「朧さま。まずはこの刀を、杖のようにして地面へと突き立てて下さいませ」
「……こ、こうかぇ朱絹?」
伊賀鍔隠れのお幻屋敷、その庭にて。
朧はとりあえず、朱絹の言う通りに刀を地面へと突き立てる。
「そして刀の先を、右足の親指と人差し指にて挟むので御座いまする。
こう、しっかりと固定する感じで」
「……こうかぇ?」
朧は引き続き、朱絹の指示に従っていく。可愛らしいあんよの親指で、ちんまりと刀の先を挟み込む。
「そこからっ、そう! 身体を斜めに!! ぐいっと倒すのでございまする!!
そして親指で刀を固定したまま、渾身の力を持って前への力を
刀へと溜め込むので御座いますれば!!」
「こ、こうかぇ朱絹! ……ふんぎぎぎっ!!」
グンニャリと身体を右へと傾けた朧が、デコピンをする時の要領で、「グググッ……」っと刀に力を込める。歯を「いぃぃ~~!」っと必死に食いしばるその顔は、ただいま非常に面白い事となっている。
『――――あぁ、あれこそは朧さま必勝の構え、“無明逆流れ“のお姿……』
「んん~~っ!! ん゛いぃぃぃ~~~~~っ!!」
斜めになって一生懸命「ふんぎぎぎ!」とやっている朧。それを見て感激している朱絹。
「せっかくですし、やってみて下さいませぬか?」という朱絹のお願いを聞いてあげている朧だったのだが、いったい何が「せっかくですし」なのかは、実のところよくわかっていない。
朱絹はまるで永年の宿願を果たしたかの如くガッツポーズをし、恍惚の表情まで浮かべている。
いつも自分の為に尽くしてくれている朱絹が喜んでくれているのは非常に嬉しい事なのだが、正直「自分の主に、なにをさせとんねん」とも思わなくもない。
いったい何なのだこの構えは。見た事ないぞ。
「朧さま、『正気にては大業ならず』と申しまする。
“シグルイ“となって事に臨む者だけが、勝負の行く末を……」
「……あ、朱絹?」
ファン根性なのか何なのか、熱に浮かされてか次第に息が荒くなっている朱絹。
その技が出てくるお話は朧たちの時代から少し後のヤツだし、そもそも作品違いだ。そういうのは出来れば止めて欲しい。
しかし他の伊賀衆達は現在弦之介から届いたお手紙を読んでおり「弦之介さまって、字がお綺麗に御座いますなぁ……♪」とみんなで胸をキュンキュンさせていたので誰も朧を助けに来なかった。ふぁっくに御座いまする。
とりあえずは後で弦之介の手紙を読んでもらったのだが、「“伊賀の七人“……、わたくしも入っているので御座いますのね」と涙がちょちょ切れる心境の朧さん。
なんだかもう、踏んだり蹴ったりであった。
……………
…………………………
『なんか不戦の約定が解かれたみたいだけど、ぼくにはよくわからないんだ。
とりあえず今から駿府へ行って、大御所さまに詳しい事を訊いて来ようと思うんだよ。
だから人別帖は、いったんそっちに返しておくね』
『ぼくら5人は東海道にいるから、もう里にはいないんだ。
もし甲賀の里を襲ったりなんかしたら、ぼくは君達をぜったいに許さないぞ!』
『とにかく君達も急いで東海道へおいでよ! まってるよ~』
伊賀に対し、なんかそんな風な内容の手紙を送った弦之介達は、忍法しんかんせんの術を使うでもなく、ゆっくりと徒歩にて駿府を目指した。
道中、不覚にも陽炎が歩きながらえっちぃ事を考えてしまい、通りがかった森の虫達や動物たちを危うく全滅させそうになるというハプニングがあったものの、なんとか無事に今日の宿へと到着。
夜になり、現在は関宿の一室にて豹馬と左衛門が二人で酒を飲み交わしていた。
「それにしても、今日は大変じゃったな左衛門。
あやうくあの森が、生き物の住めぬ死の森へと変貌する所であった」
「陽炎も、あれはあれで良い所もあるヤツなのじゃが……。
まぁ、ならばどこが良い所なんじゃと訊かれたならば、正直あまり思いつきはせんが」
酒のせいか、なかなか酷い事をいう左衛門。
「まぁ中々に破天荒な娘ではあるな……。しかしあ奴ももう年頃じゃろう。
弾正さまも駿府へと立たれる前、『そろそろ陽炎にも相手を決めてやらねば』
とおっしゃっておったが」
「そうじゃなぁ……。あれは良い女“ではある“からのぅ。
しかし、キツイさだめを背負った女よ。女の子供が産まれる前に、
いったい何人の男が三途の川を渡る事になるのやら」
「あれの母御も、そうであったと聞くが……」
ドタドタドタ……!
