を促した。
『あー、つまり……彼に目をつけたのは、裏があったんですね?』
『復帰して3戦目……彼の相手は、一応デビュー戦という触れ込みだった』
評価は、揺れ動く。
反動もある。
一度下がった評価の上げ幅。
あとは、話題、か。
『……壊されましたか?』
『うむ……もう、ボクシングを続けるのは無理じゃろう』
老人が頷き、俺を見た。
『ヌシに負けて、人生が変わった……と見ることも出来るの。あるいは、仲介したワシのせいで、な』
『思うところがないとは言いませんが、俺は俺の人生を大事にしたいですね』
俺は俺で、他人のことは言えない。
ひとつ間違えたら、『アレ』が待っている。
負けることは大きなリスクだ。
ならば、負けるほうが悪い。
冷たいと言われようと、そうして割り切るしかない。
『……彼が順調に成長したとしても、メキシコの国内ランカー、それも下位に届くかどうかというのがワシの見立てじゃったよ』
『遅かれ早かれ……ですか』
老人の目が、細められる。
『彼を壊したボクサーの2戦目を見たが、自分の中の暴力性をまるで制御できておらんかった。噂では、スパーでも相手が動かなくなるまで殴り続けるらしい。ボクサーとしての素質は間違いなく高い。しかし指導者が手綱を取れない限り、どこかで壁に当たるだろう』
『……まだ若いんですか?』
『ヌシよりも下じゃよ。まだ少年で、あの時、16か、17……そのぐらいじゃろう』
なら今は……18ぐらいってとこか。
戦績はあてにはならないが、デビュー戦であのメキシカンをぶっ壊す……か。
しかし、スパー相手を動かなくなるまで殴り続けるとか……ん?
まさか……
幕之内のチャンピオンカーニバルの対戦相手をたどると、伊達英二、真田、島袋、武……4~5年後ぐらいと考えると、計算は合うのか。
ただ、成長期であることを考えると……階級が違うか。
俺は、思考を打ち切って時計を見た。
『色々と話を聞けてよかったです……俺は、練習に戻りますが、ヴォルグとラムダさんのことをよろしくお願いします』
『……出来る限りのことはさせてもらう』
会長室を出て、練習を再開する。
ただ、話を聞いただけ。
それでも、世界のボクシングに触れたような、不思議な高揚感がある。
老人は……『誰か』は、俺に名乗ることをしなかった。
それだけは、少し残念に思う。
名乗るまでもないと思われたか、あるいは自分とは合わないと判断されたか。
あのアドバイスも、音羽会長への義理のようなもの、か。
冴木とのスパーをちょっと見て、即座に俺の問題点を指摘するあたり……優秀だろう。
ただ、契約するにしても……金が無いというか、報酬に見合う試合が用意できないんだよなあ。
次の日、仕事が終わってからジムへ。
ちょうど、帰ろうとしていたヴォルグがいた。
「やあ、ヴォルグ。帰るのか?」
「うん、うち……うちあわ……話、終わったから。明日、朝の飛行機に乗るよ」
『事故と病気だけは気をつけろよ。あと、治安も良くないらしいから、日本と同じ感覚でいると危ないぞ』
『ありがとう、リュウ』
さりげなく英語に変えたが、日本語を覚えさせるという意味では良くないんだろうか?
