速水龍一で始める『はじめの一歩』。   作:高任斎

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リテイクし過ぎて、自分の判断に自信がないです。(震え声)
ただ、知人からはゴーサインが出たので。

どの時期に、どの舞台で戦うかで、この二人の描く物語は変化するように思います。


幕間~交差点~
ドリームマッチ前編。


『4月中旬』

 

 

「もっと、頭を振れ!」

「下に返せ!すぐじゃ!」

 

 会長の構えるミットめがけて、ボクは打ち込んでいく。

 

「動きを止めるな!」

 

 パンチの打ち終わり。

 動きが途切れたところを、会長のミットで頭をはたかれた。

 

 パンチとパンチのつなぎ。

 その合間の防御。

 そこが、スムーズにできない。

 

 約半年ぶりの復帰戦にむけて、やらなきゃいけないことがたくさんある。

 悩んでる時間なんて……ない。

 ないはず、なんだけど……。

 

『宮田くん、また少し背が伸びてたぜ……幕之内くんの言ってた『約束』だけど、早くしないと間に合わなくなるかもな』

 

 速水さんの言葉が、ぐるぐる頭の中を回っている。

 

 会長のミット。

 パンチが、芯を外す。

 

 反射的に首をすくめたけど……予想していた会長の怒鳴り声は飛んでこなかった。  

 

「……集中できておらんの」

 

 会長の目が見られなくて、うつむいてしまった。

 怒られるよりも、ツラい。

 

 会長の足がくるりと反転した。

 

「ま、待ってください、会長」

 

 集中します。

 ちゃんと練習しますから……。

 

「ついてこい」

 

 

 

 

 

 

 

 会長室。

 会長とボク、そして八木さんの3人。

 

「小僧」

「は、はい!すいませんでした!」

 

 直立不動から、頭を下げる。

 八木さんが、笑っている気配。

 

 ……怒って、ないのかな?

 

「小僧よ。貴様、宮田に……宮田一郎には会ったのか?」

「え、あ、いや、会ってません」

 

 会長が、じっとボクを見つめてくる。

 

「何故じゃ?」

「何故って……その、来月の試合はもう決まってますし、それに集中しないと」

「……その挙句に、気になって集中できんなど、本末転倒じゃろうが」

 

 会長の言葉に、またうつむいてしまう。

 

「……174」

「え?」

 

 顔を上げた。

 

 会長は、ボクに背を向けて窓の外を見ていた。

 

「会長がね、宮田さん、一郎君のお父さんに電話をかけて聞いてみたそうだよ」

「174って、宮田君の今の身長が、ですか?」

 

 デビュー時のデータじゃ、172センチだったはずなのに。

 間柴さんほどじゃないけど、それでも、ボクより10センチも高いのか。

 

 と、いうことは……ボクとやった時と、リーチも違ってる?

 

 リーチが1センチ伸びれば、ボクと宮田君との距離は1センチ広がる。

 以前なら届くはずだった攻撃も、届かなくなってしまう。

 

「……そこで拳を握り締めるぐらいなら、会いに行かんか」

「あ、会いにって……いや、でもですね、その……」

 

 次に会うのは、リングの上だって……。

 それに、『何しに来た?』って突き放されるような……。

 

「率直に聞く。小僧よ、宮田と戦りたいか?」

「は、はい!もちろんです!」

 

 約束。

 新人王戦ではダメだったけど、プロのリングで決着をつけるって……でも。

 

「あ、いや、今は次の試合ですよね」

 

 復帰戦。

 速水さんに負けて、約半年。

 あれからずっと、基本の練習を積み上げてきた。

 その成果が問われる、大事な、試合。

 

「……小僧よ、西川ジムの小田裕介を覚えておるな?」

「あ、はい、小田さんですよね、ボクのデビュー戦の相手の」

 

 宮田くんがジムを移籍して……すぐにボクの誕生日が来て、プロテストを受けて、そしてまたすぐにデビュー戦が決まって、その相手が、小田さんだ。

 青木さんが、『根性無しで有名』とか言ってたけど、全然そんなことはなくて……。

 