ゲンノスケサマァー!!
「………………」
「………………」
今なにやら隣の部屋から声と物音がした気がするが、それを無視して話を続ける豹馬たち。
「行為に至り、感情が高ぶった時、吐息が毒へと変ずる……か」
「しかし、それも本望と手を上げる男が後を絶たぬと聞く」
ドタドタドタ……!
ゲンノスケサマァーーッ!!
「………………あれは最近、もう自分でも気が付かん内に、女が匂いたっておる」
「朧さまと弦之介さまの祝言の話が持ち上がって以降か。
あれは少なからず、弦之介さま達の事を想うて……」
ドタドタドタドタドタ……!
ドタドタドタドタドタ……!!
ゲーーンノスケッ、サマァァァーーーーッッ!!
ドゴオオオオォォォォーーーーーンッ!!!!!!
「 !? 」
「 !? 」
突如、壁を突き破って畳の上を転がってくる陽炎。
豹馬と左衛門は「ビクゥ!!」っとしながらも、なんとか酒をこぼさずにそのままの態勢で硬直する。
陽炎は驚く二人をよそに、畳の上で見事な前回り受け身をとった後、即座に部屋の外へと駆け出していく。
『 げぇぇぇぇんのすけっっ、さまぁぁぁぁーーーーーーっっっ!!!! 』ドタドタドタ!!!!
現代の陸上選手にだって負けないくらいの綺麗なフォームで、元々居たのであろう弦之介の部屋へと駆け戻っていく陽炎。
その姿を、二人はトックリ片手に、呆然と見送った。
……………
…………………………
月明りだけが照らす、一人の部屋。
弦之介は目を閉じ、静かに思い描く。
無残にも討ち取られ、地に並べられた甲賀衆5人の首。
弾正、将監、地虫、丈助、お胡夷。
親愛なる者達の首は、断末魔の表情のまま、虚空を睨んでいる。
そして、そのすぐ後ろに立つ、一人の女。
華奢な身体、愛らしい唇、美しい瞳をした女性。
その自身が良く知る美しいひとが今、討ち取った甲賀者の首を誇るようにして、そして騙された愚かな男をあざ笑うようにして、そっと口元に笑みを浮かべる。
『いかがでございましょう、弦之介さま』
妖艶な表情でこちらを見つめる、朧。
そんな想像を、弦之介はため息と共に打ち消した。
「……弦之介さま? 失礼致します」
閉じていた眼を開き、弦之介は出入り口の方へと視線を向ける。
「……陽炎か。何用じゃ」
「はい……。明日は、航路になるのでしょうか?」
腕を組み、いつものように静かな、少しぶっきらぼうな声で返答をする。
「それは、明日の天気次第じゃが……。陸路の方が無難じゃろうな。
用向きはそれだけか? ならば、もう休……
「た、旅先では、見慣れた異性がなにやら魅力的に見える……、
という事があるとは思いませぬか?」
陽炎は、ちょっと喰いぎみに問いかけた。
「異性? まぁそういった事も、あるとは聞くが」
「一姫二太郎という物を、弦之介さまはどう思われますでしょうか……?」
陽炎は俯き、手をモジモジとさせる。
「い、一姫……? 陽炎、お主いったい何を言……
「“やればできる!“ とても良い言葉に御座いまする。
これは計画性もなくただ致してしまうと、望まぬ形で授かってしまったり、
後で大変な事になってしまうぞという先人達の……」
「陽炎!! お主!?」
いつのまにか陽炎が、現代でいう所の“クラウチングスタート“の態勢となっている。
「…………弦之介さま」
陽炎がお尻を「クイッ!」っと高く上げ、発進準備を完了させた。
『――――――抱いて下さいませ』
畳の一部が、爆発したかのように爆ぜる。「バシュウ!!」という弾丸のような風切り音と共に、陽炎が弦之介の胸目掛けて光速で突進する。
そしてそれを、弦之介が巴投げでブン投げた。
「…………ごっぶぅえ゛ッッ!!」
乙女が出してはいけない系のうめき声、そして「ドゴォォン!!」という凄まじい轟音を立てて床へと叩きつけられる陽炎。しかし乙女は、即座に「スチャッ!」と立ち上がる。
「弦之介さまぁぁぁん!! 抱いてくださいませぇぇぇーーーッッ!!」
一弾目よりはるかに速いスピード。『ゴッッ!!!!』っという音を置き去りにせんばかりの速度で陽炎が再び突っ込み、それを弦之介が上手投げでブン投げる。
「……ぶぅべっっっ!!!!」
