3月上旬。
月刊ボクシングファン編集部。
新王者の口からこぼれたのは、『感謝を』という言葉だった。
王者が前置きしたとおり、月並みな言葉。
しかし、それに続いた感謝の対象は……客、関係者、対戦相手、ホールのスタッフ、記者……そして、これまでボクシングに関わった過去の存在全てにまで及び、最後に家族の名前が出た。
高校6冠。
プロデビューしてからは、新人王、賞金トーナメント、そして日本タイトル。
アマで41戦して無敗。
プロでも10戦10勝10KO。
負けを知らずに駆け上がっていくその姿からイメージするのはどんな人物像だろうか?
意外に思うかもしれないが、彼の道のりは順風満帆という感じではない。
アマの実績がありながら、4回戦デビューを強いられた。
デビューそのものは、高校を卒業してから半年以上過ぎた10月だ。
対戦相手を探すのも簡単ではない。
そして、階級変更。
彼は、黙々と練習を続け、勝ち続けた。
ビッグマウスと言われ、派手な言動に包まれてはいるが……王者は、記者の知る彼は、繊細な人間だ。
あの、勝利者インタビューからも、それがわかると思う。
少なくとも、後楽園ホールの切符売り場のスタッフへの感謝の言葉を口にしたボクサーを、記者は他に知らない。
……中略……
賞金トーナメントで戦った3人。
佐島、サニー田村、和田は、彼に敗れた後引退を表明している。
そして、真田も……正式に届けは出していないものの、引退を口にした。
ジュニアフェザー級の上位ランカーは、壊滅状態といえる。
本人は、『まだ、世界がどうこう言えるレベルじゃないですね』と言うが、国内のジュニアフェザーで、彼の相手を探すのは困難だろう。
本人の言葉をそのまま受け取るにしても、今後、彼の立ち位置は微妙なものとなる。
世界には届かない。
しかし、明らかに国内には敵がいない。
……おのずと、方向性は限られるだろう。
彼の進む道は……
手を止め、文字を見つめる。
自分の書いた記事。
書こうとしている記事。
頭をかき……もやもやした気分を、吐き出した。
「なんか、違うんだよな……」
のどに刺さった魚の骨のように、速水の言葉を思い出してしまう。
『いい記事を書く努力をすべきですよね』
これは、いい記事なのか?
自問。
答えは出ない。
目を閉じ、速水と真田の試合を思い出す。
意外といえば意外な展開。
ふたりの特長ともいえる、探り合い、観察をぶっ飛ばして、最初からお互いがお互いを倒しにいった。
いや、ハイペースだったが……そこに、数多の駆け引きが存在したはずだ。
アッパーは、手の甲を床に向けて……そう指導される。
しかし速水は、縦でも横でも、アッパーを打つ、ボディも打つ。
試合中幾度も、真田の目に、自分の左拳を確認させていた。
最初は真田に反応させ、逆を打つ。
真田が相打ちに持ち込めば、フェイントですかされた。
一手、また一手と、変化していく駆け引き。
また、頭をかく。
試合のビデオを何度も見返して、それを細かく説明すればいい記事になるか?
ため息をつく。
そして、吐き出す。
「……ならないんだよなぁ」
タバコに手を伸ばした。
火をつける。
紫煙をくゆらせた。
気分は晴れない。
タバコをくわえたまま、また目を閉じた。
速水の対戦相手。
真田を含め、引退した4人への取材を思い出す。
真田。
『彼には、悪い事をしました』
微笑みながら、真田はそう言った。
『足を踏んでしまったことかい?あれは、事故だろう?』
『いえ、3R……2度目のダウンから立ち上がったとき、ボクは、この試合を少しでも長く続けていたいと思って立ったんです』
真田の目。
かすかな後悔の色。
『……彼に勝つためではなく、ボクはただ、試合を引き伸ばすために立った』
『いや、それは……』
『彼との試合は……いや、試合の前、彼と話をしたときからワクワクしてました。子供の頃にできなかったことをやり直しているというか……イタズラ感覚と言うと怒られてしまうかもしれませんが』
『試合前の、速水君とのコメントは、やはり申し合わせていたのかい?』
『いえ、ほぼアドリブですよ。盛り上げようって話した後は、最初に速水君がコメントを出し、後は流れでそのまま……』
真田が言葉を切り、こちらを見た。
『オフレコでお願いしますね』
『……どのみち、書けないさ』
『ですよね』
真田が笑い……自分の手を見る。