 そうか、あれは去年の1月だったから、ボクがデビューしてからもう1年が過ぎたんだなぁ。

 ボクも宮田君も、この春で高校を卒業して……。

 

「……貴様のデビュー戦の相手に、何故小田裕介を選んだかわかるか?」

「え?」

 

 そんなことを言われても……。

 

 戸惑うボクを、会長がじっと見つめている。

 

「2戦目の藤原義男、覚えておるか?」

「は、はい、覚えてます」

 

 デビュー戦から1ヶ月ちょっと後で、2月だった。

 ボクの得意な接近戦で、頭突きをされた。

 今ならわかるけど、あれは『近づけば痛いめに遭う』という脅しで、ボクはそれにはまって踏み込めなくなり、自分の距離で戦えなくなった。

 

「何故、2戦目の相手に、藤原義男を選んだかわかるか?」

 

 会長の言葉。

 問いかけ。

 

「わか……わかりません」

 

 何故なんて、なんか意味があるんだろうか?

 

 会長が視線を机の上に落し……あらためて、ボクを見た。

 

「元々、貴様のデビューはもっと後の予定だった」

「え?」

 

 それはどういう……?

 

「一歩君」

 

 八木さんの方を見た。

 

「プロテストはね、ジムの方針にもよるけど、1年ぐらい練習を積み重ねて、それでようやく許可を与えられるものなんだ」

「そうなんですか?」

「アマで基本を学んでいたりするケースは別だけどね……良くも悪くも、ボクシングって競技は危険を伴う。未熟な人間をリングに上げるわけにはいかない。そのためのプロテストではあるんだけどね、『テストを受けてもいいかどうか』は、ジムの裁量に委ねられているんだ」

 

 八木さんの言葉が続く。

 

 約1年、最低でも半年。

 投げ出さずに、つらい練習を続けられるかどうかで、精神的な適正を見る。

 そして、攻撃と防御の基本が身についているかどうか。

 

「……ジムに通って半年でプロテストっていうのは、素質がある子が多い、ね」

 

 ボクは、鷹村さんと出会って……。

 

「うん、一歩君はこのジムに来て半年で、プロテストを受けた」

「……え?」

 

 会長を見る。

 

「小僧よ、貴様は不器用だが素質はある、が……ワシとしては、1年かけてじっくりとボクシングの基本、基礎を叩き込んでからプロテストを受けさせるつもりだった」

「じゃあ、なんで……」

「言っておくが、宮田一郎は、子供の頃からボクシングに親しんでおった。ズブの素人で、ボクシングに興味すらなかった貴様とは、立ち位置が全然違う」

 

 会長を見つめるボクに、八木さんが、優しい声で語りかけてきた。

 

「一歩君。一郎君がこのジムから川原ジムに移籍したあとのこと、覚えているかい?」

「それは……」

「一郎君がいなくなって……うん、気が抜けていると言うか、『何をやっていいのかわからない』という印象を受けたよ」

 

 宮田君と、いきなりスパーをやらされて。

 宮田君との再戦に向けて、3ヶ月も会長に付きっ切りで指導を受けて。

 

 あぁ、もしかして……。

 

「だから、急いでボクにプロテストを受けさせたんですか?」

「技術はもちろん大事じゃが、選手にやる気がなくては話にならん」

 

 八木さんが、ボクを見て言う。

 

「一郎君も、移籍してすぐにデビュー戦をやったからね……1年かけてからプロテストを受けると、もう一郎君と戦える新人王戦には参加できないことになっていた」

 

 会長が、息を吐いた。

 

「そのせいで、パンチ力が突出した、防御のなってないボクサーを、プロデビューさせることになったがな……指導者としては汗顔の至りじゃわい」

 

 ……そうか。

 この半年、会長がボクにひたすら基本と基礎を繰り返させたのは、そういうことだったんだ。

 失った半年を、今、か。

 

「それを踏まえて、じゃ」

 

 会長が、口を開く。

 