カエルのように「ベシャア!」と地面に叩きつけるも、回転レシーブのように即座に立ち上がる陽炎。
「げんのすけさまぁぁぁぁーーーーーんんん!!!!」
「ダッ!!」「ポイッ!」「ベシャ!」という三つの音が、リズム良く鳴った。
「げっ、げげげ……げんのすけs――!!」
ちょっとタイミングをずらして駆け引きを駆使してみるも、弦之介が見事に裏投げでブン投げる。
「……げん!」
「のすけっ!」
「さまぁぁぁーーーん!!」
ついに忍術を駆使しだす陽炎。影分身の三体でかかってみるも、順番にポイポイポイと投げ捨てられる。
「――――アモーレ!!!!」
そして陽炎はついに本気を出す。部屋中をスーパーボールの如く縦横無尽に「シュババババ!!」っと駆け回りながら、南蛮の言葉であろう何かを叫んで矢次に突進していく。
さながら、一人乱取りといった状況だ。
「アモーレ!!」
「アモーレ!!」
「抱きしめてトゥナイト!!」
「キィエェェェーーーーィッ!!!!!」
びったんびったんとテンポよく床に叩きつけられる陽炎。それでもめげずに殿方の胸へと突進していく乙女の鏡。
ならばとばかりに足を狙って組み付いてみるが、軽く捌かれる。
今度は腰のあたりを狙うが地面に叩き伏せられ、床にキスをする。
腕も駄目だ。吹き飛ばされた。
それなら首は? ブン投げられる。
――足首に。
――手首は。
――片足なら?
――後ろからならば。
――駄目か……。
――駄目じゃない!
――意地をみせろ。
――乙女だろう。
――乙女に御座いますれば。
――届け。
――とどかせて。
――後生に御座います。
――今だ。
――わたくしの想い。
――――股間に。
――――股間へ。
――――とどけ!!
――アモーレ!!
――股間にこだわれ。
――――股間。
―――股間。
―――そこに。
――弦之介さまの股間が。
―おちんち
おち……
お……
……。
ドタバタ! ドタバタバタ!
…………
……………………
………………………………………………
「………………陽炎。お主、ワシを殺す気か」
現在、弦之介は息をゼイゼイ言わせながら、立膝の状態で床に座り込んでいた。
嵐のような数十分を、死力を尽くしてなんとかしのぎ切った。貞操を守ったともいう。
しかしまさか、毒とか関係なしの実力行使にて自分が殺されかけるとは。マスクをしていても何の意味もなかった。
「死にたいので御座います……貴方と共にっ」
陽炎はなんとか雰囲気を作り、いい感じの声で乙女のいじらしさを演出しようと試みた。
しかし己の主に対して「なぁ……スケベしようや……」とばかりに数十分間に渡り襲い掛かり続け、今も目をランランと輝かせてジリジリと迫り来る女を見て、「あぁコイツ死にたがっているな」と誰が思うのか。生命力の権化だ。
今現在もなにやら手をワキワキとさせている陽炎に、心底ブルブルと震えがくる弦之介。
――――不屈の闘志。
良し悪しはおいといて、この女はもしかしたら甲賀伊賀で最強の存在かもしれぬ。
お爺どの、どうぞお喜びくださいませ。陽炎はくノ一ながら、ガッツでガッツンガッツンに御座いまする。
ちなみに、壁も障子もそこらじゅう穴だらけである。修理代が大変そうだ。
「馬鹿者っ……、死ぬならば、伊賀者を討ち果たしてからじゃ」
「しかし、わたくしの術では女は殺せませぬ。
ならば弦之介さま……、貴方が朧さまを、お討ちになられますか……?」
突然の、心をえぐるような問いかけ。心を見透かすようにして陽炎はじっと見つめる。
しかし弦之介は、はっきりとした声で、言い放つ。
「――――討つ」
「…………………………さ~れ~どぉ~?」(*‘∀‘)
『 なんなんじゃお主は! ひっぱたくぞ!! 』
おもわず手を振り上げる弦之介に対し、即座に自分の頭をグイッと突き出してくる陽炎。
笑いにがっつく芸人さんのように、満面の笑みで自分から叩かれにいくスタイル。
弦之介は脱力し、もうヘナヘナと腰を下ろす。
「わかりました……。ではわたくしは、伊賀の男達に抱かれましょう……。
わたくし一人で、伊賀の男全員を倒す事も出来るつもりで御座います」
「ウヒッ! ウヒヒヒッッ!!」と恍惚の表情を浮かべて妖怪のように笑う陽炎。