少々悩ましい。
と、ラムダも一緒だったか。
『ラムダさんも、体調に気をつけてください。アメリカは、何度も行ったことがあるんですよね?』
『ああ。メキシコも大会で一度訪れたことがある。話を聞く限りでは、ずいぶんと様変わりしたようだから、少し楽しみだよ』
『……メキシコオリンピックの時ですか?』
『残念ながら、そのとき私の指導していたボクサーは国家代表選手には選ばれなかったよ』
『そうですか……2人の旅に、幸運を』
『ありがとう、速水』
そのまま、別れた。
2人が日本に戻ってくるのは、予定では約3週間後。
3月の中旬、だな。
桜には、まだ少し早い時期か。
夜の9時まで、約3時間。
特に意識せず、基礎練習をこなしていく。
練習後の、体重のチェック。
計量の前日、1日水を絶てば……リミットだろう。
「……」
振り返る。
老人。
「どうしました?」
「ヌシの、試合のビデオを見てな……新人王戦で、苦戦した理由はわかっているかの?」
苦笑する。
「……倒さなきゃという意識が強かったのもありますが、色々とこだわり過ぎました」
パンチの威力。
最高の威力を求めていた。
最も力の出せる姿勢。
最も力を込められるタイミング。
最も……。
最高を目指せば目指すほど、条件は厳しくなる。
つまり、同じ姿勢、同じタイミングで、パンチを放つようになる。
それは、柔軟さを失い、攻撃の幅をなくし、相手に読まれやすくなることを意味する。
新人王戦の3試合……あの3試合は、あの3人は、俺にとって特別な相手だった。
それを意識しすぎて、俺は自分のボクシングのスタイルを崩してしまった。
最初の幕之内との試合は……理不尽な破壊力を前にして、ムキになってしまった。
宮田との試合は、当てるまではともかく、当ててから単調になった。
千堂との試合では、そのあたりが一番ひどくでてしまったと思う。
藤井さんが千堂との試合で俺に言ったのは……心がけ、『気持ち』の部分だ。
ダウン云々はさておき、『技術』が褒められたわけではない。
2戦目のメキシカンとの試合は、普通に『試合内容』を評価してくれた。
いい試合だった、熱い試合だった……と、藤井さんが、ボクシングを楽しむ、あるいは評価したいのは、ボクサーの想いが伝わってくるような、そういう試合なんだろう。
それは、世界戦から4回戦まで、全てのボクシングの試合を楽しめる可能性があるスタンスといえる。
世界戦のレベルじゃないと、ボクシングは面白くないよね……というスタンスの人間もいるだろうが、それはそれで、ボクシングの面白さをみんなに伝えるのは難しくなると思う。
まあ、つまるところ……幕之内が宮田にはなれないように、俺は幕之内にも、宮田にも、千堂にもなれないし、なる必要もない。
俺は、速水龍一であり……『速水龍一』になる必要もない。
最高のパンチなんてものは、相手が避けられない、対応できない状況、あるいはとどめの一撃だけでいい。
1種類しか撃てない100の威力のパンチより、様々な変化をつけられる60や70の威力のパンチのほうを、俺のボクシングは必要としている。
無駄な動きをなくすことを心がけている俺が言うのもあれだが、無駄な動きをなくすのと同じぐらい、無駄な動きをすることは大事だ。
俺の右手の、0.1秒の無駄な動きが、相手の0.11秒の迷いや逡巡を生むなら、それは無駄にはならない。
相手に猶予を与えることで、判断が、動作が遅れるからだ。
いつ、どのタイミングで、どの部位を無駄に動かし……その無駄が『相手にどう見える』か。
相手の視界を、反応をイメージできなければ、有効な無駄を作り出せない。
ラムダの助言はシンプルで……とても深い。
そしてそれが、俺のボクシングのボトルネックになっている。
「月並みですが、自分を見失わず、冷静に、勝ちに徹する……それが出来てませんでしたね、きっと」
「ふむ。理解しているか。ならばいい」
「でも、あの3人は強かったんですよ?」
「……強い、弱いは、所詮相対的なものに過ぎん」
そう言って、老人が俺を見る。
その目に、感情は見えない。
「強い相手は、壁よ」
「……はい?」
「人は、壁を相手にしたとき、登ろうとする、回り込もうとする、あるいは、地面を掘ろうとする」
「……破壊するというのは?」
「それで壊せるような壁は、壁とは言わんな」
ごもっとも。
「ボクサーは、壁にぶつかることで、ボクシングが深くなる。壁を超えるための、試行錯誤がそうさせる。だからといって、常に壁を求め続ければ……そのボクシングは、どこか歪なものとなるじゃろう」
「……深くなるなら、悪いことではないのでは?」
「弱い相手とやらねば……ボクシングが広がらん」