『試合は、楽しかった。スピード感、駆け引き、読みあい、騙しあい……もちろん楽しかっただけではありませんが……終わらせたくなかったんです。もっと続けていたいと思った』
息を吐く。
『……もう、その時点で勝負はついていた。蛇足ですよ……ボクの自己満足にすぎない』
懺悔するように。
『試合が終わる直前、彼、ちょっと寂しそうな目をしたように見えました……まあ、気のせいかもしれませんが、試合は2人でやるものなのに、1人にしてしまった……彼を独りにしてしまった』
また言葉を切り、真田がうつむく。
『もう一度、彼と戦いたい……そういう気持ちもあるんです』
『なら』
顔を上げた、真田の目。
言葉を、続けられなかった。
『でもそれは、彼に勝ちたいではなく、戦いたい、なんですよ。ボクの自己満足で、勝負とはいえない。また、彼を独りで戦わせてしまうだけかなと……それが申し訳なくてね』
『ボクサーがリングに上がる理由は、ボクサーの数だけあっていいんじゃないかな?』
『ええ。ボクは、それを否定しません』
だから、自分の決断も否定しないで欲しい。
真田の目が、そう語っているように見えた。
『それより、速水くんにも取材したんですよね?どんな様子でした?』
対戦相手ではなく、ファンとして、あるいは知人としての興味。
それがわかった。
『新しく王者になったボクサーに、いつもする質問があるんだ。覚えているかい?』
『ああ、次の朝、どんな夢を見て目が覚めたか、ですね』
『派手にぶっ飛ばされて目が覚めたそうだよ……誰にぶっ飛ばされたかは教えてもらえなかったけどね』
よく聞き取れなかったが、クソゲーとかバージョンとか……まあ、夢の中で戦ったのは、強敵なんだろう。
『……世界王者ですかね?』
『どうだろう……ただ、彼が以前からよく目標として口にしていたのは、絶対王者、リカルド・マルチネスだったな』
『……一度映像で見たことはありますけど、あの王者が相手なら……うん、派手にぶっ飛ばされても仕方ないのかな』
真田と2人で、少し笑った。
恥ずかしながら、ボクシング専門誌の記者である俺も、リカルドの1試合通しての映像は、2試合だけしか見たことがない。
そのどちらも、対戦相手は何も出来ずに負けた。
最近は、挑戦者そのものが現れないために、ノンタイトル戦も少なくない。
しかし、生ける伝説も……27、いや今年で28歳か。
伝説が伝説でいられなくなる時は、いつか来るのだろう。
あるいは、負けを知らないまま引退してしまうのか。
『ボクシングファンの教授がいましてね、欧米にもボクシングが好きな知人がいるらしいんです。世界王者のビデオでも手に入れて、彼にお祝いとして送ることにしますよ』
『リカルドのかい?』
『そこはまあ、フェザーには彼と同じジムと契約したヴォルグ選手もいますし……ジュニアフェザーの世界王者のものをね』
取材の最後に、真田はほんの少し……心配そうに呟いた。
『……彼は、速水くんは、少し振り切れすぎている、そんな気がします』
『振り切れ……というと?』
『練習や、ボクシングへの姿勢……必要だから、当然だからと、それをずっと、ずっと繰り返して日々を過ごしているという話を聞くと……ボクはそこまで振り切ることはできないなと思うと同時に、心配と言うか……』
真田がちょっと口を閉じ、言葉を探すそぶりを見せた。
『……医者の卵として、できれば友人として……見守りたいですね』
目を開け、タバコの灰を落とした。
またくわえて、目を閉じる。
真田の言う、『振り切れすぎ』という表現が、心に残る。
速水のそれは、リングの上では、また違うものに感じるのだろうか。
『独りにしてしまった』と真田はいったが、独りにされたのはむしろ真田のほうではなかったのか。
付いていけず、置いていかれた。
勝てないことを、納得させられた。
説明してはもらえなかったが、真田が引退を決めた理由に……そのあたりが絡んでいるようにも思う。
もう一度タバコの灰を落としてから、再び目を閉じた。
賞金トーナメントで戦った3人。
三者三様の取材。
佐島。
『……殺された。いや、殺してもらえた、だな』
そう言って、佐島は自分の拳を見つめた。
『タイトルマッチで、拳を壊した時……判定結果が納得できなくて、治療とリハビリもそこそこに練習を開始して……自分で自分を殺した。そして、自分が死んだことを認められなかった』
独白。
それが、ただ続いていった。