「貴様がプロテストで相手を派手にぶっ飛ばしたのもあるが、場慣れした相手を選ぶ必要があった」

「……?」

「お互いデビュー戦で、カチカチに緊張したボクサー相手に、まぐれでも何でも、貴様のパンチが当たったらそこで試合が終わってしまうわ。勝ったとしても、そこには何も残らん。リングの上で、しっかりと戦わねばボクサーとしての経験は得られん」

 

 あぁ、小田さんは確か、ボクとやる前は3勝2敗で。

 

「そして案の定、貴様はデビュー戦で防御がなってないことを露呈し……その反省と練習をし、忘れないうちに同じようなタイプ、ファイターとの試合を選んだ」

 

 それで、試合間隔が短かったのか。

 

 会長が、息を吐く。

 

「できればもう一戦、足を使うタイプのボクサーと試合をしたかったがな、そこでタイムリミットじゃ」

「え?」

「……新人王戦は6月からじゃろうが。KO負けすれば、3ヶ月は試合に出られん……その時点で棄権じゃ。かといって、必ず勝てるような相手は、貴様の経験にならん」

 

 ……意味が、あったんだ。

 

「足を使うタイプというか、はぐらかす相手との試合が組めなかったことが、小橋戦ではもろに出た……その次の、速水との試合に目が向いていたワシのミスでもあるんじゃが」

 

 ボクが知らない、知らなかった、いろんな意味が。

 

「……ぁ」

「ん?」

「ありがとうございます、ありがとうございます。ボクのためにそんな、色々と考えてくださって……」

「貴様に感謝してもらいたくて説明したんじゃないわ!」

 

 会長の怒鳴り声。

 それが気にならない。

 

 これほどまでに気にかけてもらえる。

 そこに、感謝しかない。

 

「……まぁ、ええわい。それで、じゃ」

「はい、なんでしょうか」

 

 

『今、貴様が宮田一郎と試合をすることに、どんな意味がある?』

 

 

 ……え?

 

 会長の言葉。

 それを理解するまでに時間がかかった。

 

 意味?

 意味なんて。

 約束で。

 約束だから。

 

 会長が、八木さんが、ボクを見つめている。

 

 なぜか、言葉が出ない。

 

「……小僧、良くも悪くも、貴様は宮田一郎のことを良く知っておる。ボクシングと出会い、半年でプロデビューし、5戦して4勝1敗と戦績はともかく、ボクサーのひよっこともいえる貴様が、2回も試合形式でスパーをしたボクサーと戦って、何を得られる?それで強くなれるのか?小橋戦のようなことを繰り返さないために、今まで経験したことがないタイプのボクサーと戦うことを選ぶべきではないか?」

「それは……」

「ボクサーがボクサーでいられる時間は長くない。ならば、1戦1戦に意味を持たせ、学び成長していくことが重要になる」

 

 違う、そうじゃなくて。

 意味なんかじゃなく、約束で……大事な約束だから。

 

 その言葉を、口に出せない。

 

「小僧よ。貴様は、まず鷹村と出会ってボクシングを知った。宮田一郎と出会って、ボクシングを始めたわけではない、そこを履き違えるなよ」

「……」

「一歩君、会長は意地悪で言っているんじゃないよ。悪い意味で、入れ込みすぎていることを心配してるんだ」

「入れ込みすぎ、ですか?」

「さっきも言ったけど、一郎君がいなくなった後の君の様子を思い出すとね、不安なんだ。試合の後、また目標だけじゃなく、目的を見失うんじゃないかって」

 

 プロのリングで。

 宮田君との約束を。

 

 ……その約束を果たした後?

 

「何故ボクシングをやるのかは……人それぞれじゃ。同世代だからと、お互いに競い合わせようとしたワシが言うのもなんじゃが、貴様の原点は宮田一郎ではあるまい」

 

 ……原点?