その姿をみて、忍とはなんとおぞましい存在なのかと改めて痛感する弦之介。
キツイ定めを背負った乙女だとは思っていたが、婚期を逃し、拗らせてしまったくノ一とはかくある物なのであろうか。ウンウンと考える。
甲賀伊賀、互いに手をたずさえ、共に表の世にいでん。
しかしコイツだけは、決して表に出してはいかんのではないだろうか。
今目の前で「よっこらせっ〇すに御座いますれば」と乙女が絶対に言うてはイカン言葉を言ってキャッキャと笑う陽炎を見て、頭領として何かを決断しそうになる弦之介であった。
――しかしその時、突然窓から伊賀の白蛇が飛び出し、今まさに陽炎へ襲い掛からんとしている事に弦之介が気付く。
「……陽炎ッ!!」
即座に陽炎の身体を押しのけ、飛びかかる白蛇を太刀で一閃する。
しかしその斬り飛ばされた白蛇の首から白い液体が飛ばされ、弦之介の目を直撃した。
「……ッッ!?」
「弦之介さまっ? げんのすけさまぁぁーー!!」
自らの目を抑え、床へと蹲る弦之介。
いくらアホの陽炎といえど、(白濁の液体を顔面に? これは顔射といふ物に御座いまするか!!)とかそんな事を言っている場合ではなかった。
……………
…………………………
「いやぁ~、思いのほか上手くいったのぅ蛍火」
「はい、念鬼どの」
伊賀衆から先行して甲賀衆を追ってきた念鬼と蛍火は、騒動に慌てふためいている弦之介達を観察していた。
「やや! 霞刑部の姿が見あたらぬ!
陽炎、お主は天膳たちの元へ戻り、ヤツからの襲撃に気を付けるよう言うてくれぃ。
この場はワシにまかせよ」
「……承知致しました。ご武運を」
蛍火は術で蝶を操り、甲賀衆を引き付けてからその場から退散。ユラユラと舞う蝶に気が付いた左衛門、陽炎がそれを追撃し、その場から離れていった。
その後姿を物陰から見守った後、念鬼はゆっくりと視線を正面に戻し、しばし弦之介の姿を見つめる。
今から自分は弦之介を襲撃する。敵として、彼の前に立つ。
だがその前に、彼の姿をしっかりとこの目で見ておきたかったのだ。
「…………あの時の坊主が、こんなにも立派になりよって」
誰に聞かせるでもなく、その小さな呟きは闇に消えていった。
………………
…………………………
……………………………………………………
蓑念鬼は、伊賀でも屈指の武闘派の忍である。
自らの里への想いも熱く、その忠誠心も申し分なし。だがそれゆえ、誰よりも甲賀への憎しみの心は大きかった。
誰よりも不戦の約定を忌々しく思い、機会さえあるならば例え自分一人であろうとも甲賀の里へと討ち入りたい。常々そう思っている程。
その好戦的な部分を天膳や仲間達に諫められる事もしばしばだが、念鬼はそれも意に介さない。
甲賀弾正を殺したい。甲賀者共をこの手でくびり殺してやりたい。
人目をはばかる事なく、常々そう口にしていた。
自身の強大な力はその為にこそあるのだと、そう信じて疑わない。その日が来るのをひたすら待ち望みながら、忍法忍術を磨き続ける人生。
それが蓑念鬼という忍であり、蓑念鬼という男の生きる意義であった。
きっかけは、思えは大した物ではなかったのかもしれない。
ただ念鬼が、ある少年の吹く笛の音色を、偶然にも聴いたというだけ。
その日、念鬼はお幻の言い付けにより、森に山菜を摘みに来ていた。
今日は伊賀の屋敷に甲賀弾正が来るという事で、暗に「お前は危険だから」とばかりに体よくどうでもいい用事を頼まれ、外へと追い出されていたのだ。
その小賢しい思惑を理解しながらも律儀に言い付けを守り、頼まれた仕事を終えた帰り。そこで念鬼は、一人の幼い少年の姿を見つけた。
その身なりで、一目でわかった。あれが“甲賀弦之介“であるということが。
彼が今日、弾正に連れられてやって来た甲賀の少年である事が。
お幻への顔見せだったのか、単に弾正と共に伊賀へと遊びに来たのかはわからない。ただ恐らくは話し込む老人二人に「外で遊んでおいで」とばかりに外へと放り出され、何気なしにこんな所まで来てしまったのだろう。
まいてきたのか、それとも逃げてきたのか、念鬼が見る限り辺りに護衛の者の姿は無かった。