……俺が思うに、あの試合はバラバラだった。
速水は、自分の調子を確かめるためだけに、佐島をサンドバッグ扱いにしたようなものだし、佐島は佐島で、速水のことが見えていなかった。
真田の表現を借りれば、佐島はこれ以上なく、リングの上で独りにされた。
それでようやく、佐島は自分を見ることができたのか。
経験と技術で、ボクサーを続けた。
しかし、本人が思う、ボクサーの佐島は死んでいた。
割り切りも、切り替えも出来なかった4年間。
不遇のボクサー。
佐島を評するなら、その一言。
怪我がなかったら。
あの判定がまともだったら。
そもそも、王者が逃げ回らずに佐島の挑戦を受けていたら。
年齢は違うが、佐島は伊達英二と同時期にプロの世界に入ってきた。
階級も近く、伊達と佐島……と、2人セットで将来を嘱望された時期もあった。
しかし、伊達が世界へ挑戦する頃、佐島は日本王者から逃げられ続けていた。
何かが足りなかった。
歯車が狂ったのか。
あるいは、この世界ではよくあること。
少なくとも、佐島に運はなかった。
『速水を応援しようなんて思わないね。感謝もしない……ただ、拳を壊す前なら、どういう試合が出来たか……それを考えたことぐらいはある』
そう言って席を立った佐島の背中は……やはり、燃え尽きることができなかった想いに満ちているように思えた。
燃え尽きるのにも才能と運が必要なのかもしれない。
サニー田村。
『予想通りだね』
『真田に勝ったこと、かい?』
『まあ、色々かな』
明るく、快活に、速水のファンだと公言する。
それが意外で、質問を口にする。
『引退させられたわけだろう?』
『逆に聞くけど、ボクサーとしての僕に、先があると思いましたか?』
言葉に詰まった。
サニーの実力は、国内レベルなら疑いようがない。
しかし、上にいけるかというと……。
そしてサニーは、客が呼べないボクサーだった。
俺に向かって、楽しそうに、からかうように、サニー田村が言葉をつむぐ。
『僕は、佐島さんに憧れて……佐島さんのようになりたくはないと思った』
『……』
『巡り会わせなんだろうね』
そう呟いたサニーの目が、なぜか印象に残った。
和田。
『そりゃ、速水が勝つでしょ。俺も、真田には勝つつもりでいたし』
速水の勝利を、当たり前に受け止める和田。
『とはいえ、真田はいい試合をしましたよね。こう、いつものすかした感じじゃなく、戦ってるって感じがして、見てて気持ちのいい試合だった』
『ああ、いや、出来れば和田君自身の試合について……』
和田が笑う。
つい、こぼれてしまった感じの、自嘲を含んだ笑み。
『……結局、俺はプロになってからは伸びなかった』
『そうでもないだろう?』
『プロルールに慣れはしましたね、巧くもなったかもしれない。でも、強くはなれなかったと思ってますよ』
そして、ぽつりと。
『あの日の、速水との試合の出来なら、石井には勝てた』
『……かもしれないな』
明言は避けたが、半分以上同意する気持ちがある。
俺の知る限り、プロではあれが和田のベストバウト。
しかし、和田は引退を選んだ。
『あれは、相手が速水だからですよ。俺の力じゃなく、速水に引っ張り上げられた』
和田が語る。
『たまにいるでしょ?こう、誰とでも接戦になるボクサーって』
『ああ、いるね』
『速水は、こう……受身というか、相手に合わせるところあるじゃないですか』
『……確かに』
『良くも悪くも、普通はジャンケンのような対処になるんですよ。グーにはパー。パーにはチョキってね。だから、何でも出来るボクサーが、対応の幅があるから強い。俺はサウスポーで、普通のヤツは右ストレートから入ってくる。セオリーってのは、理由と利益があるからセオリーなのに、速水は、左フックとか、左のアッパーを平気で使ってくる』
身振り手振りを交えて、和田が熱心に、楽しそうに語る。
『俺がグーを出してるのに、チョキでも勝てるかもしれない……と、色んなチョキを出してくる。そして、それで俺のグーを乗り越えてくるんですよ。じゃあ俺も、それに対処するしかない……そして、速水のそれはまだ手探りでやってるように見えるから、対処ができる。それでまた速水が、違うチョキを出す。その繰り返しで、気がつくと……引っ張り上げられている。自分の持っているものを、引きずり出されてしまう』
『……それは、欠点じゃないのかい?』
真面目な表情。
俺を見る、和田の目。