 

「……この老いぼれは、老いぼれなりに、貴様のことを考えておる。練習方法しかり、対戦相手しかり、どうすれば小僧が強くなれるか、どうすれば小僧が成長できるか、とな。それは、ボクシングだけに留まらず、人間的にも……と願ってはおるがな」

 

 会長が、ボクを見る目。

 厳しいと言うより、どこか心配するような眼差しに思えた。

 

「宮田一郎は既に5勝。あとひとつ勝てば8回戦昇格じゃ。わかるか?今、小僧が宮田と試合をしたいといえば、来月の貴様の試合のあと、それまで宮田一郎をフェザーで待たせる必要がある」

 

 会長の座っている椅子が、音を立てた。

 

「新人王戦のようなトーナメントと違って、ボクシングの試合は、お互いが求め、状況がそれを許さねば組むことができん……速水龍一にしろ、全勝全KOで新人王を獲っても、周囲の都合で階級変更を強いられた。思うところはあろうが本人はそれを飲んだ。目的があるから、それを飲んだんじゃろう」

 

 沈黙。

 

 そして、会長が窓の外に視線を向けた。

 

「小僧よ、宮田一郎と会ってこい。会わずとも、せめて見てこい。そして、宮田一郎と試合をする理由を、意味を見つけたら、それをワシの前で言え。ワシを納得させん限り、試合は組まん」

「……会長」

「行け。今すぐじゃ」

「……わかりました」

 

 

 

 

 

 

 

 

 宮田君の家。

 鴨川ジムをやめると聞いたあの日、初めて訪れた場所。

 そして、約束をした場所。

 

 家はある。

 家はあった。

 それなのに、表札がない。

 ここだけじゃなく、周辺が全部そんな感じで、取り壊されている家も少なくない。

 

 通りかかったおばさんに話を聞いたら、ここに大きなマンションが立つ予定らしい。

 

 何かを叫びたいような、それでいて何を叫べばいいかわからないような不安感。

 川原ジムに向かって、走っていた。

 

 

 川原ジム。

 宮田君はいない。

 でも宮田君のお父さんがいた。

 たぶんだけど、練習生に指導する姿は昔と変わらない。

 

 ……窓から覗いていたら、見つかった。

 

 

 川原ジムの近くの、ベンチすらない小さな公園。

 宮田君のお父さんと2人。

 

 ジムの移籍のタイミングで、家は売りに出したそうだ。

 マンションが立つ計画もあったしな、と……宮田さんは、少し笑って説明してくれた。

 

「……一緒に住んでないんですか?」

「……ああ」

 

 宮田さんの微笑みに、それ以上は聞けなかった。

 

 それまでの環境を、全て変えた。

 全て捨てた。

 心機一転とは、少し違う気がする。

 

 ここに来た理由を、全て話してしまっていた。

 正直に、ではなく……どこか宮田さんに甘える部分があったと思う。

 

「『どんな意味がある?』か、はは、会長らしいな」

 

 楽しそうに、それでいて寂しそうに、宮田さんが呟く。

 宮田君はもちろん、宮田さんもまた……現役時代からずっと慣れ親しんだ鴨川ジムを離れて、ここにいる。

 

 ボクが、ボクシングを始めなかったら……今も2人は、鴨川ジムにいたんだろう。

 

「幕之内」

「は、はい」

「私としては、一郎とお前を試合させる意味はあると思っている」

「そ、それは、どんな意味ですか」

「はは、それは『私が考える』一郎への意味であって、一郎自身がそう思っているとは限らんさ」

 

 宮田さんは、空を見上げたまま言葉を続けた。

 

「幕之内自身に意味を考えさせる……それが、会長らしいと思ってな。強引な指導者なら、さっさと自分で決めてしまうさ、きっと」

 

 それから少し話をした。

 宮田さんの現役時代の話、八木さんの話、川原ジムの会長は、宮田さんのトレーナーをしていた人らしい。

 

 宮田さんを見る。

 日本王者。

 そして東洋王者として防衛を重ね、当時世界に最も近いボクサーと呼ばれていた……宮田くんの憧れで目標の人。

 

「……と、そろそろ一郎が来る時間か」

「あ、すみませんでした、急に押しかけて」

 

 宮田さんがボクを見つめた。

 

「幕之内、練習を覗いてもいいが、一郎には見つかるなよ」

「え?」

「……見られたくはない、そう思っているだろうからな」

 

 

 

 夜。

 宮田さんが、出てきた。

 

「待たせたか?」

「……はい」

 

 口を開く。

 