老人が、俺の目を見つめながら問いかけてきた。
「ヌシは、アマチュア時代……弱いボクサーを相手に、色々と出来ること、出来ないことを確認していったのではないかな?」
「……あぁ、そうですね。そうだと思います……試合をわざと引き伸ばして、経験を積もうとか考えてましたから」
「能力が違いすぎれば、対戦相手などサンドバッグと何も変わらんよ。つまり、ヌシのアマ時代の経験は、経験とは言いがたい……かもしれんの」
……老人が、俺の精神を殺しに来ている。(震え声)
「何事も、バランスじゃよ。強い相手と戦い、弱すぎない相手と戦う。ボクシングを広げ、その上で深くする。狭いまま、深く深く掘り下げていけば……歪を過ぎて、行き止まりじゃな」
「先が……ないですか?」
「ヌシは、強い相手にまずはパンチを当てるために試行錯誤したのじゃろう。しかし、2発、3発と、攻撃を続ける余裕が無いまま、スパーを繰り返せばどうなる?」
「……」
「相手が強いから、防御に、避けることに特化する。相手が強いから、1発を当てることにしか集中できない。鍛えられるのは、その部分ばかり……まるで、苦行僧じゃな」
黙りこんだ俺を見て、老人のあごひげが動いた。
それが、大きく口を開けて笑ったのだと、気づく。
「スパーの相手が、伊達英二に、世界アマ王者のヴォルグ・ザンギエフとはの。ヌシは、つぶれずに生き延びたことを誇っても良い」
「つぶれるって……別に、毎日やったわけじゃないんですけどね」
「なるほど……和坊の言うとおり、どこかずれておる」
また少し笑って、老人が俺に背を向けた。
「現状、ヌシのボクシングには、スタイルはあるがシステムがない」
「……えっと、決まった形と言うか、必勝パターンがないって感じですか?」
「体格、能力、性格から、自分が戦いやすいやり方がスタイル。自分のスタイルを活かし、勝利へと導くためのやり方がシステム……ワシは、そう定義しておるが、どうかな?」
すっと、俺の胸の中に入ってくる表現。
スタイルとシステム。
うん、なるほどな。
つまり、スタイルは背骨のようなものだが、試合相手によってシステムは変更される。
「相手より優位な部分で戦う……のは、システムじゃなく、行き当たりばったりですか」
「国内なら、今のままでいけるじゃろう。しかし、その上で戦うなら……現状はまだ、器用貧乏以上、万能未満というところじゃな」
「厳しいですよね、やっぱり……」
わずかな沈黙。
それを、老人が破る。
「……世界といっても、ピンキリだからの。弱い世界王者はいないが、強くない世界王者なら珍しくない。ヌシが目指すのが、キリならば……」
「出来れば、ピンを目指したいんですけどね」
「ピンを目指すか……人によって評価は変化するだろうが、ピンの1人として確実に挙げられるのが……」
老人が捨てた言葉尻。
それを、俺が受ける。
「リカルド・マルチネス、ですね」
かすかに、ほんのわずかに、老人の背中に力が入ったように見えた。
「……あのチャンピオンは強い。攻守ともに、ほぼ完璧といえるじゃろ」
「ヴォルグは、どうです?」
「ワシは、ヴォルグを映像では見たが生で見ていない……が、かなり厳しいと思っておるよ。世界王者を目指すなら、回避したほうがいいじゃろう。世界を獲る実力は十分あるのじゃから」
かなり厳しい、か。
しかし、無理とは言わない。
勝ち目があると思えるだけ……やはり、ヴォルグもまた世界のトップクラスか。
とはいえ、俺はリカルドを生どころか、映像でもろくに見ていないんだよなあ。
「まあ、ヌシはひとまずタイトルマッチに勝って、和坊を喜ばせてやるんじゃな。あれは、まあ……善人ではある」
「スポーツ選手には向いていない、ですね」
老人の肩が、かすかに震えた。
どうやら、笑いをこらえているらしい。
「では、の」
歩き出した老人の背中に向けて。
手ではなく、言葉を伸ばす。
「結局、名前は教えてくれないんですね?」
「……メキシコで、国籍不明のアジア人としてトレーナーをやっておる」
「日本で、そこそこ有望だと評価されているボクサーをやってます」
ゆっくりだった歩みが、止まる。
「……ワシが契約しているボクサーが、6月にアメリカでの試合を控えていてな。それに勝てば、世界前哨戦へとコマを進められる」
「世界前哨戦って……指導しているボクサーは、ランカーですか?」
「シングル(一桁)ではないが、な。ただ、その対戦相手は3月にも試合を組んでいる。その後の世界前哨戦の話も含めて、全部対戦相手と契約しているプロモーターが持ってきたようじゃ」
つまりその対戦相手は、今はランカーでもなんでもない……?