『……アマの経験があるのに、速水のボクシングは、まだ若いっていうか……こう、出来てないんですよ』
『出来てない?』
『未完成、ちぐはぐ……どう言えばいいかな』
『成長中、ではなくて?』
『試合中にね、こっちが対応すると、それをふっと超えてくる……それは元々余力があるからなんですよ。成長じゃない』
『どういう意味かな?』
『こっちが振り絞るものがなくなったら、速水はそこで止まる……強い相手が必要なんですよ、きっとね』
和田が、呟く。
『それと、冴木から聞いたんですけどね、速水はスパーでヴォルグに倒されたらしいじゃないですか……つまり、対応できなかったはずなんですよ』
『素直に、実力の違いじゃないのか?』
『速水は、今もヴォルグのスパーリングパートナーを続けている』
『それは……』
和田の視線。
口調が、ぞっとするような響きを帯びた。
『スポーツの世界は、そんな甘くない。世界アマ王者を獲った選手は、指導者は、役に立たないスパーリングパートナーなんて相手にしませんよ。友人として、仲間として付き合うことはできても、トレーニングの役に立つか立たないかは、はっきりと線を引きます』
俺の知らない世界。
いや、経験することが出来なかった世界。
和田は、オリンピックと世界戦手権で、ともにベスト8の結果を残している。
『ヴォルグも、そしてトレーナーのラムダでしたか?たぶん、その二人が一番正しく速水を評価してるんじゃないですかね?』
『それは……でも、他に相手がいないってこともありえるだろう?』
『はは……』
和田は笑って首を振り……呟いた。
『つぶれますよ。まず、早い段階でつぶれますね……身体もそうですが、精神が保たない。レベルの違う相手と戦うってのは、とんでもないストレスがかかる。ひたすら殴られる、反撃も出来ない、そして相手が手を抜いていることまでわかったら、役満ですね』
ふっと、雰囲気を和らげるように、和田が笑った。
『いいじゃないですか、欠点で。大きな段差よりも、小さな段差のほうが乗り越えやすい。言ってみれば、自分で負荷をかけて鍛えているようなもんですよ。そうして接戦を繰り返せば、速水はまだ伸びますよ』
楽しそうに、嬉しそうに。
そして、少しだけ寂しそうに。
和田は、速水を語った。
『俺が、オリンピックのベスト8で戦った相手、知ってます?』
『いや、結果だけだ。聞いたことはあるかもしれないけど覚えていないな……悪いね、アマボクシングは、担当してないものだから』
和田の口から出てきた名前。
オリンピック銀メダリスト。
そして、現WBAジュニアフェザー級世界王者。
思わず、和田の顔を見てしまった。
そして、和田が笑う。
『俺が戦ったのは、何年も前ですしね』
『アマとプロは違う』
『それでも』
静かに、和田は呟いた。
『俺は、今の世界王者と戦ったことはありません』
『でも……俺が戦った銀メダリストよりは強く感じましたよ』
目を開け、タバコを灰皿に押し付けた。
そして、息を吐く。
まあ、和田の評価は……多少贔屓もあるだろう。
速水に対する好意というか、思い入れというか、熱のようなものを感じた。
あの評価には、おそらく願望も混ざっている。
人の評価はそれぞれで、相性もある。
ただ、速水のディフェンス力は高い。
新人王戦以降、その傾向は顕著になってきた。
12R。
ホームでの試合。
パンチをもらわず、倒すのではなく、ポイントを奪う試合展開。
声援が、ジャッジを後押しする。
互角であれば、十分に勝てる。
パンチをもらわなければ、そして軽くともパンチを当てれば……ジャッジが速水を支持しないのは難しい。
あるいは、という期待感はある。
王者より強いとは言えないが、勝つことなら、可能かもしれない。
ただ、彼は……。
「そういう戦い方を、良しとするだろうか?」
判定狙いそのものではなく、地元有利の状況への不満。
自分への不都合や不利益は飲み込んでも、相手の不都合や不利益を良しとしないところはある。
勝ちにこだわりつつ、『強い勝ち方』への憧れのようなもの。
むしろ、敵地に乗り込んで勝つことに意義を見出す……そういうものを、抱えている。
答えは出ない。
そして、設定そのものが幻想に過ぎない。
もう一度、タバコに火をつけた。
「おい、藤井」
「ああ、編集長」
視線が動く。
編集長の隣に立つ女。
口笛を吹きかけて、自重した。
「そのお嬢さんは?」