「宮田君に、試合の予定はないんですよね?」

「ないな」

「ずっと、ああなんですか?」

 

 鴨川ジムにいた頃から、宮田くんはストイックだった。

 それでも、他の人との会話はあったし、あんなに張り詰めた空気を身にまとってはいなかった。

 

「そうだな、口数が少なくなったのは移籍後から……そして、おそらくお前の言う切羽詰った雰囲気は、新人王戦が終わってから、だな」

「……」

「速水に負けて、1ヶ月ほど休養して……成長期など終わったと思っていたのに、その1ヶ月で2センチ近く背が伸びた」

 

 そう言って、宮田さんが口元をゆがめた。

 

「……子供の頃から基礎を積み上げ、成長期が終わってから完成させたバランスだからな。ステップの幅、体重移動、タイミング、リズム……1つ狂えば、全てが歪んでいく」

「そうは、見えませんでした」

「……修正しているからな、ただ……」

「ただ、なんですか?」

 

 沈黙。

 そして、どこか祈るような表情で宮田さんは、ボクを見た。

 

「もう、一郎にフェザーは無理だ。減量云々ではなく、一郎が目指すボクシングに必要な力、速度を、フェザーのウエイトでは維持しきれない」

「……そんな」

「先に言っておくぞ、幕之内。もう、一郎はお前とは万全の状態で戦うことはできない。フェザー級としてのベストを目指すことはできても、ボクサーとしてのベストを目指すことはできない」

 

 宮田さんの表情に、その目に、会長から言われた言葉を思い出す。

 

『今、貴様が宮田一郎と試合をすることに、どんな意味がある?』

 

 たぶん。

 いや、きっと……会長は、このことを知っている。

 そして……宮田くんは、ボクと戦いたいと思っている。

 

 意味は、ある。

 そこで、宮田君が待っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 会長室。

 

「……意味は見つかったのか、小僧」

「会長の言う『意味』はわかりません、でも宮田くんが待っています」

 

 宮田くんの歩く道。

 憧れたお父さんのボクシングで、世界を獲る。

 世界王者になることじゃなく、宮田さんのボクシングスタイルを世界に認めさせる……そういうことなんだろう。

 

 そしてボクは……強くなりたい。

 強さの意味を知りたい。

 それは、ボクシングじゃなくても良かったのかもしれない。

 でも、ボクはボクシングと出会い、ボクシングを選んだ。

 

 会長を見る。

 

「……ふん。まあ、そこそこ見れる顔つきじゃな」

 

 そう言って、会長は電話の受話器を手に取った。

 

「鴨川じゃ。うむ、例の件……」

 

 

 短く、でも長い電話が終わった。

 

「小僧」

「はい」

「8月の頭じゃ。わかるか?来月の試合、負けることは許さん、必ず勝て」

「ありがとうございます!」

 

 八木さんが、微笑みながら言った。

 

「KO負けなんかしたら、試合が流れるからね」

「勝ちます」

「ふん、宮田一郎とのラバーマッチに入れ込みすぎて、足元をすくわれるなよ」

 

 ラバーマッチ?

 え、ラバーって……。

 

「ボ、ボクと宮田くんは、そういうのじゃないですから!会長までそんなこと……」

「……何を想像しとるのか知らんが、頬を染めるな、気色悪い」

「ははは、一歩君。ラバーマッチっていうのは、同じ相手との1勝1敗で迎えた3戦目の試合を指す言葉なんだよ」

「あ、そうなんです、か」

「でもまあ、一歩君の解釈も間違いではないんだけどね……昔と違って、同じ相手と戦うことが難しい時代でありながら、3試合も戦うってことは、恋人のように離れがたい組み合わせ……転じて、ラバーマッチって呼ばれるようになったって説が有力だし」

 

 八木さんが、少し寂しそうに言葉を続けた。

 

「ただ、1勝1敗の、この試合で決着をつけるって……もう二度と会わない、決別の意味でもあるんだ」

 

 宮田君との、ラバーマッチ。

 スパーじゃなく、本当の試合。

 

 もう二度と会わない。

 決別の、意味。

 

 ふと、速水さんのことを考えた。

 