「……それ、狙われてません?」
「手頃な世界ランクを奪い、世界前哨戦を勝って挑戦権を手に入れ……そのまま、ベルトも奪うという青写真を描いているのだろうな。間違いなく、強敵じゃろう……そうでなければ、こんな仕掛けはせん」
試合をさせたくないという想いが、口調から感じ取れた。
つまり、もう遅い。
契約で縛られている。
この一連の大仕掛けに関わるボクサー全員が、縛られているのだろう。
世界王者には、手頃と思える挑戦者と巨大なマネーを。
世界前哨戦の相手には、世界への挑戦権を。
老人のボクサーには、世界へのチャンスにつながる道筋を。
たぶん、3月に戦う相手には……世界ランカーと戦う、ステップアップを。
話を持ちかけられた時点では、大きなチャンス。
それぞれがチャンスだからこそ、飛びつく。
それぞれが飛びついてしまうからこそ、道が出来る。
生贄で作り上げる、世界王者への道が。
無名だからこそ……無名のうちにしか出来ない大仕掛け。
世界ランカーでもなんでもない、おそらくはまだ無名のボクサーを……段階を踏ませて、経験と、世界ランクと、世界への挑戦権を与えていく。
最初に交渉しなければいけなかった相手は世界王者か。
それを餌にして、飛びつきそうな相手を厳選しつつ、自分が売り出そうとしているボクサーまでつなげていく。
契約となれば、会場はもちろん、試合の時期からファイトマネーまで、すべてが整っている必要がある。
いくら金を使ったかは知らないが、この仕掛けが失敗したら破産まであるな。
そして、この仕掛けが出来るプロモーターが、そこまで入れ込むボクサーって……たぶん、ヤバイ。
「……3つ勝てば、世界王者ですね」
俺の言葉が、どこか空ろに響く。
負ける。
そんな予感がある。
「欧米社会では、『契約』は重い。様々な人種民族、そして価値観が錯綜するからこそ、契約を重視する。そしてワシは、トレーナーじゃからな。契約も含めて、この手で世界王者をという、想いもある」
おそらく、老人も俺と同じ予感を抱いている。
試合をさせたくないという、感情がにじみ出ていることからも明らかだ。
「欧米社会では契約は重い。しかし、この国では……日本人にとって『約束』は契約よりも重い。ヌシは、ワシに日本人であることを強く認識させた。だから、ワシはヌシには名乗らんし、何の約束もせん」
そう言い残して、老人は俺の前から去った。
日本人にとって、『約束』は契約よりも重い、か。
原作では、老人が真田と組んだのが……おそらく、今年の9月か10月。
つまり、その時点で老人は、フリーの立場だった。
そして今は、契約に縛られている、か。
なかなか噛み合わないものだな、人生ってのは。
謎の老人は、謎の老人のままです。(目逸らし)
話の展開上、魔法使いと世界を説明できる存在と流れが必要ではあったんですが、もうちょい滑らかな物語にしたかったですね。
体調不良の前に、筆が止まってた理由でもあるんですが……話のテンポが悪いです。
なお、現実だとメキシコは90年代にも経済破綻をしてます。
そして、21世紀に続いていくリアル世紀末タウン。
昔見たマッド映像、北斗の拳の曲に合わせたメキシコシティ観光紹介で大爆笑したんですが……もう見られない感じ。