「ああ、彼女は……」
「飯村真理です、はじめまして。スポーツライター希望です」
……目上の人間の言葉をさえぎって、自己紹介、ね。
心の中で、評価を下げた。
まあ、まだ学生なんだろう。
「藤井、チャンピオンカーニバルの記事、順調か?」
「あぁ、なんと言うか……」
机の上の、原稿に目をやる。
順調といえば、言えなくもない。
取材もすませた。
速水の試合も含めて、3試合分。
俺の原稿は手書きだから、清書してもらう分だけ締め切りは早くなる。
「拝見してよろしいですか?」
女が、そう言って原稿を手に取る。
さらに評価を下げた。
抗議の意味も含めて、編集長を見た。
耳元で囁かれる。
「帰国子女でな……まあ、いいとこのお嬢さんで……その、コネだ。今、他のスポーツ雑誌も回ってもらってる」
「……厄介者の気配しかしません」
独断と偏見で、自己主張の強さは海外帰りのせいだと理由付けた。
それで、耐えられる。
「その、ボクシングに関しては、お前が面倒見てやってくれ」
「あ、取材に行かなきゃ」
「待て」
腕をつかまれた。
逃がさないという、強い意志を感じる。
「知識はあるんだよ。頭もいい。文章もいけるし、優秀なんだ」
「地雷の枕詞じゃないですか」
「スタイルのいい美人だ、喜べ」
硬い声で割り込まれた。
俺の原稿を、見ながらだ。
「……女性であることは否定しませんが、それ以外の部分で評価してくださるとありがたいです」
マイナスだよ、という言葉を飲み込んだ。
編集長が、そっぽを向く。
息を吐き、自己紹介がまだだったことを思い出す。
まあ、社会人の先輩として、大人の対応をするべきか。
「ここの記者をやっている藤井だ。そして、未完成の原稿を読まれたくない記者は多い、覚えててくれ」
「……失礼しました」
素直に、原稿を戻す。
すこし、評価を持ち直す。
「確か、海外の大学は日本とは卒業時期が違うんじゃなかったかな?」
「……国によって違いますが、単位を全てとったら卒業でした。なので、卒業の時期は人それぞれですけど、私は12月で卒業しましたわ」
「ああ、日本は一律4月入社だから、もてあますのか」
「……そういうことですね」
「ボクシングは好きなのかい?」
「ええ、最初は知人に誘われて。それがきっかけで、ラスベガス、メキシコ、イギリス、タイにも足を運びました」
「ほう、好きなボクサーは?」
飯村の口から、世界の一流どころのボクサーの名前が出てくる。
それだけじゃなく、こちらがハッとするような、日本では無名の名前も挙げてくる。
……だが。
「……日本のボクサーは?」
「あまり、興味が持てませんね。世界を見た後では、どうしてもスケールの違いを感じてしまって」
……じゃあ、なんで日本に戻ってきたんだよ。
そんな言葉を飲み込む。
地雷だ。
これを、ボクサーの取材に連れて行ったら……どうなる。
編集長を見る。
そ知らぬ顔で、窓の外を見つめている。
「先ほど拝見した記事、速水選手、ですか?」
「知っているのかい?」
「名前だけは……経歴を見るだけなら、これまで何人も生まれて消えていった日本人ボクサーと違いはないと思えます……でも」
飯村が、俺を見た。
「違うと感じているから、さっきの原稿を書かれたわけでしょう?」
「……変わったボクサーだよ。一言では説明しづらい」
俺の言葉を聞いて、飯村は、少し微笑んだ。
「……何だよ?」
「いえ、面白いスタンスで、彼、速水選手を見ているのかな、と」
「さっきも言ったように、変わったボクサーだ。世界を口にしながら、世界は遠いと口にする。ビッグマウスを演じながら繊細で、練習量と、真剣さについては疑いない。クレバーなのに、熱いものを抱えている。複雑で、矛盾を感じさせるボクサーだ」
「……自分を理解しているだけでも、好感が持てますね」
飯村が、静かに語りだす。
「世界、世界と言葉は勇ましく、周囲が本人を持ち上げて……ふたを開ければ、2Rや3Rで、KO負け。世界では、日本人ボクサーはそこそこ高額のファイトマネーを寄付してくれるお得意様ですよ。そして、本当の一流どころを呼ぶだけの、ファイトマネーは用意できない。だから、世界のトップには相手にもされていない、違いますか?」
「……否定は出来ないな」
この国から、世界王者が消えて、もう何年になるか。
日本人の世界挑戦は、失敗が続いている。
中途半端な世界挑戦……それが興行として成り立っているから、変わらない。