 階級変更。

 それを、わざわざ告げに来てくれた。

 

 宮田君とは別の約束。

 その約束が果たされることは……あるんだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『6月下旬』

 

 

「気を抜くな!」

「動け!」

「下に返せ!右も!」

 

 会長のミットを追う。

 

 ミットの位置。

 先月の復帰戦に向けての練習とは違う位置にあるのがわかる。

 

 試合の相手に合わせて、会長のミットは、そこに置かれる。

 どれだけの時間をかけて、会長はミットの位置をつかむんだろう。

 

 集中しなければ申し訳ない。

 

 感謝しながら、ボクはパンチを打つ。

 宮田君の位置を想定した、ミットめがけて。

 

「一歩君!」

 

 八木さん?

 

「なんじゃ、練習中じゃぞ!」

「今、電話があって、お母さんが倒れて病院に運ばれたって……」

「母さん、が……?」

「とにかく、詳しいことは何もわからないんだ、病院はこっちのメモに……」

 

 

 

 

 病室で、点滴を受けて眠っている母さんを見つめる。

 過労らしい。

 

 高校を卒業して、その分時間に余裕ができた。

 でも、ボクは……。

 

 ずっと復帰戦にむけてボクシングの練習を重ねていた。

 復帰戦が終わった後は、すぐに宮田君との試合に向けて練習を始めた。

 

 ボクは、何をやっていたんだろう……。

 何を見ていたんだろう……。

 

 ごめん、母さん。

 

 

 

 

『7月上旬』

 

 

 家の仕事。

 母さんの見舞い。

 

 弱音は吐けない。

 母さんが、ずっとやっていたこと。

 ただ、ボクシングの練習をする時間がない。

 

 宮田君との試合まで1ヶ月。

 そろそろ決断しなきゃいけない。

 早いほうが、いい。

 

 雨が降って、釣り船の予約がキャンセルされた日、ボクは宮田君に会いに行った。

 

 

 

 

 

「待つぜ」

 

 ボクの話を聞いて、宮田君は一言、そう言った。

 

「違う、違うよ、宮田君……試合じゃなくて……試合じゃなくて……ボクは……」

「それでも、待つぜ」

 

 宮田君の目。

 絶対に折れないことがわかる。

 意地になっているんだろうか。

 

「……ごめん、ボクが、ボクが負けたから」

 

 東日本新人王戦の決勝。

 ボクが速水さんに勝っていれば、宮田君と戦えた。

 

「オレも負けている」

「そういうことじゃ……」

「お前は3R、ダウンも奪った……」

「あれは、事故で……」

「オレは、無様に1Rで予告KOされた」

「~~~~っ!」

 

 宮田君が背を向けた。

 

「待って、宮田君」

「8月の試合は延期。それはもう聞いた」

 

 このわからずやと、そんな言葉が口に出せない。

 そこまでして、待ってくれている。

 それが、とんでもなく重荷で……嬉しく思う。

 

 

 傘を差すことも忘れ、ずぶ濡れになって家に帰った。

 

 その夜……梅沢君が家に訪ねてきた。

 

 

 

 

 

 

 

『8月』

 

 

 母さんがひとまず元気になったのと、梅沢君がウチで働き始めたこと。

 また、ボクシングの練習ができるようになった。

 

 A級トーナメント。

 木村さんの応援。

 

 今は、速水さんと佐島さんの試合……なんだけど。

 

「おーおー、ひでえ試合してやがんな」

 

 試合開始直後の、ラフな仕掛けから……佐島さんは、何もさせてもらえない。

 

「……速水さん、怒ってるんですかね?」

 

 鷹村さんが、ボクの頭を小突いた。

 

「お前は良く見とけ」

「え?」

「減量失敗した小者が、精一杯虚勢をはってんだよ」

「え、え?」

 

 減量失敗?

 階級を下げたから?