それを悟った時、何を考えるでもなく念鬼は、ただ自然に懐から武器を取り出す。
それが当然の事だと言わんばかりに気配を潜め、あの少年を殺す為のタイミングを測った。
別に何がどうという事もない。あの幼い子供一人を殺したからとて、甲賀が滅ぶワケでも自らの憎悪が消えるワケでもない。
それでも、ここであの子供を殺さない理由など、どこにもなかった。
ただ何も考えず、機械的に、目の前の存在をこの世から消す。
甲賀者を殺す。自分はただ、そういう存在であるのだから。
しかしながら、結果として念鬼が弦之介を殺す事は無かった。
草葉の陰で息をひそめながら、ただただその場で弦之介の事を見つめていただけ。
それだけで、何事も無くその日は終わった。
別に何もたいした出来事など無かった。
ただ自分が殺そうとしていたその子供が、懐から一本の笛を取り出し、それを吹いていただけ。
そして自分が、その笛の音色に、ただ聴き惚れてしまっただけ。
美しい音色と、強く綺麗なその瞳に、念鬼が心を奪われたというだけ。
伊賀の里でも屈指の実力を持つ、残忍で屈強な一人の忍。
その男は、少年が演奏を終えて去っていくその時まで、ずっとその場を動く事が出来ずにいた。
…………………………
余談ではあるが、その後念鬼が妙に屋敷の者達に弦之介という少年の事を訊いて周っていたり、「あの少年は何者なのか、次はいつ伊賀に来るのか」とお幻にしつこく訊ねていたという事があった。
伊賀の者達は「なんじゃこいつは」と念鬼を不思議には思ったものの、それ以来いつもどこか張りつめた雰囲気があったこの男が、なにやら柔らかく、そして非常に親しみやすい性格へと変化してきた事を好意的にとらえていた。
一方甲賀では、その後、毎年不思議な出来事が起こるようになった。
一年に一度の弦之介の誕生日。その翌朝になると、何故か屋敷の門前であったり弦之介の枕元であったりに、何者かからの贈り物であろう品物がいつの間にか届けられるようになったのだ。
その品物は玩具であったり、綺麗な小刀であったり、高価な笛であったり。
その贈り物に弦之介自身は大変喜んではいたものの、これは里としては重大な問題であった。
毎年のように知らぬ間に何者かに侵入され、それを気付かぬ内に取り逃がすなど、忍の里としてとても見過ごせる事態ではない。重大な危機である。
しかし毎年のように弦之介の誕生日の夜から朝方にかけては屋敷の警備を万全に整えはするものの、それをあざ笑うかの如く、必ず弦之介の元に贈り物は届けられた。
そしてそれは、今現在に至るまでずっと。
結局その何者かの事は、未だ何もわかっていない。
そして伊賀の里では、なぜか毎年その時期になると、妙に傷だらけになって朝方どこぞから帰ってくる念鬼の姿。
そしてしたり顔で得意げに笑う念鬼の肩を「……程々にの」と窘める、お幻の姿が見られた。
……………
…………………………
……………………………………………………
(……念鬼どの、これにて貴方は“死“に御座る)
(……おぉそうじゃの。まぁ後の事は貴様らに任せるわぃ)
関宿に戻った左衛門が、念鬼へと思念で語り掛ける。
念鬼は現在豹馬の術によって敗れ、自らの毛により天井からプランプランしていた。
(承りまして御座る。
……あの、お胡夷はそちらで、何ぞご迷惑をおかけせなんだですかな?)
(っふっふ! 気にせんでもええわい!
お胡夷先生どのは中々愉快なお人じゃったが、まぁ退屈はせなんだでな!)
(お、お胡夷“先生“どのって……)
左衛門は人知れずガックリと肩を落とすが、念鬼は気にせずガッハッハと(思念で)笑っている。
(弦之介さまの目は“七夜盲“の秘薬にて塞がせてもろうた。
まぁその名の通り、七夜の内には元に戻るで心配せんでええ。)
(承知致しまして御座る。
しばしの間、念鬼どのもお達者で)
左衛門は念鬼の身体を天井から下ろし、背中へとおぶる。
そして最後に念鬼はそっと瞳を開け、弦之介を見る。
瞳を閉じ、悲しげな表情を浮かべてその場に座る、弦之介の姿を。
お辛いじゃろうが、頑張って下され弦之介さま。
伊賀甲賀の命運、貴方様にお託し申す。
そう心で願いながら、左衛門の背に乗る念鬼が、弦之介の前から去っていった。