「ただ、日本人ボクサーの主戦場が軽量級ってこともあるさ。軽量級は、世界では不人気だからな」
「栄養状態が良いとはいえなかった昔ならともかく、今の日本のプロボクサーで、人数が多いのは軽量級よりむしろ中量級ですよね。選手層ではなく、他の要因で軽量級を主戦場にせざるを得ない。そういうことでは?」
「……日本人の体型は、胴長短足、そして短腕と言われる。体重をそろえると、どうしても小柄になるんだ。ジュニアライトの日本王者、間柴のリーチの長さは有名だが、世界なら、あの身長であのリーチは、特に珍しいレベルじゃない」
「身長が160センチ代の半ばで、ライト級、ウエルター級のクラスで戦うボクサーは、世界では普通ですよ。もちろん、人種民族、そして個人の体質は否定しませんが」
「……何が言いたい?」
「世界は、金、名誉のために、人気のある階級を目指します。現状なら、重い階級や、レギュラー階級に。でも、日本は……逆ではないですか?」
飯村が、俺から視線をはずして……呟いた。
「弱い相手を探している……リカルドと戦った伊達英二が特殊と思えるほどに」
人気の階級のほうが、金になる。
金を稼ぐために、上の階級でやろうとする。
そうして、強いボクサーが集まるからレベルが高くなり、人気も上がる。
この10年ほどで、ボクシングの階級は数を増やした。
クルーザー、スーパーミドル、ジュニアバンタム、ミニマムの階級は1980年代になってから。
日本が誇る、タイトルを13度防衛した世界王者のライトフライ級も、1975年に新しく出来た階級だ。
ジュニアフェザーも、過去に存在した階級とはいえ、廃止されたものを1976年に復活させた。
階級だけじゃない。
もともと1つだった世界ボクシング団体が分裂し、WBAとWBCに、そしてまた内紛でWBOとIBFなどが、既存団体への反発から他の団体も生まれ……それぞれの団体が、増やした階級も含めて世界王者を抱える。
ボクシングという市場のパイを、増えた団体と、増えた世界王者で切り分ける。
ボクサー人口がそれほど変わらないとしたら、一つの階級に振り分けられる強いボクサーの数は、当然減ってしまう。
言いにくいことだが、昔に比べて複数の理由で世界王者の価値は落ちた。
その落ちた価値を高められる階級と、それが出来ない階級があるのは否定できない。
安易な世界挑戦は……むしろ、貶める行為でもある、か。
飯村の言ってるのは正論だ。
だが、正論が過ぎる。
あと、ボクシングファンのための雑誌の記者として、言いたくても言えない事、書きたくても書けない事もあるんだよ。
……一言で言えば、生意気でムカツク。
「ボクシングに限らず……私は、スポーツライターとして、人が世界に目を向けるような記事を書きたいと思っています。その中で……日本人の、本当の世界挑戦が生まれるのではないかと、信じています」
飯村を、見た。
眼鏡のレンズの向こう。
熱を感じた。
生意気で、ムカツキはする。
それでも。
ボクシングが好きなことは認めてやるのが、大人の対応ってやつか。
それに、この地雷は……放っておくと危ない。
間違いなく、問題を起こす。
「まあ、なんだ。言いたいことは理解した……よろしく頼む」
「……ええ、よろしく」
はい、途中に間が空いてしまって申し訳なかったですが、これで第3部のチャンピオンカーニバル編の終了です。
正直、第4部への伏線を張りつつも、書くか書かないで悩みながら第3部に取り掛かったので、ヴォルグの試合の後の説明回……情報を詰め込んだのは、読み手もそうでしょうけど、明らかにテンポが悪くて書き手としてもストレスになりました。
ただ、第4部でその情報を自然に小出しできるかと言うと……私の筆力および構想力では無理だなと。
結局、きっちりとプロットを練らずに書き始めたしわ寄せというか、自業自得ですね。
書き手として、私の力不足を読者に押し付けてしまったことは申し訳なく思います。
体調に関してご心配をおかけしましたが、ラジオ体操を終えられる程度には回復しました。(息切れしないとは言ってない)
しばらく体調回復および、体力回復に努め、第4部の再開はそれからということに。
しかし、原作初登場時からすると、飯村さんは……丸くなりましたよね。(遠い目)
さて、青木さんのタイトルマッチは、どうしようか。
……あと、ドリームマッチも。(震え声)