 

 リングと、鷹村さんを交互に見る。

 

「もう一度言う、お前はよく見とけ……速水の姿は、お前と戦う時の宮田の姿かもしれないんだからな」

 

 1Rが終わった後、速水さんがこっちを見た気がしたけど反射的に目を背けてしまった。

 そしてまた、鷹村さんに小突かれた。

 

 

 

 

 

『9月』

 

 A級トーナメント。

 青木さんと木村さんの応援。

 

 そして、延期になっていた宮田君との試合が決まったこと。

 それを、速水さんに報告する。

 

 ……速水さんが負けたら、すごく微妙な雰囲気になりそうだから、勝ちますように。

 

 

 速水さんの試合が終わって、ふと気づいた。

 先月の佐島さんとの試合に続いて、今日のサニーさんとの試合でも、1発もまともなパンチをもらっていない。

 

 そういえば、デビュー戦のビデオでも……まともなパンチはもらってなかった。

 2戦目は、ジャブを1発だけ。

 

 ……えぇ?

 

 宮田君との試合は……アゴを掠めたのが1発。

 千堂さんとの試合は、ボディはもらってたけど、顔は……ダウンした1発だけ?

 ボクの試合は、事故みたいなものだけど、一応3発、か。

 

 え、6試合で……6発?

 ボクなら、1試合どころか1Rでそれ以上打たれてる。

 

 なにか、コツでもあるのかなぁ。

 宮田君との試合が決まった報告の時に、ちょっと聞いてみよう。

 

 

 

『反撃をもらわないタイミングでパンチを出すんだ』

 

 ……ボクシングの上達に、近道はないってことなんだ、きっと。

 

 

 

 

 

『10月中旬』

 

 宮田君との試合はすぐそこ。

 調子はいい。

 できることはしたはずだ。

 

『もう、一郎はお前とは万全の状態で戦うことはできない』

 

 宮田さんの言葉を思い出す。

 

 今のベスト。

 現在の最善を、ぶつけ合う。

 そんな試合。

 

 八木さんの呟きが浮かんでくる。

 

『本当なら、もっと上の舞台でやらせたかったんだよ』

 

 同じジムにいたのに、袂を分かった。

 新人王戦。

 そのつぎは、A級トーナメント。

 もしかすると、タイトルマッチで。

 

 競い合い、高めあい……最高の舞台で。

 

 ボクも宮田君も、まだ6回戦の選手で。

 勝てば、8回戦……A級昇格。

 

 ボクはともかく、宮田君はもっと、もっと上にいけるボクサーだ。

 

 速水さんがいなければ、今頃はA級トーナメントの決勝に向けて調整していたかもしれない。

 ボクがいなければ、きっと、今も鴨川ジムで汗を流していた。

 

 ボクのできること。

 ボクの持てる力全てを出し切る。

 何のために、鴨川ジムから川原ジムに移籍したのか。

 そんな後悔をさせるわけにはいかない。

 

 ……そんなことを考えていたから。

 

『……今持ってるものを、全部ぶつけるつもりです』

 

 速水さんの言葉に、心臓が止まるような思いをした。

 

『たとえ負けても、運がよければ引退せずにすむ』

『ボクサーを続けられれば、そして運がよければ、もう一度A級トーナメントに挑戦できる』

『スポーツ選手は……ボクサーは、無事にリングを降りられるかどうかわからない。試合に勝ったとしても、現役を続けられる保障は無いんだ、そうだろ?』

 

 この人は、速水さんは……ボクとは覚悟の量が違う。

 

『君の次の試合……宮田くんとの試合は、絶対にやり直しができない試合じゃないのか?約束ってのは、勝負だろう?決着をつけるってことだろう?』

『勝てよ……勝って、宮田くんを悔しがらせてやれ』

 

 

 チケットを振りながら『金返せ、と叫ばなきゃならないような試合はしないでくれよ』と言い残して、速水さんが背を向けた。

 その背中を見送る。

 

 速水さんだけじゃない。

 母さんに梅沢君、会長に八木さん、篠田さん、鷹村さん、青木さん、木村さん……みんなを納得させるだけの試合をしなければいけない。

 

 そして誰よりも……宮田君だ。

 宮田君を納得させる試合をしなきゃ……いや、するんだ。




試合は後編ね。
なお、デビュー時期とか、対戦相手の理由とかは、勝手に推測したものです。
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